SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-05






「そんなあ……」
 ティシラはベッドの上で嘆きを漏らした。過度に期待されてしまったライザだったが、喜ばせるためという浅はかな理由で嘘をつくことはできない。指輪の謎は、現時点ではまったく不明であるという結論から伝えた。その中で弾き出された予想や想像のことも一通り話して聞かせた。
「じゃあ」再び、ティシラは期待する。「このまま調べてもらえば、指輪は外せるようになるの?」
 ライザは微笑みつつ、眉尻を下げる。
「できるとは断言できないわ。その魔法をかけた人物を特定して、属性などを明確にできれば方法を考えられるけど、それすらも、手がかりさえない状態なの。それに、おそらくその魔法はかけた人物でなければ解けないような気がするわ」
「それって」
「つまり、その人に直接、あなたにかけた魔法を解いてもらう必要があるかもしれないということ。もしくは何かをきっかけに解けるように仕組まれている可能性もあるわ」
「きっかけって?」
「さあ」ライザは肩を竦める。「それも、残念ながら分からないの」
 ティシラは瞳を潤ませて頭を垂れた。ライザはため息をつく。ショックなのは分かるが、彼女から言うとティシラが人間を襲いさえしなければ問題ないのだ。そこから導かれる予想はひとつ。これをかけた人物は、決して彼女を憎んでなどいないということだった。一騒動あったが、もし指輪がなかったら、今こうして笑ってなどいられなかったのだろうと思う。冷静に考えて、この姿の見えない魔法使いはティシラを恨んでいるどころか、愛してさえいるのではないかと、ライザはそんな予感を抱いた。だがそれをティシラに言えば、また気分を害すに違いない。今はそのことは胸の中にしまっておくことにした。
「ねえ、ティシラ」ライザは少し体を倒して。「その指輪、誰にもらったの?」
 ティシラは顔を下げたまま、ぴくりと体を揺らした。
「言いたくないなら無理には聞かないけど……誰がかけた魔法なのか分かれば、私たちもまだ動きようがあるの。何か心当たりだけでもいいわ。教えられないかしら」
 ティシラはしばらく考えた。本当にこの指輪が取れるのなら、言ってもいいかもしれないと思う。だけど、と、どうしても彼の名前を口に出したくない気持ちが強くあった。
「……もし、よ」ティシラは冴えない顔を上げる。「その人の名前を言ったとして、あなたがその人を知らなかったら、それでもなんとかなる?」
 ライザは、彼女が何を言わんとしているのか理解できなかった。一番可能性の高い人物は「クライセン」である。ティシラは彼を知らないかもしれないが、ライザだけでなく、この世界では誰もが知っていると言っても過言ではないほど有名な魔法使いなのだ。ティシラもそのくらいは分かっているはずだ。ということは、と思う。もしかしてティシラが言おうとしている人物は、クライセンではないのだろうか。そうだとしたら、ここまで高等な魔法を使える魔法使いを、ライザは他に知らない。それが誰で、どんな人物なのか。不謹慎だとは分かっていながら、ライザの好奇心が高まった。それを表情に出さないようにしながら。
「そうね。一番早い方法は、本人に解いてもらうことだけど……」
「えっ、じゃあ、もし、その人がこの世界にいないとしたら?」
 咄嗟に聞き返したティシラは、余計なことを口走ってしまっていた。ライザは目を見開く。その変化をすぐに察知し、ティシラは慌てて口を結んだ。
「ティシラ、それって……どういうこと?」
 ティシラは顔を逸らす。しまったと汗を流した。
「ねえ、知っていることを教えて。このことは、あなたが嫌がってることは分かってるけど……クライセン様ではないの?」
 ティシラの肩が揺れるのを、ライザは見逃さない。
「この名前は出さないほうがいいのだろうけど、でも、そうだとしか思えないの」
「そ、そうだとしたら……どうなるのよ」
「え?」
「もし、その人だって言ったら、魔法は解けるの?」
「……それは」ライザは俯いた。「そうだとしても、いえ、そうなら尚更、彼でなければどうすることもできないかもしれないわ」
「な、何よ、それ」
「でも、彼さえいれば簡単に解けるということよ。知っているなら、彼がどこにいるのか教えて。お願い」
 ティシラは目を逸らしたまま、何もないところを睨み付けた。説明できない感情に捕らわれ、拳を震わせる。
 きっと、言っても無駄だ。ティシラが知っていることは、指輪をつけたのはメディスであり、彼は──メディスの言うことが本当なら、きっともう彼は今のこの世界にはいないはず。だがメディスは、この魔法が誰が何のためにかけたのかまでは言わなかった。もしかすると「クライセン」なのかもしれない。そして、そうだとしても、クライセンも今はこの世界にはいない。もしもクライセンであったなら、「未来」の彼の仕業なのだろう。あくまで、メディスの話のすべてが本当であれば、ではあるが。ティシラは、あんなヤツ信用できないと思いつつ、どうしても嘘ではないような気がした。
 そうだとしたら……やはり、腹が立ってくる。こんな指輪ひとつでここまで自由を奪われてしまうなんて、悔しかった。言いなりになるなんて絶対嫌だ。だが、逆らう手段がまったく思いつかない。ギリ、と歯を噛み締める。悔しい。腹いせを込めて、片っ端から無差別に人間を襲ってやりたい。だが、そんなことをすれば自分が一番痛手を負ってしまうのだ。おそらく、一人も襲えないうちに身動きが取れなくなってしまうだろう。実際、先ほどがそうだったのだから。
 あれほどの苦痛は今までなかった。説明できない痛みと苦しみが指輪を通じて、肉体と精神共に全身を走り抜けた。何が起こったのか分からないうちに、気を失っていた。思い出すだけで寒気がする。
 あんな思いは、二度と味わいたくない。だからと言って人を襲うことを諦めてしまったら、魔法をかけた術師の言いなり以外の何でもないではないか。やはり、悔しい。どうしよう。そうだ、ブランケルなら、と思う。彼なら何とかしてくれるかもしれない。いや、だが、こんなものを付けられたなんて言ったら、きっと二度と魔界から出してくれはしないだろう。それでも、指輪が外せるならその方がマシかもしれない。だけど、やっぱり。ティシラは少し瞼を落とした。理由もないのに、なぜか帰りたくなかった。まだマルシオたちのことをよく知ってるとは言えない。特別な情などないのに、別れたくないと思った。きっとここで逃げ帰ってしまったら、取り返しのつかないことになる。もう、二度と彼らにも会えないし、人間界にも来れなくなってしまうだろう。そして、「クライセン」という人物とも、接触する機会を完全に失ってしまうのだと思う。好きかどうかなんて分からない。それでも、ティシラは否定しながらも、なぜか心の奥底で「会いたい」という気持ちを抱き続けていた。理由などなかった。顔も、どんな人物なのかも知らないのに、ましてや周りにからかわれたからでもなく、まだ見ぬ彼を思うと胸が痛くなることがある。
 その痛みを思い出そうとすると、いつも夢を見る。恐ろしい夢だった。いや、夢ではないのかもしれない。怖くて怖くて、だけど体は思うように動かず、逃げることも声を出すこともできない。それほどまでの恐怖を伴うというのに、夢の内容はいつも思い出すことができないものだった。これは、「記憶」と言っていいものなのかさえ分からなかった。
 それは形のない「恐怖」だった。なぜ自分がそんな夢を見なければいけないのか理解できない。怖い。誰か、私を守って。そう心の中で何度も繰り返してきた。だけど、誰もいなかった。それでもティシラは手を伸ばした。自由の利かない体で何かを探した。指先に何かが触れる。何かは分からないが、それをどうしても掴みたかった。だけど、夢の中では必ずその何かと引き離されてきた。寂しくて、悲しくて仕方がなかった。ティシラは未だにその何かを掴めないままでいたのだ。
 気がつくと、ティシラの目から涙が零れていた。彼女の握った拳に落ちたそれに気づき、ライザが慌てて体を寄せる。
 ティシラは声を押し殺して泣き出した。
「……ティシラ、ごめんなさい」ライザは咄嗟に彼女を抱きしめた。「ごめんなさい。あなたを追い詰めるつもりはなかったの。もういいわ。何も言わないで。何が起こったとしても、あなたは無事だった。今はそれでいいと思うの。だから、ゆっくり休んで。泣きたいならいくらでも泣いていいし、あなたさえ頼ってくれれば、私たちは必ず力になるから。だから……」
 いつか必ず、前みたいに笑って欲しい。そう切に願わずにはいられなかった。ティシラが魔界の姫であり、魔族であり、人を傷つける力を持っていたとしても、ライザの目にはただの弱い少女にしか映らなかった。正反対の種族であるマルシオとのことや魔女騒動のことなど、不安な要素は多いが、それは今に始まったことではない。きっと大丈夫。何とかなると自分に言い聞かせた。
 だが、ライザはこれだけは確実だと思った。ここに、長く、困難な道があるということを。決して他人事などとは思えないし、思うつもりもなかった。
 ただティシラが人を襲うことを止め、人間界に馴染めばそれで済むわけではなさそうだ。やはりティシラには「彼」が必要なのだ。「彼」でなければいけない。結ばれるかどうかはまた別の話としても、必ず答えを出さなければいけないことだと思う。女として、ライザは強く確信していた。こうして誰かの腕の中にいるのに、ティシラは一人だった。一人で寂しさと戦っている彼女から、痛いほどそれが伝わってきていた。
 その気持ちはよく分かる。私も、そうだったから──そうだったからこそ、ティシラの思いが報われて欲しいと、報われてくれないと納得がいかないとまで思った。自分にできることは限られているかもしれないが、今はただ、ティシラを一人にすることだけはできなかった。「彼」が戻ってくるまで、自分たちが彼女を守らなければいけないのだ。誰に言われるでもなく、ライザはそう心に留めた。


   

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