SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-06





 ティシラはしばらくして落ち着き、少し休みたいといいながらベッドに潜った。ライザは、背を向けて動かなくなった彼女を見つめ、室を出て行った。そのままトールたちのいる部屋へ向かう。ライザの姿を見るなり、マルシオが立ち上がった。
「ティシラは?」
「眠りました」
「一人にして大丈夫なのか」
 未だティシラに対して敵意を持っている彼の態度に、ライザは鋭い目を向けた。
「ティシラは確かに魔族ですが、決して悪い人ではありませんよ。疲れたから休んでいるだけです。何が不満なんですか」
 ライザの厳しい口調にマルシオはたじろぐ。険悪な空気を壊すように、ラムウェンドが落ち着いて尋ねる。
「ティシラから何か聞いたのですか」
 ライザはラムウェンドと目を合わせ、一度伏せた。再び開いたそれは、いつもの優しい彼女のものだった。
「いいえ」言いながら、ゆっくり三人に近づく。「今は話せる状態ではありません。指輪のことも、クライセン様のことも気になるのは皆さん同じだと思いますが、どうか彼女を問い詰めないであげてください」
 その言葉を聞いて、一同はそれぞれに目線を落とした。
「何も分からないという現状はまだ変わりません。ただ、ティシラが何を思おうと、決して人を襲うことなどできないのは間違いありません。あれは守護の指輪です。多少乱暴な発言をすることもあるかもしれませんが、それはティシラの個性として許容できる範囲のものです。どうか、彼女を疑わないでください」
「で、でも」懲りずに、マルシオは口を開く。「人間を襲わないとしても、魔力そのものを封じられているわけじゃないだろう」
 まだ言うか、とでも言わんばかりにライザは再びマルシオを睨みつけた。マルシオは戸惑いながらも続ける。
「暴れる要素がないわけじゃないんだ。警戒する必要はあるんじゃないのか」
「警戒する必要なんてありません。ゆっくり時間をかけてティシラの心をほぐしてあげればいいんです。彼女は何も覚えていないだけで、元々は私たちの仲間であり、友です。記憶を失っていても本質は変わりません。ティシラを受け入れ、居場所を作ってあげることが私たちの役目なのです」
 すっかりティシラ側についてしまったライザに、マルシオは何も言えなくなった。口を一文字に結んで、体をソファに深く埋めた。言いくるめられたマルシオの様子をチラリと横目にした後、トールがライザに目線を移し。
「分かった。とにかく、今はティシラに危険はないということだな」
「そうです」
「じゃあ指輪のことは、また何かあったときに話し合おう」
「はい」
「だけど、まだ気になることがある」
 マルシオは隣で体を起こした。
「気になること?」
「ティシラのことだけど、久しぶりに会ってちょっと思ったことがあるんだ。ティシラはあの時のままだけど、僕は年も取ったし国王だとか父親だとかになって、立場が変わった。マルシオは変化もないし、僕たちとちょくちょく会ってたから何も違和感はないんだと思うけど、僕はちょっと、改めてティシラを見て……なんと言うか」
 トールが何を言いたいのか、分からないのはマルシオだけだった。ラムウェンドとライザも、どこかでトールと同じことを感じたのを思い出していた。
「なんだよ、はっきり言ったらどうだ」
 言葉を詰まらせるトールに、マルシオは少々苛立つ。トールには思うことと同時、それの対応策も考えていた。だが、きっと無理だと思いながらも言うだけ言ってみようと話を続ける。
「うん、そのことで提案があるんだけど」
「だから、何なんだよ」
 ため息を漏らすマルシオに、トールは体を向けて目を合わせる。
「マルシオ、君はそういう目でティシラを見たことも、見ることもできないんだろうけど、人間の僕からの意見を言わせてもらうと、彼女はかなりの美人なんだよ」
「はあ?」
 マルシオは、唐突なトールの発言に嫌悪さえ感じる。こんなときに、何の話だと眉を寄せた。
「しかも、彼女は魔女だ。無防備な状態でティシラを見ていると目を離せなくなる者が、少なからず確実にいるはずだ。君なら、その現象の理由が分かるだろう?」
 マルシオは、まだトールの言いたいことが理解できなかった。彼の言うとおり、天使であるマルシオにはティシラはただの魔族にしか見えない。その姿が美しいかそうでないかくらいは判別できるが、魔族に限らず容姿の良し悪しなど、マルシオには関係のないことだった。女性に興味がないということではなく、天使という種族は理性が強く、外見や雰囲気などで我を失うことなどあり得ない、あってはいけないことだったのだから。
 それを、しかもティシラを対象に、いきなりそんなことを言われてもまったく同意できることではなかった。
「何を言ってるんだ」マルシオはもう一つため息を漏らす。「そんなことはどうでもいいだろう」
「うん、どうでもいいんだけどさ」
 適当に話を濁すトールの代わりに、ライザが続ける。
「それは、私も感じていました」
 マルシオは、ライザまで何をと少し驚き、目を丸くした。
「私もですよ」
 ラムウェンドまでもが口を揃え、マルシオは更に目を見開く。
「アカデミー時代でも心配になることがありました。ですが、あの頃は彼女が魔女であることはみんな知っていましたから、恐れと警戒の方が強かったのです。何よりもティシラはクライセン殿のことしか興味がなかったので問題は起きませんでした。しかし今は、その両方、そして他に彼女に距離を置く理由が何もありません」
「やはり、そうですか」
 ライザは顔を陰らせた。マルシオだけが、未だに話についていけずに動揺していた。
「い、一体何の話、ですか?」
 今度はマルシオが、一同に「まだ分からないのか」という視線を向けられていた。
「だから、ティシラに変な虫がつくかもしれないってことだよ」
「え?」
「あなた。国王たるもの、そのような低俗な言葉を使ってはなりません」
 ライザにしかられ、トールは少し肩を竦めた。
「低俗でも何でもいいから、はっきりしてくれよ」
 マルシオはすっかり落ち着いていられなくなった。彼には、「変な虫」の意味すら分からない。
「ですから」ライザも少し呆れた様子だった。「ティシラに好意を抱く男性が現れてもおかしくないということです」
 マルシオはその意味を考え、しばらくして理解した後、拍子抜けした。
「なんだ。そんなことか」
「そんなことではありませんよ」
「どうして? 別にほっといていいんじゃないか。誰かがティシラに近づいてきたって、どうせあいつは何もできないんだし。そもそもあいつはそう簡単にどうこうなる女じゃないだろ。人間の腕力じゃティシラには適わないよ」
「では、腕力以外の力を使われたとき、必ず彼女が跳ね返せると断言できますか?」
「腕力以外?」
「魔法や、魔薬。それに、人間界に人間以外の生き物がいないとも限りません」
「……それは」
「それに、ティシラは情緒不安定になっています。自棄になって何をするか分からない部分もありますし、魔女として、人の心を利用しないとも限りません。そうなったら、最悪のとき、彼女は罪を犯してしまうかもしれないのです」
 マルシオは言葉を失った。確かに、言われてみれば考えられないことではなかった。最初は、別にどんな男がティシラにちょっかいを出そうが、返り討ちにされて終わりだとしか思えなかったが、今は彼女自身に強い意志のようなものが何もない。例え魔力を乱用しなかったとしても、人間の欲を利用すればどんな恐ろしいことが起こるのか、それは想像できないほどのことだった。
 マルシオは、まだ人間と人間界すべての性質を理解できたとは言えなかったが、限りのない貪欲さ、そこから生まれる残酷な過ちの恐ろしさを何度か目の当たりにしたことはある。「魔薬戦争」も、それを象徴する恐ろしい出来事だった。マルシオはその争いに一線で関わった人物でもある。それでも人間という生き物がそういうものだと、まだ割り切ることまではできていなかった。危険なのはティシラだけではない。むしろ人間の方を疑わなければいけないことも確実にあるはずだ。マルシオは考えを変え、改めて今の問題に向き合うことにする、しようとする。
「で」いきなり、トールが顔を寄せてきた。「僕の提案なんだけど」
 マルシオは面食らい、体を引く。
「いいか。落ち着いて聞いてくれ」
「な、なんだよ」
「あくまで『仮』だ。だから、とにかく冷静に考えてくれ。いいか、君が、ティシラの恋人の振りをするんだ」
 マルシオは耳を疑う。しばらく体が固まり、次第に顔色が青くなっていく。
「は?」
 とぼけた声を出すマルシオに、トールは改めて説明した。
「だから、振りだよ、振り。君にティシラの恋人なり婚約者なりの振りをしてくれないかと言ったんだ。そう公言しておけば、ティシラに気を持った者がいたとしてもそれなりに身を引くだろう? それでも強引に押し切ってくる者は、どうせ碌な男じゃない。あまりにも酷い場合は僕たちが何とかするから。ね、振りだけだから。何とかお願いできないかな」
 トールの言いたいことを、鈍いマルシオもさすがに理解した。そして、予想通りの反応を示す。
「……じょ、冗談じゃない!」
 トールを押しのけ、大声を上げる。他の二人も、最善とまでは思わないが、それも一つの対策法かもしれないと無言で同意していた。
 だが、マルシオは落ちついてなどいられない。
「あんなヤツと? 俺が?」
「だから、仮だってば」トールは体制を整えながら。「君ならいつも彼女と一緒にいれるし、見た目にも無理がない」
「仮でも、人に『恋人です』って紹介しなきゃいけないんだろ。そんな恥ずかしいことできるか」
「恥ずかしいって……」
 なんて失礼なことをと思うが、その気持ちは分からないでもなかった。ライザが、頭が痛いとでも言うように片手で顔を覆った。
「ずっとじゃないよ。クライセンが戻ってくるまでか、ティシラが物事の善悪を把握できるようになるまででいいんだ」
「それは一体いつのことだよ。それまでずっと俺が恥をかきながら保護してなきゃいけないってのか。無理に決まってるだろ。俺に死ねって言ってるのと同じことだぞ」
「そ、そこまで言わなくても」
 マルシオの剣幕に押されそうになりながらも、トールは説得を続ける。
「そんなに恥ずかしいことじゃないだろう。ティシラは黙って大人しくしていれば、みんなが羨ましがるほどの美人じゃないか。考えようによっては……」
「じゃあ、黙らせてみろ。大人しくさせてみろ。それができれば考えてやる」
 トールは真面目に考えこみ、唸った。ふと顔を上げ、ライザに尋ねる。
「魔族に麻酔は効くかな」
「あなた!」ライザはかっと怒鳴りつける。「猛獣みたいな言い方しないでください。ティシラは女の子なんですよ」
「いや……」慌てて顔を背け。「冗談だよ」
「猛獣の方がまだマシだ」マルシオは不愉快さを露わにする。「餌さえ与えりゃそれなりに懐くんだからな」
 まとまりそうにない話題に少し疲れを感じ、ラムウェンドがやっと参加する。
「どうしても嫌なら無理強いすることはできないが、でも、関係性を言葉で偽るだけで、二人の状態は今までと変わらないのではないのかな」
 マルシオは不機嫌そうなまま、ラムウェンドに目線を移す。
「同じ屋根の下で生活し、いつも一緒にいるわけですから……」
「そうだよ」トールが便乗してくる。「それに、ティシラが左の薬指に指輪をしていることも自然で、いちいち説明する必要もないし疑われなくて済むじゃないか」
「…………」
「それにさ、もしクライセンが戻ってきたときに、まかり間違ってティシラに恋人ができてしまってたりしたら、またいろいろ面倒なんじゃないかな」
「それは」ライザが首を傾げる。「どういうことですか」
「だって、どうせティシラは彼しか好きになんかならないと思うんだ。とりあえずで誰かをその気にさせておいて、本命が現れたときどうなると思う?」
「そうですね……少なくとも、一人は悲しい思いをすることになりますね」
「だろう? それが分かっているなら先に予防線を張っておいたほうがいいと思うんだ。どうだろう、マルシオ」
 マルシオは黙った。トールだけならともかく、ラムウェンドとライザにまで賛同されてしまっては無碍に反発することができなかった。マルシオが真面目に考えている様子を読み取り、一同は彼の答えを待った。しばらく静かな沈黙が流れた。そして、マルシオの勇気ある決意に期待していた。
 マルシオが微かに動く。揺るぎない決意を、言葉にしてみんなに聞かせた。
「どうしても、嫌です」
 ただの我侭だった。だが、無理強いできないと言った手前、受け入れるしかない。マルシオは落胆する一同から目を逸らし、分が悪そうに体を縮めた。


*****



 その頃、王室前の広場に緩やかな風が吹いていた。
 流れる風に紛れて、小さな光の粉が舞っている。銀の粒子は回りながら上空に溶けていく。それは僅かなものであり、誰の目にも止まらなかったが、人間が「奇跡」と呼ぶに値する現象だった。
 光の下には一人の少女が佇んでいた。少女は悲しげな瞳で城下を見つめていた。銀の粉に弄ばれるかのように、長く美しい髪が揺れている。その揺れるものもまた、光と同じ色に見える。いや、見えるのではない。もうこの時代から失われてしまったはずの、光を司る種族だけが持つ白銀の聖なる色に間違いなかった。
 人間界にも、それと同じものを持つ者が、ただ一人いる。マルシオだ。少女は、純血の天使である彼と同じ色の瞳と頭髪を持っていた。
 その姿は美しく、どこか儚げだった。憂いに満ちた瞳に少し影を落とし、透き通るような呟きを洩らす。
「……なんて恐ろしい世界なのでしょう」
 少女は怯えていた。潔白なその瞳で人間たちの心の汚さ、強欲さを痛いほど感じ取っていたのだ。これ以上は耐えられないと言うように、瞼を閉じた。
「こんなところに、あのお方が……」痛む胸に手を当てて。「きっと苦しんでいらっしゃるに違いありません。なんと嘆かわしいことでしょう」
 少女を祝福する光たちは次第に数が減っていく。揺らいでいた髪や衣服もゆっくりと沈んでいく。少女は改めて目を開き、胸に重ねていた手を握り締めた。
「だけど……必ず、私がお救いいたします」
 そして、脳裏に明るい未来を思い描き、微笑みを浮かべた。
「待っていてください。今、私が参りますから」
 その強い気持ちは、予感として相手に届いた──「寒気」と共に。
 彼は不吉な気配を敏感に察知し、身を震わせながら汗を流した。そのときは、まさかそんなことがと想像もできなかったが、押し寄せた恐怖の姿を目の当たりにする時間がすぐ傍まで来ていたことに、今はまだ気づくこともできないでいた。


   

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