SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-08





 ライザの戻りを大人しく待っていたマルシオは、突然寒気に襲われて背を伸ばして辺りを見回した。それに気づいたトールとラムウェンドが彼に注目する。
「どうした」
 マルシオは二人の顔を見ないまま、しばらく固まっていた。糸が切れたように背もたれに寄りかかり、呟く。
「いや……」
 まさか。そんなこと、あり得ない。あり得ないからこそ想像することができなかった。そして、そんなことがあるはずがないと密かに願った。
「別に、何でもない」
「?」
 マルシオの妙な態度も気になるところに、扉がノックされた。
「陛下、こちらでしょうか」
 聞こえた声はトールの知った者のものだった。トールは自ら向かい、顔が見える程度に戸を引いた。
「どうした」
 扉の前に立っていたのは、トールに一番近い執事のディルマンだった。整えられた短い頭髪と口元を覆う髭は同じ白だった。痩せた初老の彼は足腰も立派で姿勢がいい。トールに丁寧に頭を下げた後、小さな声で用件を伝える。それを受け取り、トールは「えっ」と漏らした。室内で二人の様子を伺っていたマルシオとラムウェンドには目も合わせずに、ディルマンを押しながら廊下に出て行った。
 ディルマンはトールと仲がいいほうだった。それでも立場を弁えながら、再度通達する。
「ルミオル様がお戻りになられました」
「そうか……まったく、相変わらず時間を守らない奴だな」
「意図してそうされたのではないでしょうか」
 それはいちいち言わなくていいよと思い、トールはため息をついた。ディルマンは続ける。
「王子とは思えない質素な出で立ちで、血や傷のついた品のない剣を所持され、左の二の腕に傷を負われていました」
「傷を?」
「大事に至るものではありません。おそらくまた町人と揉め事を起こされたのではないかと」
「いい、いい」いつものこと、それ以上は聞きたくなかった。「ルミオルはどこだ」
「只今、身を清められております。すぐに正装されるとのことです」
「何をしに来たんだ」
「陛下がお呼びされたのでは?」
「そうだけど」トールは迷惑そうに。「今更よく堂々と顔を出せるものだよな……」
 きっと、ルミオルはそう思われることも分かっているのだろうと思う。確かに彼を呼んだのはトールであり、素直に来てくれれば歓迎するつもりだった。ルミオルの存在だけでいろいろ問題が起こることも安易に予想はできるのだが、だからと言って彼を邪険にするつもりはない。それにしても、いちいち事を荒立てるのが好きなやつだと、改めて頭を痛める。
「分かった。とにかく会うよ」
「お伝えいたします」
「あ」トールは咄嗟に声を出す。「ラストルは?」
「ラストル様は自室にいらっしゃいます」
「ルミオルのことは?」
「お伝えいたしておりません」
「わざわざ教えなくていいから」
「心得ております」
 二人の会話はテンポよく進んでいた。トールは再び戸を開け、顔だけ突っ込んでマルシオとラムウェンドに声をかける。
「ごめん。ちょっと席を外す。後のことはライザに任せるから」
 返事も聞かずに、トールは戸を閉めた。中で、二人は顔を合わせていた。
 ディルマンの横をすり抜け、トールは王室へ足を進めた。ディルマンは後に続きながら。
「私もご一緒いたしましょうか」
「いい」
 短く言われ、ディルマンは足を止める。頭を下げてトールを見送った。


*****



 ルミオルが城に戻ったのは五日ぶりだった。珍しいことではなかった。
 彼はれっきとしたティオ・メイ第二王子という身分の持ち主だった。だが、いつもティオ・メイの城下町で柄の悪い仲間とつるみ、酒場などで揉め事を起こしている。王子という立場を利用して、権力も金も平気で乱用する。剣術や武術も身につけているが、ほとんど喧嘩以外で役に立ったことはない。親譲りなのは、輝く金の頭髪と宝石のような淡い緑の瞳を持つ端麗な容姿のみ。彼がこうなってしまったのはいつ、何がきっかけだったのかは誰も知らない。
 ルミオルの正装も久しぶりであったが、やはり流れる血は本物であり、意識を切り替えれば立派な「王子」の顔になる。高価な宝石が鏤められた装飾品も、重い刺繍の入った浅い青のローブも様になる。ルミオルの身繕いを手伝うのは、彼が選んだ若く美しい女性ばかりだった。大きな鏡の前で、完成した「王子像」を確認し、ルミオルは王室へ向かった。
 彼の後を、専用の召使である女性が三人ほどついてくる。それぞれに美しく、決してルミオルに失礼のないように、厳しい礼儀を身につけた淑女で揃えられていた。彼女たちの存在はまるで空気のように静かだった。
 無表情で広い廊下を進むルミオルを視界に捕らえた警備兵などは、条件反射のように深く頭を下げる。当たり前の行動ではあったが、できれば彼と目を合わせたくなかったのだ。ルミオルに「気に入られる」と、何をされるか分からないからだ。問題は、何をされても文句が言えないということ。それが彼との付き合いの中では一番の難関だった。
 長い廊下を折れ、王室の入り口が見える一本道に出る。そこで、同じく王室に向かっていたトールと鉢合わせる。ルミオルは表情を変えずに足を止めた。背後で召使たちが膝を折る。
 トールもすぐに彼の姿に気づき、微笑んで近づいた。
「おかえり」
「戻りました」台詞のように呟く。「遅くなって申し訳ございません」
 心にもないことを、とトールが思っていると、ルミオルは目を細めて口の端を上げた。
「罰なら、お受けいたします。どうぞ、何なりと」
 トールは一瞬笑みを消したが、すぐに優しい声で応える。
「罰など与えない。ただし、今後は気をつけてくれるか」
 ルミオルはトールの態度を分かっていたかのように動じなかった。
「以前も同じことを仰いましたね」
「そうだったかな」
 トールは白々しく肩を竦めた。
「そうだ。怪我をしていると聞いたが、痛むのか」
「ああ」ルミオルはゆっくりと右手を左の二の腕に当てる。「城下の酒場で、乱暴者に酒瓶を叩きつけられたものです。数日前のことですし、もう痛みはほとんどありません」
 そこまで聞いてないのに。そう思いつつ、トールは平静を保った。
「理由があったのだろう?」
「思い当たることは」ルミオルは丁寧に説明する。「彼が口説いていた女性を、私が横取りしたことです」
 トールはため息が出そうだったが、微動だにせずに堪えた。
「私は女性を無理に誘ったわけではありません。どちらがいいか、きちんと尋ねました。女性は私を選んでくれました。なのに、その乱暴者は逆上して私に殴りかかってきました。正当防衛として、私は応戦しました。それは、彼が気を失うまで続きました……私は、間違っていたのでしょうか」
 自信に満ちたルミオルの瞳を、トールは見つめ返した。ルミオルは物怖じしない。
「私はよく『王家の恥』だと言われます。父上もそう思われますか? そうならばどうか罰をお与えください。なぜなら、私は自分が間違っているとは思わないからです。故に、父上がこれ以上恥をかかないためには、私を罰するしかありません。そう思いませんか?」
 ルミオルはいつもこうだ。わざとトールを挑発してくる。今まで一度もそれに乗ったことはなかった。そして、これからも乗るつもりはない。
「私はお前に好きなようにさせている。お前が起こす行動はお前の責任であり、それを許す私自身の責任でもある。周囲が何と言おうと、恥かどうかは私が判断することだ」
 強がりを、とルミオルは笑みを歪めた。
「では、あなたのご判断とは、いかなるものなのでしょうか」
「恥かと聞かれれば、そうは思わない」
 迷いなくそう言い切るトールに、ルミオルは表情を消した。
「お前は私の大切な息子だ。それは何があっても変わらない。お前が困ることがあれば、必ず、全力で守る」
 何度も聞かせてきた言葉だった。だが、ルミオルはそれを信じたことは一度もない。
「……何があっても」ルミオルの声が、僅かに弱った。「後悔しないと言えますか?」
「後悔?」
「私に自由を……いえ、命を与えたことです」
「…………」
「『ルミオル』という人間など生まれてこなければよかったと、後悔するときが訪れないと、本当に言い切れますか?」
 トールは彼の問いに真剣に向き合い、そして優しく微笑む。
「当然だ」
 ルミオルは眉を寄せた。言葉では何とでも言えるのだ。信じられるわけがない。
「喜ばしいお言葉、身に余る光栄です」ルミオルは再び嗤った。「ですが、いつか必ず後悔されると、私はそう予感しています」
「……そうか」
 これ以上話していたくないと、ルミオルは振り向く、向こうとする。
「ルミオル」かけたトールの声は国王ではなく、父親のものだった。「後でまた、ゆっくり話をしよう」
 ルミオルはそれを快くは受け入れなかった。むしろ嫌悪を抱き、とうとう苛立ちを顔に露わに出した。
 いつもそうだ。いつも誰もが自分を疎ましいものとしてその目を向ける。そして、トールだけが決して怒ることもなくこうして優しい言葉をかけてくる。それがルミオルを戸惑わせていた。いっそのこと、すべての人間に否定されたかった。自分のすべてが間違っていると。考え方も、思想も、生まれてきた時間も場所も、存在も何もかも。
 そうすれば、自分の行き着く場所はただひとつ――迷うことなくそこへ赴くことができるのだ。
 それを、父親というこの男だけが許してくれなかった。ならば、と思う。自分の生きる意味がどこにあるのかを、そこまでを教えて欲しいものだ。だがその答えを求める気にはなれない。その必要がなかったからだ。ルミオルはもう答えを自分で出していたのだ。それでも、急ぐ理由はなかった。生きているからには役目があるのだ。それを果たそうではないか。そのとき必ず、この男は後悔するに決まっている。そしてこう言うのだ。「お前など、生まれてこなければよかった」と。ルミオルはそう確信していた。
 所詮は「国王陛下」。国民を守るためならば、家族や友人など歯牙にもかけない冷酷な命令を下す生き物なのだ。それを責めるつもりはない。それがこの世界の美徳であり、正義なのだから。
 いつか必ず、この男に恥をかかせてやろうではないか。誰にもできないことを、自分にしかできないことを成し遂げてみせる。そして、永遠に忘れられないように、消えてなくならないほどの傷を負わせてやる。
 ルミオルは少し俯き、薄く微笑んだ。それは何かを企んでいるようで、なぜか泣いているようにも見えた。まだ誰にも見せたことのない表情を隠すように、ルミオルは片足を引いた。
「あなたが会わせたいと仰られた少女」上げた顔は、いつもの冷たいそれだった。「先ほど、言葉を交わしました」
「えっ」トールはとぼけた声を上げる。「どこで?」
 ルミオルは彼に背を向け、肩越しに言い残す。
「北口の階段です」
 跪いていた召使たちはトールに深く一礼し、音も立てずに立ち上がりルミオルについて行った。
 トールは彼の背中を見送りながら、首を傾げた。
「北口? なんでそんなところに……」
 そういえばライザが呼びに行って、それからどうなったのだろうと気になった。ルミオルの反抗は今に始まったことではない。問題は一つずつ解決していこうと、マルシオたちのいる室に戻って行った。歩きながら、それよりもどうしてルミオルがティシラのことを知っているのかという新たな疑問を抱く。あまりにも不可解なことが多すぎる。トールはなんとなく足を止め、ルミオルの口にした「北口の階段」へ方向転換してみることにした。
 その頃、ティシラを探していたライザは王室の広場で、ある人物と遭遇していた。ティシラではなかった。ライザはその者から目を離せないまま、体を震わせて言葉を失っていた。こみ上げる激しい感情と共に、悲鳴さえ上げてしまいそうだった。それを我慢しながら、何から行動すればいいのか冷静に判断できずに、混乱した頭を必死で整理することから始めていた。


   

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