SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-09





 トールは北口へ向かい、外の澄んだ空気を味わいながら階段を下りていた。地面を引きずる深紅のマントは出入り口の兵に渡してきた。トールは未だに「国王陛下」という立場に慣れていなかった。と言うより、できればそういう重い地位や責任など抱えなくてすむなら抱えたくないと思っていたのだ。そうはいかないということも自覚はしているが、やはり、父グレンデルがいたころが一番楽しかったと今でも思う。それも、グレンデルが自分を守っていてくれたからだということを、つくづく思い知った。今度は自分の番だ。今度はグレンデルが守ってきたものを自分が大切にしていかなければいけないのだ。それが死んだ父への、そして今まで支えてくれた人への恩返しなのだと思うと、決して辛いと感じることはなかった。
 王家の紋章を背負ったマントを下ろして少し肩が軽くなったトールは、兵に「このような汚れたところはお控えください」と言われながらも押し切って足を進めていた。心配そうに見送る兵は、少々呆れていたようだ。
 辺りを見回しながら階下へ降りていたが、ティシラの姿は見当たらなかった。結局森の中まで進んだトールは、大きな木の下で膝を抱えている彼女を見つけた。急ぐでもなく、じっと俯いているティシラに近寄る。
「何してるの」
 腰を折って声をかけると、ティシラは顔を上げて冴えないそれを向けた。トールは無意味に明るく微笑んで、彼女の隣に座り込む。ティシラは彼の動きに合わせて目線を下ろし、顔を背けた。
「落ち込んでるの?」
 ティシラは返事をしない。トールから見る彼女の横顔は、いかにも「意地を張っている」という表情だった。そんなティシラが妙に可愛らしく見え、つい笑みが零れた。
 あの頃はお互いが同じ「子供」だった。くだらないことで言い争い、頬を打たれたこともあった。だが今のトールには、あれだけ衝撃的だった出来事が遠い昔に感じてしまっていた。きっと、ティシラは違うのだと思う。ティシラはあの時のままだった。昔は、一緒にいれば兄妹に見えたはずだが、今はきっと親子だと思われてもおかしくないほど差が出てしまっているのだろう。ティシラを幼く感じてしまうことがそのことを裏付けていた。
 それでも、違和感はなかった。若いときは「早く大人になりたい」と「いつまでもこのままでいたい」を、気分によって抱いていたが、どちらも選べないまま、いつの間にか大人になってしまっている。若い頃の自分が懐かしく、尊く思うが、今の自分も決して嫌いではなかった。少なくとも昔よりはティシラを守る力があるはず。トールはそう自負し、ティシラを包むように微笑みかける。
「大丈夫だよ。君は何もしていない。何も悪くないから」
 慰めたつもりだったが、ティシラはジロリとトールを睨んでくる。
「何もしていないんじゃなくて、何もできなかったのよ」
 そう言い捨て、フンとそっぽを向く。
「それでいいじゃないか。何もできないなら何もしなければいい」
 その軽い言葉に、ティシラは牙を剥いてきた。
「冗談じゃないわよ。ここは人間界なのよ。人間なんて全部私の餌なんだから。それを大人しく指咥えて眺めていろって言うの」
 彼女の剣幕に身動ぎひとつせずに、トールは笑顔のまま頷いた。
「うん」
 あまりにもあっさりとした彼の短い返事に、ティシラは何も言えなくなった。しばらく沈黙になる。暖かい木漏れ日が差しているにも関わらず、二人の周りだけ、微妙に冷えた空気が流れた。
 木々を眺めながら、トールは呟くように口を開く。
「指輪をつけていることには必ず意味があると思うんだ。それがいいことか悪いことかは分からないけど、強い影響力があることは間違いない。外れないなら外れないで、それと向き合ったほうがいいと思う」
 肩の力を抜き、笑いを含みながら。
「ま、なんにせよ、どうやら悩んでも無駄みたいだし。気にしないほうがいいんじゃないかな」
 ティシラは横目でトールを見つめ、変なやつ、と思った。国王陛下と聞いて、最初は生真面目で厳格な人物を想像した。それはただの偏見だったのか、それともやはりこいつだけが特殊なのか、今のティシラはまだそれを判断できるものを持ち合わせていなかった。
 ティシラ自身の父親も魔王であり、決して生真面目でも厳格でもない。だけど……と思うが、すぐにどうでもよくなってしまう。肩が落ち、無意識にため息が出た。本来ティシラは悩むことなど得意ではない。こうも軽くあしらわれると、落ち込んでいる意味が分からなくなってしまった。確かに、悩んだところで解決するわけではなさそうだ。とりあえず指輪のことはしばらく無視してみようかなどと考える。
 トールは、「諦めた」ティシラの様子を確認し、安心して頬を緩めた。トールの知る彼女は、いつまでも一つのことに拘って立ち止まるような少女ではない。やはりライザの言う通り、ティシラは何も変わっていないと思った。変わったのは現状だ。あの頃とはいろんなものが変化している。その一つ一つを思い描こうとしたとき、変化の一つである「あのこと」を思い出した。
「そうだ」背を更に丸め。「ティシラ、ルミオルと会った?」
「何よ、いきなり」
「いや、ルミオルが君のことを知っていたから、どこかで会ったのかなって思って」
「誰のこと?」
 眉を寄せて聞き返してくるティシラの様子は、本当に知らないように見えた。おかしいなと思い、トールは簡単に説明する。
「僕の息子なんだけど、えっと、ラストルの弟」
 ティシラは少し考えて。
「あんたの息子も、弟も兄も知らないんだけど。それも私の昔の知り合い?」
「いや……知らない、はず」
「じゃあ知ってるわけないじゃない」
「ああ、そうか」
 トールは変に納得しそうになったが、そうじゃないとすぐに気づく。
「いやいや、ラストルは謁見の時に僕の隣にいた彼だよ。ルミオルはその場にはいなかったんだけど、さっき帰ってきてたんだ。それで、どこで会ったか知らないけどルミオルが君のことを知っていたからさ」
 ティシラは、トールが何を言いたいのか分からずに、じっと彼の顔を見つめた。だから何なんだろうと思い、考えるつもりはなかったのだが、ふっと、先ほど階段で声をかけられた青年の姿がトールに重なった。
「あ」ほとんど無意識に声が出た。「もしかして、金髪の、変なヤツ?」
「えっ、そう」トールも反射的に返事をしてしまう。「それかも」
「バカみたいにヘラヘラして、私に好きな人がいるのかってしつこく聞いてきてた、あいつ?」
「た、たぶん」間違いないと思い。「それが、ルミオルだと思う」
「あれ、あんたの息子なの? ってことは、一応王子ってことよね。信じられない。何、あの軽さ」
 ティシラの失礼な発言を否定できなかった。トールは冷や汗を流しながら作り笑いを浮かべた。
「しかも、名前も言わないでただ好きな人いるのかってしつこいし。いないって言ったら自分にしないかなんて、非常識にもほどがあるわ。一体どんな育て方してるのよ」
 遠慮なく貶すティシラだったが、トールは慣れていた。はいはい、と心の中で相槌を打ちながら聞き流していた。
「で、何か他に言ってた?」
「ううん。それだけだけど」
「そうなんだ」
 意味深な表情で言い残していったわりに、特に気になる会話はなかったようだとトールはほっとする。その程度ならよくあることと拍子抜けしたそのとき、階段の方から一人の警備兵が鎧を揺らして走ってきた。
「陛下!」
 ティシラとトールは同時に腰を上げた。兵は転びそうになりながらもトールの前に跪く。
「こ、こんなところにいらっしゃいましたか」
「いや」トールは兵の慌てように戸惑っていた。「そんなことより、何かあったのか」
「は」兵は呼吸を整えようとしながら。「いえ、取り乱してしまって失礼いたしました。王妃様が、陛下をお探しです。かなり緊急であると」
「だから、一体何事だ」
「それが……よく分かりません」
「?」
「王妃様は広場にいらっしゃるのですが、かなり慌てた様子で陛下を呼んできて欲しいと……」
 トールは訝しげに首を傾げる。
「呼ばれたなら行くが、広場で何が起こっているんだ」
「それが、ライザ様があの場に誰も近寄るなと命令をお出しされておりまして」
「それは、つまり、お前は何も知らないということなのか」
 言われて、兵はしばらく言葉を失った。次第に呼吸も平常に戻り始めた頃、ふと我に返る。
「は、はい」気まずそうに、顔を落とし。「とにかく、王妃様がかなり慌てたご様子で陛下をお呼びでございます」
 何のことだか分からないが、ティシラもトールの隣で白けた顔をしていた。その寒い空気にこれ以上耐え切れず、兵は体を起こして声を大きくした。
「陛下。こうしている場合ではございません。早く、広場へ」
「そ、それもそうだな」
 トールもはっと我に返り肩を揺らした。次から次へと一体何事だろうと、頭を切り替えてすぐに階段へ向かう。片膝を付いている兵の横をすり抜け、足を早める。ティシラも後に続いた。


*****



 王室前の広場にはライザと、警備兵に呼ばれたマルシオとラムウェンド、そして駆けつけたサイネラがそれぞれに驚愕していた。
 一同の目線の先には、白い光を纏う少女が佇んでいた。緩やかな美しい銀髪が風に靡く。それを細く白い指で掻き揚げながら、少女は少し瞼を伏せた。それをすぐに上げ、少女は目の前にいる一人の人物に銀の視線を向けた。相手はその瞳に捕らわれ、体全体に緊張が走った。
 少女が真っ直ぐに見つめた相手とは──他ならぬ、同じ色を持つマルシオだった。当のマルシオは少女に見つめられ、小刻みに震えながら顔を真っ青にしていた。足がふらつき、逃げ出さんばかりに一歩引く。向き合う少女はマルシオに合わせるように一歩前に出た。その途端、マルシオの体がびくりと揺れる。少女は感激し、マルシオは恐怖に怯え、お互いに同じ色の目に涙を浮かべていた。
 マルシオは今にも気を失いそうだった。いや、そんな悠長なことをするわけにはいかない。気絶なんかすれば、きっと少女に捕まってしまうだけ。逃げよう。逃げてどうする。少女はこんなところまで追ってきたのだ。そう簡単に逃げられるわけがない。
 マルシオが混乱している間に、少女の瞳は更に潤み、唇を震わせた。感極まった様子で、彼の名を口にする。
「……マルシオ様」
 その声が耳に届き、マルシオは再び足を引く。
「お会いしとうございました」
 少女は思いのたけを吐き出し、重ねた手のひらをそっと口に当てる。落ちた涙の雫が風に舞った。
 マルシオを除いた一同は、その儚さに心打たれる。感動や驚きで声が出なかった。言葉にはしなかったが、少女の姿形だけで「奇跡」が起こっていることを認識していた。そして同時に、「だが」「なぜ」という疑問を抱いていた。
 マルシオの様子がおかしい。少女がなぜこの世界に来たのかは雰囲気で読めるとしても、マルシオのあの反応は理解できない。理解できるには、まだあまりにも情報がなさ過ぎたのだ。その情報を知るために、一度息を飲んで、ラムウェンドが口を開いた。
「あの」いつもの落ち着きは欠けていた。「あ、あなたは……?」
 だが、必死で平静を装う。彼の漏らした疑問を受け取り、少女は手を下ろして姿勢を整えた。すっと背を伸ばし、マルシオ以外の人物を一通り見回す。どうやら、ここにいるのは神聖なる力と心の持ち主ばかりであると悟り、深く瞬きしながら。
「私の名は、フーシャ・イレイジア」
 ゆっくりと、細い声で名乗る。
「聖帝天ミロド・ローレン様の命の下、ご子息であるマルシオ様と正式に婚約を交わした者でございます」
 自身の誇りとでも言うように、少女フーシャは淡い微笑みを浮かべた。マルシオはそれを聞き、乾いた口を更に大きく開けた。そして、彼以上に驚きを隠せないでいるのがライザ、ラムウェンド、サイネラの三人だった。
 思えば、マルシオにそういう相手がいるなんて聞いたことがなかったし、想像さえしたことがなかったことに、今気づく。いや、しかし。引き裂かれた婚約者との再会を喜んでいるようには決して見えない。それどころか、あからさまに怖がっているとしか思えなかった。
 一体、二人はどんな関係にあるのか。三人は興味を抱いた。それだけではない。今はもう人間の記憶から忘れられかけている「天使」が、マルシオ以外に人間界に姿を見せていたのだ。ただの客として持成すわけにはいかない。ライザを始めとするマルシオと親しい者は多少の免疫があるものの、世界はそうはいかない。この時代に天使の存在など、単純に明かしてしまえば確実に騒ぎになり、それがいい方へいくとは限らないのだ。今はまず、フーシャという天使を「隠す」必要がある。
 マルシオとの話はそこからだ。相談することもなく三人の考えが一致したそのとき、耐えられなくなったマルシオが、誰の意見も仰がずにフーシャに背を向けて走り出した。
「マルシオ様!」
 フーシャは高い声を上げたが、振り向きもせずに王室内に駆け込んでいく彼の背中を見送り、追おうとはしなかった。マルシオの消えた扉をじっと見つめ、悲しそうに佇んだ。
 何がどうなっているのか、まだ理解できない三人はオロオロと落ち着きをなくしてしまっていた。そんな周囲のことなど目に入らないフーシャは、独り言のように呟いた。
「お可哀想に……きっと、この汚れた空気に毒されていらっしゃるのですね」
 人間界の風は優しいが、肌理が粗くてやはり好きにはなれない。フーシャは目線を上げ、壮大な空に強く誓った。
「必ず、私がマルシオ様に立派な天使の心を取り戻させてみせます」
 そして、一緒に天上界へ──フーシャは胸の中で、愛しい彼に強く語りかけた。


   

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