SHANTiROSE
HOLY MAZE-01
意識を取り戻して目を開けても、そこは暗闇だった。
辺りには嫌な臭いが漂っている。狭い穴蔵の奥深く、さらにその隅に放置されてもう何十日も経つ死体から発せられる腐臭だった。
鼻を突くそれにはどうしても慣れることができない。彼女は一度開けた目をすぐにしかめ、横に倒したままの体を丸めた。同時、全身のあちこちに走る激痛にうめき声を漏らす。
咄嗟にわき腹に手を当てると、焼けて溶けた皮膚の感触があった。
彼女は気を失う前のことを思い出す。この傷は、看守に松明を押し付けられた跡だった。
――どうして?
彼女は虚ろな瞳を震わせた。
――私は、何もしていないのに……。
ここは地中の奥深くに掘られた牢獄だった。看守が出入りする戸口は分厚い木戸で塞がれており、彼女の周りには太い鉄の棒で囲まれている。それ以外、どこを見てもむき出しの土肌しかない。
その奥に、名も知らぬどこかの町娘の死体が二つ、捨てられていたのだった。
もう誰だか判別できないほどに崩れ落ちてしまった死体もまた、きっと無罪の者なのだと思う。
――どうして?
彼女は心の中で繰り返した。
――私が、魔族だから?
彼女はリジーという、身分も何もない低級魔族である。
原型は人と同じ形だが、リジーの背中には羽根があった。鳥のそれとは違う、美しいとは言いにくいものだった。土色の薄葉、中央に描かれた目玉のような模様。そして彼女の額から伸びる毛羽立った二本の太い触角。
リジーは蛾を媒体とした魔族だった。
しかしリジーは野心も強い魔力も持たない、自然の森が好きなだけの無害な魔族に過ぎなかった。
なのになぜこんなところに閉じ込められ、酷い仕打ちを受けているのか――。
(……私が、人間界に来てしまったのがいけなかったんだわ)
リジーは何度も後悔していた。抵抗する力を持たない彼女にはそれしかできなかった。
(いっそのこと、早く殺して欲しい。私の勝手で、大事な人たちにまで迷惑かけてしまうなんて……)
空気のきれいな森を求めて彷徨っていたリジーは、いつの間にか人間界に迷い込んでいた。深い緑の生い茂るそこをリジーは気に入り、棲み付いていた。
だがある人間に捕まり、理由も分からないうちに地中に閉じ込められてしまったのだった。
自分を閉じ込めた者の目的を知ったとき、彼女に戦慄が走った。逃げなければいけないと、数日間は必死で手段を探っていた。
しかし抵抗すればするほどリジーは傷つけられ、弱っていった。今はもうどうすることもできないと暗闇でじっとしていることがほとんどになり、そうしてもう数十日が過ぎていた。
そのとき、リジーの足元の土が僅かに盛り上がった。
ここには看守以外が侵入する手段はないはず。
今度は何が起こったのかと、リジーは息を飲んで腕に力を入れた。
揺れる土をじっと見つめていると、中心から小さな指が見えた。まさか、とリジーは覆いかぶさるようにそこに顔を近づける。
地面の一部が崩れ、人が一人やっと通れるほどの穴が開いた。そこから、泥だらけの少女が顔を覗かせた。
「リジー」
少女の姿を見て、声を聞いて、リジーは涙が溢れ出した。
「大丈夫?」
少女もリジーに手を伸ばして目を潤ませている。
嬉くて、夢中で少女を抱きしめたかった。だが、リジーはその感情を押し殺した。
「……サフィ」消え入るような声で。「ダメよ。危険だわ。誰かに見つかったら、あなたまでどんな目に遭うか……」
「助けに来たんだよ。逃げよう、リジー」
少女は水の入ったアルミの缶を渡しながら、漂う腐臭に顔を歪めた。
「酷い臭い……こんなところにいたら頭がおかしくなるよ。早く行こう」
そうしたかったが、できないとリジーは首を横に振った。
「ううん、逃げてもすぐに追われる。それに、あなたたちまで酷い仕打ちを受けることになる」
「でも……だったら、リジーはいつ助かるの?」
おそらく、このままでは助からないとリジーは思う。だけどそれは口に出さない。
「私は、いいの。魔族だから、元々人間界にいてはいけなかったの。私はなんとかして逃げるから、お願い、もうここへはこないで」
サフィの顔がくしゃくしゃになり、今度は彼女が首を横に振った。
「やだよ。リジーは私の友達だよ。また一緒に遊ぼうよ」
強がりながらも涙を流すリジーの目を見つめ返すと、暗闇の中でも彼女の顔が傷だらけなのがサフィには分かった。
「リジーは何も悪いことしてないのに、こんな暗いところで、何日も酷い目に遭ってるんでしょう? どうして? 可哀想だよ」
渡した水を飲むようにと、サフィは彼女の手を押して促す。リジーは力なく一口含んだけで、すぐに水筒をサフィに返した。
「……ありがとう。でも、ここから逃げられたとしても、もう私はあの森にはいられないの。だから、私のことは忘れて」
「そんなこと言わないで……私たちも、どうせ前のままじゃいられない。リジーも一緒に逃げようよ」
リジーは涙を拭いながら声を詰まらせる。
「どういうこと? まさか、あの人たちは村の人にも、何か……」
サフィは目を伏せ、奥歯を噛み締めた。
「……シヴァリナの村に魔女がいるみたいだから調べるって言って、私たちを閉じ込めようとしてる」
「どうして? なんのために?」
「分からないよ。 村を囲んで、私たちが逃げられないようにしてる。あの魔法使いは絶対悪い奴だ……魔女なんかいないって分かってるのに、何かを私たちのせいにしようとしてるんだ」
リジーの背中に寒気が走った。
――私のせいだ。
自分が我慢して苦痛を受け入れれば、村の人だけは助かるはずだと信じていた。だけどその望みは裏切られることになるようである。
リジーは絶望し、地面に伏せた。サフィも釣られて嗚咽を漏らし、リジーの手を掴む。
「逃げよう。もうリジーだけが我慢しなくていいよ。村を捨てて、みんなでどこか遠いところへ行こうよ」
しかしリジーはその手を握り返さず、再度頭を横に振った。
「……お願い。行って。私を逃がしたら、きっと取り返しのつかないことになる。あなたたちにはまだ助かる方法があるはずよ。だから、諦めないで。私のせいで殺されるなんて、それだけは……絶対にイヤ」
「リジー……」
どちらも譲れなかった。しかしこれ以上ここで問答しているわけにはいかない。リジーは動かないだろう。サフィも彼女が自分についてくるまで粘りたかったが、誰かに見つかっては完全に後がなくなってしまう。
サフィと仲間が見張りの目を盗んで、何日もかけて掘り続けた小さなトンネルはリジーに届いた。今はそれだけでも救いと考え、きっといつかチャンスが来るはずと信じ、サフィは一度引くことを決意する。
「リジー、辛いだろうけど、待ってて」
涙を堪えて必死で笑顔を作るサフィを、リジーはじっと見つめた。
「必ず助けてあげるから。待っててね」
サフィはお転婆で、強くて明るい少女だった。だから彼女がここまで長いトンネルを掘り続けてきたことには、それほど驚かなかった。
リジーはサフィの住むシヴァリナ村の隣にある未開の森に迷い込んでいた。近くに村があっても人は滅多に入らないと思って寛いでいたつもりだったのに、冒険好きなサフィが数人の男の子を引き連れて乗り込んできた。それが出会いだった。
サフィはリジーを怖がらずにすぐに仲良くなった。そのうちにリジーは村人たちとも顔を合わせるようになり、人里離れた田舎の人たちも多少の距離を置きながら彼女を受け入れていってくれていた。
このまま平和な日々が続くと、そう思っていた。
――助けて。
穴を埋めて一旦戻っていくサフィを見送りながら、リジーは心の中で強く祈る。
――誰か、助けて……!
その思いは暗闇に渦巻き、隙間を塗って風に運ばれていった。
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