SHANTiROSE
HOLY MAZE-22
ティオ・メイ城下町の居酒屋グレン・ターナーの入り口に人だかりができていた。皆が指差す先に、一枚の張り紙があった。そこには、本日はエルゼロスタの公演を中止する旨が記されていた。
舞台を見るために足を運んできた者は怒りが収まらない様子で、戸口に立つ店員に詰め寄っている。
店員は困り果てた顔で、公演のメインと言っても過言ではないシオンが急病で倒れ、今からでは演目の変更に間に合わないためと説明していた。
急病なら仕方ないと諦めてくれる客もおり、シオンの容態を心配していた。しかし店員からは、彼女の様子も詳しいことはまだ分からない、明日以降の予定も未定と言われて落胆している者も少なくなかった。
「できる限り早急に予定の調整をいたします。シオンの復帰に時間がかかる場合、彼女の演技を他の役者で代替する可能性もあります。決定次第お知らせしますので、どうかご理解ください」
なかなか騒動は収まらなかったが、どれだけの人数に文句を言われてもどうすることもできなかった。
誰がどれだけ努力しても、シオンが帰ってくるわけではないのだから。
締め切られた店内の片隅で、エンディがグレン・ターナーのオーナーに頭を下げていた。
オーナーはため息を漏らして項垂れている。
「……シオンが家出だなんて……止めることはできなかったのですか?」
エンディはオーナーには正直に話していた。
「申し訳ございません。私の責任です」
休演によって出る損害はすべて弁償することを約束し、エンディは何度も謝罪し続けた。
エンディが真面目な男で、信頼できることをオーナーは知っている。きっとこの現状だけでも辛いだろうに、大切なシオンの身を案じて気が気ではないはず。オーナーは彼の気持ちを察して、あまりきつくは当たらなかった。
「どうしましょうか……メイに頼んで探しますか?」
エンディは堅い表情のまましばらく黙っており、ふっと瞼を落とした。
「いいえ。シオンは何かしら思うことがあり、自分の意志で出ていきました。自ら戻ってこない限り、問題は解決しないでしょう」
「彼女は舞台上では他を凌駕する存在ですが、普段はごく普通の若い娘ではありませんか。事故や事件に巻き込まれでもしたら……」
「シオンを世間知らずにさせたのは私です。私のせいです。娘に何かあれば、それも私の責任なんです」
エンディはシオンがいなくなってしまったことを素直に打ち明け、すべての責務を背負う覚悟を見せたが、原因はちょっとしたことでケンカになったとしか言わなかった。思い詰めている様子から、きっと他に原因があるのだろうとオーナーは悟りつつ、問い詰めなかった。
「……何かあってからでは遅いんですよ」
「分かっています。今回のことはエルゼロスタのすべてに関わることです。どうか、私たちで解決させてください」
オーナー自身は芸を持つわけではないが、今までいろんな経験をしてきた。芸人の特殊な感情にも理解があった。当然、突然の看板娘の失踪と公演休止は大打撃である。しかし、無理を言ってどうなるわけではない。また近いうちに素晴らしい芸を持って帰ってきてくれることだけを祈ることにした。
夕刻、エルゼロスタの団員の落ち着きはまだ戻らなかった。
本日の公演は中止となり、その後もどうなるかまだ決まっていない。
エンディがグレン・ターナーから戻ってくるのを待っていた。黙って不安そうな顔をしている者、数人で話し合っている者と様々だった。
普段シオンをからかっている者も、彼女が悪い人間ではないことは知っている。ひたすらに、芸に一途だった。そんなシオンが突然いなくなるなんて、信じられなかった。
シオンは自分がいなくなればエルゼロスタが混乱すること、団員にも観客にも多大な迷惑がかかることくらい分かっているはず。最悪は、二度と舞台に立てなくなるほど信頼を失うことだってある。すべて投げ捨ててまで出ていかなければいけない理由とは、一体なんなのだろう。
昼間、エンディとケンカになったことは一通り伝わっていた。二人のいざこざは今までも何度かあった。今回のことはそれほどのことだったのかと、その場にいた者に聞いても、分からないとしか返ってこなかった。
感情的になってつい飛び出してしまったのであれば、すぐに戻ってくるはず。もしかして迷子になっているのではないかと数名の団員が近くを探しているが、未だいい報せは入ってこない。
そもそもシオンはほとんど外へ出たことがない。家出をしてどこへ行く宛てがあるのだろう。まさか誘拐されたのではないか、事故にでも遭っていないかと、次第に不安は深まるばかりだった。
エルゼロスタはグレン・ターナーの専属になる前は、いろんな町を渡り歩いていた。長居した場所ではその土地の住民と仲良くなることもあった。気の利く団員は思い当たるところに連絡をして、もしシオンを見かけたら報せて欲しいと伝えていた。
エンディの帰りを待つ中、キリスだけは平静を保っていられなかった。キリスは部屋で泣き崩れており、アミネスと、シオンの妹のような存在だったフィズが慰めている。
「私のせいで、こんなことになってしまって……」
「キリスさん、違うよ」アミネスはキリスの涙で塗れた手を握り。「あなたのせいじゃないし、自分を責めても、何も解決しないだろう? みんなと一緒に、これからのことを考えようよ」
「……私がシオンを分かってあげられなかったのがいけないの。芸のない私には、それくらいしかできることがないのに……」
「芸がないなんて、まだそんなことを気にしていたのか? キリスさんはいつも俺たちを影で支えてくれてるじゃないか。みんなが芸人だったら、誰がおいしい料理を作って帰りを待っててくれるんだ。俺たちにはそういう人が必要なんだよ」
「そうよ」フィズが元気な声を上げた。「キリスママはみんなのママよ。シーちゃんが悪いのよ。こんなにママを泣かせて」
フィズはシオンをシーちゃん、アミネスをアーちゃんと呼び、二人によく懐いていた。
「フィズ、シオンを悪く言うんじゃない」アミネスが小声で諌める。「どうして出ていったのか、まだ分からないんだから」
「行きたいところがあるならちゃんと言って行けばいいのよ。私だって心配なのよ」
フィズは明るく、楽天家だった。稀にその幼い姿には似合わない、大胆な発言をする。彼女の言い分は正しいが、アミネスは誰も責める気にはなれなかった。
「……そうだな。俺も心配してるよ」
アミネスは俯いて、キリスの手を離す。
シオンが出ていった理由を誰も知らないということが、アミネスを始めとする親しい者を傷つけていた。時折様子がおかしいときはあったが、彼女は何も話してくれなかった。話し難いのだろうと気を利かせて問い詰めなかった。きっと他の誰かに相談しているだろうと、誰もが思っていたからだった。
だが結局シオンは誰にも打ち明けていなかった。武芸団の外に知り合いなどいるはずがない。ならばシオンはずっと一人で何かを抱えていたということなのだろうか。それが爆発して、今回のような行動に繋がってしまったのか――。
悔しかった。自分を信頼してもらえなかったことが。それはここにいるキリス、アミネス、そしてフィズも同じ気持ちだった。
コンコンと、ドアがノックされた。一同が同時に顔を上げると、ドアの外から声が聞こえた。
「団長が帰ってきたよ。食堂に集まれって」
言われたとおりに、三人は食堂へ向かった。キリスはまだ涙が止まらなかった。目が腫れた彼女の肩をアミネスが抱えるようにして歩いた。
外にいた者も食堂に集まってきた。
アミネスたちが来たときには、エンディは既に席に座っていたが、やはり表情は暗かった。
全員がそれぞれに席につくと、室内は静まり返った。その中で、時折キリスの嗚咽が聞こえ、それが更に皆の悲しみを誘っていた。
肩を揺らすキリスをちらりと見たあと、エンディは重い口を開いた。
「……シオンの行方は未だ不明だ。俺は、シオンが戻るのを待つことにする」
室内が少しだけざわついた。探すべきと思う者と、エンディに従うのが筋だと思う者の気持ちが交錯している。
「明日の早朝からシオン抜きの演目の調整をする。目処が立てば、すぐにでもグレン・ターナーでの公演を再開する。今日は、皆、休んでくれ」
ざわめきは続いた。勝手に出て行ったシオンも悪いとは言え、このままシオンを放っておくつもりならば、あまりにも冷たい。
「……シオンは」団員の一人が小さな声を出した。「探さないんですか?」
エンディは僅かに瞳を揺らした。何も言わないわけにはいかない。少し間を置き。
「そのことは、今から考える」
誰も、それ以上何も聞けなかった。再び沈黙が戻る中、エンディは続けた。
「今回のことは、俺の責任だ。皆に迷惑をかける。すまない……」
エンディが頭を下げるなど、今までにないことだった。
「シオンを心配してくれるのは有難いが、今はそれぞれに、この危機をどうやって乗り越えるかを考えて欲しい。ずっとこのままではない。いつか困難は終わる。そのときに何が残るかが大切だ。それに……ここはシオンの家だ。シオンが帰る場所はここしかない。皆で守って欲しい。シオンが、いなくなってしまわないように……」
一同の胸が熱くなった。
エンディはいつもシオンを叱ってばかりで、こうして娘への愛情を形にしたことはなかった。それでもシオンが大事だからこそ厳しくしているのだと、誰が見ても分かることだった。
そんなエンディが意地も誇りも捨てて、素直に気持ちを晒して、自分の子供たちに協力を求めている。一同は不思議と、自分に何ができるかを考え始めていた。
エンディの優しい言葉に涙を堪えられなくなったキリスは、両手で顔を覆ったまま室を出ていった。
会議が終わり、食堂から団員が立ち去っていた。灯りを一つだけ残して、エンディが残っていた。
テーブルの上にはいくつかの新聞や雑誌が乗っている。一番上にあった新聞の表紙に掲載されているラストルの写真が、薄明かりに照らし出されている。
エンディの隣には落ち着きをとり戻したキリスが座っていた。
「……ごめんなさい」
さっきから、何度この言葉を呟いたか分からない。
「お前のせいじゃないと言っているだろう」
「目の前にいたのに……あのとき、寸前までシオンと会話していたんです。なのに……止めることができなかったなんて」
「違う……今日ではなくても、いつかこんな時が来ていたのだと、俺は思う。その場にキリスが居合わせただけだ。もう謝らないでくれ」
なぜエンディがそう思うのか、キリスには分かるようで分からなかった。シオンに悩みがあるのは気づいていたが、女同士、なぜ隠されてしまったのか、キリスはそれが口惜しくて仕方がなかった。
エンディは新聞に目を落とし、軽く拳を握った。
「あなた……」キリスは顔を上げ。「何か、ご存知なの?」
エンディは手を開き、新聞を手に取った。
「……さあ」
そう言い零し、じっと写真を見つめている。その様子に、キリスは首を傾げた。
「どうなさったの……?」
エンディと新聞を交互に見ながら、キリスは汗を流す。
「いやだ、まさか……シオンが、王子さまに、恋をしたと……」
そこまでは、ありえないことではないと思う。確かにエルゼロスタは何度か王族の前で演技をしたことがある。そのときに「素敵な王子さま」に憧れを抱いてもおかしくはない。
だが、まさか手の届くはずがない彼を追うなど、いくら世間知らずのシオンでもそこまでバカなことをするとは思えなかった。
「そうね、シオンは、まるで恋に悩む少女のようだったわ……」
王子に恋心を抱くことを責めるつもりはない。
「でも……そうなら、私にくらい話してくれても……」
エンディはじっと新聞を見たまま、目を離さない。まさかそんな夢のようなことを、エンディは疑っているのだろうか――。
「あ、あの、もしかして、城での公演のとき、二人が直接話をしたとか、そういうことが……?」
「……いいや」エンディはやっと返事をした。「俺たちはただの芸人だ。王族のひと時を楽しませるだけで、他に特別なことは何もない」
「じゃあ、どうして……」
そんなにも不審な目でラストルの写真を見つめているのだろう。
キリスがそう思っていると、エンディはふっと新聞から目を離した。
「もし……二人が、人目を忍んで会っていたとしたら?」
キリスは目を見開いた。信じられなかった、が、途端にいろんな疑問の点が繋がり、線になっていった。
「え……え? な、何をおっしゃっているの?」
「ただの予感だけどな」新聞をテーブルに置き。「シオンがおかしくなったのは、ここへ来てからだ。そして、あの謎のフクロウの存在……確か、あれが不自然に現れたのは、この王子がメイを出た直後だったろう」
「で、でも、ニルは、迷子だって……」
「ニルには魔力が宿っている。おそらく、高等な魔法使いの使いなのだろう。そんなものが迷子になり、どうしてシオンの窓へやってくるのだ。それにな、俺は見たことがあるんだ。以前城の廊下を歩いていたとき、向かいの高い位置にあった窓の向こうで、国王と話している魔法使いの傍に白いフクロウがいたのを」
キリスの顔が真っ青になっていった。
「すぐに飛び立って消えてしまったがな。その白いフクロウとニルが同じとは限らないが、違うという証拠もない」
シオンだけが彼を想うのは不思議なことではない。同じような娘が、町中にいるのだから。だが、ラストルが想いを寄せる女性は限られている。もしその相手がシオンだとしたら、二人は相思相愛ということになる。
まさか、とキリスは心の中で繰り返した。しかし確実に「ない」とは言い切れない。
次第に、なぜ「ない」と思うのかを疑問に感じてきた。
シオンは美しく、職業柄自分をよく見せる業を身につけている。それだけなら貴族に囲まれた彼の周囲にはいくらでもいるだろう。シオンはそれだけではない。贔屓目を抜きにしても、シオンは心も体も清く、純粋で純潔。優しく家族思いで、誰からも愛される「女神」を目指している。
シオンとて数多の男性から想いを寄せられるに値する女性なのだ。そんな二人が惹かれ合うことを、どうして「ない」と言い切れるのだろうか。
キリスは震え出し、身分が違うというだけでその可能性に見向きもできなかった自分を、再び責めた。
「……だから、シオンは誰にも話せなかったのね」
涙が溢れ出すキリスの肩を撫で、エンディが弱々しい目を伏せた。
「そうだと決まったわけじゃない……だが、それ以外に、考えられないんだ」
キリスは顔を伏せたまま、数回頷いた。
それが事実だとして、どうしてシオンはあんなにも辛そうだったのか、その疑問は残る。誰が考えても、身分の違いすぎる二人が結ばれることはないに等しい。それでも想いを通わせていたとしたら、ラストルはどういうつもりだったのかを、エンディは知りたかった。
いつか娘を迎え入れるつもりだったのか、それとも、ただの一時的な恋愛だったのか。
なんにしても、エンディは許せなかった。本当に愛していたとしても、シオンを孤独にして苦しめ続けた彼を。
「金持ちは、いつもそうだ……」
エンディの低い声に、キリスは顔を上げた。
「自分が偉いと思い、人を見下す。金さえあれば何でもできると、いや、何をしてもいいと思っている」
エンディは昔から、こう愚痴るときがあった。稼ぐ際、同等の対価を与える芸人からすれば、努力をせずに儲ける輩はあまり仲良くなれない相手だった。
金のある者が魅力的に見えてしまうのは否定しない。しかし、そんな心の弱さに付け込み、一時の快楽のために他人の人生さえ狂わせてしまう者を、何度も見てきた。
ラストルがそうなのかは分からないが、彼は大国の王子、時期王位継承者なのだ。シオンを本気で想っていたとしても、先祖も分からぬようなシオンを娶るなど、誰が許すというのだ。もしも身分を越えた恋愛に酔いしれているだけならば、あまりにも幼稚。エンディはラストルを王子としてではなく、一人の人間として憎悪の念を抱いていた。
その感情を無意識に現し、眉間に皺を寄せたエンディを見て、キリスは寒気を感じた。
険悪な空気が漂っていたところに、壁を叩く音が響いた。二人が我に返って音のしたほうを向くと、戸口にアミネスが立っていた。
アミネスは笑顔で二人に近寄りながら話した。
「団長、突然だけど、しばらく休暇をもらえないかな」
言葉どおり、突然の申し出に二人は驚いた。
アミネスは向かいの席に腰掛け、意味深に新聞を取り上げながら続ける。
「一度一人旅っての、やってみたかったんだよね。ここに入ったら引退するまで芸のことばっかりだろ? この機会のどさくさに、ちょっと違う空気吸ってみたいな、なんて思ってね」
何を言っているのか、エンディにはすぐ分かった。先ほどの話しを聞いていたのか、だとしたらどこまで聞いていたのかは分からないが――アミネスはシオンを探しに行くつもりなのだろう。
アミネスはわざとらしく新聞に目を通しながら、素知らぬ顔で呟いた。
「ティオ・シールか……いいね。行ったことないし、ちょうど賑わってるみたいだし……」
アミネスはエルゼロスタでシオンに次ぐ人気があった。シオンがいない今、アミネスまでいなくなることは大きな痛手となる。しかし今のエンディは、「最善」を舞台にではなく、シオンの未来に尽くしたいと思っていた。
「……いつ戻ってくる?」
いつもの口調でエンディが聞くと、アミネスは新聞を下ろした。
「さあ。分かりません」
いい加減な答えに怒りもせず、エンディは目を伏せた。
そこに、今度は高い声が響いてきた。
「アーちゃん、ずるい。私も行く!」
そう叫んで駆けてきたのはフィズだった。
あれからずっとシオンへの不満をぼやいていたフィズを、やっと寝かしつけたつもりでいたアミネスは目を丸くして驚いていた。
「アーちゃんの考えなんてお見通しなんだからね。私も行く。シーちゃんは私の親友なの。私がいないとダメなの!」
シオンだけでなく、アミネスまで遠く離れるのがどうしても嫌なフィズは、必死でアミネスの膝にしがみついてくる。アミネスが困っていると、エンディがため息を漏らした。
「……どうせ、一人も二人も同じだ。好きにしなさい」
その言葉の意味を理解し、二人は目を合わせて笑顔になった。
「エンディパパ、ありがとう」
フィズがやっと膝から離れると、アミネスも立ち上がって頭を下げる。
「……必ず、いい土産を持って帰ってきます」
エンディが頷くと、隣でキリスはまた涙ぐんでいた。
シオンの後を追うならばゆっくりしている時間はなかった。すぐに室を出て、アミネスは今から準備をして今日中に宿を出るようにとフィズに指示する。
フィズはそんなに急ぐのかと驚いていたが、じゃないと置いていくと言われ、慌てて自分の部屋に走っていった。
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