SHANTiROSE

HOLY MAZE-21





 ラストルがティオ・メイを出発して三日ほどが過ぎた頃。
 ティオ・メイ城下のグレン・ターナーはいつもと変わりなく営業されていた。
 温かい日差しの下、エルゼロスタの団員は宿の庭で演習をしている。中にはシオンの姿もあり、練習用の軽い衣装を身につけて剣を持ち、周囲で笑い合う仲間に違和感なく馴染めているように見えた。
 しかし人が目を離した隙に、彼女は力なく目線を落としていた。ラストルのことが気に病まれて仕方なかったのだった。毎日、一分一秒、時間の許すたびに脳裏に彼の顔が浮かび上がってくる。
 その度に白いフクロウのニルのことを思い出して自分を元気付けていた。ニルはシオンの部屋の鳥かごで世話をしていた。賢く、躾もできているため、宿を空けるとき以外はできるだけ放してあげている。


 ニルを連れてきてしばらくは、隠していようと考えていた。しかし、やはり不便だった。餌は台所からこっそり拝借してきたものばかりだし、羽音を立てないように注意するのは可哀想である。このままではニルが窮屈だろうと思い、シオンは思い切って「迷子のフクロウが窓にいた」と言って仲間に紹介したのだった。
 皆驚いていたが、大人しいニルをすぐに気に入ってくれた。エンディだけは笑いもせずに「飼い主はどうした。どうやって探すつもりだ」と核心をついてきて気まずくなった。
「捨てられたのかもしれない。グレン・ターナーに尋ねてくる人がいたら返そうと思う。私に懐いているし、凄くいい子なのよ。いいでしょ?」
「間違って盗人だと思われるわけにはいかない。張り紙を出そう」
 そう言われたときは、シオンはさすがに焦った。ニルが本当に迷子ならエンディの言うとおりだが、もしニルを知る人に見られてはまずいことになり兼ねない。
「もしこの子が値打ちのあるフクロウだったら変な人に目をつけられるかもしれない。飼い主が本当に困っていれば探しているはずよ。私はこの子が好きなの。ニルって名前も付けたの。ニルを大事にしてる人にしか渡したくないの。そこまで、ちゃんと面倒を見たい。お願い」
 エンディはダメだと言っていたが、すぐにキリスが仲裁に入ってくれた。
「いいじゃないの。動物を愛して世話をすることはいい勉強になるのよ。それに、シオンは自由に行動できないんだから、部屋の中でくらい好きにさせてあげていいじゃない」
「動物を飼うことを許したら、他の者まで何か連れ込むかもしれない。特例を許せば秩序が乱れる」
「そんなことばっかり言って」キリスは臆さず、にこりと笑い。「シオンは特別でしょ? 違う?」
 エンディは黙ってしまった。キリスは周囲にいた団員たちにも微笑みかけた。
「ねえ、みんなもそう思うわよね。シオンは特別だって」
 確かに、と、一同は頷いた。シオンは特別――エルゼロスタにとっても、エンディにとっても。背後で団員がニヤついているのが想像できたのか、エンディは表情を変えないまま、室を出ていった。それはニルを置いていてもいいと解釈でき、シオンは嬉しそうにキリスに寄った。
「ありがとう、お母さん」
 そうして、ニルは周囲に認められてシオンの傍にいることになった。


 今のシオンにはニルだけが心の支えとなっていた。家族や仲間のことは好きだが、本心を打ち明けられないことは大きな枷だった。キリスなど、気心の知れた者には話してしまおうかと何度も思った。だがせめて、ラストルがティオ・メイに戻ってくるまでは耐え忍ぶべきと心に決めていた。
 ここ数日、グレン・ターナーでの舞台はいつもどおり成功していた。しかし厳しいエンディに何度か「気が緩んでいないか」と注意されてしまっており、つい目頭が熱くなることがあった。彼にだけは知られてはいけない。疑われたら隠し通すことができなくなる。そうシオンは思い、人前では必死で平静を保つ努力をしていた。


 シオンは顔を上げて数本の短剣を指に挟んだ。気を引き締めた、つもりだったが、瞳は虚ろだった。
 体が覚えているとはいえ、剣を扱うのは危険な行為に変わりはない。数メートル先にある的に数本を投げたそのとき、一本だけが滑り落ち、手の甲を傷つけた。
 シオンの小さな悲鳴に、一同は動きを止めて注目した。真っ青な顔で自分の手を握るシオンから、血が落ちた。
「どうした」
 近くにいたアミネスが急いで駆け寄ってきた。シオンは引きつった笑顔を向けて「大丈夫」と言うが、あっという間に団員に囲まれてしまう。
「だ、大丈夫よ。ちょっとかすっただけだから」
 シオンは騒がれたくなくその場を立ち去ろうとしたが、一番来て欲しくない人が人混みを掻き分けて姿を見せた。
 エンディである。彼は睨み付けるようにシオンの前に立った。
「お、お父さん、大丈夫よ。かすり傷だから……」
 エンディはシオンの手を掴み、怪我の様子を見た。シオンの額に汗が流れる。
 傷は確かに浅く、簡単なメイクで隠せる程度のものだった。
「ほら、傷を消毒して薬を塗ればすぐに塞がるから。ね、だからお母さんのとこに行ってくるわ」
 傷が心配するほどのものではないことを確認したあと、エンディはシオンの手を離し、更に鋭い目になった。シオンも、周囲も緊張した。
「……最近のお前は、どうもおかしいな」
 シオンの胸が脈打った。
「特に、ニルを連れてきたとき……いや、数日前、町が騒がしかったときからか」
 シオンは青ざめた。団員はエンディが何を言っているのか分からない。
「な、何のこと? 私は何も……」目を逸らして。「あ、でも、そうね。ニルが可愛くて、つい眠るのが遅くなるときがあるかも。だから、少し疲れているかもしれないわ。ごめんなさい。これからはそんなことがないように気をつけるから」
 そう言いながらエンディの前から逃げようと足を引いたが、許してもらえなかった。
「武芸とは、客には危険に見えても、本当に危険では意味がないんだ」
 シオンは俯き、怪我した手を握った。
「わ、分かってる」
「分かっていない。お前が怪我をしたら舞台はどうなる。俺はお前にできないことをさせた覚えはない。できないことはするなと何度も言っている。それで怪我をするということは、お前の怠慢が原因だということだ」
 語気を強めるエンディに、シオンは眉を寄せて押し黙った。
「お前がすべきことは芸を磨くことだけではない。その磨いた芸を、いかに観客に美しく見せて楽しませるかが大事なんだ。お前が失敗し、怪我をすることで喜ぶ輩もいるかもしれないが、そんなものは芸ではない」
 シオンの思いつめた目が振るえ、涙が浮かんだ。
 見かねたアミネスが恐る恐る、エンディに声をかける。
「団長……言ってることは正しいけど、とにかく、シオンに傷の手当てを……」
「いいか」しかし、エンディは振り向くことなく続けた。「努力による怪我は許せるが、お前は今何をやっていた? ただ剣を投げただけだろう。そんなこと、素人だってできることだ。それで怪我をするなど、気が緩んでいる証拠だろう」
 アミネスたちには、どうしてエンディがここまできつく言うのかが理解できなかった。今までも小さな失敗で怪我をすることはあった。その度に叱られていたとはいえ、今回はあまりにも執拗だと思う。
 シオンが以前から、そして数日前から余計に不安定な表情を見せることは、近しい者は気づいていた。悩みがあるなら話して欲しいと何度も声をかけたのだが、シオンは笑って誤魔化すばかりだった。
 武芸や家族に不満がある様子ではなかったため、気遣いつつ、彼女が自分から話してくれるのを待つことにしていた。シオンも思春期の娘である。人に言えない悩みくらいあるだろう。
 きっとエンディはそんな彼女を人一倍心配しているはず。だからこそ、つい厳しく当たっているのだろうが、これは間違っているような気がした。
 重い空気が落ちる中、シオンが呟いた。
「……なによ」搾り出したような声だった。「舞台とか、芸とか、そんなことばっかり」
 目に溜まった涙が、零れ落ちる。
「私の気持ちなんか、何にも分からないくせに!」
 エンディははっと目を見開いた。
「そんなに芸が大事なら、何も考えないで悩みもなくて、傷つくこともない機械みたいな人を探せばいいじゃない」
 違う。そういうことじゃない。エンディも、シオンも分かっていた。だが、止めることができなかった。
「もうイヤ、何もしたくない! どうせ私は何してもダメなのよ。いつもお父さんに怒られてばっかり」
 周囲がざわつき始めた。エンディも目を見開いたまま、身動きが取れないでいる。
「お父さんなんか大っ嫌いよ!」
 シオンは泣きながら走り去って行った。
 数人がシオンを追って建物へ向かう中、取り残されたようにエンディが立ち尽くしていた。そんな彼に、アミネスが歩み寄った。
「……あの、団長は間違っていないけど、今だけでも、シオンに優しくしたほうが……」
 エンディは背を向けたままだった。
「このままじゃ、今日の舞台も難しいかもしれないし……」
 歯切れの悪いアミネスの言葉は、エンディの耳に届いていないようだった。エンディは何も言わず、ゆっくりと建物の中へ消えていった。


 シオンは自分の部屋へ駆け込み、ベッドにつっぷして鳴き声を上げた。
 森から拝借してきた太い止まり木がタンスの上にあり、そこで眠っていたニルが目を覚ます。シオンの頭の横へ降り立ち、慰めるように近寄ってきた。
 シオンは涙で塗れた目をニルに向け、何度も鼻をすする。
(……やっぱり、もうムリかもしれない)
 昨夜のことだった。また噂好きな団員が品のない話を始めていた。
 三人ほどで新聞を囲っており、そこにはラストルがシールへ向かったことで、シールは盛大な祭り状態になるという記事があったのだ。
「さすが金持ちは違うわね」
「事件の解決のためだったんじゃないの?」
「理由は何でもいいのよ。ああいう人たちは騒ぎたいだけなのよ」
 違う、と、シオンは聞き耳を立てながら思った。
「さぞ豪勢なお持て成しを受けるんでしょうね」
「毎日がお祭り状態なのに、王子さまってほんと気楽でいいわね」
「ま、なんだかんだ言っても、私たちみたいなのがそのお祭りを盛り上げるんだけどね」
 そう言って、大きな声で笑い合っていた。
「美酒に美女、美しいものに囲まれて、さぞかし素敵な旅になることでしょう」
 ――違う。
 シオンは唇を噛んだ。
 ――事件を解決して、実績を積んで私を向かえに来てくれるの……そう、言ってくれたもの。
 そう自分に言い聞かせながら、シオンは不安に包まれていた。
 ――私を騙したって何もいいことなんかないもの。体を求められているなら、遊びかもしれないけど、彼は違う。私の心を見て、求めているの。だから、信じてあげなくちゃ。
「もしかして、王子さまってば向こうでいい人を見つけて帰ってこなかったりして」
 心無い言葉は、シオンの胸を切り裂いていた。
「それはないんじゃない? よくて妾っていうか、地方妻がいところじゃない? まあ、既にいる何人かが増えるだけでしょうけどね」
 それ以上は聞いていられず、シオンはそっと室を後にした。


 部屋で一人、シオンは苦しんでいた。
 ラストルのことは信じたいが、疑問に思うことはある。新聞にあったとおり、なぜまるで祭りのような状態で出迎えられようとしているのか――本当に、魔女の事件を解決することが目的なのだろうか。
 シオンは悪い想像を振り払うため、目を強く閉じた。
 何も分からないのに勝手に疑ってはいけない。だけど――。
 シオンの中の葛藤は激しさを増すばかりだった。
 練習で剣を落としたのも、それが原因に他ならなかった。そうして傷ついた自分の体を見て、シオンは更に立ち竦んだのだった。
 そこに追い討ちをかけるようなエンディの叱咤。もう、シオンの心の箍は耐えることができなかった。
 シオンは部屋のドアに鍵をかけ、手の血を拭いて包帯を巻いた。もう冷静になることをやめ、すぐに大きな鞄を取り出して荷物を詰め込む。
(行こう。ラストルのところへ。話なんかできないかもしれないけど、一体何が起こっているのかだけでも知りたい)
 バタバタとマントを被るシオンに驚いたかのように、ニルが飛び立って止まり木に移動していた。
「ニル。あなたも一緒よ」
 机の上にあった鳥かごを掴み、入り口を開けてニルを呼んだ。ニルは首を傾げたあと、素直にカゴの中に入っていく。
 シオンは窓を開けて外の様子を伺った。シオンの部屋は三階の角で庭と反対側にあり、目の前は森が広がっている。今人の姿はないが、時折森の向こうに警備兵がやってくる。もうしばらくしたら巡回の時間のはず。その直後がチャンスだと思い、一度窓を閉めた。その間にと、シオンはマントを被ったままベッドのシーツを引き裂き、繋ぎ始めた。
 そのとき、ドアがノックされた。
「シオン、大丈夫?」
 キリスの声だった。シオンの手が止まる。
「……だ、大丈夫よ。傷も大したことないわ。一人になりたいの」
「ほんとに? 傷を見せて。ここを開けてくれない?」
 シオンの目に、再び涙が込み上げてきた。
「……休んだら、お母さんのところに行くから、今は一人にして」
 キリスはしばらく黙っていたが、まだドアの向こうにいるのが分かる。シオンは涙を落としながら、ゆっくりシーツを結び始めた。
「……シオン、お父さんを許してあげて。お父さんは、あなたのお母さんを怪我で亡くしてしまったの。だから、怖いのよ。びっくりして、つい感情的になってしまっただけなの」
 シオンは嗚咽を押し殺し、腰にいつもつけている母の形見の短剣に手をかけた。
「お父さんはいつも私に言うの。俺が厳しくするから、お前は優しくしてやって欲しい、って。いつもあなたのことを心配しているの。決してあなたを芸の人形だとか、そんなことを思ったことはないわ。悩むこともある、傷つくこともある。だからこそ心配しているの」
 分かっている。シオンは何度も心の中で繰り返した。
 だけど、ドアは開けなかった。
「……ねえ、シオン。お父さんを許してあげて。アミネスも、みんな心配してる。誰もあなたを責めないから、お願い、顔を見せて」
 ――ごめんなさい。
 シオンは涙を拭ってニルを見つめた。
 ――これが最初で最後だから、我侭を許して。
 キリスはしばらく待っていたが、シオンから返事はなかった。
「シオン……?」
 ドアの向こうの室内の窓は開き、そこから垂れたシーツが風に揺れている。部屋の中はシオンも、ニルの姿もなく、既にもぬけの殻となっていた。


   

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