SHANTiROSE

HOLY MAZE-27






 ウェンドーラの屋敷の地下深くで、一人の老人が祈るように目を閉じていた。
 ――やはり、何も見えない。
 老人、サンディルは瞼を持ち上げ、室内の中央にある台座に歩み寄った。
 サンディルが白いローブの袖を揺らして台座の上に腕をかざすと、まるで粉が舞うように淡い光が零れ、台の上にあるものをうっすらと照らし出した。だが、その光は弱い。
 台の上のそれの呼吸に触れた光の粉が、弾かれながら消えていく。弱い明かりでも確かに分かった。
 そこにあったのは人の顔だった。黒いマントで包まれた一人の男が台座の上に横たわっていたのだった。
 彼は胸の上で両手を組み、安らかに見える寝顔は目を閉じたままで、その奥から青い輝きを見せることはなかった。
 サンディルは悲しみの灯った細い瞳で彼を見つめ、問いかけた。
 ――未来が見えない。なぜ、闇に閉ざされている?
 まさか、これは「なくなってしまう」という暗示なのでは、という言葉を否定し、飲み込んだ。
 彼は答えてくれない。
 サンディルは、自分が動き、彼が眠ったままでいることに罪悪感さえ抱く。
(……人の命の重さは平等。なのに、なぜ儂の命で代えることができない?)
 ――なぜ目を覚まさない?
(お前の大切な人が泣いているというのに……小さな体で、戦っているというのに……)
 ――お前は、ここにはいないのか?

 本当に、死んでしまったのか?

 ティシラとマルシオが、過去の傷を抱きながらも元気に人間界で過ごしていることが、サンディルに希望を与えていた。なぜなら、あの二人は彼がいなければここに居ることができないからだ。だから、彼が戻ってきて再び二人を導くのだと信じることができた。
 しかし深く眠ったままの彼を見ていると、その希望が薄れてしまうのだった。
(なぜじゃ……あの二人は一時的に生き延びただけなのか? このまま、最後は別々の世界に往くしか道はないのか? お前が戻ってこなければ、あの二人はここに居ることはできない。分かっているだろう。なのに、戻ってこないということは、誰も、救われない……それが答えなのか?)
 ――それが、お前の力の限界なのか? 天使と悪魔、たった二人を守ることもできないのか?

 いいや、違うとサンディルは首を横に振る。
 彼の魔法はまだ終わってなどいない。
 そして自分も、まだできることがある。
 祈ることだ。奇跡を信じて。

 サンディルは愛しい我が子を見つめ、気が遠くなりそうなほど、見えないものに祈りを捧げ続けた。
 捧げても捧げても彼は目を覚まさなかった。そのうちに、捧げるものがどこにあるのか分からなくなり始めていた。

(……神は)

 ――神は、一体どこにいる?


*****



 陽が完全に昇りきる前に、ティオ・シールの城門前でラッパが吹き鳴らされた。目の覚めるような大きな音に、作業していた者は手を止め、家屋に居た者は顔を出す。
 何の合図か、誰もがすぐに分かった。ティオ・メイの王子、ラストルを出迎える音だったのだ。
 予定より少し遅れての到着だったが、事前に用意されていたものが次々に外へ運び出されている。シールの入り口にある巨大なアーチ周辺には花を持った娘たちが集まり、国を横断する大通りには通行を規制するための大勢の兵士が正装して立ち並んでいった。城門内には音楽隊が楽器の準備を始めている。
 しかし、人々が待つ時間はまだ、すぐには終わらなかった。ラストルの乗る馬車がアーチを潜るまで、更に数時間を要したからだった。
 すっかり待ちくたびれた町の人々は、暇な者や熱心な者を残してそれぞれ自分の生活に戻っていた。
 だが陽が落ちる前に、再びラッパが吹き乱れた。
 今度こそと、先ほどまでの気だるさを忘れて人々は大通りに再び集まった。
 アーチに並んだ娘たちが篭の花を空に巻いた。それを、勢いよく大きな馬車が潜った。
 同時、町中が、国中が沸いた。そこに渦巻いたものは歓迎であったり、期待であったり、または呆れであったりと様々だった。確かなのは、ティオ・メイの王子ラストルに注目が集まったことだった。
 ラストルを乗せた馬車は警備兵の作った広い道をまっすぐに駆け抜けていく。人々は一目だけでも王子の姿を見たく目を凝らしていたが、馬車の中はカーテンで閉じられており、影さえ映ることはなかった。


「到着いたしました」
 向かいに座る従者ドゥーリオが呟くと、ラストルは静かに目を開けた。
「……騒がしいな」ラストルには人々の声が騒音にしか聞こえなかった。「シールとはいつもこう落ち着きがないものなのか」
 ドゥーリオは困りながら、彼の機嫌を損ねぬように微笑む。
「あなた様を歓迎する声でございますよ。皆、ラストル様を待っていたのです」
「下々が騒いだところで何が変わるわけでもないのに、ご苦労なことだ」
 ラストルはいつもこうだった。昔から、そして、ここに来るまでの間もずっと。ドゥーリオは揺れるカーテンの隙間から外を覗き。
「皆、あなた様のお顔を拝見したがっております。いかがいたしますか?」
「……私の顔を?」口の端を上げ。「顔を見て、一体誰が、何の得をすると言うのだ」
「…………」
 ラストルには人の気持ちなど分からない。分かってもらう方法はないものかと考えていたことはあったが、今は無理だと判断して、ドゥーリオ何も言わなくなった。


 ラストルが一度も顔を見せぬまま、馬車は城内へ消えていった。
 当然その彼の態度に不満を抱く者は少なくなかった。文句を垂れる人々は、近くにいた警備兵に「長旅でお疲れなのだ。明日を待て」と宥められていた。
 その騒ぎを特別な思いで見守る者もいた。
 マルシオだ。宿泊している宿の窓から大通りが見える。ラストルが乗る馬車の通過を、息を飲んで見送った。
 汗を流して俯く彼の背後で、呑気に紅茶を口に運んでいたロアが声をかける。
「まずはティシラとの接触を待ちましょう」
「ティシラと連絡は取れるのか?」
「水晶は渡してあります。ただ、向こうからの連絡待ちではありますが」
 こちらから魔力を発してしまうと、もし近くに魔力に敏感な者がいれば怪しまれてしまう。だから二人はティシラの都合のいいときに話しかけてくるのを待つしかなかった。
「早くて今日の夜。つまり、少なくとも明日までは動きはないでしょう。それまで、少し町の様子を見ておきましょうか」
「うん……」
 マルシオは通りの先にある城の屋根を見つめたまま、心ここにあらずといった返事を返した。


*****



 とうとう、魔女の終わりが始まった。

 町の人々はそう噂を始めていた。
 ティオ・メイの王子が来た。どんな人なのか。彼はこの国に貢献してくれるのか。
 魔女はどうなる? 悪は滅ぶのか?
 そうなったとき、手柄は一体誰の手に?
 町中がそういった話題で持ちきりだった。何がめでたいのかは分からないが、この騒ぎに便乗した店が「ティオ・メイ王子来訪記念」と称して安売りや記念品の販売など始めている。
 そんな中、馬車の通り過ぎた道を見つめて立ち尽くしていた旅人がいた。
 三人はとても浮かれているようには見えない。布のかかった鳥かごを提げた女性、踊り子のシオンはフードの下で遠くを見つめていた。
 彼女の気持ちを知りつつも、隣にいたフィズが眉を吊り上げる。
「何よ。これだけの人が歓迎してるのに、ちらりとも顔を見せないなんて。王子さまってそんなに偉いの?」
 どちらかというとフィズに同意のアミネスはため息を漏らす。
「そうだな……」
 思いつめた様子のシオンの背中を見ていると、それ以上ラストルを悪く言うことができない。
 気を遣うアミネスの視線を感じ、シオンは無理に笑顔を作った。
「わ、私は大丈夫よ。彼がそこにいるって思ったら、それだけでも嬉しくなれたから」
 シオンは元気を装っているつもりだったが、アミネスには痛い言葉だった。アミネスも笑ってみたが、引きつったそれは、幼いフィズに哀れに思われていた。
「……でも、どうするんだ? 城になんか簡単に入れるわけじゃないし」
「うん……とりあえず、城の近くに居たい。一般人でも入れる場所があるかもしれないし、明日にでも彼が人前に出てくるかもしれない。姿だけでも見たいわ。元気かどうか、心配だし」
 シオンは何も知らずにアミネスの心をグサグサと傷つけていた。今まで何も努力してこなかったアミネスは、自業自得だと重く受け取り、甘んじて涙を隠す。
 片思いは辛い。そう、しみじみ感じていた。


 ラストルの馬車が城門を潜ると、ラッパと共に大音量で音楽が演奏された。ラストルは耳を痛め、微かに眉を寄せる。ドゥーリオがつい慌てて腰を浮かせたとき、ラストルは自分からカーテンを引き開けた。
 そこは色鮮やかな花で埋め尽くされた広場だった。音楽隊が楽器を弾き鳴らし、武装した兵士たちが剣を天に捧げている。
 見事なものだった。しかし、ラストルは感動一つせず、更に気分を悪くした。
「何だこれは……」
「ラ、ラストル様、これはすべてあなた様のために……」
「下らん。こんなバカげたこと、止めさせろ」
「……それは」ドゥーリオは腰を下ろし。「申し訳ございません。ここは、ティオ・シールでございます。どうか、ご辛抱くださいませ」
 ラストルは舌を打ち、乱暴にカーテンを閉じる。
「カーグめ……悪趣味な男だな」
 憎しみの篭ったその呟きが外に漏れたら一大事である。ドゥーリオは冷や汗を流して再度カーテンの隙間を覗いた。
 そのとき、馬車が足を止めた。周囲の音楽も緩やかなものに変わる。どうやらやっと馬車から解放されるようだ。
 外から「失礼します」と声がかけられ、ドアが開けられた。するとまたわっと歓声が上がり、ラストルを苛立たせた。傍でハラハラするドゥーリオの心配を他所に、ラストルは平静を装って腰を上げた。陽の光を浴びた途端、ラストルは「王子」の顔を造る。
 ラストルを最初に出迎えたのは、正装した美しい女性だった。目を伏せ、片手を差し出していたが、ラストルはそれに目も向けずに一人で馬車を降りた。
 溜まった疲労も見せず、ラストルは凛々しく姿勢を正してシールの地に足を下ろす。
 目の前に、カーグが左の胸に右手をあてて立っていた。背後に女王や従者たちが厳かに目を伏せて並んでいる。
「ようこそ」カーグは手を下ろし、ラストルに一歩近付いた。「ティオ・シールへ。ラストル王子」
 微笑むカーグに対し、ラストルは無表情のままで一礼した。
「ティオ・シール国王陛下自らのお出迎え、恐悦至極に存じます」
「未来のティオ・メイ国王陛下のお越しなのですから、このくらいのもてなしは当然ですよ」
「それはまた……お気がお早い……」
 どちらも本心ではない。お互いに承知の上で、堅い握手を交わした。


 城内へ案内されたラストルは、王室で改めてカーグと挨拶を交わした。他愛のない会話だった。二人の間にある厚く重苦しい壁を、目に見えそうなほど感じながらもそれを面に出すことはなかった。
「ラストル王子、お疲れでしょう。まずはあなたの為に用意した部屋でご休憩ください。その後、ゆっくり食事でもいかがでしょう」
 カーグに言われて断ることはできない。ここは敵の腹の中なのだ。ラストルはそのことを重々肝に銘じている。
「お気遣い、感謝いたします」
 カーグはラストルを部屋へ案内するように従者に命じた。
 ラストルの連れはドゥーリオと、少しの家来だけだった。武器はそれぞれが常備している剣のみ。戦争をしに来たのではない。身軽なことは気に留めていなかった。

 ラストルが案内されたのは南向きの広く美しい部屋だった。そこに生活観はなく、特別な来客のみに与えられる客室である。ドゥーリオが出来る限りで調べたところ、妙な仕掛けも嫌がらせらしきものも何も見当たらなかった。
 部屋の位置も長い廊下の先にあり、干渉されることのない静かな場所だった。それに、ドゥーリオも他の手下の分の部屋も別々に用意してある。ゆっくりと休むことはできるようだ。
 現時点では警戒していた不安は感じられない。
「思ったよりも、安全そうじゃないか」
 ラストルは窓に立ち、荷物を整理するドゥーリオに呟いた。
「カーグ陛下は賢い方です。幼稚な意地悪をするほど愚かではありません」
 ドゥーリオはカーグを王として認めつつ、信用してはいけないと警告していた。ラストルは暮れる空を見つめ、ふっと笑った。
「罠はこれからということだな。心配するな。この国を出るまで隙を見せるつもりはない」
 声を出さずに深く頷くドゥーリオに背を向けたまま、ラストルは詰襟に手をかけて首元を緩める。

 舞台と役者が揃った。まだ、始まったばかり。

 そして、夜が訪れる。





   

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