SHANTiROSEHOLY MAZE-30室内に窓も時計もなく、当然、今が時間なのかも分からない。 外からの音も聞こえない。ティシラは言いようのない孤独と屈辱に耐え続けた。 何度トイレから飛び出してラストルを殴り倒そうと思ったか分からない。いっそ、ボコボコにしてシールの城から連れ出してしまおうかとまで考えた。 衝動が襲うたび、リジーのことを思い出し、必死で悲しい感情を起こして沈めていた。 楽しいことは一つもなかった。怒りと悲しみだけを繰り返しているうちに、長い時間が過ぎていった。 ドアが開いた。 ティシラは極限まで憂鬱になっており、空気が解放されたことを喜べなかった。 室内の隅で膝を抱えたまま虚ろな瞳を上げると、ラストルが立っていた。少々驚いた顔をしている。 「……まだいたのか」 その言葉に、ティシラは胸焼けを起こす。しかし心身ともに凝り固まっていたせいですぐには返事ができなかった。 「夜中のうちにコソコソと出て行くものだと思ってたが……」ふん、と鼻で笑い。「こんなところで眠れるとは、貴様にプライドはないのか」 ティシラは喉の奥から唸り声を漏らし、固まった体に痛みを感じながら立ち上がった。 「……寝てないわよ。誰が、こんなところで眠るものですか」 「ふうん。なら、一晩中、何をしていた?」 「あんたをどうやって切り刻んで苦しめてやろうか、ずっと考えてたのよ」 まだ強がる気力があるのかとラストルは感心しつつ、ドアを開けたまま背を向けた。 「で、その方法は見つかったのか?」 ラストルはそう言いながらも、答えを聞くつもりはなかった。 ティシラもまともに受け答えをするつもりはない。とりあえずここから出ていいのだと判断し、足元をふらつかせながら彼の後を追った。 部屋のカーテンは開けられ、空はすっかり明るくなっていたが、やはり今日も曇っている。眩しい朝日が嫌いなティシラにはちょうどいい明るさだった。 ティシラは彼に恨みつらみをぶつけるより先に、手足を伸ばして休みたかった。目の前にある大きなベッドに倒れこみたかったが、ラストルがそれを許さない。 「さっさと出て行け」 「はあ?」 「私は身支度を済ませたら部屋を出る。当たり前のことだろう。私のいない部屋に貴様がいていいわけがない」 「わ、私は一晩中、苦痛に耐え抜いたのよ。話を聞いてくれるんじゃないの?」 ショックで肩を落とすティシラに、ラストルは素知らぬ顔で答える。 「貴様を試す、と言っただけだ」 「な、な……」 「私はここでは客人なのだ。遊びに来ているわけでもない。貴様の願いが適わぬのは努力が足りないということ。どうしてもと言うなら、また浅ましく娼婦の振りでもして私に近付けばいい」 腹が立つ、が、少しは自分の入る隙間ができたのだろうか。ティシラは彼の言葉の端々にそんなことを思う。 「……へえ。来ていいんだ」 声を落とすティシラに、ラストルは薄ら笑いを見せた。 「また同じような目に合う覚悟があるならな」 「…………!」 ティシラは途端に眉を吊り上げ、拳を握る。 ラストルは何も変わっていなかった。ただ、気に入らない女を虐めて楽しんでいるだけなのだ。 (なによ……誰も止めなかったら、こいつだって……いいえ、こいつこそ最悪の状況に陥るってのに) マルシオやルミオルがどう思っていようと、ティシラにはラストルを助けたいという気持ちは微塵もなかった。 しかし、カーグやアジェルの企みを阻止することは、ラストルを助けることに繋がる。せめてそれだけでも分かってくれれば、手を組むことくらいはできそうなのに。そう思うと、ティシラはもどかしくて仕方がなかった。 「……あんたには言葉じゃ通じないようね」 ティシラは怒りを堪えて俯いた。 「でもね、あんたがどれだけ最低の男でも、そんなのは関係ないの。私は私の目的があるの。そのためなら、どんな手段を使っても果たしてみせるわ」 「……つまり、まだ私の周りをうろつくというわけか」 「当たり前でしょ。脅しても無駄よ。決着がつくまで私は耐えてみせる。でもね、全部が終わったあと、どうなるかよく考えなさいよ。あんたが私を辱めれば辱めるほど、その分、私からの仕返しが待ってることを忘れるんじゃないわよ」 「ふん、脅しているのは貴様ではないか」 「脅しじゃないわ。報復が怖かったら、いっそのこと殺すくらいの覚悟を持ってやりなさい」 そのとき初めて、ラストルは睨み付けるティシラの赤い瞳に僅かな恐怖心を抱いた。確かに彼女には何かがある。そうでなければ「世界を救った」など、一国の国王が認めるわけがない。 嫉妬に似た感情が、ラストルの中に湧いた。所詮は女、所詮は身分も何もない小娘。こんな小物に、自分の領域に足を踏み入れて欲しくなかった。 ラストルはラストルで決心する。ティシラが纏わりついてくる限り、どんな手段を使っても挫折させてみせると。 しばらく睨み合ったあと、ティシラから目を伏せる。背を向けながら開けた瞳は翠に変化しており、そこに不思議な熱は篭っていなかった。 「じゃあね、また来るから」 ティシラはそう言い残し、部屋から出ていった。 部屋を出ると、左右に長い廊下が続いている。朝になったら黒服の従者が迎えに来てくれるようになっているが、どうやらまだ時間が早いらしく、周囲に人影はなかった。 と思ったが、離れたところにある太い柱の影からこちらを覗いている者がいた。ドゥーリオだった。ティシラに気づき、目を丸くしたあとに足音を潜めて駆け寄ってくる。 「あ、あの、すみません、少しお話を……」 ドゥーリオは二人のことが気になってろくに眠れず、何度も廊下を徘徊してはラストルの部屋の前の様子を見張っていたのだった。きっと数時間もすれば二人の話は終わってティシラは出てくる、そのときに捕まえようと思っていたのだが、結局朝まで彼女は出てこなかった。 一体朝まで何をしていたのか、ドゥーリオはどうしても知りたかった。 少々疲れた顔をしているティシラだったが、髪型も化粧も昨夜のままであり、怪我をしている様子もない。何も問題はなかったとドゥーリオは信じた。 「あんた誰?」 ティシラが尋ねると、ドゥーリオは額の汗を拭った。 「わ、私はラストル様の側近のドゥーリオでございます。あなたのことは、ティオ・メイの城で、存じております。あの、少しだけ、お話を聞かせていただきたいのですが」 「そうね……私も話したいことがあるわ」 ティシラはドゥーリオに案内され、二つ離れた彼の部屋へ移動した。ラストルに与えられたのそれより狭く感じるが、十分に立派な部屋である。 ティシラはどっと疲れが出て、遠慮なしにベッドに転がって手足を伸ばした。 「ああ、もう。酷い目に合ったわ」 ドゥーリオは彼女の顔色を伺いながら、手馴れた様子でお茶を入れて差し出した。ティシラはそれを受け取って一息つく。 「何なのよ、あいつ。あんたよくあんなのと一緒にいられるわね」 ドゥーリオはベッドの横にイスを運び、そこに腰を下ろした。 「……あの方に仕えられるのは、私しかいませんから」 「何それ。よっぽど高い給料もらってるの? お金に困ってるとか、弱味でも握られてるの?」 「いえ、そういうことではありません。私で、十三人目なんですよ。王子が幼い頃から傍にいた側近が罪に問われ、自害するという事件があり、すぐに新しい者が指名されましたが、誰もあの方に仕えることができなかったのです」 根を上げて自ら辞めた者はいなかった。いつもラストルが強制的に解雇していたのだ。 「その理由は、すぐに分かりました。簡単なことです。ラストル様のご意向に少しでも逆らい、その後に考えを改めない者は立場を追われる、ただそれだけのことなんです」 ドゥーリオはそのことを理解してから、ラストルに何も言わなくなった。何度も首を切られそうになったが、反省し、心を入れ替えることを伝えると許してくれる、そんなことをくり返してきたのだった。 朝から暗い雰囲気が漂う中、ティシラは深いため息を吐く。 「ラストルがどうしようもない最低野郎ってことくらいはよく分かったけど、私と話したかったことって、そういうこと?」 ドゥーリオははっと顔を上げた。余計なことを喋ってしまったと後悔するが、すぐに肩を落とした。 「いえ、失礼しました」大事なことを思い出し、もう一度顔を上げ。「あの、そうです。まず、昨夜は一晩、どのようにお過ごしなされたのでしょうか」 ドゥーリオの知りたいことは、ティシラには分かる。 「先に言っとくけど、何もなかったから」 「では、あなたは一晩……」 口にも出したくない出来事だったが、誰かに文句を言ういくらいしなければ気が治まらなかった。 「閉じ込められてたのよ、トイレに!」 ドゥーリオは体を揺らし、胸を痛めた。 ティシラの中に怒りが込み上がり、顔を赤くして牙をむき出す。 「ああ、思い出すだけで腹立たしい! 人の弱味に付け込んでやりたい放題。どんな育て方されたらあんな冷血漢になれるわけ? 別に何かよこせって言ってるわけじゃなくて、ただ話を聞けって言ってるだけなのに」 ドゥーリオが震える声で「申し訳ございません」と呟く。ティシラは彼のそんな気弱な態度に更に苛立った。 「なんであんたが謝るのよ。そうやってラストルの尻拭いばっかりしてるからあいつが調子に乗るんじゃない。悪いと思うならラストルに謝らせなさいよ。それが躾ってものでしょう?」 「……ラストル様をお守りすることが、私の仕事ですから」 ティシラは言いなりのドゥーリオも殴ってやりたくなった。 「ああ、もういいわよ。今は忘れるわ。後でまとめて仕返ししてやるだけよ」 「あ、あの」ドゥーリオは申し訳なさそうに。「謝罪は、いくらでもいたします。ですので、今は、少しお聞かせいただきたいことがあるのですが」 ティシラも我に返って、今の状況を思い出した。何のためにあの屈辱を我慢したのか、ドゥーリオに八つ当たりして終わる問題ではない。 「あなたは、一体なぜ娼婦のふりをしてここへいらっしゃったのでしょうか」 ティシラは途端に真剣な顔になる。 「そうよ。大事なことよ。私の仲間が悪い魔法使いに捕まってるの。シヴァリナっていう森の村人たちも人質にされてるの」 「……ど、どういうことでしょうか」 「魔女なんかいないわ。行方不明の女の人は魔法使いが殺したのよ」 ティシラは身を乗り出して、ドゥーリオに一通りを話した。ドゥーリオは瞬きをするのを忘れるほど彼女の話に聞き入っており、信じられないような表情で汗を流していた。 「ねえ、協力して。この国の王様はラストルを騙して無罪の人を殺させようとしてるの。このままじゃ私の仲間も村人も犠牲になるし、ラストルは罪人になるし、本当の悪い奴がのさばることになるのよ」 ドゥーリオは膝の上で拳を握る。何かあるとは思っていたが、まさかそこまで用意周到で待ち構えられているとは考えられなかった。震える手で頭を抱える。 「さっき言ったでしょ? ラストルを守るのが仕事だって。私は仲間を守る。だからあんたはラストルを守りなさいよ」 ドゥーリオは逃げるように堅く目を閉じる。その様子に、ティシラはかっとなって怒鳴りつけそうになったが、ぐっと堪えた。 「……わ、私に、何ができますでしょうか」 「ラストルを説得して。あいつ、私のことが嫌いだから全然聞いてくれないの。せめて、今だけでも私を信じるように説得して。それだけでいいわ」 「私は、ラストル様に口利きができるような立場では……」 「じゃあ、あんたはラストルがこのまま破滅するのを黙ってみてるの?」 ドゥーリオは首を横に振ったが、返事はしなかった。ティシラの苛立ちは募っていく。 無言の圧力かけながらもしばらく待ってみたが、やはりドゥーリオは黙ったままだった。 「ああ、もういいわよ。あんたみたいな無能を側近にしたのもラストルが悪いのよ。知らない。あんたには何も期待しないわ」 ドゥーリオは申し訳なさそうに目を伏せた。 「……私からああしろこうしろと言えば、この場で解雇されることもあり得ます。そんなことになれば、ラストル様は完全に一人となり、この敵地に取り残されてしまいます」 そんなバカなことがあるわけがないと言いたいが、ラストルに限ってはなんの違和感もなかった。ティシラは呆れて大きなため息を吐き出す。 「ほんと、どうしようもない奴ね、ラストルって」 このままドゥーリオと問答していても仕方がないし、時間も少ない。ドゥーリオがなぜここまでラストルを気遣っているのかは知らないが、彼を大切に思っていることは確かである。ということは、役に立たなくても一応は味方と思っていいだろう。ティシラはそう思うことにした。 「分かった。じゃあ、協力して」 ドゥーリオはやっと顔を上げる。 「私をラストルと仲がいいことにして欲しいの」 「それは……?」 「昨日私が言ったように、私とラストルは久し振りに再会したってことにするの」 上流階級の娘だった「シェリア」は幼い頃にラストルと会ったことがあった。シェリアは落ちぶれて離れ離れになったが、シェリアはラストルが忘れられず、娼婦となって会いに来た――それがティシラの提案したシナリオだった。 「ラストルもシェリアに好意を抱いて、二人は好き合ってる、っていうことで、どこだかに必要なところがあればそう報告しといて。それと、これからシールの人の前でもそうやって事を運んで」 「……し、しかし」ドゥーリオは言い難そうに。「あ、あなたは、その、立場としては娼婦ですから、ラストル様とは……」 釣り合わない、と言いたいことをティシラは察知する。 「大丈夫よ」少々機嫌を悪くしつつ。「私は処女ってことになってるし、何も結婚するわけじゃないんだから。それに、ラストルもまた来ていいって言ってたわ」 「え……本当ですか?」 「他の娼婦を押し付けられるよりマシだと思ったんじゃないの。それに、私が来たらまた酷いことをするつもりみたいだけど……私はそんなことで引き下がるわけにはいかないのよ。夜以外でも、機会があればしゃしゃり出て、出来るだけラストルの周りをうろついてやるわ。そして何かおかしいことがあれば警告して、なんとか私の話を信じさせる。強引でも何でも、やるしかないのよ。そのためには、私がラストルの近くにいれる状況を作って、周囲には『ただの浮かれた娼婦』と思わせておく必要があるの」 ティシラは疲れを忘れて気合を入れる。その様子を、ドゥーリオは困惑した様子で見つめた。 「……あの、それはつまり」僅かに、頬を緩め。「あなたが、ラストル様をお守りしてくださると、そういうこと、でしょうか」 ティシラは一瞬、意味が分からずに目を丸くした。嫌な気持ちになりながらも、その言葉の意味を考える。すると、見方によってはそうなるかもしれないことに気づく。 「……そう思うなら、勝手に思ってればいいわよ」 先は見えないが、心強さを感じたドゥーリオは、肩の荷が少し軽くなった気がした。そんな彼に、ティシラは人差し指を突きつける。 「でもね、私にとってラストルは敵なの。どんな結果になろうと、ラストルにやられた分は必ずやり返すから。それを邪魔するならあんたも敵だからね。よく覚えときなさい」 ドゥーリオは息を飲みながら小さく頷いた。 Copyright RoicoeuR. 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