SHANTiROSE

HOLY MAZE-29






 ドゥーリオの足音が遠ざかったところで、ラストルはティシラから目を逸らして再びソファに腰を下ろした。意外にあっさりと接近できたものだと思いなら、ティシラは目を細める。
「どうしたの? 素直じゃない」
「余計なことは喋るな」ラストルは早口で。「貴様のような下品な女と同じ部屋の空気を吸っているだけで気分が悪いのだ。早く用件を言え」
 ティシラはむっとして口を曲げる。大股でラストルに近寄り、嫌がらせのように隣に腰掛けた。今度はラストルが不快感を丸出しにする。だが、挑発に乗るかのようにその場から動かなかった。
 ティシラとて遊びに来たわけではない。時間が惜しい。
「じゃあ結論から言うわね。魔女の事件のこと、私の言うとおりにして欲しいの」
 直球を投げてきたティシラに、ラストルは少々驚き、反射的に顔を向けた。
「あんたは騙されてるの。ううん、これから騙されるのよ」
「……何を言い出すかと思えば」
「本当よ。私は捕まってる人から本当のことを聞いたんだから」
「誰に、何を聞いたと言うのだ」
「行方不明になってる女の人はもう殺されてる。しかも、人間に。それを魔女のせいにして騒ぎを大きくして、あんたに罪を擦り付けようとしてるの」
 ラストルは最後まで聞かず、無視するように腰を上げた。
「待ちなさいよ」
「バカバカしい。父上に言われて連れ戻しに来たのか? こんな下らないことで……」
「違うわよ。トールは何も知らない。私の意志で来たの。私の仲間が捕まってるの。助けたいの」
 ラストルの鋭い瞳から熱は消え、氷のように冷たいものへと変わっていた。
「なら、言わせてもらうが、私も目的があって自分の意志でここへ来た。貴様も助けたい者がいるなら自分で助ければいいだけのことだろう」
「そ、そうじゃないのよ。人質がいるの。だから……」
「とにかく」ラストルは再び剣を掴み。「話は終わりだ。出て行け」
 ティシラは汗を流す。やはり、簡単に話が通じる相手ではないようだ。
「私が何もできないとでも思っているのか。貴様は侵入者だ。理由はいくらでもある……それとも、貴様は本当に下衆な売女だったのか?」
「な、なんですって」
 ラストルはいやらしい笑みを浮かべる。
「ああ、そうか。そうやって父上をたぶらかしていたというわけか。どうりで、貴様なんぞに目をかけられるわけだ」
 ティシラは目を吊り上げて足ち上がった。
「ふざけんじゃないわよ! あんた、よく自分の父親をそんなふうに言えるものね。どこまで腐ってるのよ」
 憤るティシラの鼻先に、ラストルは剣を向けて黙らせる。
「何が、『世界を救った勇者』だ……自分の仲間も助けられずに、男に体を売って利用しているだけではないか。貴様の本性は、所詮そんなものなのだ」
 ティシラは拳を握り、振るわせた。
(こいつ、本っ当に、最低だわ……!)
 心の中で激しく憎悪の念を募らせた、そのとき、ティシラの脳裏に傷ついたリジーの姿が映し出された。
 彼女の苦しみは、ティシラが受けている屈辱とは比べものにならない。逃げることも、死ぬことも許されず、ただ暗闇に閉じ込められて暴力を受けているリジーの苦痛は、今も続いているのだ。
 助けなければ。自分にできる限りのことはしなければいけない。
 ティシラは必死で心を静め、胃に穴が空く覚悟で顔を上げた。
「……そうね。あんたなんかに、すぐに分かってもらえるとは思ってないわ。だからこうして、手間をかけてここに来たんだもの」
 ティシラの様子が変わったことに気づき、ラストルは再度耳を傾けた。
「取り引きしましょうって言ったわよね」
 表情を消すラストルの代わりに、今度はティシラがにっと笑い。
「あんた、女嫌いなんですってね」
「ふん……またそのことか」ラストルはうんざりした様子で。「まったく、どいつもこいつも……下品なことで頭が一杯なのだな」
 もっと過剰に反応するかと思ったが、もう聞き飽きたという態度だった。ティシラはつまらなそうに声を落とす。
「私は別に、あんたにどんな趣味があろうと興味ないわ。そこを探るつもりはない。私はあんたにちゃんと話を聞いてもらって、理解してもらって、悪党どもの思い通りにさせたくないだけなの。私が自分の目的を果たすその代わりに、あんたは私を利用すればいいんじゃないかしら?」
 ラストルは表情を変えず、脅すように剣を僅かに揺らした。
「……利用だと? 貴様に、一体なんの利用価値がある?」
「女除けよ」ティシラは剣の切っ先に怯まず、胸を張る。「ここにいる間、私を縁のある恋人として傍に置いておくの。そうすれば、娼婦を毎夜送られてくることもないでしょう? それに、変な噂も払拭できるし、あんたの隙が一つなくなる。どう? 悪い話じゃないと思うけど?」
 自信ありげに提案するティシラを、ラストルは睨み続けていた。悩んでいるのか、迷っているのか。ティシラは息を飲む。
(……そうだわ)
 待つ間もなく、ティシラは自分の置かれている状況に、今更ながら危機感を抱いた。
(ここで追い出されたら後がないのよ。もしラストルが周囲に本当のことを隠してくれたとしても、娼婦としては失格の烙印を押され、二度とチャンスはなくなる……!)
 せっかくここまで来たのに、部屋に入れただけで何の収穫もないまま追い出されるなんて許されない。焦りを隠し、ティシラは急いで続けた。
「あ、あんただって分かってるんじゃないの? 怪しいんでしょ? ここはメイの敵国で、一人で来いなんて……罠があることくらい予想してるんじゃないの?」
 ラストルの腕がピクリと動いた。ティシラは手応えを感じる。
「でも、どんな罠があるか、知らないんでしょ? 私は知ってるわ。教えてあげるって言ってるのに、聞きたくないの?」
「…………」
「ここにはあんたの家族も仲間もいないのよ。もしあいつらの思い通りになったら、あんたは立場を失い、人質にされてる無罪の人たちも殺されてしまうの。あんたは、そんなことをしにここに来てるの? それでいいの?」
 ティシラはつい必死になってしまっており、その態度が、ラストルに「自分のほうが立場が上」だと気づかせてしまっていた。ラストルは心の中で笑う。
 ティシラがもっと押さなければと口を開こうとしたとき、ラストルは剣を下げた。
 ティシラは我に返り、もしかして、信じてくれたのだろうかなどと甘いことを考え、肩を落としてラストルを見つめた。
 ラストルもティシラから目を離さず、ふっと微笑を浮かべた。
 ティシラの体が固まった。ラストルの表情が、決して優しいものではなかったからだ。
「興味深い話だ……問題は、貴様が信用するに値しない存在、ということだな」
 確かにと、ティシラも思う。そういえば、メイの城で唯一顔を合わせたときは、挨拶もなしに毒を吐いただけである。そんな相手をいきなり信じろと言われても、ティシラだって無理だろう。
 ティシラはいろいろと後悔しながら、更なる説得の言葉を考えた。
 しかし、それを思いつく前に、ラストルから口を開いた。
「裸になれ」
 ティシラは一瞬、耳を疑い、頭が真っ白になった。
「……はあ?」
「貴様は娼婦としてここへ来たのだろう?」
 突然、何を言い出すのだろう。
 ティシラが理解できず呆然としていると、ラストルは剣を手放し、彼女の肩を乱暴に掴んでソファに押し倒した。
「……な、な、なにするのよ!」
 まったくの想定外の展開に、ティシラは混乱しながら暴れる。だがラストルは止めずに馬乗りになってきた。
 ティシラは指が痛くなった、ような気がした。まだ痛くなっていなかったかもしれないが、既にあの激痛と恐怖が刷り込まれてしまっており、本当に魔法が発動したのかしていないのかを判断できなかった。
 いずれにしても、このままではあの痛みを避けられないことは、頭で分かっている。
 何よりも、ラストルの行動の意味が分からない。
 突然のことに、ティシラは悲鳴を上げた。腕を振り払い、ソファから転げ落ちる。這いながらテーブルの影に逃げ隠れた。
「何なのよ!」顔を真っ赤にし、高い声で喚いた。「あんた、女嫌いじゃなかったの? 一体何がしたいのよ!」
 ラストルはふんと鼻を鳴らしてソファにふんぞり返った。
「どうせ、城での噂を真に受けて、私が何もしないと思って高を括って来たのだろう」
 そのとおりだった。ティシラは気まずそうに唇を噛む。
「バカが。娼婦に成りすまし、男の部屋に乗り込むことがどういうことか、常識で考えたことはないのか」
「……な、何よ。女が嫌いで、いつも追い払ってるんでしょ? そのせいで、あんたは変態だの病気だのって陰口叩かれてるくせに。なのに……全部、う、嘘だったの?」
「嘘ではない。だが、女を嫌いだとも、抱けないとも、誰も言ってない」
「は、はあ? 何よ、何なのよ……あんた、頭おかしいんじゃないの!」
「優秀な血を残す能力も王の条件だ。この私の生殖機能が欠如しているわけがないだろう。下らん噂を鵜呑みにして舐めてかかった貴様が愚かなのだ」
「そ、そんな……」
 ティシラは漠然と「騙された」と思い、体を震わせた。指輪さえなければ、こんな奴……と牙を剥くと、ラストルは片手を口に当てて含み笑いを零した。
「しかし、あれだけ生意気な口を利いていたわりに、少し手を出されただけで顔を真っ赤にして逃げ回るとはな……可愛いところもあるじゃないか」
 ティシラは更に、湯気が出そうなほど顔を紅潮させた。
「滑稽な姿だ。さっきの発言は取り消してやろう。貴様ごとき無能なガキが、男を利用できるわけがない。父上とは、ただのお友達で間違いないようだ」
 悔しい。許せない。
(こんな奴に……魔界の姫であり、魔女である私が……人間なんかに、見下されるなんて!)
 指輪さえなければ――ティシラはそう心の中で何度も繰り返し、目に涙を浮かべた。
「自分の軽率さを思い知ったのなら去れ。そして二度と私に無礼を働くな。そうすれば咎めなしで許してやろう」
 このままでは追い出される。ティシラは涙を堪えて踏みとどまった。
「……ダメよ。それはできないわ。仲間が苦しんでるの」
 ラストルは涙目のティシラに同情心など欠片も持たず、早足で彼女に歩み寄った。
「来い」
 ティシラの腕を掴み、テーブルの影から引きずり出す。
「いや、何するのよ! 離しなさい!」
 まだ続ける気なのかとティシラは暴れたが、ラストルはまた思いも寄らない行動に出た。
 ティシラの腕を強く掴んだまま部屋の隅まで行き、添え付けのトイレのドアを開ける。そこに、ティシラを放り込んだ。
「そこまで言うなら、貴様がどれだけ真剣か、試す機会を与えてやろう。今日はそこで寝ろ。朝まで出てくるな。いいな。ドアを開けることも許さん。私の命令に背けば、即刻叩き出してやるからな」
「な、何言ってるの。何のために、そんなこと……」
「娼婦など、ただの奴隷。男の言いなりになるのが仕事だ。そうだろう?」
「そ、そうだけど……待ってよ、私は、そんなつもりは……」
「黙れ。私の情婦になることがどういうことか、体で教えてやる」
 ティシラは混乱して、体の力が抜けてしまう。
「私と同じ部屋で一夜を過ごせることを光栄に思うがいい」
 ラストルはそう言い捨て、強くドアを叩き閉めた。
 トイレの中に閉じ込められたティシラは、怒りやら恥辱やらで頭が一杯になって、勢いでドアノブを掴んだ。回してみると鍵がかかっていないことが分かる――が、ティシラは手を止めた。
 ここでドアを開けてしまったら、絶対に部屋から追い出される。そしてラストルは二度とティシラの話など聞いてくれないだろう。
 しかしこんな扱いを我慢する必要があるのだろうか。今回は失敗しても、また他の手段を考えてもいいかもしれない。
 ティシラは額に汗を流し、激しい葛藤に苛まれた。ノブを掴む手が震える。
 気味が悪いほど静かで冷たい空間を、ゆっくりと見回した。大理石で囲まれた広く綺麗な空間とはいえ、所詮は「便所」。
 こんなところに、命令されて、一人で、一晩過ごせとは……これほどの屈辱がどこにあるだろうか。
「……し、信じられない」
 あまりの悔しさに、涙が込み上げてくる。現実を受け入れたくなく強く目を閉じると、涙が零れた。


*****



 深夜、ティシラを心配しながらも眠りについていたマルシオは目を覚ました。ロアが声をかけてきたからだった。
 小さな灯りを点け、テーブルの上に乗せられていた水晶の中央が弛んでいた。
「どうした?」マルシオは体を起こす。「もしかして、ティシラか?」
「はい」ロアはすぐに水晶に戻る。「そうなんですが、どうも様子がおかしくて」
 マルシオは急いでベッドから降りて水晶に顔を寄せた。
「ティシラ?」
 光の向こうに呼びかける。しかし、すぐには返事がなかった。耳を傾けると、何かが聞こえた。
 嗚咽だった。マルシオの胸が痛んだ。
「ティシラ、どうした。大丈夫か」
 ティシラから連絡してきたのだから話せる状態のはずなのに、泣いているだけで答えてくれない。
「どうしたんだ。ティシラ、何か言ってくれ」
 まさか、酷い目に合っているのでは……マルシオは今すぐティシラに戻ってこいと言いたかった。
『……い』
 やっと小さな声が聞こえた。マルシオは更に水晶に顔を寄せる。
『悔しい……あのクソ野郎……』
 たぶん、ラストルのことだろうと思う。
『百回くらい殴って……心臓を抉り出して、生き血を絞って、骨も残らないほどグチャグチャにしてやりたい……ちくしょう、ちくしょう……』
 彼が普通ではないことは知っているが、ティシラがここまで落ち込み、恨みを吐き出すなんて、よほどのことがあったとしか思えない。
「ティシラ、何があったんだ……」
 マルシオは何度もティシラの名を呼ぶ。しかしティシラは泣いているだけで、なぜ泣いているのか話してくれなかった。
『悔しい……許さない……私は、諦めないんだからね。あいつを、絶対に泣かしてやるんだから……』
 その言葉を最後に、魔力が途切れた。





   

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