SHANTiROSE

HOLY MAZE-41






 深夜、アジェルは一人、ティオ・シールの城の南側にある聖堂で項垂れていた。
 周囲を囲む白い壁は装飾され、ステンドグラスには微笑む天使の姿が、ろうそくの脆弱な光で浮かび上がっている。
 高い天井には何年もかけて描かれた絵画があるが、今は暗くて見えない。
 その天井画には過去、ロゼッタ一族が世界の王として魔法戦争に勝利したこと、王の傍には初代魔法王の首を抱いて忠誠を誓っている二代目魔法王イラバロスの姿――そして、武器を持ったインバリン一族が娘を奪うかのように見える様子から、ロゼッタ一族がティオ・シールへ追いやられるという、悲しくも恨みがましい物語が詰め込まれていた。
 そんな重い歴史の下、アジェルは両手を胸の前で併せ、祈り続けていた。
 私は悪くない、と。

 アジェルはアカデミー卒業後、修行を積み、ある村の聖堂に勤めていた。怯える者の心を救い、悩む者を励まし、喜ぶ者を祝福し、村人から慕われていた。
 ある日、一人の女性が聖堂を訪れた。彼女は一年前に引っ越してきて一人暮らしをしているという若い娘だった。娘は事故で両親を亡くし、孤独になってしまった不安と悲しみをアジェルに打ち明けた。アジェルは親身になって彼女を励ました。
「あなたのような美しい女性なら、その傷を癒してくれるいい伴侶とめぐり合えるでしょう」
 アジェルがそういうと、娘は頬を染めて明るく微笑んだ。その一瞬が、アジェルの心を揺さぶった。
 最初は、罪とは言えないささやかな恋心に過ぎなかった。娘は何度もアジェルに会いにくるようになり、あなたの声を聞くと寂しさが消えますと、幸せそうな表情を浮かべていた。時間を重ねるにつれ、アジェルの恋心は募っていった。

 そのときを思い出し、アジェルは暗闇の中で奥歯を噛み締める。

 アジェルはそのうちに、娘を守りたいと思うようになった。きっと自分なら――そう考える時間が増えていった。
 だが聖職者が迷う者を惑わすなど許されないと、何度も首を横に振った。もし本当に娘と結ばれいのなら、魔法使いとしてではなく、一人の男性としてみてもらわなければいけない。アジェルはそう、自分に言い聞かせ続けていた。
 長い時間葛藤していたアジェルはとうとう、彼女を食事にでも誘ってみようと決心した。
 そんな矢先だった。アジェルが心待ちにしていた娘が聖堂を訪れた。その隣に、若い男性を伴って。娘はいつもの笑顔で男性を紹介した。ずっと憧れていた人で、やっと告白でき、交際を始めた相手だと。
「アジェル様が勇気をくれたおかげです」
 娘の言葉は、アジェルの心を貫いた。アジェルは人々から慕われる魔法使いとして、彼女の幸せを祝福した――そのときは。しかし聖衣の下の生身のアジェルは、失望と憎悪に包まれていた。
 次第にアジェルは聖堂を休む日が増えた。娘と、その伴侶の声を聞くのが怖く、そして、憎らしかったからだった。アジェルは「魔法使い」である時間が減っていった。迷える人々を救うはずのアジェルは、自分自身が迷える人になってしまっていたのだった。

 アジェルは聖衣を脱ぎ、一人の人間として、男として、娘に会いに行った。
 深夜に窓を叩き、娘を驚かせた。諦めきれなかったアジェルは娘に「本当にあの男が好きなのか」と問い詰めた。自分が魔法使いだから無意識に壁を作っていただけではないのか、もしそうなら、遠慮はいらない、改めて自分のことをちゃんと見てほしいと願った。
 しかし娘にはアジェルの行動が理解できず、怯え出した。その表情は、信じていた者に裏切られた絶望のものだった。
「身寄りのない私に親身になってくれるあなたを頼り、尊敬していました。だけど、それはまさか……下心があってのことだったのですか」
 娘の悲痛な言葉はアジェルを闇に引きずり込んでいった。瞬きをすると、娘の目つきが軽蔑のそれへ変わっていった――そう感じた。アジェルの意識は自分の力では現実へ引き戻せなくなっていた。
 アジェルは娘の首に両手をかけていた。
 恐れていたのだ。神の加護をいただき、人々を守る役目を持つ魔法使いが、一介の娘に心奪われ、振り回され、その事実が人々に知れてしまうことを。今まで温かかった人々の目が、罪人を見るそれに変わってしまう。信頼を失い、魔法使いとしての威厳を失い、他の魔道界に身をおく者にも迷惑をかけてしまう。そんなことになれば、自分は世界を追放され、居場所を失ってしまう。あの悪名高き「呪われた魔道師・ハゼゴ」のように、奈落の闇に捕らわれてしまう。
 ――それも、この娘さえいなくなれば、すべてなかったことになる。
 娘は涙を流し、命乞いをした。
 アジェルにはその姿が醜いものに見えていた。彼の中に、もうあの美しい娘は存在しなかった。だから手を緩めなかった。魔法使いは清く、高潔で強くあらなければいけない。それが魔法の国ノートンディルを破壊したパライアスの人間の責任。アジェルは自分の行動に迷いを抱かなかった。娘が息絶え、完全に無力になるまで。
 アジェルは我に返り、娘の死体を見て崩れ落ちた。どうしてと、何度も神に問いかけた。どうしてと、何度も何度も繰り返してるうちに、答えを見つけた。それは、「邪悪なのは娘のほうだった」ということだった。
 娘は悪魔だったのだ。神聖なる魔法使いである自分を誘惑し、騙し、地獄に突き落とそうとした。それを退けただけに過ぎない。
 ただ、自分が「魔女」と戦ったという証明をしなければいけないと考えた。後悔はしていなかった。そうしてアジェルは遺体を隠し、魔法使いとしての尊厳を守るため、旅立ったのだった。

 アジェルは祈りの手を解き、頭を抱え込んだ。
「……魔女め」
 喉の奥から漏れる呟きは、獣の唸り声のようだった。
「私を惑わし、すべてを奪おうとするなど、あまりに邪悪……許せない、許せない……」
 どんな手を使っても「魔女」の存在を突き止め、正体を暴かなければいけない。そうしなければ自分が罪人となる。
「悪魔の思い通りになどさせない。必ず悪を滅し、再び魔法使いとしての信頼と立場を取り戻してみせる」
 アジェルは最後まで偶像である「神」の目を見ることなく、暗い聖堂から立ち去っていった。



*****




 ライザは大きなため息をつきながら窓のカーテンを開けて夜の空を眺めた。
 この空の向こうに大事な子供たちがいる。それらが大きな問題を抱えているのに、何もできずにいる自分を情けなく思い、俯いた。
 背後からトールが近寄り、彼女の肩を優しく撫でた。大丈夫、といつものように楽観的な言葉を口にするかと思ったが、違った。
「心配だな」
 心労の重なるライザには、今までの彼の不謹慎な発言を許してしまえる一言だった。
「僕も覚悟はしてる」トールも遠い空に目線を投げ。「最悪の場合には、武力行使も考えてる。必要なら戦争だって恐れない。ただ、問題は最悪の中での最善の行動を起せるかどうかだ。僕はまだ父に及んでいない。正直に言うと、本当に犠牲を最低限に抑えることができるのかどうか……自信がないんだよ」
 ライザはじんと目頭が熱くなり、最愛の夫の肩に寄り添った。
「ラストルを一人で送り出したことも、それが正しかったのかどうか、分からない。もしかすると、牢に閉じ込めてでも止めるべきだったのかもしれない」
「では……どうして決断なされたのですか?」
「国を守るっていうのは、家族を守ることと同義だ。国がなければ僕たちは生活できないのだから。だから今回はラストルのことを一番に考えた。ラストルは今まですべてを拒絶してきた。だけど今回初めて、肯定の意志を見せた。きっと何か、そこにあいつなりの希望や、目指すものがあったんだと思う。それを成し遂げ、形になり、僕たちの目にも映るものになるのなら、僕たちはやっと同じ方向を向くことができるんじゃないかと思ったんだ」
 ラストルは未来のティオ・メイを背負う男。彼が心を閉ざしたままでは未来はない。トールは今回のことを一つの転機だと信じ、賭けに出た。
 ライザの頬に涙が流れた。その隣で、トールも目線を落とし、眉間に皺を寄せる。
「だけど、ラストルだけじゃない。ティシラにも不幸が訪れてしまう可能性まで出てきた。僕は、間違っていたのかもしれない」
 ライザはぐっと嗚咽を飲み込み、涙をさっと拭う。そしてトールから体を離して向かい合った。
「何をおっしゃっているんですか。もし間違ったとしたら、修正すればいいのです。まだ最悪ではありません。弱音を吐いていて、何になるんですか」
 そう言うライザの目は真っ赤だった。強がる彼女に、トールは微笑みかけた。
「君は強いね。いつも正しい判断をしてきた。フラフラとさ迷う僕を支えてくれた。今も、変わらない」
「そうですね」ライザもふっと微笑み。「あなたはいつも自分勝手。今も変わりません。あなたのせいでラストルに、そしてルミオルにも、可哀想な思いをさせてしまっています」
「酷いなあ。気にしてるんだから、あまりはっきり言わないでくれよ。もしかして、君は『魔女』なんじゃないのか?」
 ライザはトールの言葉に表情を消し、再び空を見上げた。
「……魔女って、何なのでしょうね」
 トールは肩を竦め、はは、と乾いた笑いを漏らす。
「もし、僕を誘惑する女性がいたとしたら、君はその人を魔女だと思う?」
「いいえ。その人が魔女なら、その人を魔女と呼び、罰しようとする私も魔女ではないでしょうか」
「そうだね。都合のいい話だ。魔女なんて所詮、『言葉』に過ぎない」
 ドゥーリオから伝わったティシラの話を聞いたからそう思うのではない。「魔女」を信じ、恐れる者の目的は、目に見えないものへの恐怖を打ち消すことなのだ。
「人々は希望を失っている。心の中にある不安や太刀打ちできない不幸を、自らの手で抹殺したいと思っているんだ。それができるのだと皆を先導したのが、アジェルという魔法使い。彼もまた道に迷ったのだろう。心の拠り所が、どこにもなくて……」
「心の拠り所……」
 言わずとも分かっていたことだが、トールはあえて口に出した。
「魔法王だよ」
 ライザの胸がちくりと痛んだ。彼を頼らなければいけない状況なのではない。この世界には「魔法王」が必要だということ。姿が見えなくても、声が聞けなくても、存在することに意味があるのだから。
 世界が不幸に溢れ、自分が未熟で問題を解決できなくても、どこかに魔法王という「完璧なる者」がいることで希望を抱くことができる。
 昔からどこにいるのか分からないことが多かったクライセンだが、いるといないとでは大きな違いがある。人々はこの平和な世界にぽっかり穴が開いていることを心のどこかで勘付いているのだろう。だから、自力で問題を解決しようとあがいているのだ――たとえ、罪を犯してでも。
 魔法に疎いトールも、そのことを感じていた。息子にさえ頼ってもらえない現実に、王としての自信も揺らいでいる。このとき初めて、妻であるライザにだけ、本心を漏らしていたのだった。
「クライセンって、怠け者だし人当たりも悪いし、意地悪な奴だけど……ものすごいものを背負ってるんだな」
 世界を救うため、未知の世界へ飛び込んでいった。そして人知れず、「悪」を倒した。その事実を証明する必要はなかった。彼がいなければ、きっとこの世界は滅んでいただろう。しかし人々は魔法王の救った世界で変わらず生きている。それが魔法使いが起した「奇跡」であり、自分たちは「何か」に守られているのだと、無意識のところで理解しているのだから。
 クライセン本人は、どこも自分たちと変わらない普通の人間なのに、とトールは思う。
「きっと、ティシラがいたからなんだろうな」
 物思いに耽っていたライザはトールの呟きではっと顔を上げた。
「クライセンが人間らしくいられたのは、ティシラのおかげだったんじゃないかって……君はどう思う?」
「……そうですね」目を細めるライザは、どこか悲しげだった。「あの二人が最後にどんな言葉を交わしたのか、誰にも分かりません。でも、きっと、ティシラはクライセン様の体の一部のようなものになっていたのではないでしょうか」
 自分も女だから、命を懸けても守りたいと思う人がいるから、ライザは二人の特殊な関係を理解できているような気がしていた。
「引き離してはいけないんです。きっとクライセン様は、彼女を孤独にするために守ったのではありません。本当に役目が終わったのなら、ティシラも一緒に消えてしまっていたはずですから」
「ああ、そうだな」
 犠牲は避けられない。しかしそれ以上の救いが、きっとどこかにある。
 ティシラの背後に感じるクライセンの気配があるからこそ、まだ絶望しないでいられるのだと、二人は見えないものに祈りを捧げた。



*****




 アミネスとフィズは城を出て町を歩き、夕食を済ませて宿に戻った。
 ずっと連れて歩いていたニルの籠を窓際の棚の上に置き、二人は寝る準備を始める。
 ふと手を止め、アミネスがニルの傍の窓を開けて空を眺めた。フィズは遠に気持ちを投げる彼の寂しそうな背中を見つめたあと、おもむろに町で買ったニルの餌の袋を取り出した。フィズはアミネスとニルの間に割り込んでくる。
「アーちゃん、ニルに餌をあげないと」
 そう言ってアミネスに袋を手渡した。
「俺がやるのか?」
 袋の中は虫の塊だった。買うときも怖がっていたフィズは当たり前とでもいうように顎を上げた。
「そうよ。私にできるわけないじゃない」
 アミネスは仕方なさそうに袋を受け取り、籠の入り口を開ける。
「シオンはニルに何をやってたんだろうな」
「そうね、シーちゃんもこんな気持ち悪い虫は触れないわよね。夕食の残りとか、調理前の生肉をあげてたんじゃないかな」
 だったら自分も夕食の残りをもらってくればよかったなどとアミネスは考えながら袋に手を入れる。アミネスも虫が得意なわけではない。指先に当たる感触に顔を歪めて目を逸らした、そのとき、突然ニルが大きな羽を広げて鳥かごが大きな音を立てた。
 二人が驚いて尻もちをついたその隙に、ニルは鳥かごから飛び出し、あっという間に窓から飛び去って行ってしまった・
「ニル!」
 フィズは慌てて窓から身を乗り出すと、暗闇の中に真っ白なニルが浮かび上がっていた。だがニルはどんどん遠ざかっていく。
「大変! 追わなくちゃ!」
 二人は急いで部屋を飛び出て、宿の庭でニルの消えたほうに走った。しかし空はどこまでも黒く、白ふくろうの羽音も気配もなかった。
「どうしよう」フィズは涙目になり、庭の外の道路に出た。「シーちゃんから預かった大事なものなのに……」
 アミネスも困り果て、いつまでも暗闇に目を凝らしていた。
「ねえ、アーちゃん、見つかるまで探そう」
 フィズが強く腕を引くが、アミネスは首を横に振った。
「今日はもう遅いし、無理だよ」
「そんな……こうしてるあいだにニルに何かあったらどうするの。見つからなかったら、シーちゃんに合わせる顔がないよ」
 フィズはとうとう泣き出してしまった。しかしいつものように大きな声を出さないあたり、どこをどう探していいのか、彼女も分からずにいるのだと思う。
「今まであんなに大人しかったにの急に暴れるなんて、何か理由があったのかしれない」アミネスはフィズの頭を撫で。「ニルは高等な魔法使いの使者だったらしいし、俺たちのペットにできるような鳥じゃなかったんだよ」
「……じゃあ、シーちゃんのところに行ったのかな」
 アミネスは「さあ」と心無く返事をし、再度遠くを見つめた。シオンの話によると、ニルはラストルの側近の魔法使いから預かりもの。シオンのいないアミネスとフィズの元で大人しくしている理由は何もない。
 探しても無駄だと、アミネスは答えを出した。そして、ニルのこの行動は自分たちが部外者で、シオンが「王子様との恋物語」の登場人物であることを痛感させられる。
 アミネスは傷心を隠して微笑み、嗚咽を漏らすフィズを慰めた。
「……待とう」
 その短い言葉をフィズは受け入れ、アミネスに手を引かれて宿に戻った。





   

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