SHANTiROSE

HOLY MAZE-45






 静かな夜だった。
 窓の外は暗闇に閉ざされ、物音ひとつしない。
 シオンは質素な二段ベッドの上階で横になり、浅い眠りを繰り返していた。
 使用人には二段ベッドが二つ配置してある四人部屋を与えられる。割り当てはいい加減なもので、上がいい、窓際がいいと注文を付ける者がいれば話し合いで移動することもよくある。ただし、一部屋に男女が混合することと、一つのベッドに二人を詰め込むことは禁止されている。ベッドが足りないとなると責任者へ報告が必要だが、それ以外は当人同士で入れ替えても問題にはならなかった。シオンは運よく、すぐに空きを見つけてまるで最初から自分の位置だったかのように潜り込んだ。
 どうせ、もう明日には城を出るのだから……そう思って誰とも言葉を交わさず、メガネを枕元に置いて薄い布団を頭から被った。
 大きなイベントは終わり、明日の朝には大半の出稼ぎアルバイトが城を出る。シオンはその中に紛れて帰ることにしていた。残るには理由が必要だ。それに、これ以上居ても辛くなるだけだと感じていた。実際に来てみると、二人で会う機会なんてあるわけがないのだし、華やかな世界に身を置くラストルを、使用人として雑用に励む立場で遠くから見つめるだけなんてあまりにも惨めだった。これなら武芸団の看板娘として皆に必要とされているほうがよほど気が楽だ。そのほうが自信も持てるし、前向きに彼を待つことができる。
 布団から顔を出し、すぐ横にある窓のカーテンの隙間から外を覗いた。月も星も見当たらず、真っ暗だった。じっと見ていると、目が慣れて離れたところにある木々の形が見えた。
 目を閉じると、どうしてもラストルの姿が脳裏に浮かんでくる。前からそうだったとはいえ、今は他の女性と親しくする嫌なシーンを思い出してしまう。
 シオンは暗闇が怖くて目を開ける。しかし、やはり周囲は暗いままだった。
 ラストルが自分の知らないところでいろんな人と交友関係を持つのは当たり前のことだ。自分だってたくさんの友達や家族がいるし、自分を女神と呼び慕ってくれるたくさんのファンを大事にしている。それと同じこと。
(知らないほうがよかったのよ……家族を傷つけてまで、私、何てことをしてしまったのかしら……)
 大丈夫と、何度も自分に言い聞かせる。
(大丈夫。ラストルは必ず私を迎えに来てくれる。私を選んでくれたのはラストル自身だもの……彼のことも、自分のことも、信じなきゃ……)
 心の中で繰り返しているうちに、自分が目を閉じているのか開けているのかも分からなくなってくる。
 今何時だろう、そろそろ夜が明けるだろうか。
 そんなことを考えていると、突然暗い視界が切り裂かれた。
 シオンは目を見開き、咄嗟に顔を上げる。あまりにも早く、一瞬の出来事だったため、思考が追いつかない。シオンはベッドの上で体を起こしてカーテンを開いて窓の外を見つめた。
「……ニル?」
 シオンが見たものは、暗闇の中を真っ白なものが鋭く横切っていく様子だった。ニルでもふくろうでもない鳥がただ庭を横切っただけかもしれない。落ち着かないシオンは、他の人を起こさないようにベッドから降り、部屋を出た。廊下は狭くて散らかっている。ものを踏んで音を立てないように気を付けながら、壁伝いに歩いていく。シオンは入ってきたときと同じ、洗濯機のある物置に向かい、裏庭へ出た。城門のほうへ行くと警備兵に見つかってしまうため、シオンは庭の奥へ進んだ。
「ニル……いるの?」
 小声で呟きながら、足音を潜めて庭を徘徊した。



*****




 小さな物音で目を覚ましたドゥーリオは、ドアを開ける音がしなかったことで誰がいるのかすぐに分かった。急いでベッドから降りてドアのほうに向かったが、今度は背後から窓を開ける音がし、振り返った。
 そこにはベランダへの窓を開いているティシラの後姿があった。少々困惑しながら彼女の背後に立った。
「……ティシラ様、お話は終わったのでしょうか」
 日付が変わる前、ラストルと話をしてくると言ってティシラは部屋を出ていった。あれから数時間が経っており、もうしばらくすれば空が白み始める頃だった。
「ええ」ティシラは顔を見せなかった。「朝が来ればラストルは、自らカーグのところへ行き、捕まってる人たちに魔女の証拠はないのだから全部解放するように要請するわ。そしてあんたにも、側近に戻るようにも言ってくるから」
「ほ、本当ですか……」
 ドゥーリオはにわかには信じられないが、期待で声が上擦った。
「本当よ。だからもう安心して眠って。朝がくれば、すべてうまくいくから」
 本当なら飛び上がって喜びたいほどだったが、顔も見せないティシラの背中がどこか悲しそうで、不安は拭い切れなかった。しかし彼女がこんな嘘を言うとは思えない。ドゥーリオは言うとおり、朝を待とうと思う。
「……あ、ありがとうございます」
 ドゥーリオの戸惑いは声に表れていた。ティシラは安心させるように、やっと振り返って微笑んだ。
「本当だってば。だから、あとのことはお願いね」
「あとのこと……」
「捕まってる女性を助けてあげて。ラストルがこっち側に戻ってくればもう弱味はないでしょう? トールやルミオルとも協力して、魔法で閉じ込められているリジーも解放するの。そうすれば、全部終わるのよ」
 ドゥーリオは息を飲んだ。そんなにうまくいくものなのだろうか。自分のことはともかく、トールとラストルとルミオルが協力する姿なんて、遠い夢のようで実感が湧かない。だがそうなれば何よりも喜ばしいことだった。
 どうやってラストルを説得したのか、訊きたかった。疑っているのではなく、好奇心からだ。誰も思いつかなかった知恵があるのなら教えて欲しかった。
 しかし目を伏せてまた背を向けたティシラからは拒絶の意志が感じ取れた。一人になりたい。そう聞こえた気がした。
 そのうちにティシラはベランダに出て窓を閉めてしまった。
 ドゥーリオは彼女を信じ、大人しくベッドに入ってベランダから目を離した。


 ティシラはベランダから深い夜の空を見つめた。光のない風景は何も見るものもなく、虚しかった。
 つまらない、なのに、朝が来て欲しくないと思った。
 ティシラは俯き、そのまま膝を折って冷たい石のベランダに座り込んだ。迷うような仕草のあと、髪をかき上げて水晶のイヤリングを手に取った。


***



 マルシオとロアは宿の一室で灯りを小さくしてティシラからの連絡を待っていた。ロアは水晶をのせたテーブルの前の椅子で転寝をしている。マルシオもソファで体を横にしたまま水晶を見つめていた。
 その目線の先に小さな白い光が灯った。マルシオは体を起こし、ロアもすぐに瞼を上げた。
 マルシオが彼女の名を呼ぶと、淡い光は一等星のように瞬いた。
「ティシラ。ラストルと話は終わったのか。どうだった」
 ティシラは逸るマルシオとは対称的に、低い声でゆっくりと話した。
『もう大丈夫よ。ラストルは私の言うとおりにしてくれるから』
 マルシオとロアは眉を潜め、ちらりと目を合わせた。
『私は朝になったらそっちに行くわ。あんたたちももう眠って。じゃあ、おやすみ』
「え? ちょっと……待てよ」
 それだけで話を終わらせようとするティシラに違和感を抱き、マルシオは慌てて止めた。
「どんな話をしたんだよ。あれだけ頑なだったラストルを、どうしてそんなに簡単に説得できたんだ。何を言ったんだ」
『別に……私の言うとおりにしなさいって脅かしただけよ』
「脅かしただって?」
『そうよ。私は魔族よ、魔女なのよ。本気になればあんなガキ、簡単よ』
 二人は再び目を合わせる。マルシオの中には不安と、得も言われぬ嫌悪の感情がこみ上げていた。それは、神妙な表情を浮かべるロアの態度で、余計に増していく。
 また口を開こうとしたマルシオを、ロアが素早く片手を出して制止し、水晶に額を近づけて目を閉じた。見えない場所にいるティシラの様子を伺ったあと、顔を上げた。
「……禁じ手を、使ったのですね」
 今まで口にはしなかったが、まさかと考えたことはあった。ロアの中では確信があったが、マルシオは信じたくなく、水晶を睨むように見つめた。
 ティシラは一瞬だけ間を置いて、何でもないかのような声で答える。
『そうよ』
 二人の眉間に深い皺が寄った。
『だから何? 魔女を利用して悪事を働こうとした人間のほうがよほど邪悪じゃない。悪人が魔族に喰われて、当然の報いだわ』
 ティシラは開き直ったように饒舌になっていく。
『でも私は優しいからね、完全な廃人にはしなかったから安心して。私の虜になったラストルには言うとおりにするように命令してるわ。十日かひと月くらいは魔女の下僕としておかしな挙動を続けるだろうけど、その頃にはメイに戻ってるんだから、トールに面倒見てもらえばいいでしょ。魂までは奪わなかったから、そのうちに私の魔力も抜けていって元に戻るわ。何か問題があるかしら?』
 聞いているうちに苛立ちが募ったマルシオは、つい大きな声を出してしまった。
「……ふざけるな」
 ロアが急いでそれを止め、話を続ける。
「いいえ、問題はありません。しかし……指輪はどうしたんですか」
『……指輪?』
「指輪ですよ。何も反応しなかったんですか?」
『ああ、指輪ね』ティシラは鼻で笑ってみせる。『何もなくて、存在すら忘れてたわ。もう期限切れなんじゃない? こんなことなら、もっと早くこうしていればよかったわね』
 ロアは音がしないように深い息を吐いた。
『とにかく、私はもう疲れたの。朝になればみんな、私に感謝することになるわ。そういうこと。じゃあね』
 ティシラはそう言い捨て、強引に通信を切ってしまった。マルシオが身を乗り出したが、間に合わなかった。ロアは椅子の背もたれに体を預け、未だ水晶を睨んでいるマルシオを見つめた。
「マルシオ、怒らないでください」
「……何でだよ」マルシオは怒りで拳を震わせている。「あれだけ言ったのに、あれだけみんなで考えて何とかしようとしてたのに、どうしてこんな手を使わなくちゃいけないんだよ」
「それしか手がなかったということでしょう」
「でも……!」マルシオは拳を開き、両手で顔を覆った。「……言っただろう。ティシラには、好きな人がいるんだって」
 今は忘れているだけ。彼がいればこんなことはしないに決まっている。
「ティシラは忘れているだけなんだ。忘れているのに、あいつに会いに戻ってきたんだ。なのに、いつか思い出したとき……いつか、あいつが帰ってきたとき、ティシラはどんな顔してクライセンに会えるって言うんだよ」
 マルシオはティシラの手段そのものも受け入れられないが、何よりも、彼女の未来を案じていた。ティシラをよく知っているからこその感情なのだと、ロアは思う。
「……本当に、忘れているんでしょうか」
 ティシラとクライセンの関係を、ロアはよく知らない。マルシオは手を下ろし、今度はロアを一瞥した。するとロアは片手を伸ばしてマルシオの顔に被せてきた。
「何を……!」
 抵抗しようとするマルシオに、ロアは手の平から一つの映像を流し込んだ。
 マルシオの覆われた視界に、ティシラの顔が映し出された。
 彼女は一人、冷たい夜空の下で涙を流していた。誰も見ていないと思って、溢れて止まらない涙で顔を濡らし、拭おうともせず、虚勢の笑みを浮かべている。
 それが、先ほど水晶の向うで憎まれ口を叩いていたティシラの表情だった。
 ロアが手を離すと、マルシオの顔から怒りは消えていた。
「魔界なら、ティシラのしたことはただの捕食に過ぎません。でも、きっと彼女も分かっているんですよ。ここが人間の世界であることも、自分がなぜここに来たのかも。問題が解決しても、心と体についた傷は消えないことも、全部……」
 マルシオは意気消沈し、項垂れた。
 指輪が反応しなかった理由が分かった、ような気がしていた。
 朝になればいい報せが聞けるはず。世界のほとんどの人が理解できないことでも、起こる現実には誰も逆らえない。
 ロアは窓に目線を移す。まだ空は暗いが、今にも太陽の光が漏れ出してきそうなほど、夜は深まっていた。



*****




 同じ頃、ベッドの中で気を失っていたラストルの瞼が揺れ、意識を取り戻した。
 途端、酷い頭痛に見舞われてうめき声を漏らす。開いた瞳は虚ろで、映る天井は色鮮やかな装飾が見えないほど濃い闇に包まれている。
 次第に意識がはっきりしてくるが、正気に戻ったわけではなかった。彼は醒めても深い悪夢に取り憑かれていた。上半身を起こすと自分が裸であることに気づく。ふらつく体でベッドから這い出て床に落ちていた服を身に着ける。
 静かな室内を見回すが、何もなかった。人の気配も、呼吸も、風の音も、何も。
 だがラストルには室内のどこかに残っていた移り香に、敏感に反応した。
 説明できない微かな香りは、悪夢の中にいる彼だからこそ感じられるもの。その香りの主を求め、寝言のようにつぶやく。
「……ティシラ」
 ラストルの頭の中も、体も、すべてティシラの魔力に浸蝕されていた。彼女への欲情だけが、ラストルの原動力となっていた。
 何度かティシラの名を呼んでみたが、返事はなかった。今すぐ会いたい。その衝動を抑えられずドアに向かう。
 それより早く、何かの気配を感じてラストルは振り返った。
 闇夜の中に、白いものが浮かんでいた。ラストルはベランダに移動し、窓を開ける。するとそこには、手すりに止まったニルがいた。
 なぜここに? という疑問さえ抱かないほどラストルは渇望していた。
「ニル……頼みがある」
 ニルは優しく撫でてくるラストルの手に甘えるように顔を摺り寄せてきた。
「私を、愛する人のところへ連れていってくれ」
 ラストルもニルに顔を寄せ、愛情を示す。ニルは彼に久しぶりに会えたことを喜んでいるように見えた。
 丸くて小さなニルでも、翼を広げると迫力のある猛禽となる。大きな白い翼でラストルを包み込み、ふわりと光を発した。ラストルはニルの温かい光に身を委ね、祈るように目を閉じる。すると一人と一羽は上空に散っていく光と共に、夜の闇に溶けていった。


 羽音で目を開いたラストルは、ニルの魔法で城の外に移動していた。
 部屋着のまま靴も履いていない姿で外に出るのは初めてだったが、今は気にならなかった。周囲は静寂に包まれている。風もない夜に、ニルの羽ばたく音だけが響き、それを目で追うと白いフクロウは近くの木の枝にとまった。
 ラストルにはなぜニルがここへ連れてきたのか理解できなかった。この近くにティシラがいるのだろうか。目が慣れてくると、そこが裏庭であり、警備兵も数時間に一度しか通らないような場所だと分かった。砂利の混ざった泥が足を汚し、小さな石が柔らかい足裏に刺激を与えてくる。
 どこへ向かえばいいか分からず立ち尽くしていると、背後から足音が聞こえた。
 期待を抱いて振り返る――と、そこには、シオンが目を見開いていた。
 ニルにとって、ラストルの「愛する人」とは、シオンのこと他ならないのだったから。
「……ラストル?」
 シオンは信じられないと同時、見間違いではないと確信し、駆け出した。
「ラストル!」シオンは目を潤ませて彼に抱き着いた。「会いたかった……」
 ふらついて一歩足を引くラストルは、抱き締め返してこなかった。シオンは彼が動揺して当然であることを思い出し、慌てて体を離して目を擦った。
「ラストル……驚いてる? そうよね、当たり前よね」
 ラストルは無表情でシオンを見つめていた。
 シオンの心拍数が上がってくる。怒っているのだろうか、呆れているのだろうか。何にしても、彼に歓迎している様子はなかった。
「勝手なことをしてしまって、ごめんなさい。でも、どうしてもあなたに会いたかったの」
 取り乱すシオンとは反対に、ラストルは虚ろなまま返事もしなかった。シオンは自分のわがままだけでここまで来た。一度は諦め、何もなかったことしようと思った。しかし、こんな夜中に、いるはずのない場所に彼がいた。誰かに呼ばれるように、再会できた。
 運命を感じた――なのに、シオンは冷たいラストルの態度に絶望の淵に追いやられていく。
「ねえ、ラストル、何か言って。怒ってるの? 私のこと、嫌いになった?」
 シオンは青ざめる。二人のときだけは恋人でいられた。
 あの時間は幻だったかと思うほど、目の前にいるラストルが別人のように見えた。
「……ねえ、私のこと、許してくれないの?」
 ラストルはもうシオンへの興味を完全に失っていた。だが彼女のことを忘れたわけではない。一度は本気で愛した人。伝えなければいけないことがある。手間が省けた。そんな理由で、ラストルはやっと口を開いた。
「シオン……君がどうしてここに居るのか分からないが」
 シオンは息を飲み、続きを待った。きっといい言葉は聞けないだろうと警戒する。しかしまだ僅かな期待を捨てきれないことも否定できなかった。
 その僅かなものも、彼女の想像以上の辛い言葉で、打ち砕かれる。
「私はもう、君を愛していない」


 シオンは頭の中が真っ白になり、体が引き裂かれるほどの強い衝撃を受けた。
「私のことは忘れて欲しい」
 そんな彼女の気持ちなどまったく考えられず、ラストルは冷酷にシオンにとどめを刺していく。
「私には他に愛する女性ができた。命を捧げてもいいと思うほど、もうその人のことしか考えられないんだ」
 あまりに突然すぎる展開に、シオンは気を失いそうだった。
 自分のしたことで嫌われるかもしれないという危険は覚悟していた。しかし、突き付けられた結果は、どんなに嫌な予想をも上回る惨劇で、すぐに自分の中で処理することができない。
 奥歯が鳴るほど震え出すシオンを見ても、ラストルは何も感じなかった。
 様子のおかしい二人を木の上から見下ろしていたニルが、小さく首を傾げた。
「……嘘」
 シオンが振り絞って漏らした言葉は、何の意味もないものだった。二人きりなのに、嘘をつく理由はどこにもない。それでも頭を振り、ラストルを再度見つめる。
「嘘よ……嘘って言って。謝るから、もうこんなこと、二度としないから……嘘って言ってよ」
 シオンは感情の制御ができなくなっており、まだ現実が受け入れられない。
「嫌われるなら、仕方ないかもしれないけど……」呼吸が乱れ、声が上擦る。「他に愛する人ができたって、どういうことなの……そんなの、信じられるわけがないじゃない!」
 つい大きな声を上げてしまったシオンを見て、ラストルはちらりと周囲に目線を投げた。その仕草は騒ぐシオンを迷惑に思っているようにしか見えない。
 シオンは彼が本当に自分など見ていないことを感じ始めていた。ラストルには怒りや嫌いという感情さえ見えない。他の誰かに心を奪われているという言葉が態度に表れている。
 シオンの足元から、醜い感情が湧きあがってくる。虫が這いあがってくるかのような、悍ましい感触が彼女の肌を這い回った。
 何を犠牲にしても結ばれたいと強く思う、愛して止まなかった人が、突然、いなくなってしまった。
 目の前にいるのは、人の心を弄び、裏切って傷つけることを何とも思わない「悪魔」である。
 ラストルはシオンの中に芽生えて増殖しているものの存在など知る由もなく、この場を立ち去ろうと踵を返した。
 その様子に、シオンは指先を揺らした。
 この「悪魔」はそこにいるだけで自分を傷つける。心無く人の純情を踏みにじるだけではなく、なんの救いも与えないまま、黙って立ち去ることで更に追い打ちをかけようとしている。
 許せない。
 シオンは無意識に、服の下に忍ばせておいた「お守り」を手にしていた。母の形見である短剣を握り、「悪魔」を見つめる目の瞳孔は、開ききっていた。
「……行かないで」
 ラストルは返事をしなかった。
 ニルが不穏を察知したかのように大きな翼を広げ、枝を揺らして飛び立つ。
 シオンにも、これ以上言いたい言葉は見つからなかった。

 自分の体のどこをどう動かしたか覚えていないほど、衝動的だった。
 いつの間にかシオンは地を蹴り、気がついたときにはもう、短剣をラストルの脇腹に突き刺していた。


 生ぬるい鮮血が手を伝って地面に滴り落ちた。
 シオンは我に返り、声にならない悲鳴を上げて震えあがった。手を離して後ずさるが、足がもつれて尻もちをつく。
 ラストルは顔を歪め、苦痛で汗を流していた。脇腹に突き立てられた短剣の柄を、震える手で掴んだ。がくりと膝をつき、そのまま地面に倒れ込む。
 呼吸を乱しながらも両手で柄を掴み、力を振り絞って短剣を引き抜いた。
 傷口から血が溢れ出し、地面に血溜まりができていく。力を失って両手を投げ出すと、血まみれの短剣がシオンの足元に転がった。シオンは体を揺らして小さな声を漏らし、堰が外れたように大粒の涙を流した。


 体から血が流れ出している感触に、ラストルは死を意識した。
 それでもティシラのことを思っていた彼だったが、次第にその感情は薄れていき、彼女以外の顔も脳裏に浮かんだ。
 トールやルミオル、ライザ、ドゥーリオ……走馬灯のように、たくさんのことを思い出していく。
 その中には当然、シオンの姿もあった。
 早い速度で死に近づいていくラストルの体からは、血と一緒に、ティシラの呪いも流れ出ていたのだった。
 自分の血に浸り、ラストルははっと目を見開いた。
 意識の中に、幼いルミオルの姿が見えた。ルミオルは自分を慕い、純粋な笑顔で甘えてきていた。ラストルは弟の期待に応えるため、強くなると決心した。
 大事な家族を守るため、立派な王になるため、ラストルは……弟を裏切って、繋いだ手を離した。


 死を目前とした肉体には虫は近づかないという。
 もうその肉体には何の価値もないと、野生が判断するのだろう。
 それに近い理由で、ラストルは魔女の呪いと、過去の呪縛から解放された。


 正気になったラストルは、今まで自分のしてきたことを思い出し、涙を流した。
 長い時間をかけて積み上げた罪悪感が一気に押し寄せ、声が漏れるほどの嗚咽に呼吸もままならなかった。
 このまま死んでも構わないほどのことをしてきた自覚があった。結局何ひとつ成し遂げられなかったが、せめて、謝りたいと強く願った。
 ルミオルに、両親に、ドゥーリオに、シオンに、そして、ティシラに。
 ぼやける視界に、シオンが映った。謝らなければいけない。ラストルは必死に声を出した。
「シオン……許してくれ」
 シオンは大きく息を吸い上げた。
「私が悪かった。君を愛していたのは本当だ……でも、私に、シオンを幸せにする力はなかったんだ……」
 シオンも涙が止まらなかった。ラストルと一緒に死にたかった。いいや、死ぬしかない。それ以外に道はないと思った。
 しかしラストルは震える手で指をさし、違う道を示した。
「すぐに、その短剣を持って、逃げてくれ」
 指した先には、血塗れた短剣があった。シオンはそれとラストルを交互に見つめる。
「私の過ちで、君を罪人にしたくない……だから、逃げてくれ。シオンは美しいまま、『女神』のまま、強く生きてくれ」
 シオンはガタガタと震えてうまく体を動かせないまま、言われたとおりに短剣を掴んだ。
「お願いだ。逃げてくれ……早く……」
 ラストルの意識が遠のいていく。瞼を上げる力もなくなりそうなとき、シオンは腰を上げ震える足で立ち、しっかりと短剣を両手で掴んだ。
「行け……」
 そう呟き、シオンが確かに走り去っていったのを見届け、意識を失った。


 空を染める黒が薄くなりかけた、まだ夜明けとは言い難い頃、血塗れで倒れていたラストルは通りかかった警備兵に発見された。
 まだ刺されてそれほど時間は経っていなかったが、彼は既に瀕死の状態だった。





   

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