SHANTiROSE

HOLY MAZE-53






 もうすぐ太陽が頂上に昇る頃、一人の少女が何万人という観衆の前で晒し上げられた。
 ティシラは部屋を連れ出され、十字に組まれた柱に張り付けにされた。
 城の戸が開き、複数の兵によって「魔女」担がれてきたとき、民衆は割れんばかりの歓声を上げた。ティシラを縛り付けている十字架は広場の中央にある、藁と木材が積まれた処刑台に突き立てられた。
 城を背に、アジェルが大きな声を出す。
「今から、魔女裁判を行います」
 城の二階部分にあるテラスには、王冠を被ったカーグが人々の狂気を見下ろしていた。そうしている間にも、次から次へと民衆は広場に集まり続けていた。もう城門前は満員で、最後列からは背伸びをしても広間は見えない。それでも、人々は歴史的瞬間に立ち会うため、押し合いながら駆けつけていた。
 人々はティシラを見て「ただの少女のようだ」と驚いていた。醜い姿をしているか、魔女というくらいだからもっと妖艶な大人の女性を想像していた者が多かったのだった。
 アジェルは魔法兵に渡された小瓶を受け取り、空に掲げた。
「ここにこの少女が魔女である証拠があります。この中にはティオ・メイのラストル王子の血液が入っています」
 アジェルが魔法兵の一人に合図を送ると、兵はティシラに近寄り、槍の先を脇腹に突き刺した。
 ティシラは体を揺らし、小さく呻いた。
 まだ彼女がただの少女にしか見えない民衆は、惨い仕打ちに眉を寄せ、目を逸らす者や悲鳴を上げる者もいた。
 槍を抜くとティシラの脇腹から血が溢れ出し、足を伝って地面に落ちていく。そこにアジェルが近寄り、彼女に向かって瓶の中の血を振りまいた。
 するとラストルの血が宙を舞い、ティシラの血と混じり合っていく。
 民衆から恐怖の声が上がった。
「ラストル王子の血がこの魔女の魔力に侵されている証拠です。この少女はこうやって、人々の体内を魔力で侵し、下僕にして利用し、呪い殺す恐ろしい化け物なのです」
 民衆のティシラを見る目が変わっていく。姿は少女でも、内側は邪悪な化け物。むしろこの侮りやすい姿だからこそ人々は何を信用していいか分からなくなり、互いの猜疑心を煽っていくものだと理解していく。
 だから今まで普通に、同じ人間だと思って一緒に生活していた家族も信じることができなかった。
 だから永遠の愛を誓ったかけがえのない伴侶さえ傷つけてしまったのだ。
 人々は自分たちの本性を顧みず、すべて魔女のせいだと思い込んでいく。
「……殺せ!」
 ざわつく民衆から野太い怒声が飛んできた。
「そいつのせいで俺の家庭はめちゃくちゃになった」
 それを皮切りに、今までの不安と不満を、皆が叫び始めた。
「俺の妻と娘を返せ!」
「魔女のせいで私は旦那に殴られて家を追い出されたのよ!」
「私も魔女と疑われて学校に行けなくなった!」
「もうすぐ出産を控えているのに、夫が私を怖がって逃げてしまったわ!」
 ティシラはその雑音を黙って聞いていた。彼女の目に映る人々の「恐怖」は、どんな化け物より醜く映っていた。
「……バカみたい」
 魔女の呟いた一言は、民衆の騒音に掻き消され、誰の耳にも届かない。
「お静かに!」
 アジェルが怒鳴ると、人々は黙り、彼に注目した。
「皆さんの苦痛はよく分かります。どうかご安心を。この魔女を処刑すれば、この世に蔓延った恐ろしい魔力は浄化されます」
 再び歓声が上がった。
「捕えられている善良な人々も開放されます。ティオ・シールに平和が戻るのです!」
 異論を唱える者は一人もおらず、拍手を送り、涙を流す者もいる。
「どうか皆さん、できるだけたくさんの憎しみをこの魔女にぶつけてください。魔女の死とともにこの世から抹殺いたします!」
 アジェルが合図を送ると、魔女の周囲に整列していた武装兵が火矢の準備を始めた。ティシラの足元に油が撒かれていく。
 太陽がちょうど頭上に達し、魔女が火炙りにされようとしたそのとき、たった一つの反対の声が飛び込んできた。
「やめろ!」
 銀色の少年マルシオが、民衆を掻き分けて広場に駆けこんできた。
 マルシオは人の波に揉まれ、ここまでくるのに何度も体をあちこちにぶつけていた。やっと処刑場まで辿り着くが、挟まった体を引き抜くと反動で地面に倒れる。すぐに立ち上がると、ほどんと同時に二人の兵に剣を突き付けられた。
 ティシラは僅かに瞳を揺らし、マルシオの姿をはっきりと捕えた。しかし、それでも項垂れたままだった。
「やめろ。そいつはラストルを刺してなんかいない」
 アジェルは息を飲み、城を仰いでカーグに目線を送る。カーグは冷たい表情を変えず、「構うな」と目で伝えた。
「君は何者だ」
 マルシオは人々の狂気に触れ、何も隠す必要はないと感じていた。
「俺は、魔法使いだ。この少女の友人だ!」
 これだけの民衆の説得は無理だ。せめて、処刑を取り消させなければと思う。
「こいつは……ティシラは、俺の友達で、家族で、今まで平穏に暮らしていたんだ。理由もなく人を操ったり呪ったりしない。そんなことをするためにここに来たんじゃないんだ」
 マルシオの幼稚な弁護に、アジェルはほくそ笑むだけだった。
「皆さん、ご覧ください」マルシオを指さし。「これが魔女に操られた男の哀れな姿です」
 どっと歓声が上がる。また人々は魔女への不満を漏らし始めた。
「違う! 俺は操られてなんかいない!」
 マルシオは焦りと押し寄せる人々の憎悪に混乱し、うまく言葉が出ない。
「だったら……これを見てくれ!」
 マルシオが手を伸ばすと、兵士は驚いて向けていた剣を振り上げた。その切っ先で腕を斬り、マルシオは血を流した。
 その血は地面に落ちるだけで、近くにあるティシラのそれはなんの反応も示さなかった。
「ほら、俺の血には何もない。魔女に操られていない証拠だ」
 それを見ていた人々が戸惑うと、アジェルは顔を歪めた。
「みんな、聞いてくれ。ラストルは何者かに刺された。それが致命傷になったんだ。だったら刺した犯人を裁くのが先だろう。ティシラが魔女だったとしても、こいつは人を殺してなんかいないんだ。ティシラを処刑したって何の解決にもならないだろう!」
「黙れ!」
 マルシオにそう怒鳴りつけたのは、アジェルではなく、民衆の中の一人だった。
「俺たちの平和は魔女によって奪われたんだ!」
 すると今度は別の者も大声を上げた。
「王子を刺した犯人を見つけても魔女に呪われた人は救われないわ!」
「そうだ! 魔女がいる限り俺たちは安心して生活ができないんだ!」
「殺せ!」
「魔女を殺せ!」
 マルシオは蒼白し、体を震わせた。もう何を言っても通用しない。
 人間は、あまりにも弱すぎる。
「そいつも殺せ!」
「そうだ、そいつも同罪だ!」
「殺せ!」
 アジェルは再び笑った。
 片手を上げると兵士は頷き、マルシオの腕を掴んでティシラの足元に放り投げた。
「呪われてるわけでもないのに魔女に肩入れするとは」アジェルは目を細め。「君も魔女と同じ、化け物……という判決が下りました」
 そうだ、そうだと人々は拳を上げてマルシオを責め立てた。
 マルシオは後退り、ティシラを見上げた。ティシラは虚ろな目で彼を見下ろしていた。
「……ティシラ。もうダメだ。逃げよう」
 聞こえているかどうか分からないまま、マルシオは彼女の血の流れる十字架に縋り付いて語りかけた。
「ここにいる人間は、呪われてる。俺たちで救えるようなものじゃない」
 ティシラはほとんど口を動かさず、か細い声を漏らした。
「……いいのよ。勝手にやらせておけば」
「何言ってるんだよ」
「人間は私を火で炙れば気が済むんでしょ。だったら、好きにさせればいいわ」
「ダメだ。そんなのダメだ。お前が犠牲になる必要なんかない。お前が裁かれたって、悪い奴が許されるわけがない」
 これ以上は時間の無駄だと、カーグがアジェルに強行するよう命令を出した。
 兵士たちは油の沁み込んだ布の撒かれた矢の先に炎を灯し、弦を構える。
 殺せ、という民衆の掛け声に合わせ、矢が放たれた。
「――やめろ!」
 マルシオは咄嗟に振り返り、片手で素早く弧を描く。するとマルシオの目前で白い閃光が走り、火矢が弾き飛ばされた。
 周囲がざわつき、ティシラだけではなく、マルシオにまで憎悪の念が向けられていく。
「矢を放て!」
 アジェルが言うと、次々と火矢が放たれた。マルシオは立ち上がり、飛んできた矢をすべて弾き返した。そのあとすぐにティシラを中心に白い結界を張り、次に飛んできた火矢のすべてから防御する。
 兵士たちは戸惑い、民衆は更に声を荒げていく。
 マルシオは無我夢中でティシラの足元の縄に手をかけた。解こうとしても、結び目は堅く、血ですべってうまくいかない。
 アジェルも高揚し、放てと命令を続ける。すべて結界に弾かれる中、アジェルは近くにいた兵から火矢を取り上げ、目を閉じて呪文を呟いた。
 この結界で火矢なら避けられる――そう思って必死で縄を解こうとしていたマルシオだったが、アジェルの放った矢が一本、結界に突き刺さった。
「!」
 矢は炎を灯したまま、結界に垂直に刺さったまま、じわりと前に進んでいく。矢を中心に、結界にヒビが入り、マルシオが顔を上げたときにはもう遅かった。矢は結界を破壊し、マルシオの胸に突き刺さる。
 マルシオは強い衝撃で吹き飛ばされ、地面に転がった。力を入れて矢を引き抜くと、胸元から血が溢れ出した。
 それを見ていたティシラが目を見開いた。
 マルシオは抵抗する力を失い、兵に取り囲まれて地面に乱暴に押し付けられる。その衝撃でマルシオは大量の血を吐き、うめき声を上げた。

 ――人間なんて。

 ティシラの胸が、強く脈を打った。

 ――大っ嫌い。

「怯むな! 矢を放て!」
 結界のなくなったところに火矢が大量に放たれ、ティシラの足元に炎が広がった。
「……やめろ!」
 マルシオは這ってでもティシラのところへ行こうとするが、兵に取り抑えられて身動きが取れない。
 そうしている間に、炎はどんどん火力を増していく。
 民衆は歓喜の声を上げた。今こそ悪が殲滅されると信じて。
 炎がティシラの足元まで燃え上がっていくと、「魔女」はまるで苦しむかのようにのけ反り、真っ赤な目を見開いた。
 人々は手を上げて喜び、業火の炎の如く勢いを増していく炎に……違和感を抱き始めた。
 炎はあっという間にティシラの頭上にまで燃え盛り、彼女の姿を包み隠した。
 魔女を裁く聖なる炎とはいえ、あまりにも火力が強すぎる。それに、炎がオレンジから深紅に染まっていく異常な様子が錯覚とは思えなかった。
 人々はざわつき始めた。アジェルも一歩引き、血のように赤い不自然な炎を見つめている。
 次第に炎は天に向かって先細り、竜巻のように旋回し始めた。
 爆風が起き、周囲にいたアジェルやマルシオ、兵士たちが吹き飛ばされる。慌てて顔を上げると赤い炎は消えており、ティシラがいた場所に、黒いものがうずくまっていた。
 黒いものはゆっくりと顔を上げ、釣り上がった赤い目で世界を睨み付けた。
 そこに居たのは、先ほどまで柱に縛り付けられていた魔女だった。だが姿が変わっていた。頭には大きく禍々しい二本の角が生えており、牙と爪は獣のように尖っている。魔女が体を揺らすと、背中から巨大で真っ黒な蝙蝠の羽が左右に開いた。肉厚で太い血管が浮き出たそれの一振りで、足元をすくわれるほどの風が起きた。
「……ティシラ」
 マルシオは変わり果てた彼女の姿に絶望しか抱かなかった。
 これがティシラの怒り。彼女は人間を見限った。そうとしか思えなかった。
 ティシラは上半身を持ち上げ、空に向かって咆哮した。
 その声はこの世のものとは思えない獣の叫び声だった。地の底から響いてくるかのように地面が震えた。人々は恐怖のあまり怯えて逃げることもできなかった。
 カーグも魔女の恐ろしい姿に動揺を隠せなかったが、このまま見逃すわけにはいかなかった。
「アジェル!」上から叫ぶと、アジェルが真っ青な顔で振り返った。「殺せ! 姿が変わっても魔女の罪は消えぬ!」
 アジェルは我に返り、腰を抜かしている兵士に指示を出す。兵士たちは命令に逆らうことはできない。勇気を振り絞り、立ち上がって矢を弦に番いた。
 数十本の矢がティシラに向かって放たれる。すべて彼女に突き刺さった、が、魔女の羽の一振りですべて弾き返されていった。矢は民衆まで飛んでいき、けが人も出た。アジェルの「殺せ」という声に感化され、人々はまた魔女へ憎悪の念を増幅させた。
 火矢隊の背後から魔法兵が出てくる。ティシラを閉じ込めようと囲み呪文を唱え始めるが、ティシラは魔法が発動するより早く上空に飛び上がった。
 アジェルは舌打ちし、方法を考える。周りを見回していると、血塗れのマルシオが視界に入った。すぐに指を指し、「その少年を捕えろ」と叫ぶ。
 ティシラはマルシオが攻撃されてから豹変した。彼を囮にすれば勝機はあるはず。アジェルはすぐに捕えられたマルシオに駆け寄り、兵士の剣を奪った。
「魔女め! お前の手下がどうなってもいいのか」
 アジェルはマルシオの首に剣を突き付け、上空のティシラを挑発した。周囲には矢を番いた兵が彼女を待ち構えている。更にその後列に魔法兵が呪文を唱えながら攻撃の準備を整えていた。
「ティシラ、来るな!」
 マルシオが叫ぶとアジェルは剣を持つ手に力を入れ、彼の喉に刃を押し付ける。マルシオの首から血が流れるのを見て、ティシラは矢より早く、鋭く降下してきた。
 その瞬間にアジェルは剣をティシラに向ける。ティシラは体を逸らしたが、肩から胸元にかけて刃が滑った。次に魔力を帯びた矢が放たれ、数本が傷口に突き刺さる。
 ティシラは傷を負ってもまったく怯まず、指先に力を入れて爪を尖らせた。アジェルは炎のように燃える魔女の瞳に捕えられ、一瞬体の自由を奪われる。殺意に慄く間もなく、ティシラの爪がアジェルの顔と上半身を切り裂いた。
 アジェルは悲鳴を上げて地面に倒れる。
 その隙にティシラはマルシオの襟首を捕まえ、再び空に舞い上がった。
 アジェルは発狂寸前で地面を転がり回る。魔法兵が駆けつけるが致命傷ではなく、アジェルは治療を拒否し、血塗れの顔のまま大声を上げた。
「おのれ……魔法使いに手を上げるとは、神に逆らうことと同罪! 悪魔め、必ず殺してやる!」
 上空に向けて、更に大量の矢を放たれた。ティシラは旋回し、羽で風を起こす。すると矢は発火し、ぼろぼろと崩れて火の粉になっていった。
 火の粉は民衆の上に振りかかり、周囲は騒然となった。
 そこにいた全員がティシラを目で追い続けていた。彼女はそのままマルシオを抱えて飛び去っていく。
「追いかけろ!」
 アジェルと民衆が同時に叫んだ。カーグも当然反対はせず、ティシラの去る方向に人差し指を向けた。
「シヴァリナの森だ。魔女は森に向かっている。追え!」
 カーグの指示を受け、アジェルは兵を再編成させ、第一団を馬に乗せて走らせた。民衆も興奮しており、もう誰も止めることができなくなっていた。


 ティシラはマルシオを掴んだまま森に向かっていた。
「……ティシラ」
 マルシオが呼びかけても、目も合わせず、返事もなかった。
 ティシラの胸元には矢が刺さったままになっており、腕を伝ってマルシオの白い服を赤く染めていく。マルシオの傷も癒えてはおらず、血が止まらない。
 まるで迷子の兄弟が手を繋いで、泣くのを我慢して家路を探しているような侘しさに包まれていた。


 ティシラはシヴァリナの森の上空を飛び、地肌が剥き出しになった場所に向かって下降していった。
 シヴァリナの森は鬱蒼としており、奥へ行けば行くほど未開である。だがそんな森の奥深くに一部だけ草木が息衝かない場所があった。
 魔界へ続いていると言われている亀裂のある場所だった。
 ティシラは力尽きたように地面に落ち、マルシオと一緒に転がった。マルシオがティシラに駆け寄ると、彼女は角も羽も消えており、いつもの少女の姿に戻っていた。
「ティシラ……こんなにひどい怪我を……」
 涙を堪えて、マルシオはティシラに刺さっていた矢を引き抜く。ティシラは呻き声を上げ、その場に横になった。
「どうしてあんなことを……」
 マルシオは何から言えばいいか分からなかった。
 ティシラの暴走は二回目だが、どちらも責められない。元凶であるアジェルを切り裂いたときも、彼女は手加減していた。本気になれば人間一人くらい簡単に殺せるはずなのに、アジェルは痕に残るほどの傷を受けても抵抗する力が残っていた。ティシラが理性を保っていた証拠だ。それに、ティシラが切れたのは、マルシオを助けるため。デタラメばかりしているようで、彼女はいつも先のことを考えている。
 地面の亀裂から、確かに魔力が流れ出していた。ここが魔界に繋がっているという噂がある。どういう原理なのかは分からないが、まさか、ティシラはこの魔力に引き寄せられたのではと不安が募る。
「ティシラ、今怪我を治してやるからな」
 マルシオが手を伸ばすが、ティシラは力なく振り払った。
「そんなこと、どうでもいいのよ」
「……何言ってんだよ」
「もういいの……私、魔界に帰る」
 やはり、と思っても、マルシオには辛い言葉だった。
「人間なんか嫌い。どうしようもなく、バカな生き物……勝手に憎み合って、殺し合って、滅びの道を進んでいけばいいのよ」
 皮肉ではなく、本心からの「呆れ」だった。ティシラの言うことはもっともだと思う。だけどまだ諦めて欲しくなかった。
「ティシラは何も悪くない。だからこそ、今からでも本当の悪い人間を裁かなければいけない。俺は、ティシラに正義が戻る瞬間を見て欲しいんだ」
 ティシラは気力のない顔で、小さく笑った。
「どうでもいいって言ってるでしょ。何が正義よ。何が魔法使いよ。弱いくせに、プライドと欲に塗れた醜い生き物なんて、いなくなればいいのよ」
「そんなこと……」
 ない、と言い切ることができなかった。ティシラが犠牲者でなければ言い訳もできたが、あれだけ酷い目に遭った彼女に「許してやれ」なんて言えない。
 いや、違う、とマルシオは首を横に振った。
 ティシラはこんなことのために人間の世界にいるわけではない。
「お前は……クライセンに会わなくちゃ……」
 マルシオは懸けるような気持ちで口に出した。
「そのためにここに来たんだろ。こんな、人間の醜いところばかり見てないで、好きな人に……」
「人間なんか嫌いだって言ってるでしょ!」
 ティシラは体を起こし、今までの無気力さが嘘だったかのような怒声を上げた。
「……ティシラ、お前、また忘れたのか?」
「忘れたって? 何をよ」
「クライセンのことだよ。お前、思い出してたじゃないか。クライセンと一緒にいるって、約束したって、言ってたじゃないか」
「何言ってるの?」ティシラは冷たく、マルシオを睨んだ。「そんな人知らないって、何度言えば分かるの」
「そんな……」
 あのとき、一時的に昔のティシラに戻っただけだったのだろうか。ティシラの記憶は一体どうなっているのか。マルシオは混乱した。
 森の中の動物たちが騒ぎ出した。不穏な空気を感じ取り、二人は目線を上げる。すると森の先に火の手が上がっているのが見えた。魔女を追い、人間たちが森ごと焼き払おうと火を放っているのだった。
「……ほら、これでも私に人間を好きになれって言うの?」
 マルシオさえ、人間の醜さに心を苛まれていく。
「どうしてだよ……どうしてそこまでしなくちゃいけないんだ」
 悔しくて涙が溢れてくる。もうティシラを止める方法はないのだろうか――。
「もういいの。人間は私を火炙りにすれば平和になるの。だから、もう行くわ」
 ティシラは腰を上げ、重い足を引きずり始めた。止まらない血を点々と地面に落としながら、亀裂に向かって歩いていく。
「私は魔界で幸せになるわ。王女として、みんなから愛されて、大事にされて、パパとママと一緒に楽しく、華やかで裕福な毎日を送るのよ」
 そう言いながら微笑むティシラの頬に、涙が伝った。
「こんなところ、来なきゃよかった……」
 マルシオにはもう彼女を引き留める言葉が思いつかない。追いかけることもできなかった。
 底が見えない巨大な亀裂の前で、ティシラは足を止めた。振り返り、マルシオに泣いて、笑った。

「バイバイ」


 ティシラは目を閉じて体の力を抜き、倒れるように、亀裂に飲み込まれていった。
 マルシオの悲痛な絶叫が、森の中に轟いた。


 闇に引きずり込まれていくティシラは意識が遠くなっていった。
 薄目を開けても、亀裂から注ぎ込む太陽の光はどんどん小さくなって、消えていく。
 後悔なんてない。未練なんかない。
 そう思うのに、ティシラは無意識に手を伸ばしていた。
 落ちていくのが怖くなった。
 きっとこのまま底に着いてしまったら、二度と人間の世界へ行くことはできないと感じたから。
 覚えていることを思い出す。マルシオがいて、サンディルがいて、トールが、ライザが、ルミオルがいて。ロアは……彼はどうもいけ好かない。ラストルのことは、思い返せば、そんなに悪い奴ではなかった。でもやっぱり、一発くらい殴ってやりたかった。
 楽しかった、ような気がする。
 でも、何も残らなかったし、欲しいと思うものもなかった。
 人間の世界に自分の居場所はないから。誰も自分を必要としていないから……だから、これでいい。


 起きているのか寝ているのかも分からなくなったとき、何かが、手に触れた。
 ――温かい。
 闇の中、誰も何も見えないところで、薬指の指輪が水のように溶けて、消えていく。どこから来て、どこへ行ったのか、誰も知らないまま、それはこの世界から消失していった。


 温かいものはティシラの手を掴み――今度こそ、しっかりと掴み、闇から救い出すように、力強く引き上げていく。
 痛みも苦しみもなかった。
 温かい。ずっと欲しかったものが、手から腕へ移動し、肩を、背中を、全身を包んでいく。
 不思議と、もう怖くなかった。
 そうだ、と思う。
 ――私は、これを探しに来たんだ。
 もう大丈夫、何も怖くない……ティシラの心は満たされ、安堵し、小さな子供のようにその腕の中に身を委ねた。





   

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