SHANTiROSEHOLY MAZE-55ティオ・メイの城の屋上で、トールが遠くを見つめていた。背後には疲れ切った魔法使いたちが集まって国王の背中を見つめている。 太陽は既に頂点を過ぎ、予定通りなら魔女の処刑は始まっているはず。シールから何も連絡はなかった。ライザもサイネラも行方不明になっていた。屋上にいる魔法使いに尋ねると、彼らは言い難そうに、二人は時間差でウェンドーラの屋敷へ行ったことを白状した。理由までは知らないという彼らの言葉をトールは信じた。あの二人がこの状況の中、無闇に城を空けるとは思えない。それに、魔法使いの考えは理解できないことが多い。強い意志を持っての行動なら強制することはできないし、しようとも思わなかった。 ラストルは徐々に体力を失っていっており、もう長くはないことを誰も否定してくれない。ルミオルも案内されたはずの部屋にはいなかった。シールの近くにいる兵にシオンを探すように命令を送ったが、彼らからもまだ何も音沙汰はない。 ただ一つ、秘密裏で期待できるを情報を入手していた。どうやらドゥーリオは無事なようで、彼がシールの監獄を破り、ノイエを倒したという噂だった。誰かが漏らした情報が流れてきただけではあるが、確かな筋からのものだった。きっとドゥーリオは役目を失って自棄になっているのだと、トールは思った。罪を犯したことは間違いないとはいえ、何の話もできないまま彼を失いたくなかった。恐れずに戻ってきてほしいと願っていた。 トールはすっかり意気消沈しており、誰からかの報せを待つことしかできなかった。 そんな彼にも、天使の幻は恩恵を与えていた。 魔法に疎い彼でも、この異常な現象が特別なものだとしか思えなかった。ライザとサイネラの顔が脳裏に浮かんだ。あの二人が関係しているとしたら、これは魔法使いが起こした「奇跡」に違いない。 早く答えが知りたいと気を逸らせていたトールだったが、彼も例外ではなく、巨大な天使の美しさに魅了されて立ち尽くしていた。 空の彼方に消えていった天使をいつまでも見送っていると、屋上に描かれた魔法陣のその上に、紫の別の魔法陣が浮かび上がった。 魔法使いたちさえ何が起きたのか分からずにいると、魔法陣の真ん中に、三人の人の姿が象られた。 トールは何度も瞬きをしてそれらを見つめていた。 気を失ったティシラと、それを抱えるマルシオの二人は、可哀想なほど血と傷で汚れていた。だが、その隣に「彼」がいる。きっと時間通りに処刑が行われたのだろう。だから二人は傷ついているのだと思う。それなのに、「彼」がそこにいるだけで、二人は救われたのだということが伝わってきた。 あまりの衝撃に、すぐには動けずにいたトールにクライセンは気付き、しばらく彼の顔を眺めていた。 「ああ、トールか」 クライセンは大人になった彼を初めて見たため、名を思い出すのに時間がかかってしまっていたのだった。 「変わったな。昔より、少しマシになった」 修羅界にどれだけ長く閉じ込められていたか、クライセンはここでやっと自覚を持つ。 周囲の魔法使いたちは、許可もなくいきなり現れて国王に失礼な口をきく無愛想な青年を怪訝に思う。しかし先ほどの魔法陣から、彼が普通の魔法使いではないことだけは理解していた。何より、一人で依送の術を行う者を初めて見た。できることならやり方を教えて欲しいと、青い目の魔法使いに興味津々だった。 トールは声を聞いて、だんだん実感が湧いてきていた。 先ほどの巨大な天使は、彼の魔法だった。そして、ライザとサイネラがクライセンを救い出したのだと思うと、感激がこみ上げてきて止まらなくなった。 「クライセン……!」 少年に戻った気分で、トールは彼に駆け寄った。しかしトールはもう少年ではない。クライセンは片手を出して彼の抱擁を断った。 「何だよ、冷たいな」トールは涙目で、だが嬉しそうな笑顔を浮かべていた。「抱きしめてキスさせてくれよ。こんなに嬉しいことは滅多にないことなのに」 「そうだね。私も嬉しいよ。でも今はちょっと忙しいんだ」 「そうか。それなら仕方ないな」トールはマルシオに顔を向け。「マルシオ。酷い傷だな。ティシラは無事なのか」 「あ、ああ」マルシオは我に返ったように。「怪我してるけど、気を失ってるだけだ」 「そうか」トールは優しく目を細める。「クライセンが助けてくれたんだな」 トールの感慨深い言葉に、マルシオは改めて彼が帰ってきたことを実感し、また胸が熱くなった。 「君たち、しばらく静かにしててくれないか」 クライセンが言うと二人は口を噤み彼に注目した。 するとクライセンは呪文を唱え始める。また黒い影が現れた。クライセンはそれと向き合い、声は出さず唇だけ動かして少しの会話をした。そのうちに、黒い影は一度浮き上がり、すっと石の床に消えていった。 「今度は、何をしたんだ?」 マルシオが尋ねると、クライセンは死神の消えたほうを見つめたまま答えた。 「彼の名はドーム。人の生き死にを定められた道へ導く、運命の神だ」 トールには何の話かまったく分からない。なのに、当然のように会話に混ざってくる。 「つまり?」 「死ぬ運命にある者の命を救うように頼んだ」 やはり意味が分からない。だんだんクライセンの死神の「使い方」が読め始めていたマルシオはまさか、と胸騒ぎを覚えた。 少しの時間、誰も口を開かなかった。しんとした屋上に、一人の魔法兵が駆け込んできた。 「国王陛下!」 尋常ではない様子に、トールは真面目な王の顔に戻って兵に駆け寄った。 「どうした」 「ラストル様が……」 兵は混乱と息切れでうなく声が出なかった。 「ラストルがどうした」 トールは最悪の報せではないだろうかと青ざめた。兵が胸を押さえて必死で呼吸を整えているところに、更に別の魔法兵が階段を上がってくる。 その兵の隣には、意識を取り戻したラストルの姿があった。 ラストルは息も絶え絶え、兵に肩を借りて一歩ずつ階段を踏みしめていた。 「……ラストル様が、意識を取り戻されました」 報せにきた兵がやっと用件を伝えたが、既にトールの意識は別のところに飛んでいた。 「ラストル……」 トールは目を見開き、クライセンに目線を移した。彼は冷たい表情のまま、じっと目を見つめ返しているだけだった。トールは先ほどの「死ぬ運命にある者の命を救うように頼んだ」という言葉を思い出す。やはり彼がラストルを救ってくれたのだと確信した。 ラストルは意識を失う前の彼とは変わっていた。トールの前まで来て崩れるように膝をつき、血色の悪い顔で目を伏せた。 「陛下、ラストル王子が回復なされました」連れてきた兵も嬉しそうに声を震わせていた。「信じられません、奇跡です。安静にしていただきたかったのですが、王子が今すぐ、どうしても陛下に会いたいとおっしゃるもので……」 ラストルは目を覚ました途端、自分の置かれた状況を思い出し、いても立ってもいられず体を起こした。寝台から落下してもなお、這ってでもトールに会いたいと言って聞かなかったのだった。 「父上……どうか、愚かな私をお許しください」 トールは突然の謝罪に戸惑った。 「今まで私が重ねた罪を償わせてください。しかし私は無知で未熟。どうか、私を許し、父上のお力をお貸しください」 命を繋いだだけではなく、改心したラストルにトールは感動せずにはいられなかった。 命は尊い。神から与えられた幸福を無駄にしてはいけないのだ。 トールはそんな当たり前のことを噛み締め、これから親子で国を愛し、守っていくことができる奇跡に深く感謝した。 「ラストル……そんな他人行儀なことはやめてくれ。父親が息子を許さないわけがないだろう」 ラストルはトールの愛情に触れ、ただただ、後悔の念に押し潰されそうだった。 「父上、私はまず謝らなければなりません。これまで私の傲慢で傷つけてきた者、すべてに」 顔を上げた先に、マルシオとティシラの姿があった。 ラストルはふらつきながら立ち上がり、二人にゆっくりと近づいていく。 傷だらけの二人を見るだけで心が痛んだ。自分のせいだ。自分のせいで彼らをつらい目に合わせてしまった。 「マルシオ、君にも謝りたい」 マルシオは変わり果てた彼の様子に目を丸くした。気分は悪くないが、馴染むには時間がかかりそうだった。 ラストルはおぼつかない足を一歩進めながら、彼の腕の中で気を失っているティシラに目を移す。 「ティシラは? ティシラは無事なのか」 マルシオは片足を引いた。 「私はティシラにも謝らなければいけない。彼女には償い切れないほどの傷を与えてしまった……」 二人の間に何があったのか知っているマルシオは気まずさを抱く。 クライセンがここにいるからだった。 ティシラはクライセンだけを思い続けていたはずなのに、儀式とはいえ、ラストルと関係を持ってしまった。クライセンも、ラストルとは面識はないが、そのことを知っているはず。これ以上彼女に安易に近づいて欲しくなかった。 (……そういえば、クライセンとティシラって、どうなってるんだろう) そんなことを考えていると、クライセンが一歩移動し、歩くのもやっとな状態のラストルの歩みを遮った。 ラストルは足を止め、目の前に立ちはだかる見たことのない青年を見つめた。 「……あなたは?」 マルシオは想像もしていなかったクライセンの行動に、寒気を感じた。事情を知っているトールも体が固まって何もできなかった。 クライセンはラストルの質問には答えず、拳を握って肘を引く。そして、心も体も弱り切っている少年を殴り倒した。 無防備だったラストルは床に叩きつけられ、衝撃で口を切り、血を流す。 そこに居た者のすべてが飛び上がるほど驚愕した。 クライセンは眉一つ動かさず、顔に痣を作って茫然としているラストルからトールに顔を向け、冷たく言い放った。 「君の息子か?」 「え、あ、ああ」 「一体どういう育て方をすればこんなバカになるんだ。こいつ一人のせいでどれだけの人が迷惑を被ったことか。今からでもいいから躾け直しておいてくれ」 トールは二の句が告げないどころか、魔法王とは思えない俗な行動に反応に困ってしまっている。魔法兵の中には気を失う者もいた。 信頼できる友人とはいえ、自分の息子に手を上げ、ここまで失礼なことは言われたら普通なら激怒するところである。しかしラストルの命を救ったのはクライセンだ。その彼に「やり直せ」と言われたら、そうするしかないと思う。 その様子を見つめていたもう一人の人物がいた。階段からこっそり身を隠して覗いていたのは、ルミオルだった。 じっとしている理由のなかった彼は客室を勝手に出て城を徘徊していた。このまま黙って出て行こうかと考えていたところに、空に天使が出現した。そのあとラストルが意識を取り戻したと騒ぎが起こり、人に見つからないようにあとを着けてきていたのだった。 (……誰だ? あれ。魔法使いってのは分かるが) ルミオルは青年の、トールにさえ横柄な態度に驚いていた。友人だとしても酷いし、問答無用で一国の王子を殴るなど、普通なら投獄ものである。 (もしかして、あれが魔法王か?) ルミオルが知らず、トールにこれだけの口がきける者であり、まるで手下のように萎縮したマルシオが傍にいる。他に考えられなかった。魔法王のことは一通り学んでいるし、以前にマルシオからも話を聞いたことがある。彼の人柄や人格までは知らされていなかったが、まさかここまで「特殊」な人物だとは想像していなかった。 (怖い男だな)ルミオルはそっと顔を引っ込める。(今出ていったら俺も殴られるかもしれない……逃げよう) ルミオルはフードを深く被り直し、早足で走り去っていった。 ラストルはあまりのショックに立ち直れず、僅かな抵抗もできずに項垂れていた。 「マルシオ、次行くよ」 クライセンは再びマルシオの襟首を掴み、呪文を唱えた。 「え? 次って、どこへ?」 死神は三人いる――マルシオはその言葉を思い出しながら、クライセンとティシラと一緒に姿を消した。 ***** ウェンドーラの屋敷の庭は、まるで平和を描いたように穏やかだった。 いろんな色の花が咲き誇り、緑は豊で深く、爽やかな風が吹き抜けていく。木々から鳥が羽ばたき、草の上で昼寝をしていたジンがふっと目を開け、顔を上げた。 庭で風が回った。それは竜巻のように、大きく、強くなっていく。 ジンが体を起こして数歩走り、振り返って回る風を見つめた。 揺れる草の上に魔法陣が出現する。その中央に、クライセンとマルシオ、ティシラが姿を現した。 マルシオは思ってもいなかった場所が目の前に広がり驚いていた。 帰ってきた。 クライセンも、ティシラも一緒に。 地面に伏せて様子を伺っているジンを見つけ、マルシオは心躍った。 「帰ってきたんだ……」 言葉に出すと、目頭が熱くなる。 「サンディル様はいるかな? きっとすごく喜ぶぞ。なあ、クライセン」 だがクライセンは返事もせず、笑いもしなかった。黙って歩を進め、玄関に向かう。 後に着いていくマルシオは浮かれた気分を抑えた。 三人目の死神が残っているのだ。まだ終わっていない。 家の中は静かだった。人の気配はない。 マルシオはティシラをリビングのソファに下ろし、奥に歩いていくクライセンを追った。 この屋敷に長いこと住んでいるが、家主であるクライセンがいたことはなかった。あるとしたら、猫の姿をしていたときだけだ。 クライセンが自分の生活のする場所に帰ってきた。それだけで嬉しかった。 「どこに行くんだよ」 黙ったままのクライセンの後を着いていきながら、マルシオが尋ねる。 クライセンは地下の長い廊下を歩いていた。 ここは来たことがある。途中の部屋には薬草が保管してあった。廊下のその先は行かない方がいいとサンディルに言われて、それきりだった。 廊下は同じ光景が続いた。どこにも辿りつかないどころか、戻ることもできなくなりそうで不安が募る。 そのうちに視界の先に扉が現れた。 見た目は普通だが、廊下に終わりがあることが分かっただけでほっとする。 クライセンはやはり何も言わず、室内に入った。 中は真っ暗で何も見えなかった。クライセンの足音だけが聞こえ、数歩進んだところで彼が足を止めた。マルシオが立ち尽くしていると、室内の奥、暗闇の中に数百本ものろうそくが一斉に火を灯した。 マルシオは闇が照らされても安らぎは感じなかった。 ろうそくの下に、サンディルの石像があったからだった。 「え……?」 何が起こったのだろう。動揺しながら周囲を見回すと、ライザ、サイネラ、ラムウェンドもいる。そのすべて、人の形をした白い石だった。 「サンディル様……?」 マルシオは恐る恐る石に近づき、手を近づける。触れるのが怖かった。 「なあ、これ、なんだよ」 顔色一つ変えないクライセンに、マルシオは真っ青な顔を向けた。 「彼らは自分の命と引き換えにして、私を連れ戻したんだよ」 クライセンの言葉で、マルシオはすべてを把握した。 この室内で、四人が魔法王を蘇らせたのだ。 生きた人間が、未知の世界に閉じ込められた。そこから救い出すには気の遠くなるような知識と技術が必要。それに伴う代償も生半可なものではない。 クライセンが帰ってきた。 それだけなのに、手放しで喜べるはずがなかったのだ。 「そんな……」マルシオは震え、涙を零した。「せっかくクライセンが帰ってきたのに、サンディル様は顔も合わせられないのか? ずっと待ってたのに、たった一人の父親なのに……」 それだけではない。犠牲になったものはあまりに大きい。 「ラムウェンド先生がいなくなったら、アカデミーはどうなるんだよ。サイネラ様がいなくなったら、ティオ・メイの魔法も、トールも、誰が守るんだ」 マルシオは一人一人の無機質な顔を見つめる。 「ライザ……ラストルが助かったんだぞ。ルミオルも素直になったし……これからだっていうのに、どうしてこんなことしたんだよ」 問題を解決して、せっかくこれからいいほうに向かっていきそうなときなのに。あまりにも犠牲は大きく、悲しみが止まらなかった。 泣き崩れるマルシオを余所に、クライセンは親の死を見ても動じなかった。 「まったく、この爺さんは碌なことをしないな」 冷たい言葉を吐く彼を、マルシオは涙を散らして睨み付けた。 「お前を助けるために犠牲になったんだろ。そういう言い方するなよ」 「この人は君が思うほど心の綺麗な人間じゃないよ。ノーラが暴走したのもこの人が原因だったし、それを償うために結局は三人もの魔法使いを巻き込んでいる」 どうしてそんなにひどいことを言うのかと怒りがこみ上げたが、サンディルのことはクライセンのほうがよく知っている。マルシオは反論することができなかった。 「……でも、どうして石になっているんだ」涙を拭っても、また頬に落ちてくる。「天使と魔族が石になることは知ってるが、人間が石になるって、どういうことなんだ」 「人間は魂と肉体が別で、死ねば肉体は滅び、魂は死神の掟に従い、あるべきところへ行く」 「あるべきところって?」 「それは私も知らない。ただ、この世に戻ってくることはないのは確かだ」 「じゃあ、サンディル様たちの魂はどうなっているんだ」 「石になっているということは、肉体は滅んでいない。ここで行われた術は蘇生に近いものだった。だが蘇生ではない。私の魂は死神の元へは行っていなかったからね。修羅界に閉じ込められていたものを呼び戻しただけ」 それでも、クライセンの魂が修羅界に留まってしまったのは自然の原理に従った結果に過ぎなかった。 「それを連れ戻す行為は生死の掟を破ると同罪。だから彼らは肉体を石に変えられ、魂を閉じ込められてしまうという罰を受けたんだ」 マルシオから悲しみが薄れていく。 クライセンがここに来た理由が、「三人目の死神」と関係しているという予感を抱いたからだった。 もしかして、と息を飲むマルシオに、クライセンは口の端を上げた。 「彼の名はラウ――生死の掟を守る秩序の神」 クライセンが目を閉じ、呪文を唱えると、三人目の死神が現れた。また同じように影と会話を交わすと、影は暗い室内を一周回り、闇の中に消えていった。 マルシオが影の動きを見届けて立ち竦んでいると、どさりと人の倒れる音がし、振り返った。 先ほどまで白い石だった四人が人間に戻り、倒れていたのだった。 マルシオは違う涙がこみ上げてきた。 クライセンは、三人目の死神に彼らを許すように頼んでくれたのだ。 「私ができるのはここまでだ」 そう言って、クライセンは扉に向かった。 「少し休む。マルシオ、みんなの介抱を頼むよ」 マルシオはサンディルに息があることを確かめ、退室していくクライセンの背中を見送った。 Copyright RoicoeuR. 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