SHANTiROSE

HOLY MAZE-56






 誰の指示でもなく、天使が世界を包み、人々を癒した奇跡は大きく報道された。
 やはり天使は今も人間を見守っていてくれている。道に迷ったときは闇を照らして救ってくれるのだと皆喜んだ。
 だが魔女の事件で疑心暗鬼になり、家族や恋人を裏切ってしまった人の罪は重かった。
 とくにティオ・シールの国民は、捕えられていた女性が帰ってきても元に戻れる者は少なかった。離別を余儀なくされた家庭も多く、しばらくは混乱が続いた。
 国王カーグは魔女を取り逃がし、危うい立場に追いやられていた。
 人々は天使の出現で正気を取り戻しており、国王が魔女を利用して国民を操ろうしていたのではないかと疑い始めていた。
 カーグは籠城し、しばらく沈黙していた。
 回復したノイエは自分を恥じ、責任を取るために自害を望んだ。しかしカーグは、いなくなられては困ると、今までどおりに働くよう命令を下した。
 ドゥーリオの消息は不明となっており、監獄内で何が起こったかを見た者はいなかったとはいえ、ノイエは魔法使いとしてのプライドが許さないと抵抗していた。だが追い詰められていたカーグはとうとう頭を下げ、せめて国が安定するまでは居て欲しいと懇願した。ノイエは苦悩を抱えたまま、決断を先延ばしにすることになった。

 その日の夜、トールから連絡が入った。もう逃げることはできない。カーグは対談に応じた。
『カーグ、魔女の件は君が責任を持って解決すると言ったな』
 カーグは警戒し、言葉を選び、慎重に返事をする。
「その通りだ」
『魔女を取り逃がしたそうだが、どうやって責任を取る?』
 カーグは奥歯を噛んだ。あの魔女は間違いなくトールの知り合いのはず。彼は勝利を確信し笑っていることだろう。
 あのあと、「シェリア」という娼婦を送り込んだミスレを問い質した。しかし店側が持つ「シェリア」に関する情報が食い違っており、ティオ・メイとの関係を暴くことができなかった。ティシラの写真を見たオーナーは「シェリア」はもっと地味な顔立ちで髪も目もブラウンだった、こんな少女は知らないと言い張った。娼婦の身内に関しては、足抜けを防ぐために一切の資料を残さないのが店の方針で、彼女を連れてきた男のことも分からないの一点張りだった。
「シェリアはティオ・メイが身請けし、その取引も完了いたしました。よい仕事をした女性の人生を守るため、ミスレの手から離れた者とは絶縁する決まりでございます。これ以上シェリアについてお話できることはありません」
 オーナーはそうきっぱりと言った。彼がこれほど大きな問題が起きても毅然としていられるのは、既に「シェリア」がティオ・メイに引き渡されたからだ。あとは知らぬ存ぜぬ、ミスレとしてはそれ以外の対応はなかった。
 これはつまり、どこかで「シェリア」が入れ替わっていたということ。そしてティオ・メイはミスレに多額の報償を出して取引を終わらせているということだった。本物の「シェリア」はどこへ行ったのか、何も分からず、「シェリア」という娼婦と黒髪の魔女との繋がりも途絶えてしまった。
 娼婦という、あまり表沙汰にできない立場を利用し、うまく工作員を潜り込ませたトールに、カーグは更に恨みを募らせた。
 だがそれ以上に、この混乱を収めることが先決だった。
「……魔女は、いなかった」
『なんだって?』
「あれは、悪魔だ。魔女ではなかった。我々の手に負えるものではなかった。その証拠に、天使が現れた。天使が悪魔を滅したのだ。そうだろう?」
 トールはカーグの苦渋の判断に苦笑いを浮かべた。
 だけど、それでいいと思った。
『そうだな。私もそう思う』
 それが二人の国王の答えとなった。
『ところで、事件の発端となった行方不明の女性はどうなった』
「……死亡していた。殺人だ。犯人は、アジェルだ」
 アジェルはティシラに重傷を負わされ、城で治療を行っていた。彼は必ず魔女を退治すると豪語していたが、もう彼の話を聞く気のなくなっていたカーグは、予定通りアジェルにすべてを押し付けることを決定していた。
 アジェルは片方の耳も目も潰れ、頬や肩の肉も抉れるという大怪我を負っていた。その治療も終わらぬうちに投獄され、後日、無実の女性を殺害し、魔女を利用し人々を混乱に陥れた大罪人として裁かれることになった。
「魔法使いという名に騙され、真実を見抜けなかった私にも咎はある。国民の信頼を取り戻すため、尽力する」
 トールはこれ以上彼を責めるつもりはなかった。カーグを潰せばティオ・シールは崩壊し、ティオの名を持つ国の名誉が汚れる。彼が正しく罪を裁くのなら、敬意を払うことに抵抗はなかった。
『そうか。もし私にできることがあるなら言ってくれ。メイとシールは兄弟だ。協力するよ』
「……感謝する」
 カーグは内心、腸が煮えくり返りそうだった。過去のことを含め、メイの王に兄弟などと言われることは侮辱だとしか思えない。それでも、国を守るために、今は耐えるしかなかった。
 いつかまた機会が巡ってくれば必ず牙を剥き、覇権を取り戻す。
 カーグの本音を、トールは察した。それでいいと思う。国同士、仲良く慣れ合うものではないことを知っているから。睨み合っているくらいが、ちょうどいい関係を保つことができる。
『ラストルは一命を取り留めたよ。いろいろと世話になったね。刺した犯人は未だ不明だ。こちらで探す』
「それは何より……犯人のことは何も分かっていない。必要があるなら城内を調べてもらって構わない」
『ああ。そのときは頼む』
 このあと二人は細かい情報を交換し、話はゆるやかに進み、静かに終わった。
 大国の衝突は避けられた。
 正義も価値観も変わらなかった。
 一部を除き、穏やかな平穏の日々が戻ってきた。



*****




 ラストルの体調は順調に回復していった。しかし本人は落ち込み、塞ぎこんで立ち直るには時間がかかりそうだった。
 以前の鉄のように冷たく堅い彼とは打って変わり、卑屈で弱気な、情けない男になっていた。
 今まで酷いことをした相手に謝りたいと、そのことばかりを考えていた。トールと、帰ってきたライザに自分の気持ちをすべて打ち明けた。
 過去、ルミオルと何があったのかも、彼に何をしたのかも。
 それを聞いたライザは涙が止まらなかった。ラストルは辛い経験で心を閉ざしていたことを知り、気づいてあげられなかった自分を責めた。
「母上、どうか泣かないでください。何もかも、私の弱さのせいだったのですから」
 ラストルはこれ以上自分のせいで悲しむ人を見たくなかった。
「ラストル、だったら、これから強くなってください」
 ライザは息子の手を握り、虚ろな彼の目を見つめた。ラストルは手を解き、目を逸らす。
「いいえ……お願いがあります。私を時期国王候補から外してください」
 トールは眉を寄せ、語気を強めた。
「何を言っている」
「私がこうなったのは誰のせいでもありません。私が弱かったから道を誤ったのです。今も変わりません。きっと、これからも」
「……そんなことは分かっているよ」トールは溜息混じりに。「お前は弱い。弱さを隠すために鉄の仮面を被っていたんだ。昔から、そうだと思っていたよ。それでも、私はお前に未来を背負って欲しいんだ」
「……なぜでしょうか。ルミオルがいるではありませんか。私は先に生まれてきただけです。ほんの数年、早かっただけ。ルミオルのほうが、よほど国王に相応しいと思います」
 ラストルは、自分のことをルミオルが今まで誰にも告げ口しなかったことに胸を痛めていた。あれだけ憎み合い、謀反さえ起こそうとした彼がどうして本当の理由を黙っていたのか理解できない。ラストルが弟を裏切り、彼を見殺しにしてでも自分だけを守ろうとしたことを言えば、誰だってルミオルに同情しただろう。
「なぜルミオルが黙っていたのか、分からないのか?」
「……分かりません。ルミオルは私を憎んでいました。当然のことです。なのに、私の卑劣な行動を隠し続けていました。いっそすべてを明かして復讐してくれればよかったのに」
「ルミオルは、お前が国王になるべきだと分かっているからだよ」
 ラストルの話を聞いて、トールもライザも、ルミオルの気持ちが理解できていた。
「ルミオルはお前にない強さを持っている。それだけではない。優しさも、信念も持ち合わせている。だからこそ、お前のしたことを誰にも言わずに秘めていられたんだ」
 ラストルは目を震わせた。何度も泣いたのに、物事を考えるたびに涙がこみ上げる。
「謀反を起こそうとしたときも、お前を殺すつもりなんかなかった。それどころか、自分が死のうと覚悟を決めていたんだ。なぜだか分かるか? お前が、ルミオルに死んで欲しいと願っていたからだよ」
 ラストルは真実を隠したくて、ルミオルの存在を疎ましく思っていた。彼さえいなくなれば、保身のために弟を見殺しにしたことは誰にも知られることはない。ラストルはルミオルを恐れていた。ルミオルがいつか、機を見てこの事実を明るみにしようと企んでいるのではないかと、怖くて怖くて仕方がなかったのだった。
「でも、ルミオルはお前が思っているよりも賢かった。ルミオルは、国王を継ぐのはお前しかいないと、確たる信念を持っていたんだ。だから恨みながらも、お前の名誉を汚すことだけはしなかったんだ」
 その真実は、傷ついているラストルの心を更に苦しめた。
「どうして、私なのでしょうか」
「お前にはその資格と器があるんだよ」
「……分かりません。私のどこに、そんな力があるというのでしょう」
 また力をなくしていくラストルを見て、ライザが涙を拭ってトールを止めた。
「この話はまたあとにしましょう。時間はたくさんあります。ラストルは疲れているのですから、あまり重い話をしても苦しいだけです」
 それもそうだなと、トールは感情を抑え、ライザと退室してラストルを一人にすることにした。


 部屋を出て廊下を歩いていると、サイネラが小走りで駆け寄ってきた。
「国王陛下、女王陛下、朗報でございます」
 悩みの多いサイネラが珍しく嬉しそうにしていた。
「ドゥーリオ殿が戻っていらっしゃいました」


 急いで王室へ向かうと、先に案内されていたドゥーリオが、二人を見て深く頭を下げた。足元には、ニルの入った鳥かごがあった。
 怯えたような態度の彼を、トールは笑顔で迎え入れた。
「ドゥーリオ、よく戻ってくれた」
 混乱のあと、ドゥーリオの行方を探すようにあちこちの兵に命令を出していたのだが、見つからなかった。このまま行方不明になってしまうのか、彼のことだから責任を感じて一人で自害してしまうのではないかと心配していた。
「陛下、このたびは、申し訳ございませんでした」
 ドゥーリオは手を差し出すトールから一歩離れ、下げた頭を上げようとしなかった。
「私は罪人です。ティオ・メイに裁いて欲しくて参りました。どうか、私を捕えてください」
「何を言っているんだ」
「同情は不要でございます。私も魔法使いとしてのプライドがあります。どうか、どうか、正しいご判断をお願いいたします」
「ドゥーリオ、お前が一体なにをしたと言うんだ」
「私はティオ・シールの監獄を破り、ノイエ殿に暴力を振るってしまいました。釈明も何もございません」
「監獄? ノイエ? 何のことだ」
 とぼけたトールの態度を不振に思い、ドゥーリオはそろそろと顔を上げた。
「カーグに聞いたが、監獄の管理人は居眠りをしていたらしいし、ノイエは変わりなくカーグに仕えているそうだ」
「え……」
「そんなことより、ラストルがお前に謝りたいとずっと言っている。会ってやってくれないか」
「ラストル様が……?」
 何が起こっているのか理解できないドゥーリオを見て、ライザが笑顔を零した。
 トールはドゥーリオのことも、カーグと話し合っていた。ドゥーリオに敗れて立場をなくしたノイエの失態を口外しない代わり、ドゥーリオのしたことも追及しないと密約を交わしていたのだった。
 幸いなことに、監獄でのできごとは二人以外、何があったのかを知る者はいない。結果的に冤罪で捕まっていた人々にもドゥーリオは身分を明かさなかったため、シール国王の意向で解放されたということになっていた。
 ドゥーリオは戸惑い、素直に喜ぶことができなかったが、トールに「ラストルと話をしてほしい」と頼まれ、断ることができなかった。
「私は今までどおり、ドゥーリオにはラストルの傍にいて欲しいと思っている。もし考えがあるのなら、一人で決めずに相談してくれ」
 ドゥーリオは気まずそうに、ラストルの休んでいる部屋に案内されて行った。
 しばらく二人は部屋から出てこなかった。きっとラストルが今までの思いを吐き出しているのだと思う。
 トールもライザも安心し、一つずつでもラストルの罪悪感を解消していこうと心に誓った。



*****




 数日後、エルゼロスタは閑散としていた。
 ほとんどの団員が里帰りをしており、里がない者は近場に旅行に行くよう、団長に言われて出払っていたのだった。


 あれからメイの兵が、血塗れのシオンを背負って病院を探していたアミネスとフィズを発見した。
 トレシオール国王陛下が、と同行を願おうとするのを遮られ、とにかくシオンを助けて欲しいとアミネスに泣きつかれてその場で応急処置を施した。
 シオンが自らにナイフを向けたとき、アミネスとフィズに咄嗟に止められて刃は彼女の足に突き刺さっていた。命に危険はなかったが、傷は深かった。
 そのあと病院に運ばれたが、後遺症が残る可能性が高いと診断された。
「……シオンは踊り子なんです。足が動かなくなるなんて考えられません。治れば、復帰できるんですよね?」
 アミネスが医者に尋ねたが、医者は首を横に振った。
「普通の生活に支障はなかったとしても、激しい運動は無理でしょう」
「そんな……何年くらいかかりますか?」
「怪我が治らないと何とも言えないが、最悪は、一生足に痛みを抱えていくことになるかもしれません」
 シオンの踊り子としての生命は絶たれたと言って過言ではなかった。
 治療が終わっても、シオンはまともな受け答えができず、虚ろな目で遠くを見つめていることが多かった。
 三人はメイの兵に同行されてエルゼロスタに戻った。
 やつれたシオンを見て、キリスは泣きながら彼女を抱きしめたが、エンディはシオンと同じくらい落ち込んで伏せってしまっていた。
 兵が事情を聞くと、シオン本人がラストルを刺したことを認めた。ナイフはアミネスが取り上げ、シオンを運ぶ途中にあった大きな川に投げ捨てたため、見つからなかった。
 兵はその情報をトールに伝えた。だがトールは彼女を罪に問わなかった。
 後日、トールの使者がエンディを尋ねた。やはりエンディは歓迎しなかった。
「シオンは廃人のようになっている。もう舞台にも立てない。これ以上、あいつに何を架せるつもりだ」
「ラストル王子が、謝罪をしたいと仰っています」
「断る……! これ以上シオンを苦しめないでくれ。二度と会うことのない相手と話をして何になる。できるだけ早く忘れさせてやりたいんだ」
「でしたら、伝えてもらえませんか。ラストル王子は、本当にシオン様のことを愛していたと」
「…………」
「国王陛下はシオン様を責められるお気持ちはございません。事件については、犯人は調査後に不明のままにされるおつもりです。陛下は、ラストル王子とシオン様のあいだで決着をつけるべきだとお考えです。もしご要望がありましたら申し付けください」
 エンディは使者を追い払って終わりにしたかった。だがまだシオンの本心を聞いていない。もし彼女が望むなら、好きにさせたほうがいいかもしれない。
 エンディはその場は使者を帰し、素直にキリスに相談した。
「若い恋愛ってのは、盲目になるものよ。お互いに初恋で、運命を感じるほどのものだったのなら、傷も大きくて当然だわ」
「シオンは、王子に会いたいと思うだろうか」
「思うでしょうね。できることなら、別れても、最後に愛していると言って欲しいはず。同じ女として、そう思うわ。でも、会わないほうがいいんじゃないかしら」
「どうして」
「二人で決着をつけられるとは思わないの。それができるなら、こんなことにはならなかったでしょう? 可哀想だけど、引き離してしまったほうが、本人のためだと思うわ」
 キリスの言うことが本当に正しいのかどうか、女心など分からないエンディには判断できなかった。
 しかしエンディは団長として、揺るがない決意を抱いていた。
 エルゼロスタはティオ・メイから撤退する。シオンのことを考えれば当然のことで、誰も反対しなかった。ただ、大きくなってしまった武芸団をすべて引きつれて旅を続けるわけにはいかない。エルゼロスタは団をいくつかに分けて、それぞれを信用と実力のある者に任せて運営するという方針を取ることになった。
 エンディは団員とゆっくり、丁寧に話をしていった。反対する者もいれば、怒り、退団を申し出る者もいた。
 時間をかけて、団員全員の行く先を決めて、エンディは団の方針を報告しに城に出向いた。

 話し合いはトールとライザの三人で行われた。異例のことだった。
 トールはエンディの希望を受け入れ、必要な資金を渡すと約束した。
「ラストル王子の体調は、いかがでしょうか」
 顔色を伺うように、エンディから切り出した。
「お気遣い、感謝します。怪我も治り、体調は悪くありません」トールは軽く肩を竦め。「たた、かなり落ち込んでいまして、人前に出られるようになるのは時間がかかりそうですが……ラストルも人の子です。初めての失恋は相当堪えているようです」
「……このたびは、娘が、大変なことを……」
「それは言わないでください。シオンさんの傷のほうが深いことを、私たちは理解しています。ですが、二人の犯した罪は二人だけの胸に秘めておくべきです。そうでなければ、私は娘さんを裁かなければいけなくなります」
 トールは息子を刺されても、見て見ぬふりをして闇に葬ろうとしてくれている。エンディは、心情的にはラストルのせいだと思いたかったが、法的にはシオンのほうが悪い。もし彼女を裁こうものなら処刑をも避けられないかもしれない。しかも世間には、シオンが一国の王子をたぶらかし、命を奪おうとした恐ろしい悪女にしか見えないだろう。本当は、トールもそう思っているのかもしれない。それが父親の愛情というものだ。だが彼は、あくまで二人の問題であると決め、その決意に従っている。すべては国王という立場と、王子の未来を守るためかもしれない。そうだとしたらまた腹も立ってくるが、トールとて心のどこかに、できることなら息子を傷つけた者に報復を与えたいという欲を持っているに違いない。それを耐え、打消し、エンディと対等の立場で話をしているのだった。
 勝ち負けなどない。あるとしたら、エンディとトールの父親としての懐の深さだと思う。やはり彼は国を治める王だ。普通の人間とは違い、一つ高い位置にいると、エンディは実感していた。
「シオンさんのご容態は、いかがでしょうか」
「……娘も、深く落ち込んでいます。傷は塞がりましたが、まだ一人で歩くことができません」
「……そうですか」
「でも、伝えてみました……王子が、シオンを愛していたことを」
 エンディは戸惑うように体を揺らし、苦笑いを浮かべた。
「……泣いていました。もう、女神だなんて言われていた頃の面影もないほど、顔をぐしゃぐしゃにして。それから、少しだけ話をするようになりました」
 悔しかった。家族が心配して彼女のためにできることを精いっぱいして慰めても、シオンは絶望の淵から這い上がれずいた。なのに、結局シオンはラストルの一言で簡単に心を動かされてしまうのだ。しかしシオンももう夢は終わったのだと理解していた。だからこそすべてを思い出にして前を向かなければいけないと決意し、泣いたのだった。
 ライザは同じ女として、シオンの気持ちが分かっていた。
「二人は、取り返しのつかないことをしてしまいました。でも、二人とも、生きています。二人は失敗してしまったけど、掛け替えのない家族や友人が救ってくれました。だからやり直すことができます。何があっても自分を大事に思ってくれる人がいることは、夢や傷より尊いものだと、必ず気付いてくれると信じています」
 ライザの言葉を噛み締め、エンディはティオ・メイに別れを告げて去っていった。


 エルゼロスタの旅立ちの日、団員は荷物をまとめ、それぞれの道を進んでいった。
 シオンは車椅子の生活を余儀なくされており、少しずつ、笑うようになっていた。
 メイを出るときも、旅の途中も、シオンは振り返らなかった。だけど、ときどき、静かに涙を流していた。
 アミネスとフィズは、エンディとキリス、シオンのいる「本部」に所属することになった。二人は身寄りがなく、シオンとも仲がいい。二人のおかげでシオンが命を捨てずに済んだのだ。エンディもキリスも二人が一緒に来てくれることを喜んだ。
 荷物を乗せた馬の手綱を引きながら、アミネスはついついシオンに目線を向けてしまっていた。そこに、フィズが軽い足取りで駆け寄ってきた。
「見て、アーちゃん」手にはカードを持っている。「いいカードが出たんだよ。この旅は幸先がいいよ」
 フィズは自分の占いが当たったことに自信を持ち、前よりもよくカードで遊ぶようになっていた。アミネスも今回ばかりは彼女の占いもバカにできないものだと見直していた。
「へえ、何のカードだ」
「これは『審判』って言ってね、ほら、天使がいるでしょう?」
 カードには大きな天使が描かれており、それに祈りを捧げる人々の姿があった。
「あのとき空に出てきた天使は、これのことだったんだよ。前は悪いカードばかり出てたでしょう? このカードには物語があって、悪いことを乗り越えたら天使が出てきて救ってくれるってことなの。そしてね、このカードは心を入れ替えて新しくやり直そうって意味なの。凄いよ、私の占い、凄く当たる」
 見直すと言っても、やはり占いを信じる気にはなれないアミネスだったが、浮かれているフィズに水を差すのも気が引け、今は笑っておくことにした。
「私、占いの才能があるのかも。占い師になっちゃおうかなあ」
「そうだな。占いで稼いで、俺たちの家計を助けてもらおうかな」
「いいね。そうしよう。困ったときは私に任せてね」
 二人は笑い合ったあと、ふっとシオンに目が行った。
「ねえ、アーちゃん。シーちゃんとの恋愛運、占ってあげようか」
「はあ? こんなときに何言ってんだよ。シオンが元気になるのが先決だろう」
「強がらないの。ほんとはチャンスが巡ってきたと思ってるんでしょ? 私は占い師なのよ。嘘ついちゃだめよ」
「ふざけるな、バカ」アミネスはふて腐れ、目を逸らした。「そんなこと思ってねえよ」
 エルゼロスタはあるべき姿に戻ったのだと、アミネスは感じていた。
 世界に注目されるほどの実力があることは自負している。それでも、こうして旅をしながら、いろんな人にひと時の娯楽を与えるのが性に合っているのだ。


 旅の途中、エルゼロスタ一団は見渡す限りの荒野で別の旅の一行とすれ違った。
 数百人もの大集団で、老若男女、皆似たような衣装をまとっていた。家畜も連れており、彼らが歴史ある小さな民族であることはすぐに分かる。決して裕福そうではなかったが、誰もが新天地を求めて明るい未来を描いて旅をしている様子が見て取れた。特別な言葉は交わさなかったが、きっと自分たちと同じ気持ちなのだろうと感じたエルゼロスタ一行は、足を止めてその民族に手を振った。彼らも歩きながら挨拶を返していった。
 屋根のついた馬車の中から、サフィが顔を出し、旅芸人たちに大きく手を振った。その隣にいた、まだ傷の癒えないリジーも微笑み、小窓から覗き見していた。
 サフィの一族は解放ののち、カーグの送った使者と話し合い、ティオ・シールからいくつかの提案を伝えられた。今回の冤罪については謝罪すること。元々シールの管理下ではなかったのだから、シヴァリナの森からは出て行って欲しいこと。賠償金と移住のための資金は出すと言われ、一族の長は怒りを堪え、冷静な判断を下した。
 森は焼け、今後シールの人々とうまくやっていけるとは思わないため、要望通り森は出て行くことを決めていた。傷を癒すための余計な世話は必要としなかった。一族は排他的で自分たちの力だけで生きてきた。これからも変わらない。ただ、旅の資金だけ援助を申し出、これきりでシールとは完全に縁を切ることになった。
 リジーは自分のせいでサフィたちを巻き込んでしまったことを気に病んでいたが、魔界に戻る方法がないのならいればいいと、皆が望んだ。リジーは魔界でも片隅で生きる低級な類である。行くところもない。できることなら自由奔放なサフィたちと一緒にいたかった。それを伝えると、長は「我々一族は根無し草の日陰者」であるとし、彼女の存在を認め、リジーも連れていくことになったのだった。
「私に特別な力はないけど、怪我が治れば花粉を届けることができる。新しいところに肥えた土と草木があれば、いくらでも果実を実らせてみせるわ」
 リジーは人間の残酷さを見ても絶望はしなかった。自分のような弱く醜い魔族を最後まで見捨てず、助けようとしていた人がいたからだった。
 リジーは「ティシラ」という少女のことを忘れなかった。誰なのかも分からず、顔すら見ることもできなかったが、彼女は約束を守ってくれた。人間界で生きていれば、名前しか知らない相手にいつかどこかで会えるかもしれない。会いたい。リジーはそう強く願い、自由に生きることを選んだ。


 一つのことが終わり、一つのことが始まる。
 旅を続けなさいという天使の下した優しい審判に彼らは従い、新しい道を歩き出していた。





   

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