SHANTiROSEHOLY MAZE-57数日前、天使と悪魔が世界中を騒がせたことなど知りもしないように、ウェンドーラの屋敷には穏やかな太陽の光が降り注いでいた。 目には見えない魔力が漂い、古い屋敷は生き物のように呼吸をしている。気候のいい最近は、庭でよくジンが昼寝をしている。寄ると可愛げのない態度をとるが、遠くから見ているだけなら和みを与えてくれる存在だった。 あれからマルシオは一人でサンディルとラムウェンド、ライザ、サイネラを順番に客室に運び、様子を見た。魔力をひどく消耗しているようだったが、どうやら眠っているだけでとくに問題はなさそうだった。 次にリビングに置きっぱなしにしていたティシラを、彼女の部屋に運んでベッドに眠らせた。血は止まっていたが体も心も披露しきっており、外傷だけでも治しておこうと治癒の魔法をかける。服も汚れや髪の乱れも消え、ティシラは人形のように安らかな眠りについていた。ピンクやフリル塗れの女の子らしい部屋で大人しくしているティシラの可愛らしさは、つい先ほど、悪魔となって炎を纏い爪で人間を切り裂いていたとは思えない。つくづく、じっとしていれば誰もが憧れる完璧な「お姫さま」なのに、と残念な気持ちを抱いた。 マルシオは、ドレッサーに映った自分の姿を見て、人の心配ばかりしている場合ではないことを思い出した。真っ白な髪も肌も服も、血と泥で汚れ、見知らぬ人が見たら死体が歩いているのではと思うほど酷い格好だった。 途端に傷が疼き、疲れが押し寄せた。 マルシオは部屋を出て周囲を見回した。クライセンはどこに行ったのだろう。休むと言っていた。彼がいない間もずっと掃除を欠かさず、あったときのままにしていた部屋にいるのだろうか。マルシオはもう一度顔を見ておきたいと思い、クライセンの部屋に向かった。 しかし、あるはずの部屋のドアがなかった。別の部屋を覗いてみても彼の姿はどこにもなかった。彼の部屋に入れないということは、そこにいるのだと思う。顔は見れなくても、その不思議な現象が「クライセンが帰ってきた」ことを証明している。マルシオは安堵し、自然と目を細めていた。 マルシオが自分の怪我を治療し、服を着替えた頃、ライザとサイネラが目を覚まして飛び出してきた。 「一体、何があったのでしょうか!」 マルシオに向かって大きな声を浴びせ、静かな屋敷で困惑していた。 そういえばまだ世界は混乱のさなかのはず。クライセンもティシラも帰ってきた。マルシオはそれだけで満足し、正直なところ他のことはどうでもいい気分になっていた。 「クライセン様はどうなったのでしょうか」 「ああ、帰ってきたよ」 「本当ですか!」 途端に二人は涙を浮かべる。 「どこにいらっしゃるのでしょうか」 「たぶん、部屋で寝てる」 「案内していただけませんか」 「いや、今は……それより、早く城に戻ったほうがいいですよ」 「え……」 「ラストルが意識を取り戻したんだ。トールも待ってる」 二人は感情が追いつかず、何からすればいいか分からなくなるほどうろたえてしまっていた。 ライザは水晶を借りて城と連絡を取り、サイネラが庭で魔法の準備をし、ばたばたと走り回りながら城へ戻って行った。 最後に、「必ず、クライセン様にお礼を言いに参りますから、どうかどうか、よろしく伝えておいてください」と言い残して。 二人が消えたあと、サンディルとラムウェンドも出てきてマルシオに説明を求めた。 マルシオは二人にお茶を出し、何があったのかを一通り話した。 二人は取り乱すことなく、感慨深そうに目に涙を浮かべていた。 そうして数日、世界の混乱など聞こえてこない屋敷は毎日が休日のような穏やかな時間が流れていた。 事件がどうなったのかは日々届く報道で人々に伝えられていった。 シールは当然、メイも後処理に追われているらしく、直接連絡してくる人は少なかった。 だが例外はいた。トールだ。 彼は相変わらずマイペースで、ラストルを心配しながらも、暇を見つけては水晶を通して話しかけてくる。今までのこと、今後のことなど、クライセンと話したがっていたが、彼との会話は短く、すぐにマルシオに押し付けられてしまっていた。 マルシオはトールの気持ちを理解し、できるだけ付き合っていた。 『……ルミオルが帰ってこないんだ』 ルミオルはあのあと、皆の目がラストルに向いている隙に城を出て行方不明になってしまっていた。それに気づいたトールはすぐにあちこちの兵に命令を出して探させ、一度は城下町の裏路地で見つけた。しかしルミオルは兵に酒に付き合わせたあと、「もうしばらく自由を満喫したい」と告げてまた姿をくらましてしまったのだった。 「だから、俺も知らないって言ってるだろ。大体追い出したのはお前なんだし、向こうから出てくるまで待ってろよ」 『勘当は建前だよ。仕方がなかったんだ。僕を責めないでくれよ』 「責めてるわけじゃない。ルミオルも子供じゃないんだから、ほっといて大丈夫だよ」 『でも事件や事故に巻き込まれていたら? 道に迷ってひもじい思いをしていたら? そんなことを考えてしまって落ち着かないんだよ』 これが大国を治め、世界一の軍隊を持つ王の言葉かと、マルシオは呆れ果てる。 「あのな、小さな子供じゃあるまいし。ルミオルだってそこまでバカじゃないことくらい分ってるだろ?」 『もう出ていく理由はないじゃないか。どうして城にいてくれないんだよ』 「そうかもしれないが、お前だって昔はまともに王子やってなかったじゃないか。お前に似てるんだよ、ルミオルは」 それを言われるとトールは肩身が狭くなる。あの頃は確かに、身分を捨てて旅をすることで特別な勉強ができると信じていたし、決して無駄ではなかった。誇りに思うほどの経験を積んだとまで思うが、今の立場になってみて、改めて父グレンデルとライザがどんな気持ちだったかを思い知らされることになっていた。 『……ラストルが会いたがってるんだ。早く仲直りして欲しい。早く二人が敬い合う姿が見たい』 この話も何度も聞いた。そのたびに、だからルミオルは逃げているんじゃないだろうかと思うが、口には出さないようにしていた。 「騒ぎが落ち着くのを待っているんじゃないのか。しばらく忘れて、時間が経つのを待つしかないだろ」 トールはこの場は諦めたように話を変える。 『ところで、ティシラはまだ眠っているのか』 「ああ……もう傷は癒えている。寝返りを打ったりしてるし、目を覚ましてもよさそうなんだけど」 『そうか。早くクライセンに会えるといいな』 「……もう目の前にいるんだけどな」 トールはいつもティシラのことを案じていたが、僅かに緊張の糸が張るような空気が漂う。理由は当然、マルシオにも分かっていた。ラストルとのことがあったからだ。 あれから一度、クライセンに修羅界のことを聞いた。彼は面倒臭そうに「ティシラが魔薬を奪って、ノーラを叩き潰した」というようなことを言っていた。 その内容は驚きだったが、想像することは容易く、すぐに納得がいった。 「ティシラが記憶をなくしたことは理由がある。あの世界で見たものは覚えていないほうがいいからだ」 彼らが見たものは、言葉では説明できないものだった。今ある世界の感覚では理解できない、別次元が生まれようとした瞬間に立ち会った。その未知の世界が消失してしまった理由は、ティシラという「神」が、なくていいと判断し、滅びの道を選んだから。だからティシラの記憶から消えてしまったことに何の間違いもないとクライセンは言った。 「でも、お前は覚えているんだろ?」 「私はあの世界の、あるべき形の中の一部になった。あれが何なのか、不要な情報ではあるが、見てしまったものはしょうがない。忘れるまでは覚えているだろうね」 しかしクライセンはそれ以上は話さなかった。ティシラとは何の話をしたのか聞いても、「秘密」だと言ってはぐらかされ、それっきりだった。 マルシオはクライセンがいないあいだに何があったのか、変わったことを話した。あまり興味なさそうだった。それに、適当なところで席を立ったかと思うと行方不明になってしまうのだった。そして次の日の朝には普通に起きてくるを繰り返していた。おそらく、それが彼の日常で、こんな日が続くのだとマルシオは思った。 マルシオが気になっていたのは、ラストルのことだった。なぜあれほど問題が拗れてしまったのか、その理由もすべてクライセンは知っているはず。ティシラの行動は苦肉の策だった。彼女を庇いたかったが、余計なことは言わないほうがいいかもしれないとも思い、その話はできなかった。 とにかく今はティシラが目を覚まさないことには何も分からない。 そう思いながらティシラの様子を見に部屋へ向かった。 すると、寝ぼけた顔で上半身を起こしている彼女の姿があった。 「ティシラ……!」 やっと目覚めた。マルシオは胸を撫で下ろし、駆け寄った。 「起きていたのか。気分はどうだ。傷は治ってる。痛みはないか? ああ、何か欲しいものがあれば言ってくれ」 一気に語りかけるマルシオを余所に、ティシラは大きなあくびをした。 「……あれ、どうして私ここにいるの?」 確か、魔界に帰ったつもりだったことを思い出す。マルシオはそのときのことは忘れて欲しかった。 「もう大丈夫だ。全部解決したんだ。お前は、クライセンが助けてくれたんだよ」 ティシラはすぐに理解できず、面食らったような顔でマルシオを見つめた。 「クライセンが帰ってきたんだよ」 それでも、状況が飲み込めないティシラは反応を見せなかった。 「おい、聞いているのか?」 「き、聞いてるわよ」 「嬉しくないのか?」 ティシラは機嫌を損ね、ふんと顔を背けた。 「嬉しいも嬉しくないもないわよ。そんな人知らないってば」 「そうか……やっぱり、覚えてないんだな」 マルシオは気落ちし、俯いた。彼女が記憶を取り戻していなかったらと考えたことはあった。そうだったら、最後の希望である「好きな人」さえ通用しないティシラは、今度こそ魔界に帰ってしまうのかもしれない。 だけど、とマルシオは腹を決める。それでもティシラが帰るというならもう止められない。ただ人間に嫌気が差して帰ってしまうより、冷静な状態で本人が決めたことならそれでいい。 「ティシラ、立てるか? 大丈夫なら部屋を出よう」 マルシオはティシラの手を取った。 「初めましてでもいいから、クライセンに会ってみろよ。サンディル様も元気だ。みんなお前を心配してたんだ。行こう」 「え? 行こうって、どこへ?」 「何怖がってんだよ。別に遠くにいくわけじゃないんだから。そうだな、今なら二人ともリビングにいると思う」 「こ、怖がってなんか……」 「いいから、行こう」 ティシラは渋々ベッドから出て髪を整える。しかしすぐに足を止めて「着替えるから」と言ってマルシオを部屋から追い出した。 しばらく待っていると、ティシラが部屋から出てきた。 廊下を歩いているあいだ、ティシラは一言も口を開かなかった。マルシオは緊張したが、すぐにそれは解れた。 リビングから、クライセンとサンディルの会話が聞こえてきた。ドアを開けると二人が軽口を叩き合っていた。 「こないだからどうも首が痛いんだけど、この体、欠陥があるんじゃないのか」 「寝違えただけじゃろう」 「足の指先も違和感があるんだ。たぶんあんたはボケが始まってる。もう引退したほうがいい」 「文句があるなら自分で作り直さんか」 よくあるようなないような親子の会話は、マルシオには新鮮で、微笑ましいものに見えていた。ここにティシラが加わってくれるなら、どんなに楽しいだろう。 「ほら、ティシラ、あれが……」 マルシオの背後から、ティシラがリビングを覗き込んでいた。 ティシラは呼吸をするのを忘れたかのように固まっている。呼んでも、返事をしない。 マルシオの心配は不要であり、無駄だった。 ティシラの目はクライセンに釘づけになっており、水を得た魚のように輝いていた。 思い出す必要はない――その意味が分かった。 ティシラはクライセンに一目ぼれしていたのだったから。 わがままで狂暴で誰の手にも負えない魔女が、目の前で「恋する乙女」に変貌する瞬間は、マルシオに脳裏に焼き付き、一生消えない思い出となった ティシラの姿を見つけたサンディルがあっと声を上げる。 「ティシラ、目が覚めたか」 クライセンも振り返り、目が合うと、ティシラは雷に打たれたように体を揺らした。 声も出せずに立ちつくしていると、クライセンから微笑みかけた。 「…………!」 ティシラは顔を真っ赤にし、一言も発することなく踵を返して走り去り、自室に鍵をかけて閉じこもってしまった。 それを見ていた全員が首を傾げる思いだった。 ずっと夢見ていたことが叶った。 クライセンがいて、ティシラがいて、サンディルもジンも元気で、この不思議な屋敷で笑い合うことができる。 やっとみんなが揃った。 マルシオはその日の夜、テラスで一人、星を見上げて幸せを噛み締めていた。 あのときの彼女の顔を思い出すと、どうしても笑いがこみ上げる。 ティシラは同じ人に、二度目の初恋をしたのだ。 変な話だが、事実でもある。 いつまでこうしていられるか分からない。それでも、今はただこの自然に近い屋敷で、家族と平穏な時間を過ごしていたかった。 瞬きをした隙に、星が一つ流れていった。 灯りを消した部屋の窓から、ティシラも同じ空を見つめていた。 ***** 次の日の朝、マルシオはいつものように目覚めてリビングに向かった。コーヒーの匂いがする。サンディルが先に起きているのだろうと思いながらキッチンを覗く。 しかし、そこに立っていたのはティシラだった。 彼女とはあれから話をしていない。夕食の時間に部屋をノックしてもティシラは出てこなかった。マルシオが心配だから出てきてくれと言うと、室内から「眠いからほっといて」と突き放され、その日は言われたとおりにしていた。 皆が揃って、あとはティシラだけだと思っていたマルシオは、彼女が早く部屋から出てきてくれることを願っていた。記憶をなくしてもクライセンに対する恋心は変わらないようだし、もしかすると、二人は本当に恋人になってしまうのかもしれない。マルシオはいろんな想像をしていた。そのどれも、悪いものではなかった。 しかしティシラの行動は、マルシオの想像を超えていた。 「ティシラ、起きていたのか」マルシオは笑顔で近寄った。「体調はもういいのか。空腹で目が覚めたのか? 言ってくれればよかったのに」 ティシラはテーブルの上に乱雑にパンやジャムを並べ、コーヒーの豆を散らかしていた。 「何言ってるの。いつも朝は起きてるじゃない」 素知らぬ顔でそう言うティシラの言葉の意味が、マルシオはすぐには分からなかった。 「そんなことより、この豆挽き、壊れてない? うまくいかないんだけど」 テーブルが割れた豆で散らかっているのは、ほとんど使ったことがないティシラが見よう見真似でいい加減に使っているからだった。 「何やってるんだよ。使い方が分からないなら俺が来るのを待てばいいのに」マルシオは豆挽きを取り上げ。「それにしても、そんなにコーヒーが飲みたかったのか? いつもはこんな時間、いくら起こしても起きないくせに」 「そ、そんなことないでしょ」 ティシラは突然機嫌を損ね、唇を尖らせた。マルシオは驚き、手を止める。 よく見てみると、ティシラはきちんと服を着替えているだけではなく、髪も整え、薄い化粧までしている。まるで今から出かけるかのような気合の入れようで、とても寝起きとは思えない。 そうか――と、マルシオは彼女の思惑に気づき、眉間に皺を寄せた。 ティシラはクライセンの前で「いい子」を演じようとしているのだ。 「そんなことあるだろ」マルシオは呆れて溜息が漏れる。「いつも昼までゴロゴロして、やっと起きてきたかと思ったら、下着みたいなだらしない姿でふんぞり返って俺を顎でこき使うくせに」 豆を挽きながらマルシオが言うと、ティシラは目を吊り上げて体当たりしてきた。 「ふざけないで! よくそんな嘘が言えるわね。信じられない」 「信じられないのは俺のほうだ。猫被るにもほどがあるだろう」 「誰が猫よ。私は猫なんか嫌いなのよ。そんなもの被るわけないでしょう」 「豆の挽き方も知らないくせに、家庭的な女のふりしようとしたって、そんなんじゃすぐに化けの皮は剥がれるぞ」 ティシラが負けじと口を開こうとしたところに、眠そうな顔をしたクライセンがやってきた。途端に、ティシラはマルシオから一歩離れ、取り繕うように自分の髪を整え始めた。 「二人とももう起きていたのか」 クライセンは呑気に欠伸をしながら二人のいるキッチンに入ってきた。目を合わせられずにいるティシラは、二人に注目されていることに気づいていない。 「ティシラ、元気そうだね。よかった」 ごく自然に声をかけられたティシラはびくりと肩を揺らし、横目でクライセンに視線を向ける。目が合うと、クライセンはいろんな思いを込めて、言いたかったことを優しい声で言葉にした。 「ただいま」 ティシラは顔から湯気が出そうなほど真っ赤になり、明らかに動揺しながら顔を背ける。 返事くらいすればいいのにと思うマルシオだったが、どうやらティシラはクライセンの言葉ではなく、染み入るような声に胸を打たれているようだった。これはこれで、誰の手にも負えないと、マルシオは白け切っていた。 「ああ、そうか。前のことは覚えてなかったんだっけ」 クライセンはティシラの異様な態度には一切触れようとしなかった。 「……でも、君は何も変わってない。そのままでいい」 ティシラは体が溶けるような感覚に陥ってしまい、クライセンの真意を汲み取る余裕などまったくなく、足をふらつかせた。 「ま、立ち話もなんだし、おいしいコーヒーを頼むよ」 そう言ってクライセンは背を向けて立ち去った。取り残された気分のマルシオは、一人で顔を火照らせているティシラに冷たい目線を送る。 「……じゃあ、俺もリビングで待ってるから」 あまり相手にしたくなく、クライセンの後を追って行こうとすると、ティシラに腕を掴まれ引き戻された。 「なんだよ!」 「なんだよじゃないわよ。早く豆を挽きなさいよ」 「はあ? お前がやるんだろ。たまには俺にも寛がせろ」 「この豆挽きが壊れていないって証明して見せてよ。それから、豆の種類もたくさんあるんでしょ? どれをどのくらい混ぜるかで味が違うんでしょ? そのくらい知ってるわ。でもマルシオのほうが慣れてるでしょ。だから今日はあんたがやって」 「お前……何言ってるのか分かってるのか?」 「じゃああんたは私が手際の悪い女だって悪評を流したいわけ? そんなことしてなんの得があるのよ。私に何か恨みでもあるの?」 あまりに身勝手なティシラの言い分に、マルシオはいい加減に腹が立ってくる。 「お前、ついこないだ人間なんか嫌いだって言ってたくせに、なんだよその変わりようは!」 「は? 変わって悪い? そのときはそう思っても今は違うのよ。気分なんてその日によって変わるものでしょ。いつまでも根に持ってんじゃないわよ」 マルシオは開いた口が塞がらなかった。何を言ってもムダだと、諦める。 「分かったよ……俺がやるから、ティシラはクライセンと向こうで待っていろよ」 こう言って欲しいのだろうと思っていたが、ティシラは首を横に振った。 「それじゃ意味がないでしょ……いいから早くして。見てるから」 どうやら二人きりになるのはまだ無理のようだった。できれば自分が淹れたことにしたいのだと思う。どこまで勝手な奴だとマルシオは心の中で不満を募らせながら、散らかったテーブルの上を片付けながら豆を挽き始めた。 しかしその様子をじっと見つめていたティシラの態度に、マルシオの怒りは鎮まっていく。一応、覚えようという気があるのは伝わったからだった。そのうちに二人は素直になっていき、マルシオがさりげなく手順を教えると、ティシラも頷きながら真剣な表情を浮かべていた。 無事にできあがったコーヒーをカップに注ぐと、ティシラは上機嫌でリビングに運んでいった。 クライセンは香りを楽しみ、一口味わい、向かいのソファに座って様子を窺うように背を丸めていたティシラに微笑みかける。 「ああ、すごくおいしい。最高に気分がいいよ」 ティシラは頬を赤く染め、また俯いて顔を逸らした。 この茶番は何なんだと、マルシオはふて腐れる。おそらく、クライセンは全部分かっててティシラに合わせているのだと思う。先ほどの会話も筒抜けだっただろうし、彼がこんなあからさまな小細工に気づかないわけがない。一人でいじけている自分が惨めになり、マルシオは肩の力を抜いた。 何よりも、ティシラが隠し切れずに零した笑みが、釣られてしまいそうなほど自然で、すべて許せるくらいに美しかったのだった。 今までどんなに楽しいときも機嫌のいいときも、こんなふうに笑ったことはなかった。嬉しそうに目を細め、頬を緩める少女の姿は言葉では形容し難く、肉眼で見なければ伝わらないほど、とても、とても幸せそうだった。 これにはどんなに理不尽な扱いを受けたマルシオでも水を差すことはできなかった。初めて見た笑顔なのに、ずっと前から待っていたものだったから。 ティシラがいつまで猫を被っていられるかは分からないが、今は心が満たされ、マルシオも自然と笑えそうな気分だった。 そこに、まだ空が薄暗い時間から庭で畑仕事をしていたサンディルが戻ってきた。 「いい匂いじゃのお。つい庭いじりに夢中になっていたが、匂いに誘われて手が止まってしまったぞ」 マルシオはすぐに立ち上がり、サンディルにも一杯入れようとキッチンに向かった。サンディルはリビングにいたティシラを見て嬉しそうに隣に腰かけた。 「おお、ティシラ、もう体調はよくなったか。今日は珍しく早起きじゃな。朝からおめかしして、どこかに出かける予定でもあるのか」 ティシラは返事に困り、汗を流す。彼女の気持ちなど気づく様子もなく、サンディルはマルシオの運んできたコーヒーの香りと味を堪能した。 「マルシオはすっかり儂のオリジナルの味を出せるようになったな。豆の分量も火加減も完璧じゃ。まあ毎日ティシラにこき使われていれば嫌でも上達するじゃろう。だが決して悪いことではないぞ。これもまた修行。繊細な作業の繰り返しは五感を研ぎ澄まし、精神力も鍛えられる。よし、今度は違う調合を教えてやろう。コツを覚えたマルシオならすぐに感覚を掴めるぞ」 気分よく喋るサンディルだったが、その場にいた三人は微妙な空気に包まれていた。ティシラは既に目元に影を落としており、おいしいコーヒーがただの苦いお湯に変わってしまっていた。クライセンは無表情で、黙って新聞を広げて重い雰囲気から逃亡していた。 その日、ティシラは機嫌を損ねてまた部屋に閉じこもってしまった。 マルシオはサンディルを連れ出して事情を話し、恋に目覚めたティシラに気を使うよう伝えておいた。サンディルは反省し、誰よりも二人に仲良くなって欲しいと願っているのだから協力を惜しむつもりないと強い意志を見せた。だが集中すると周りが見えなくことがあるため、あまり信用はできなかった。 クライセンは分かっているとでもいうように、ティシラがいくらボロを出しても見て見ぬふりをしていた。マルシオは彼女がしなくていいことにも手を出すようになったため、余計な手間が増えることがよくあった。しかしティシラがいくら猫を被っても、クライセンは全部知っている。ティシラの性格も、マルシオの苦労も。 二人が誰も知らない空間で何を話し、何を約束したのか、ティシラは忘れてしまっている。おそらく、二度と思い出すこともないだろう。だけどきっと、巡り巡ってもう一度同じ思いに辿り着く。なぜ彼女がクライセンを愛し、命を懸けても守りたいと思うのか、その答えを見つけるため、ティシラはまた全身全霊で恋をする。 SHANTiROSE Copyright RoicoeuR. All rights reserved. |