SHANTiROSE

INNOCENT SIN-01






 ここは「ウィルドの大地」と呼ばれる処。
 主のいる「家」は白鳥の羽のように優雅で美しい屋敷だった。
 その家には主である「ウイルド・マーク」の他、複数の「同志」が住んでいた。たくさんの部屋があり、共同のキッチンや広いリビング、背の高い本棚に囲まれた図書室などの施設が揃った、居心地のいい空間だった。
 その地下に、図書室とは別の書庫が存在する。誰でも入れる場所ではない。なぜなら、ある程度のレベルに達した者でなければ触れてはならない本や資料が眠っているからだ。幼い子供たちは誰も近づかないし、興味も持たない。そう教育されているから。
 その地下への扉が開いた。それにすぐ気づいたのは真面目な性格の少女・ミランダだった。
 ミランダは口を一文字に結んで「彼」を追って書庫に向かった。冷たい石の階段の先にある地下は暗く、ランプを持っていないと先に進めない。ミランダが両手の指を素早く、複雑に絡めると、顔の横に丸いオレンジの灯りが浮き上がった。
 書庫にはいくつもの棚が等間隔に並んでおり、ランプの灯りは遠くまで届かない。そのため整理整頓が難しく、古い書物が縦に横に積み上げられている。どれも大事なものばかりなのだが、この書庫に入る者も、中身を正しく読んで理解できる者も少ない。長い時間こんな状態だが、問題が起きたことはなかった。
 ミランダは散らかった狭い通路を進み、室内の一番奥へ向かった。暗闇の中の本棚の向うに、オレンジの灯りが見えた。やはり、と思いながら足を速める。
 突き当りの一番奥には、ミランダと同じようにオレンジの丸い灯りを傍に置いた一人の青年が、木製の古い脚立に腰かけていた。
「……やっぱり、帰ってたのね、ロア」
 ロアは膝の上に、古い書物を開いたまま、ミランダに微笑んだ。
「君か、ミランダ」
 ミランダは眉を吊り上げ、ロアのいる脚立に向かってに仁王立ちした。
「いつ帰ってたの」
「さっきですよ」
「エリザベル様に挨拶したの?」
「まだです。お取り込み中のようでしたので」
「だったらエリザベル様のご用が終わるのを待ってたらいいじゃない。久しぶりに顔を出しておいて、なんて失礼な奴なの」
 ロアは相変わらず口うるさいミランダの態度に、いつものようにため息をついた。
「エリザベル様はそんなことを気にする人ではありませんよ」
「そういう問題じゃないでしょ」ミランダは少々声を落として。「……いろいろと報告することもあるんじゃないの?」
 ロアは目を細めて微笑んだ。
「今は、ありませんよ」
「ない? そんなわけないでしょ。あなたがいない間に何があったと思ってるの」
「何があったのでしょうか」
「とぼけないで。空を覆った巨大な虚構の天使。あんなものを見て、何もなかったと言えるの?」
 ロアはすぐに答えず、彼女から目線を外した。
「……あなたの仕業じゃないわ。そのくらい、誰だって分かる。もちろん、エリザベル様もね」
 ミランダにとってはあまり口にしたくない人物の名だった。このまま消えていなくなってしまうならそれでいいと思ったこともあった。だけど、彼は帰ってきて、顔も名前も知らない人々にまでその存在を見せつけた。
「純血の魔法使い……クライセン・ウェンドーラ。彼がやったのね」
 ロアは彼女の気持ちを知っている。それでも、まだ自分が求める答えを知らないロアには否定も肯定もできなかった。
「どうしてそう思うのですか?」
「しらばっくれて。あんな魔法を使う人なんて、このウィルドの大地にはいないわ」
「あんな魔法?」
「人の信仰心を侮辱して、操った。よりにもよって、天使を利用して。どうして? どうして神は彼にそれほどの力を与えているの?」
 それはロアも疑問に思ったことだった。いくら力があっても、クライセンのしたことは自然の法則に逆らった、「魔法」を超えた所業だ。本来なら、この世界を構成する「神」の力によって罰を受けるはず。
 しかし彼は何事もなかったかのようにすべてを収めた。つまり、「神」に許されたということ。ロアは考えた。クライセンがたった一人、生き残ってしまったことでランドールの運命を背負わされ、人間の許容量を超える魔力や因果を操っていられる理由を。
 その答えは、今回のことで見えたと思った。おそらく彼は「神」と契約しているのだ。
 クライセンは神と対話し、許可を得て、世界の構成に手出ししたということ。
 しかし、とロア思う。そうだとしても自分の目的には関係ない。
 彼が持つ力、背負った運命のすべては、彼自身が選んで受け入れている。それを良しとするかどうかは、「ウィルド・マーク」が決めることだと、ロアは信じていた。
「ミランダ、落ち着いて。魔法は善や正義ではありません。奇跡を起こし、迷う人々の心を救う力。彼のしたことがそうだったのなら、間違ってはいないと思いませんか」
「それは……」
 ミランダは言葉を失って唇を噛むが、素直には頷かなかった。
「……それだけじゃないわ。このウィルドの大地が揺れたの。何のことか、分かるでしょう?」
 ミランダはそのときのことを思い出し、寒気を抱いて青ざめた。ロアも目元を陰らせる。彼女が何を言っているのか、すぐに分かった。今、ちょうどそのことを考えていたからだ。
 マルシオが豹変した、あのときのことである。
 まったく正体が分からなかったため、あの場にいた知識人の間でもマルシオが天使の力を暴走させてしまったという結論に落ち着いている。だがロアはそうは思っていなかった。マルシオの記憶を消したことはその場しのぎの応急処置にすぎない。もし彼自身が、あのときしたように自分を殺して眠ったとしても、あの力はいつか必ず形となってこの世に出てくるだろう。
 ロアの中にある予感は「歪み」だった。
 どんなに完璧に仕上げられた建物も、長い時間が経てばどこかが綻び、歪みが生じる。最初は目に見えない些細なズレから始まり、そのうちに軋み、傾き、修復が必要になる。しかし人々は修復する手段を知らない。そして誰も知らない手段の一つが、あの狂暴な力なのかもしれない。
 そんなイメージを抱いたロアは、得体のしれないものへ畏怖の念を抱き、途方に暮れた。
 今はまだ欠けた柱の穴を塞いでいるだけの状態だ。このまま放置していたら、いずれ「建物」は崩れ始める。
 ――クライセンなら、どうするだろう。
 きっと彼なら……いや、おそらく彼も知らない。来たるときにクライセンは何か考えるだろう。
 それでいい。「世界一の魔法使い」である彼でも太刀打ちできないものなら、共に滅ぶ。それが今の世界の行く末なのだ。
 そう思って、ロアは一度ここに帰ってきたのだった。
 ミランダは何も答えないロアにまた苛立った。しかし思い耽っているときの彼は何を聞いても黙ったままだ。ミランダはそのことを知っている。
「……あなたは、クライセンに会ってきたの?」
 ロアははっと我に返り、脚立からミランダを見下ろした。
「いいえ」
「どうして?」
「彼は長い時間、行方不明でした。やっと帰ってきたところに、私のような者が顔を出すなんて野暮というものでしょう」
 ロアはティシラとマルシオがどんな再会を果たしたのか、いろんな想像を巡らせながら微笑んだ。
「それに、彼はまだやることがあると思うので」
 意味深な言葉を呟きながら、ロアは再び膝に広げた古い書物を見つめた。
 それはまだ天使が地上にいた頃に描かれたと言われている、一枚の絵だった。魔法戦争の戦火を潜り抜けて保管されてきた貴重なもののひとつだ。
 そこには、五大天使が、天使の世界の頂点に立つ「神」を崇める様子が描いてあった。
 あの時代を含め、人間の中で「神」の姿を見た者はいないという。天使たちは「神」の話はしなかった。ただ、「原始の石」を持つ、天使の世界の創世者が、人間の言う「神」に当たるものだという話が残されていた。
 神の名は「ルーダ」と伝えられている。今は当たり前のこととなっているが、資料を元に遡ると、不思議な事実を知らされる。
 人間は「言葉」で存在を確認する性質がある。天使たちは「神」の名前を一度も口にしなかった。訊いても「名はない」としか答えなかった。そのうちに、人間は彼を「ルーダ」と名付け信仰し、今に至る。つまり、「ルーダ」という名は人間が勝手に名付けたものだったのだ。
 きっと人間のあやふやな記憶で置き換えられたことが他にもあるのだろう。
 知れば知るほど疑問は増える。人間が信仰する「理想の神」は「ルーダ」であり、他はない。だったらクライセンが契約している「神」は一体何者なのだろう。人智を超えた力を持つ「神」を知るクライセンにとって「ルーダ」とは何なのだろう。
 知りたい。自分にその資格があるのなら。
 クライセンと友達になりたい――彼が許してくれるなら。
 ロアはすぐに「無理だな」と思い直し、こみ上げる笑いを堪えた。その様子を、怪訝な目で睨み付けるミランダを視界の端に捕え、気を取り直し、作者不明の一枚の絵に灯りを近づける。


 その絵に描かれた「ルーダ」は、マルシオによく似ていた。





   

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