SHANTiROSE

INNOCENT SIN-02






 眠りには波がある。目を閉じていると夢現の境を彷徨い、次第に夢の世界へ誘われる。頭の中では様々な映像を見ているのに、体は完全に自由を失う。それはまるで、広く底の見えない海の真ん中に体を預けている感覚である。
 夢は本人の意志とは関係なく、今日あった出来事を反芻したり突拍子もないシーンを見せてきたりする。どんなに理不尽な夢にうなされても抵抗できないまま海面を漂っているうちに体は沈み、深い闇の中に閉ざされていく。
 そのあとのことは誰も覚えていない。
 ただ暗闇の中に身を任せて休息を取っているだけなのか、記憶に残らないだけで本当は夢とは違う何かを見ているのか。
 その深層の底で、マルシオは足をつけて佇んでいた。
 ――ああ、まただ。
 夢から覚めたように、虚ろな目を何度か瞬きする。
 そこは闇の中かもしれない。だけど、見えるすべてが真っ白の世界だった。
 白以外には何もなく、自分自身の姿は確認できるのに影はない不思議な空間である。
 マルシオはここに来るたびに、どちらが夢で現実なのか分からなくなる。目を覚ますと何も覚えていない。だけど、ここに来ると思い出す。そのたびに、焦燥感に駆られる。
 また、思い出した。はっと目を見開き顔を上げると、そこには「鏡」があった。
 いいや違う、と首を横に振る。これは鏡ではない。
 もう一人の自分だ。自分とまったく同じ姿をした者がいつも目の前に立ってこちらを見ているのだ。
 逃げても、逃げたいと考えても無駄なことは分かっている。
 一度、彼が現実に出てきた。その理由も知っている。彼が現実で何をしたのかも、ここに来れば全部思い出す。
 マルシオはこの白い世界の中でたくさんのことを考える。
 自分がしたことへの後悔と心痛。もう二度と彼を外に出してはいけないという恐怖。それらに抗うためには何が必要なのかを考えると、あのとき自分が自身の心臓を潰して体の機能を停止させたことを思い出す。そして、そのことを魔法によって記憶を封印されたことも、何もかもを思い出す。
 魔法を解く方法はないだろうか。誰かに彼の存在を知らせることはできないだろうか。
 何度も何度も考えた。しかし、夢から覚めるといつもすべてを忘れてしまうのだ。
 彼は怯えるマルシオに微笑んだ。
「願いは決まった?」
 そうだ。いつも彼は同じ質問を投げかける。そしてマルシオはいつも同じ答えを告げている。
「願いなんかない。あったとしても、お前になんか言うもんか」
 彼は一定の距離を保ったまま、それ以上は近づいてこない。だからマルシオも逃げることをやめた。とにかく、彼の思い通りにならないことだけを考えた。
「お前こそ、何が目的なんだ」
「目的?」
「俺に願いを言わせて何がしたい?」
「俺は、お前だから」
 このやり取りも何度か繰り返してきた。それでも彼は飽きることなくマルシオに語りかけ続ける。
「だから、お前の願いを叶えたいんだ」
「嘘だ。まやかしだ。お前は俺を乗っ取って、あのときのように破壊するつもりなんだ」
「おかしなことを言うな」彼は肩を竦める。「何のために破壊するって? あのときは、お前がティシラを殺したいと思ったから……」
「やめろ……」
「でもお前はできないだろう? だから俺がお前の願いを叶えようとしただけだ」
「ふざけるな……だったら、この世界で苦しんでいる人々を救ってみろ。それが俺の願いだ」
 彼は生意気な子供のような表情でふうっと息を漏らした。
「まだ分からないか? そうじゃないんだよ。お前の願いじゃないと叶えられないんだよ。お前の、心の底にある、人には見せられない醜い感情からくる浅ましい欲望を聞きたいんだよ」
「そんなものはない!」
「それ」彼は大声を出すマルシオを指さし。「そういう感じ。今、お前は俺を疎ましく思い、憎しみを抱いた。俺を殺したい。それでもいい。さあ、願いをきかせてくれ」
 マルシオは怒りで顔を赤くした――図星を指され、彼に翻弄されつつある自分の無力さに腹立たしさを覚え。
 ――助けて。
 マルシオは心の中でそっと呟いた。
 ――このままだと、俺はこいつに負けてしまいそうだ。どうしたらいい? 助けてくれ……
 言葉を失うマルシオの視界が、白くぼやけ始めた。
 夢が醒める合図だった。マルシオはほっとすると当時、どうか、目を覚ましてもこのことを覚えているようにと強く願う。
 彼は表情一つ変えず、周囲の白に溶けるように消えていきながら、細めた目でマルシオを見つめていた――急がなくても、いつでも会えるから。
 寒気がする。
 視界が白に染まっていく中で、マルシオは頭を抱えてその場に屈みこんだ。なんの意味もないことは分かっていても、じっとしていられない。
 あのときは誰にもどうすることもできなかった。
 だけど今は、クライセンがいる。彼にこのことを知って欲しい。助けて欲しい。
 今はいつも一緒にいて、時間も十分にある。なのに、こんな重大な問題を忘れて、毎日平和な日常を繰り返している。誰も知らないところでじわじわと浸蝕されている現実が怖くて仕方がなかった。
 忘れたくない。
 助けて、助けて……。

 そうして、また夜が明ける。



*****




 窓から差し込む日光が気持ちいい小春日和。
 ウェンドーラの屋敷の南向きの出窓が解放されており、透けたレースのカーテンが風になびいている。緑鮮やかな庭では一匹の猫が小鳥のさえずりに耳を傾け、丸い目をを見開いて空を仰いでいた。
 そんな日常を有難く思うことのない平穏な日々の中、青空を背に書斎の奥のチェアに腰かけて転寝していたクライセンにマルシオが駆け寄ってきた。
「いた」
 マルシオが声に出してまで確認するには理由があった。クライセンはいつもいるかいないか分からないからだ。先ほどまでそこにいたはずなのに、目を離すとどこかに消えて、探しても見つからないことがよくある。
 今も書斎にいるのは分かっていたのだが、話しかけようとしてもいないどころか、書斎そのものが消えてしまっていることもあるのだ。ドアが少し開いていたためノックもせずに覗いたところ、俯く黒い頭が見えた。だから咄嗟に、挨拶もせず飛び込んできてしまったのだった。
 クライセンは迷惑そうな目をして顔を上げた。
「ほら、これ」マルシオは彼の都合に構わず、机の上に分厚い本を置いた。「これだよ。月光のろうそく」
「……なに?」
「こないだ言っただろ、これが欲しいって」
 マルシオはこの屋敷の中にあるいろんな本を読み漁っているうちに、「月光のろうそく」という魔術の道具に引かれた。最初に見つけたのはまだクライセンが行方不明だったときのことで、記憶の隅に置いているだけだった。その本には他にも面白い術具がやまほど掲載されていた。夢中になって読み込んでいるうちに、手にしている本が嘘か本当か分からない「噂」を集めたものだということに気づいた。だが、全部が嘘ではない。気になる術具をいくつか調べてみると、月光のろうそくは他の重厚な魔術書にも記述があり、存在することが分かったのだった。
 クライセンが帰ってきてから数か月が経ち、周囲のゴタゴタも落ち着き、ウェンドーラの屋敷ではティシラも含めた面子が本当の家族のように自然な生活を手に入れ始めていた。
 それから次第にマルシオはここにいる目的を思い出していた。
 魔法使いになりたい。
 今もその気持ちは変わっていない。クライセンがいないあいだ、とくに何も成長していないし、魔法で役に立つこともなかった。だからこそ、天界から追放された天使が一人前になって人間と共存していくために、魔法使いを目指すべきだと思った。
 クライセンに弟子にして欲しいという話は何度かしたが、彼からいいともだめとも答えをもらわないまま時間が過ぎている。「世界一の魔法使いの弟子」になるためには何が足りないのかも、何が必要なのかも分からなかった。それでもクライセンはマルシオをここにおいている。だから自分から魔法の勉強をし、近くにいて彼からいろんなことを学べば自然に弟子として認めてくれるんじゃないかと考え、マルシオは日々勉強に励んでいた。
 数日前に月光のろうそくのことを尋ねたが、クライセンは知らないと言った。マルシオは信じなかった。だから昔見た本を探して、改めてその存在を彼に証明しているのだった。
「白いろうそくで、中に月光が入ってて、火を灯すと銀の光が蛍みたいに浮かび上がるんだ」
 クライセンは一応本に視線を落としてはいるものの、返事は冷たい。
「知らない」
「これの作り方、教えてくれよ」
「今知らないって言ったんだけど……」
「知らないわけないだろ。何も作ってくれって言ってるわけじゃないんだ。教えてくれよ」
 クライセンは仕方なさそうにため息をつき、改めて本を見直した。しかし期待するマルシオを余所に、青い目に冷たさが増す。
「こんなバカみたいな本、信じてるのか?」
「な、なんだよ。バカみたいって。ここの家にあったんだぞ。お前も読んだことあるんだろ」
「こんなの、真面目に読むものじゃない。子供の想像力や発想力を養うための絵本みたいなものだ」
 バカにされている。マルシオはそう思った。いくら何でも子供の絵本は言い過ぎだ。複雑で難解な文章や作りこみ方はどう見ても大人向けである。せめて魔術関連の娯楽書程度には評価してもいいはず。
「でも、他の魔術書にもこのろうそくのことは書いてあったんだ」
「作るのが可能なものもあるだろう。所詮は人の考えたものだからな」
「じゃあ、これだって作れるんじゃないのか」
「そうだとして、どうしてこんなもの欲しがるんだ?」
「いや……きれいだろうなあって思って」
 だんだん恥ずかしくなってきたマルシオは少々顔を赤らめて目線を逸らした。
「それに、誰ももってないもの作れたら、なんか嬉しいじゃないか」
 クライセンはもう一つため息をつき、再度本を横目で読み流した。
 そして突然「あ」と声を漏らす。マルシオは何かを思い出したような彼の様子に期待を込めた。
 だが彼はすっと立ち上がってドアに向かった。
「どこに行くんだよ」
「ちょっと出かけてくる」
 そうしてクライセンは数日姿を消した。マルシオはショックで茫然とし、もうろうそくのことは二度と口に出すまいと決意した。





   

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