SHANTiROSE

INNOCENT SIN-12






 その日カームは夜明けを待たずに出かけ、まだ空気の冷たい早朝に待ち合わせ場所に着いていた。
 早く着きすぎたのは百も承知だが、期待で興奮して朝から落ちいていられない。大き目のボストンバッグを抱えて、まだ人通りの少ないクルマリムの公園でそわそわしていた。
 マルシオが迎えに来くるまで、いろんなことを想像しているだけで建物や木々の影が濃くなり、角度を変えていった。
 ずっとこうしていても飽きないカームだったが、遠くから見慣れた友人の姿を見つけて、夢から覚めたように目を大きく開いた。
 迎えはマルシオ一人だった。ティシラが着いて行こうかと言ったが、起こすのも面倒だし屋敷に着くまえに話しておきたいこともある。
 カームはマルシオを見つけるといつも以上に無邪気な笑顔でブンブンと手を振って駆け寄ってきた。
「おはよう!」
 彼がとても楽しみにしていたことは分かっている。マルシオは顔を引きつらせながら「おはよう」と返事をした。
「朝から元気だな」
「当然じゃないか。楽しみで昨日はほとんど眠れなかったんだよ」
「そうか……ところでいつまで休みをもらったんだ?」
「僕は三日でいいって言ったんだけど、サイネラ様が普段の療養も兼ねて一週間お休みくださったんだ。あ、だからってずっと居るわけじゃないから。空いた休みはいつものように一人で過ごそうと思ってるよ」
 聞いてもいないことを喋るカームにマルシオは困惑する。ただ、「いつものように一人で」という言葉が引っかかる。やはり彼に友人は少ないようだ。「魔法王の屋敷」に行けるという楽しみだけではなく、マルシオという友達の家に遊びに行くことを純粋に喜んでいる様子だった。
「まあ、何もなければゆっくりしていっていいんじゃないかな……家主に頼めば、理由もなくダメとは言わないと思うし」
「本当に? いやいや、迷惑はかけないよ。僕は宿無しじゃないんだから。親しき仲にも礼儀あり。きちんとけじめはつけなくちゃ」
 そう言うカームは誘惑と戦っているようにしか見えなかった。クライセンがいいと言えばきっとゆっくりしていくだろうとマルシオは思う。少々面倒くささを感じながら、二人は森へ向かって歩き出した。



 屋敷に着くまでに、マルシオはいくつかの注意を伝えた。
 一つは、敷地内で魔法を使わないこと。次に、説明のない部屋に入らないこと。何が起こるか分からないからだ。
 そして、ティシラに恋愛関係の話をしないこと。
「ティシラって、あの可愛い子? 黒髪の……」
「ああ、講習会で見たことがあるんだっけ」
「うん。そうか、あの子もいるんだ。恋愛の話って、どういうこと? あの子、君の恋人じゃないの?」
「はあ?」マルシオはつい大声を上げてしまう。「どうしてそういうことになるんだよ」
「え、ご、ごめん」カームはこんな彼を見たことがなく、怯みきってしまった。「……じゃあ、もしかして、マルシオの片思い? だからそういう話は禁止な……」
 マルシオは眉間に深い皺を寄せ、不愉快さを前面に押し出した。
「ティシラはクライセンが好きなんだよ!」
「えっ、そうなの? じゃあやっぱり君の片思い……いや、三角関係?」
「俺は何も関係ない! ティシラが一方的にクライセンを追いかけてて屋敷に一緒に住んでるんだよ」
「えーっ、そうなんだ!」カームも負けじと大きな声で。「それじゃあ、クライセン様って若いの? かっこいいの? 一緒に住んでるってことは同棲じゃないか。どうして両想いじゃないの? いつから彼女は片思いしてるの?」
 カームの質問は尽きなかった。だが彼の疑問はもっともだ。今のティシラに軽々しく恋愛の話をすると機嫌は悪くなるし、カームも理不尽な目に遭ってしまう。マルシオはうんざりしながら、要点をまとめる努力をした。
「……ティシラはクライセンが好きでそれは彼本人も分かってる。そもそも、誰が見ても分かる。でもティシラはばれてないつもりでいるんだよ。だから周りにからかわれると怒るんだ。そのくせ自分から惚気ることもある。そういうときは無視してていいからな。あと、間違っても俺とどうとかなんて言わないでくれ。そればっかりは、ティシラだけじゃなくて俺も不愉快だから」
「そ、そっか」カームは戸惑いながら、笑顔を取り戻した。「でも、どうして不愉快だなんて言うんだよ。仲好さそうだし、二人でいたらそう見えるよ」
 それをやめろと言っている、と、マルシオはカームを睨みつけた。カームは急いで口を塞いだ。
 だが、どうして不愉快かと訊かれると、自分が天使で彼女が魔族だからが始まりだ。これも言わなければいけないだろうか。自分のことはともかく、ティシラはきっと、自分で言いそうだ。今更カームに隠し事してもしょうがない。マルシオは怒りを鎮めた。
「ティシラは、魔族なんだよ」
「え?」
「魔界の王の娘、つまり、魔界のお姫さまなんだ」
 突然のことに、カームはぽかんと口を開けて返事ができなかった。
「だから、ときどき考え方が合わないときがあって……ああ、でも悪い奴じゃない。普段は、普通の女の子だから……」
 言葉を詰まらせながらカームに目線を移すと、とうとう何を質問していいか分からなくなった彼の唖然とした表情があった。
「あ、いや……今のは忘れていい。ティシラが何者とか、お前には関係ないと思うし。たぶん、あいつが自分で言うだろうから、驚かないように、一応伝えてたほうがいいと思って」
 気を遣うマルシオの態度に、カームははっと口を閉じ、とりあえず話を合わせることにした。
「そ、そっか」はは、と笑いを零し。「マルシオには驚かされてばっかりだなあ。サイネラ様が脅かしてたけど、こういうことだったんだ」
「サイネラ様が?」
「悪いことじゃないよ。マルシオにはまだまだ僕の知らないことがあるって仰ってたんだ。でも大丈夫だよ。僕は君の言うことは全部信じるから。何でも話してくれよ」
 マルシオも不器用に笑い、「それから、狂暴な猫もいるから気を付けて」と話を続けた。
 ふと、カームはメガネの淵に指を添えた。
(マルシオには、まだ僕に隠していることがある……)
 一度、メガネの魔法が弱まっていたとき、彼の背中を見てしまった。
 そこに見えたのは、光る羽、のようだった。あんなものは見たことがなかった。空を飛ぶ鳥とも、花に集う蝶とも、今は地上から消えた天使の羽とも、どれも形状が違った。これ以上は見てはいけない、まだこの力を使ってはいけないと、カームはすぐに目を逸らした。それっきり、マルシオが何者なのか、考えないようにしていた。
(そのことも、いつか話してくれるだろうか)
 師匠が魔法王だということ、傍にいる少女が魔女だということも教えてくれた。だけど、まだマルシオのことは何も知らない。
(でも、僕も、本当の僕をマルシオに話していない)
 今はまだ封じられている、この特異な力。きっとマルシオなら怖がらずにいてくれる。そう信じている。だけど、カームは言えなかった。人を不幸にするしかできなかった辛い過去ではなく、いつかこの力を自分のものにできたとき、「僕にもこんな力があるんだよ」と笑顔で話したい。それがカームの希望だった。
 もしかしたらマルシオも同じことを思っているのかもしれない。だから今は、彼を疑わずにいようと決めていた。
「あ!」と、マルシオは突然目を見開いた。「そうだ。ティシラに言っちゃいけないこと、他にもあったんだ」
「なに?」
「クライセンのこと以上に、禁句だから……ティシラの前では絶対にティオ・メイの王子のことは言っちゃダメだからな」
「……王子って、ラストル様とルミオル様?」
 今やマルシオはその名を聞くと青ざめるほどティシラに脅かされてきていた。
「そう。とくにラストルだ。どうしても繋がってしまうルミオルも、トールのことも、できるだけ避けて欲しい」
「トールって、トレシオール国王陛下?」
「そう。でも理由は聞かないでくれ。これはティシラの名誉に関わることだから……」
 ティシラはクライセンが帰ってきてから、もう彼のことしか考えられなくなっていた。ラストルとのことは、当時は魔女としての単なる狩りであり、儀式でしかないと強がっていたが、やはり本当に好きな人ができるとそうは割り切れなくなっていたのだ。
 あれから改心したラストルはトールやライザを通じて何度もティシラに謝罪したいと願い出ていた。しかしティシラは「そんな人知らない。何のことか分からない」と完全に白を切り、一切そのことに触れなくなっていた。
 それ以上言うと怒り出し、手が付けられなくなる。マルシオはすっかり変わり果てたラストルを見て、自業自得とはいえ少々哀れに思った。トールにも頭を下げられて、仕方なく何度かティシラに掛け合ってみたが、何を言っても聞く耳を持たず殴られたこともあった。
「会ってもらえないならせめて手紙を送りたい。読んでもらえなくても、気持ちを伝えたという形だけでも取らせて欲しい」と言われた。それもティシラに伝えたが、彼女は牙を剥きだして「そんなものここに送ってきたら、今度こそ殺してやる」と凄まれ、マルシオはもう心が折れてしまった。そうして未だラストルの謝罪は叶わないどころか、ティシラの中では存在さえ抹消されている状態だった。
 もちろんクライセンに知られたくない故の行動だ。しかし、残念ながら彼は何があったのか知っている。トールたちは言い難かっただろうが、状況を説明するために決して避けられない出来事であり、隠すのは不可能。それに、マルシオの記憶を覗いたとき、既に重要な情報として「視て」いたのだ。それでもティシラは都合の悪いことはなかったことにして、クライセンの前だけではいい子でいようと努めている。それが正しい行動なのかは分からないが、マルシオには無駄だの虚構だの言う権利はない。
 クライセンも彼女に合わせるように、そのことには一切触れない。だから周りも何も言わなくなった。トールも「いつかティシラの気が向いたら、報せてくれ」と諦めている。
 クライセンのティシラに対する気持ちだけは、誰も分からないままだった。ただ、彼が帰ってきてから少し態度が変わった気がしていた。何かあったとしたら、行方不明になる前の、二人で異空間に消えていったあのときなのだと思う。ティシラはあのときのことを忘れてしまっている。だからクライセンだけが、あの中で何があったのかを知っているということ。
 ティシラがクライセンに恋心を抱いている限り、二人はいつか結論を出さなければいけないときがくる。ティシラのしたことをどう思うかはクライセンの問題だ。誰かが「ティシラは不貞を犯した」と批判するも、「彼女にも考えがあった」と擁護するもいらぬ世話でしかない。普通なら、簡単には許せない行為だが、ティシラも、そしてクライセンも普通ではない。だから今はもう、誰も二人の関係を心配する者はいなくなっていた。
「とにかく……クライセンのことは、場合によっては否定しながらも喜んでるときがあるが、ラストルはダメだ。名前も、彼に関係することも絶対に口にしないように。頼むよ」
 そこまで強く口止めしなければいけないことなのかと、カームはマルシオの真剣な表情に圧倒された。
「う、うん、分かったよ」
 カームが深く頷くと、マルシオは「言うことはちゃんと言った」ことに安堵し、一息ついた。そんな彼の様子がおかしく、カームは噴き出した。
「それにしても、マルシオは師匠のこと、呼び捨てなんだ。友達みたいだね」
「ああ……まあ、それは……」
「国王のことも愛称だし。もういちいち質問するのも悪い気がしてきたよ。なんか、知れば知るほど不思議だな、マルシオって」
 そう言われたらそうかもしれないと、マルシオは苦笑いを浮かべた。
「でも、マルシオが魔法王のことを『クライセン』って呼んでるのを聞いて、本当に近くにいるんだって実感が湧いてきたよ――あ、森が見えてきた」
 マルシオにとっては見慣れた「住処」だ。カームが好奇の目線を向け指さしたほうに、迷うことなく足を踏み入れていった。





   

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