SHANTiROSE

INNOCENT SIN-11






 深夜、精霊に呼ばれてクライセンはマルシオの部屋に来ていた。
 精霊は囁いた。「天使が泣いている」と。
 何かあったんのだろうかとノックしてみたが、返事はなかった。灯りもついていないし、物音もしない。クライセンは静かにドアを開け、中に入った。
 部屋の窓際の傍にあるベッドで、マルシオは眠っていた。彼の様子は普段から見ているが、今のところ変わったところはない。今も寝息を立てているだけで、ピクリとも動かない。
 彼の額に手をかざしてみるが、やはり何も感じない。
 マルシオは深い眠りに落ちていた。熟睡している状態で、夢さえ見ていない。なのに、精霊が彼を心配している。
 起こせば起きるだろうと思うが、それで何か分かるとも思えなかった。
(……どうしたものか)
 きっとこれは予兆。クライセンは小さく息を吐いて首を傾げる。棚の上に、月光のろうそくが大事そうに飾ってあるのを視界に入れ、佇んでいた。



*****




「……アカシア」
 マルシオは「彼」をそう呼んだ。彼はまた笑うだけだった。
「その名は捨てた。俺はマルシオだ」
「違う。捨てたんじゃない。守ろうとしたんだ」
「アカシアはいない。名前も、記録も、石も捨てて、ただの傍観者になった」
「すべて、天使の王として大義があってのこと」
 言いながら、マルシオはクライセンとの会話を思い出していた。クライセンに「ルーダ」のことを訊かれたとき、何も答えられなかった。いや、答えられなかったのではなく、「知らない」が答えだった。その意味が、この夢の中では分かる。
 知らないのは当然のことだった。
「ルーダ」は存在しないから。
「それでよかったんだ。なのに、なのに……」
 マルシオは言葉を詰まらせる。「なのに、お前が生まれた」と言いたかったのだが、言えない。言えば、きっと彼がこう返すからだ。
「――だから、マルシオが生まれた」
 マルシオは挫けていまいそうだった。
「……だから」力が抜け、膝を着く。「俺は、死を選んだ」
 そんなマルシオを、友人たちは救った。
「彼」の力が暴走したのも、すべてマルシオの醜い感情が発端だった。自分の中にある「彼」の存在を知り、マルシオは一人で背負って死のうと決めた。誰も納得してくれなかったとしても、そうするしか手段が見つからなかったから。これ以上自分の手で世界を、友人を、家族を傷つけたくなかった。「彼」に支配されてしまえば、今までの長い時間、数えきれないほどの生命を循環させて築いてきた歴史や文明のすべてが意味を失くす。
 誰かに相談する時間も、友に別れを告げる暇もなかった。
 自分が消えてしまえば、そのあと「彼」がどうなるかも分からない。そして残していった友人たちがどんな未来を歩んでいくのかも、知る手段は失われる。
 それでもよかった。彼らの可能性をすべて、この手で壊してしまうくらいなら、ここで自分一人の「未来」を捨てるなど小さなことだ。
「嫌だ……俺が、あいつらの幸せを奪うなんて、できるわけがないだろう」
 とうとう突っ張ることをやめたマルシオだったが、彼は同情心など欠片も持ち合わせていなかった。
「できるかどうかじゃない。お前は、するんだよ」
「どうしてだ。どうして俺がそんなことをしなくちゃいけないんだ」
「アカシアの望んだ未来に伴った代償だ。こうなることを予測できなかったアカシアに罪はない」
 では、誰が悪い?
 アカシアが罪を犯したとして、その代償が「マルシオ」という存在?
 今目の前にいる「マルシオ」が消えれば、アカシアの罪は許されるのか?
 マルシオの考えを見抜いたように、彼は目を細めた。
「誰も悪くない。正義がなければ悪は存在しないのだから」
 マルシオは恐怖と孤独で息が止まりそうだった。彼と言葉を交わすたびに、彼との距離が縮まっていることを感じていた。互いに一歩も歩み寄ってなどいないのに、引き潮の海に吸い込まれていくような錯覚に襲われる。
「もう分かっているんだろう? この世を照らし、迷える者を救う神なんて、どこにもいないんだと」
「……黙れ!」
 叫ぶと同時、涙が溢れた。頬を伝い、止めどなく、白い床に落ちて吸い込まれていく。
 ――殺してくれ。
 マルシオは夢の中で強く、強く願った。
 ――クライセン、俺を、殺してくれ。
 叶えてもらえるなら、これが師匠に請う最後の願いになる。この声が届いたなら、マルシオはクライセンに感謝するだろう。彼の弟子になれてよかった、幸せだったと心から思いながら。
「……殺してくれ」
 マルシオは涙と共に、悲願の思いを吐き出した。
 彼はただ、空を仰いで笑っているだけだった。



*****




 クライセンは何の変哲もないその部屋から、すぐには出ていかなかった。
 じっと静かに眠る天使を見つめていた。窓は閉まっている。無風の空間で、見えない精霊たちがふわりとレースのカーテンを揺らしていた。
 マルシオが謎の力でティシラを殺そうとした話は聞いている。それを止めるために、マルシオは自らの意識を断ち切って、そのまま永遠に眠ることを決意したことも。
 もし彼がそのときのことを思い出していたら、きっと同じことを考えるだろうと思う。謎の力はまだマルシオの中にある。マルシオはもしかしたら、封印された記憶の中で戦っているのかもしれない。
 そうだとしたら、と思う。マルシオは一人で何もできず、苦しみ、悲しみ、死を望んでいる……そして自分に救いを求めているのかもしれない。
 クライセンは安らかな寝顔の少年の髪を、指先で撫でた。
(……君を殺すかどうかは、私が決める)
 殺してくれと懇願されても、言われるままに手を下すつもりはなかった。
(それができるのは、おそらく私しかいないだろう。だから、君はここに来た。そうだろう?)
 不安がないわけではなかった。
 この世界がどうなろうと知ったことではないのは、今も変わらない。
 クライセンが一番恐れていることは、自分の責任を果たせないことだった。
 生き残り、裏切り者を罰し、殺し合った民族に魔法王と呼ばれて、孤独の大地に根付いたこと、何もかもを受け入れてきた。
 成り行きに任せたつもりはない。自らが選んで、進んできた道だ。そんなクライセンの友となり、家族となった一人の天使とのあいだには、必ず縁がある。
 ティシラという一人の少女は、永遠に閉ざされていると思っていた暗闇から自分を救うために生まれてきた。本人は忘れてしまったが、二人が出会ったのは運命だったことを教えてくれた。クライセンは今まで自分がしてきたこと、世界が積み重ねてきた罪を忌むのをやめた。
 もしマルシオが人智を超えた異形のなにかだったとしても怖くはなかった。互いに信頼し合う友が何者でも、受け入れるだけ。
(君を殺すことに抵抗はない。それが私の役目なら、何を犠牲にしてもやってやる)
 だから安心して、今は眠れ。
 クライセンの決意を感じ取り、精霊たちが彼の傍を旋回しながら囁いていく。クライセンは精霊たちの心配を余所に、微笑んだ。
「大丈夫」口元に右手の人差し指を当てて。「今度はちゃんと考えてあるから」
 マルシオの記憶を封じたことは、決して苦肉の策でも、失敗でもない。当時そこにいなかったクライセンにとってはいい準備期間だった。
 震えていた精霊たちは穏やかになっていく。それらに優しい目線を送って、クライセンは静かに部屋を出ていった。





   

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