SHANTiROSE

INNOCENT SIN-17






「あ、そうだ」
 家の中に移動した一同は、カームの一言で足を止めた。
「ねえマルシオ、僕、本が見たいな」
「本?」
「ないの?」
「あるよ。山ほど」
「やっぱり」カームは笑顔になり。「全部ってことじゃないよ。見せられるものだけでいいんだ。魔法使いはたくさん本を読むだろう? 魔法軍にも大きな図書館があって、一生かけても読めないほどの本があるんだよ。きっとここにも面白い本があるんだろうなと思って」
「まあ、あるけど」
 マルシオは返事をしながらクライセンに許可を求めて目を合わせた。彼は「どうぞ」と呟いて書庫の方向へ首を傾げた。
「じゃあ行こうか」
「ありがとう」
 そこで、ティシラがそっぽを向いて口を尖らせる。
「本? つまんない」
「なんだよ。お前は来なくていいよ」
 マルシオは言い捨て、書庫へ歩を進めた。ティシラは迷いながら窓の外を見る。そこにミランダの姿はなかった。そして一同の背中を振り返り、クライセンも彼らに付き合っているのを見て、大人しく後を着いて行った。



 書庫は屋敷の奥にある。そこに行くには双頭の鷲エスカ・ヤノルのいる広場を抜ける必要があった。
 またカームが騒ぐだろうなと思っていたところ、やはり彼は巨大な鷲を見上げて大きく口を開けていた。
「うわあ……大きな像」
 カームはそれをぐるりと囲む、円柱状の間取りにも目を奪われた。天井は見えないほど高く、まるでホテルのようにたくさんのドアが並んでいるというのに、どこにも階段がない。
 あまりに大きな鷲を像だとしか思えなかったカームは、この奇妙でまやかしのような光景に言葉が出なかった。
 どこから説明したらいいか分からないマルシオは、いっそこのまま鷲を像だと思ってくれたほうが楽だった。クライセンも同じことを考えたらしく、鷲とちらりと目を合わせ、そっと人差し指を口に当てていた。するとエスカ・ヤノルは本当の像のように、息を潜めてじっと動かなくなった。
 そのまま鷲の隣を通り、奥の部屋に進む。きょろきょろと忙しないカームはマルシオの肩を掴んだ。
「ねえ、この部屋は何? おかしいよ。この広さ、外から見たより大きいよね。これも魔法なの? 階段がないところに部屋がたくさんあるけど、あれは幻なの?」
 マルシオも最初は同じことを思った記憶が甦る。はは、と笑いながら「そう。魔法だよ」と軽く流した。



 書庫はもうマルシオには行きつけの場所だった。ここでできるだけたくさんの本を読めという師匠からの命令が出たからだ。きっとカームはここを見て、またマルシオと同じことを思うことが予想された。
 そこはまるで図書館だった。先ほどの鷲のいた広間より巨大で、棚にも壁にも、どこまでも紙の塊で埋め尽くされている。個人が集めた本の量ではない。カームは目眩を起こしそうだった。
「こ、これ、クライセン様が集めたんですか?」
 とりあえずドアのすぐ横にあった棚を見つめながら、カームは大声を上げた。
「あ、ここには階段がある。梯子も! ということは幻ではないんですね」
「クライセンというより」と、マルシオ。「サンディル様が集めたもののほうが多いよ」
「そうなんだ……マルシオはこれ全部読んだの?」
「そんなわけないだろ。まだ入り口辺りしか手を付けてないよ」
「じゃあ、クライセン様は、当然……」
「読んでないよ」
 クライセンが短く答えると、カームだけではなくマルシオもえっと声を上げた。
「奥には父の書いた本も山ほどある。日記みたいなものだし、読む価値もないだろう」
「ええっ、サンディル様の日記?」カームは興奮し始め。「サンディル様って魔法戦争よりずっと前のお生まれなんでしょう? ということは、戦争のことも、ノートンディルのこともご存じで、その当時の記録も残っているってことなんですか?」
「まあね」
「見たい……! どこにあるんですか?」
「あの辺」
 クライセンは右手を伸ばして書庫の奥を指さす。カームはその先を見つめるが、とくに目印のようなものも何も見当たらなかった。
「あ、あの辺って……?」
「奥の、あの辺」
 クライセンはそう言うだけで、それ以上動こうとはしなかった。案内する気はないようだ。カームは苦笑いし、マルシオに助けを求めた。
「マルシオは読んだことあるの?」
「少し見た気がするけど……読めなかった」
「どうして?」
「いや、それがそうだったのかは分からない。読めない字で書いてある本があったんだよ。たぶん、ランドールの古い文字なんだと思う。この書庫にはそれ以外の文字で書いてある本もあるし、俺は勉強しないと読めないんだよ」
「それ以外の文字って?」
「さあ……人間以外の言葉じゃないのか」
 カームは口を開けたままマルシオを見つめたあと、広大な書庫をぐるりと仰ぐ。そして大きな息を吐き、再び笑った。
 ティシラは一人、暇そうに傍の本棚を眺めている。
「……もしかしたらと思ったんだ」カームは落ち込むことなく、目を輝かせていた。「ねえ、マルシオ」
 マルシオに向き合い、顔を寄せて。
「アカシック・レコードって知ってる?」
「――え?」
 マルシオの、銀の瞳孔が揺れる。無意識に。
 その僅かな動きを、クライセンは見逃さなかった。
「この世の、過去から今現在に至るまでの人類の歩んできた道をすべて記録した幻の書物だ」
「ああ……」マルシオは自分の動揺の理由を知らず。「聞いたことは、あるかな」
「ただの伝説かもしれないけど、僕はきっとどこかにあると思うんだ。凄いよね。魔法戦争よりも、もっと前のことも全部書いてあるんだよ。神様のことも、宇宙のことも、全部。人間の脳では収まらないほど膨大な情報量。そして、誰も知らない時代には今の常識や価値観では考えられない現実が当たり前にあって、きっとそれを見てしまったら、僕なんか頭が爆発しちゃうんだよ」
 はしゃぐカームは、再度書庫に向かって両手を広げた。
「もしかしたら、この書庫がアカシック・レコードなんじゃないのかなあ」
 マルシオの脳裏に、一滴の水が落ちたような幻覚が見えた。その意味は分からない。
「そうだったら面白いよね。この世のどんなに偉い人がいくら研究しても見つからなかった伝説の書物が、こんなところにあったなんて」
 ロマンで胸がいっぱいになっているカームとは裏腹に、マルシオは表情を変えず、呟いた。
「違う」
 その低い声がよく聞き取れず、カームは振り返った。
「これじゃない」
 半分冗談で言っていたカームは、真面目に答えるマルシオに戸惑い、慌てて手を下ろした。
「……やだなあ、どうしたのマルシオ? 冗談だよ?」
「え?」マルシオは今目が覚めたかのように深く瞬きをした。「ああ……アカシック・レコードね。そうだな。似てるかもな」
「そうなの? さっき違うって言ったくせに」
「いや、なんだろうな」マルシオは作り笑いで誤魔化すように。「なんとなく、俺のイメージだと、こういうのじゃない気がして」
「どういうイメージ?」
 マルシオが困惑しながら質問に答えようと口を開いたとき、突然ティシラがあっと大声を上げた。
 一同がドアの近くにいた彼女に注目すると、こっそり着いてきていたミランダが室内を覗き込んでいた。
「あんた、まだいたの?」
 ティシラが胸倉を掴んで引きずり出すと、ミランダは手を振り払い、顎を上げた。
「いて悪いかしら? クライセン・ウェンドーラがいていいと言ったのよ。あなたに私を追い出す権利はありませんわよ」
 ティシラはうううと唸り、クライセンを横目で確認する。彼がいるとどうも本調子が出ない。
「こっちに来なさい」
 ティシラはミランダの腕を引っ張り、書庫の奥の棚の影に連れ込んだ。



「あんたね、一体なにが目的なのよ」
 一気に不満が噴き出すティシラだったが、静かな書庫にその声は筒抜けだった。
「目的はもう教えたでしょう」
「何が『クライセンのことを知りたい』よ。そんなの、あんただけじゃないのよ」
「は?」
 眉を潜めるミランダに、ティシラは詰め寄り声を落とした。
「……まさかあんた、クライセンを狙ってるわけじゃないわよね」
「何を誤解されているの。私は彼の敵というわけではないのよ。攻撃する気は……」
「そうじゃないわよ。クライセンを色目で見てるんじゃないかってこと」
「はあ?」ミランダは大きな声を上げる。「失礼ね。私がそんなくだらない理由でこんなところに来るわけがないでしょう。あなたと一緒にしないで!」
「私と一緒ですって? それこそ侮辱だわ。あんたみたいなマヌケ女、目障りなだけなのよ」
 全部聞こえているクライセンたちは、それぞれに目線を外して黙っていた。
「なんて下品な方なの! それでも魔界の姫なのかしら」
 ティシラは目を丸くして体を引く。
「……私のこと、なんで知ってるのよ」
 するとミランダは得意げな顔に戻り、ふんと鼻を鳴らした。
「あなたたちのことはちゃんと調べてるの……あなたがクライセン・ウェンドーラのストーカーだってこともね」
「ストーカー? バカじゃないの? 何も調べてないじゃない! だからマヌケなのよ、あんたは!」
「そうね、一方的に追いかけてきて強引に住み着いてる不良娘だったわね。訂正するわ。居候のほうが的確ね」
「まだ言うの。デタラメな情報ばかりじゃない。恥ずかしくないの?」
「だったらあなたは自分で何だと思ってらっしゃるの?」
 ティシラは息を飲み、今更周囲を気にして辺りを見回す。視界に彼らの姿がないことを確認し、頬を赤く染めて小声で囁いた。
「まあ、彼の、運命の相手、かな?」
 この部分だけはクライセンたちには聞こえなかったが、何を言ったのかは大体分かっていた。
 間を開けて、ミランダの高笑いが響いた。
「運命ですって? バカかしら?」ミランダは不愉快そうなティシラを睨み付け。「残念ね。運命なんてものはないのよ。理想の世界とは己で拓き、どんな苦痛を伴っても築き、守りぬくものなの」
「は。何その精神論。努力とか根性とか、人間には尊く美しいものに見えるかもしれないけど、所詮はただの弱者の足掻き。運命という強大な力には敵いはしないのよ」
「私たちには崇高なる大義があるの。あなたのような化け物には分からないわ!」
 ティシラは目尻を揺らして奥歯を噛んだ。
 彼女に「化け物」は禁句の一つ。マルシオはもう止めたほうがいいのではないかとそわそわし始めていた。しかしミランダも感情的になり、本当の目的を口にするかもしれない。先ほど「自分たち」と言った。その中にロアも含まれているはず。他にも同志がいる可能性も高い。
 クライセンは目線を落としているだけで何を考えているのか分からないが、話は聞いているようだった。このまま続けてくれと、マルシオは二人を止めるのを先延ばしにする。
 しかし、ティシラがその話をあっさり終わらせてしまった。
「あっそう」ミランダの暴言には目をつぶり。「マヌケ女の崇高な大義なんてどうでもいいわ」
 マルシオはがくりと肩を落とす。
「そんなことより、じゃあ、この質問に答えて」ミランダの胸元に人差し指を突き付け。「さては、あんたロアが好きなんでしょう」
 マルシオは呆れ果て、クライセンも片手で目元を覆って項垂れていた。カームは女同士の言い争いに怯えきっている。
 ミランダは今までで一番大きく口を開け、真っ青になって反論した。
「何を言っているの! 弟子と言われるだけで大きな誤解だというのに、言うに事欠いて……何をどうしたらそんな疑問を抱けるというの!」
「ムキになっちゃって」ティシラはニヤつき。「図星なの?」
「いい加減にして! 私はそんな破廉恥なことに時間を割くほど暇ではないの。ロアも同様よ。私たち一家は、ウィルド・マークのため……!」
 はっと、ミランダは我に返り口を閉じた。
「一家?」ティシラは首を傾げ。「ウィルド・マーク? なにそれ」
「……あなたには関係のないことよ」
 憔悴するミランダに、ティシラは眉を寄せる。
 その調子だ、とマルシオは密かにティシラを応援した。
 しかしまたもその希望は、打ち折られる。
「そんな意味の分からない言葉を並べて私を惑わそうとしても無駄よ。いいから、ロアが好きだって認めなさい」
「違うって言ってるでしょう!」
「認めればここにいることを許してあげるから!」
「あなたに許してもらう必要はありません!」
 これ以上はくだらない言い争いが続くだけ。マルシオはそう判断し、二人を止めに行った。





   

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