SHANTiROSE

INNOCENT SIN-22






 マルシオとカームはカームの客室に逃げ込んでいた。
 客室にベッドは二つあり、カームがいる間は、マルシオもここで寝ることになっていた。旅行気分を味わいたいというカームからのお願いだった。
 二人はそれぞれのベッドに腰かけ、息を弾ませている。
「ああ、もう、マルシオが大きな声を出すから」
「先に言い出したのはお前だろ」
「せっかくいいところだったのに……もしかしたら今、二人は抱き合っているかも……!」
「バカ。そもそも覗きなんて悪趣味だ」
「覗いてたのはマルシオじゃないか」
「俺は覗いてたんじゃない。ティシラがいるのに気付いて何をしてるのか見てたら、クライセンが来ただけだよ」
「ふうん。そっか……」
 カームはベッドに寝転がって笑い出した。
「楽しいな。修学旅行みたいだ」
 マルシオは驚いて眉を潜めていた。
「良い感じの二人を覗き見して、怒られて、逃げて、文句言ったりして。アカデミーや軍隊でも集団行動なんてたくさん経験するけど、友達とこんなふうに遊ぶなんて初めてで、すごく楽しい」
 マルシオにとってはティシラとクライセンは家族同然。なのに、一緒になって二人の行動を覗き見する羽目になってしまったマルシオは自分をみっともないと思っていた。
 二人がどうなるかなんて、口出しせず、見守るつもりだったのに――。
「でも、あの二人が結ばれたら、マルシオはどうするの?」
「……え?」
「だって、クライセン様とティシラさんは恋人になって、いずれは夫婦になるんでしょう? いくらマルシオがクライセン様の弟子だからって、ちょっとは寂しいんじゃないの?」
「寂しい?」
「ちょっとだよ。ちょっとだけ。ほら、今まで三人が親友同士だったのに、その中の二人が恋人になったら一人が取り残された気分になって……なんて話、あるじゃないか」
「…………」
「ああ、えっと、そういう物語の本とか、読んだことない?」
 言葉を失い、目を泳がせていたマルシオを見て、カームは慌てて体を起こした。
「いや、深く考えないでね。マルシオたちは家族だし、今までと変わらないと思うよ。でも、ちょっとだけ、今までと違う感じになるんじゃないかなあって思っただけで……」
 カームは茫然とするマルシオの様子に、軽い気持ちで口走ってしまったことをひどく後悔していた。
 マルシオは考えたことがなかったのだ。
 マルシオは不器用で、自分の気持ちや感情さえ理解できていないときがある。説明できるほどではないが、カームにも彼の不器用さはもう伝わっていた。だから後悔していたのだ。困惑するマルシオは、ミランダに責め立てられているときと同じように見えた。表情は違う。ミランダに対しては苛立ちを表していたが、今は……まるで、泣き出してしまいそうに弱々しい顔をしている。
「あ、あの……」
 カームはまた調子に乗ってしまった自分を責めながら、必死で笑って誤魔化そうとした。
「マルシオ、そんなに気にしないで。僕なんかより、君のほうが二人のことは分かってるんだから。ね」
「あ、ああ」
 カームに肩を叩かれて、マルシオははっと我に返る。彼と同じように、無理に笑った。
「そうだな……あんまり、そういうこと考えたことなかったから……」目線を落として。「今、言われて、想像しようとしても、無理だった。だから、少し驚いたんだ」
 はは、と乾いた笑いを零して、顔を上げた。
「ご、ごめんね。僕、すぐ余計なこと言って……」
「なんで謝るんだよ。カームの言うとおりじゃないか。俺だって、いつか二人が結ばれるのを望んでるって言っただろ。そうなって欲しいのに、漠然としてて、何も考えてなかったんだ。まあ、これからは、意識してみるよ」
「そっか……」
 気まずくなった二人は話題を変えた。
「ねえ、明日、何をして遊ぼうか」
 マルシオは返事をしなかった。カームのその言葉を最後に、部屋の灯りを消して目を閉じた。



 マルシオはしばらく眠れず、カームに背中を向けて布団の中に潜っていた。
 改めて、ティシラとクライセンが恋人になったときのことを想像してみた。それほど難しいことではなかった。だけど、自分の姿が見えなかった。サンディルは何も変わらない。当然だ。クライセンの親であり、夫婦になればティシラの義父になる。今までの関係と大きな違いはないのだから。
 だけど、と思う。自分はどうだろう。夫婦となり、家族となった二人のどこに居ればいいのか分からない。ティシラとは友達で、クライセンとは師弟。何も変わらないはずなのに、どうやって接すればいいのか、想像できない。
 マルシオの体から力が抜けていく。楽になるどころか、布団に沈み込んでいくような不安に包まれた。
 二人が結ばれたとき、ティシラの幸せそうな顔は容易に見えてくるが、クライセンは、いまいち浮かんでこない。彼女のように浮かれて照れ笑いするとは思えない。だけど、きっと彼なりの幸せそうな表情を見せてくれるのだろう。
 だけど、どうしてもそこに自分の姿がなかった。
 腹の奥が、渦を巻いた。
 気分が悪い。
 この気持ちは、何だろう。
 二人が結ばれて、幸せになって欲しいと本気で願っていた。その気持ちに嘘はない。ティシラが傷ついて泣くのは見たくない。思い出したくもないほど、マルシオにとっても辛い出来事だった。だから本心からクライセンに助けて欲しいと、彼女を救って欲しいと願った。そしてその願いが、近い未来に叶いそうだと感じている。
 なのに、どうして――?
 この腹の底に渦巻く、吐き気を催すほどの、鉛のように重いものは、一体何なんだろう。
(……この感触は……どこかで、感じたことがある)
 だけど、思い出せない。
 マルシオはその重いものに全身が包まれていく錯覚に支配されていた。
 気持ち悪いのに、逆らうことができない。体が柔らかい鉄に浸蝕されていくように、重く、動かなくなっていく。
 マルシオはもう考えることを止めていた。なのに、頭の中には感情や想像が勝手に流れこんでくる。見たくないもの、考えたくないものが、取り留めなく通過していく。
 それが夢だということに、本人は気づかない。
 つまり、マルシオは眠りに落ち、「悪夢」を見ているということだった。
(ああ、気分が悪い……)
 どこでだろう。これは、いつかどこかで感じたことがある。なのに、思い出せない。
「――なぜだか、教えてやろうか?」
 誰だ? これも、聞いたことがある。誰だか知ってる。思い出せない。まだ。
「思い出せないのは、魔法で記憶を封じられているからだよ」
 何を言っているんだ。魔法? 誰が、何のために?
「さあ、早くこっちへ来い。すべて思い出す」
 こっちへ? どこへ? 思い出すって、何を?
「分からないことは教えてやる。お前のその醜い感情には名前がある。聞きたいだろう?」
 醜い? 何のことだ。お前は、誰だ。
「俺は、お前だ。教えてやるよ。それは『嫉妬』だ」
 ……不愉快な笑い声だ。俺は、お前を知っている。
「そうだ。もうすぐだ。もうすぐ、すべてを思い出す。さあ、目を覚ませ――」



 マルシオの封じられていた記憶が甦った。
 それは「彼」と対峙したとき。つまり、あの悪夢の中に迷い込んだときだ。
 いつもと違う白い世界に、マルシオは断末魔の悲鳴を上げた。
「彼」は、マルシオの目の前で笑っていた。
「彼」はいつも遠くにいた。動きは不定期で、現れたり消えたりしていたが、決して手の届く距離にはいなかった。
 だが今日は違う。いつの間にか白い世界に立っていたマルシオの目の前に、呼吸の音が聞こえそうなほど近くに、彼は立っていたのだった。
 それだけではなかった。
 違和感だ。いつもと違う、違和感。同じ顔、同じ背格好、同じ声の彼は、まるで鏡だった。夢だと思えばそれほど不思議ではない映像だった。
 だけど今日は違う。
 目を見開き、汗が止まらない。震える体で後退りすると、彼は一歩近づいてくる。そのたびに、マルシオは震え上がった。
「今までと何が違うか、分かるか?」
 彼は手を伸ばし、マルシオの頬に触れた。マルシオは大声を上げて後ろに倒れた。
「今までお前が見ていた俺は、鏡だったんだ。鏡に映った自分は、前後左右が反対に映る。その映像は日常にもありふれていて、鏡やガラス、水面に映ったものは逆さになった世界だと脳は認識している。だが今、目の前にいる俺は映像ではない。お前そのものだ。自分とまったく同じ姿をした者が目の前に現れたことで、脳が混乱している。今まで見たことがないものを見て、恐怖しているんだ」
 マルシオは必死でもがき、彼から逃げようとした。だが体が思うように動かない。
 彼はすべてを見抜き、マルシオの前に膝を折った。
「鏡に映ったお前は左右が反転していた。だから、心臓も左にあった」
 彼は呼吸を乱しているマルシオの左胸に手を当てた。
「だけど、俺の心臓は、こっちだ」
 次に、自分の右の胸に手を当てる。
「なぜ、俺が肉体を手に入れることができたか、分かるか?」
 マルシオは恐怖に支配されてしまい、返事をすることもできない。
「お前が、醜い感情を抱いたからだ」
 思い出した。あの鉛のような感情。
 あれは、ティシラがフーシャを殺したと誤解したときに湧き上がったものと似ている。
 醜い、負の感情。誰のためでもなく、他人を呪い不幸を望む、独りよがりな願い。
 あのときは「復讐」。
 そして、今度は「嫉妬」――。
「……そんな」マルシオの目から、涙が零れた。「違う。そんなこと、思ってない!」
 彼は哀れみの欠片もなく、笑うだけだった。
「思ったんだよ。だから、俺は体を手に入れた」
 手を当てた彼の右の胸の奥から、白い光が溢れた。
 マルシオはその光の意味を理解し、声にならない悲鳴を上げる。
 彼の右の胸の中に眠るのは、アスラの与えた白い石。
 彼は、天使の世界を創った白い宝石「ラドナハラス」の持ち主だったのだ。
「お前の願いを叶えてやる」
 彼は抵抗する力もないマルシオに覆い被さり、鼻先があたるほどに顔を近づけた。
「……願ってなんか、ない」
 涙で顔を濡らしたマルシオは必死で否定したが、「自分自身」を欺くことはできなかった。
 ほんの一瞬だった。
 夢に落ちる寸前、確かに、こんな言葉が、頭を過った。

 ――ティシラの恋心なんて、なくなればいい。

 そうすれば、今のままでいられる……。
 本気なのか冗談なのか分からないほど、軽い気持ちだった。
 だけど、彼がマルシオの体を乗っ取るには十分な、小さな「隙」だった。
 マルシオは自分の弱さを恥じた。どんなに言い訳しても、二人が恋人になったときの想像をしたとき、寂しさを感じたことを否定できない。
 だけど、壊したいなんて、本心じゃない。
 マルシオは自分の体が氷のように溶けていくのを感じていた。
 哀しくて、悔しくて叫びたい、強く激しい気持ちも、霞のように薄れていった。
 彼はマルシオに被さり、背を丸めていく。人ひとりを抱え込んでいたはずの彼の手足は、次第に自分の体に触れるほどに縮こまり、額が床に着いた。
 一瞬の静寂が訪れたあと、彼――マルシオの背中に光の羽が広がった。それは天使の持つ白い鳥の羽とは違い、まるで複雑な文字の入り乱れた稲妻のようだった。
 周囲は羽の放つ光に照らされて真っ白になり、硝子が割れるように崩れていく。
 マルシオが伏せていた地面もはらはらと解け落ちていくが、彼はその位置に留まり、手足はだらりと垂れ下がった。
 人形のように項垂れていたマルシオの光の羽が、大きく開いた。砕け散っていく白い世界の欠片は羽の光を反射し、宝石のように瞬いている。
 消えていく世界の真ん中で、マルシオは銀の瞳を輝かせ、微笑んだ。





   

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