SHANTiROSE

INNOCENT SIN-23






 空間が揺れた――それ以外の言葉が思い浮かばない。
 クライセンはまだ寝室へは行かず、書斎のソファで横になって休んでいたところを叩き起こされた。
 実際に叩かれたわけではない。声が聞こえたわけでも、衝撃が起きたわけでもない。
 深夜、もう皆眠っている時間だ。少なくとも、彼の近くには虫一匹いない。
 胸騒ぎがし、クライセンは起き上がって窓から空を見上げた。次に庭と、それを囲む森を見つめた。
 精霊が騒いでいる。あの時と似ていた。マルシオが眠っていただけなのに、精霊が悲しそうに救いを求めてきたときと。
 今夜、マルシオは客室で眠っているはず。早足で書斎を出て彼のところへ向かった。暗い廊下に、人影があった。近づくと、壁伝いにふらふらしているカームがいた。
「……クライセン様」カームは傾いたメガネを指先で整えながら。「すみません、勝手に部屋を出て……クライセン様を呼びに行こうとしてたんです」
「何があった?」
 カームは呼吸を乱していた。走り回った様子はない。恐怖で胸を締め付けられているのだ。
「……マルシオが」声を震わせて。「マルシオが、いなくなったんです」
 青ざめ、目に涙を溜めている。クライセンはカームに近づき、彼の目を見つめた。
「何を見たんだ」
 カームはびくりと肩を揺らした。見ていけないのに、見てしまったこと。そして、見たものがあまりに不可解で、混乱していることを、クライセンは察した。
「責めるつもりはない。何を見たのか、教えてくれ」
 カームは自分のしたこと、見たことをどう説明しようか、分かってもらえるだろうかという不安でいっぱいだった。しかしマルシオがいなくなったと言っても動じないクライセンの様子に、彼は何が起きたのか、起きようとしているのかを自分よりも分かっているのだと察する。カームは我慢していた涙を零した。
「……わざとじゃなかったんです。突然、部屋中が真っ白になるほどの強い光が起こって、びっくりして飛び起きたんです。いつも、寝るときは部屋を暗くしてにして、布団に潜ってからメガネを外します。だけど、急にそんなことになるから……僕は目を伏せる間もなく、その光を、真っ直ぐに見つめてしまったんです。不可抗力だったんです」
 カームの話は言い訳から始まった。
「分かった」クライセンにとって、そこはどうでもいいことだった。「それより、何を見たのか、話してくれ」
「はい……光を発していたのは、マルシオでした。背中から、光る、文字の塊のような、奇妙な羽を生やしていて……」カームは頬に流れる涙を拭い。「右の胸に、白く光る、石が埋まっていて……脈を打っていたんです」
 その光景を思い出すと背中に寒気が走る。
「まるで、心臓のようでした。いいえ、あれは、彼の心臓でした。だけど、右側にあって、しかも、石だったんです。石の心臓なんて、普通なら、生きていられるわけがありません……マルシオは、僕と目を合わせることなく、光に包まれて、消えていってしまいました」
 カームは嗚咽を漏らして泣き出した。
「クライセン様、マルシオは、どこへ行ってしまったんですか? 彼は一体、どうなってしまったんですか?」
 ある程度予測していたクライセンは、まだ驚かなかった。泣き続けるカームに、冷静に問いかける。
「カーム、君は何を見たと思っている?」
「えっ」カームは顔を上げて。「何って……そんなの、分かりません」
「分からないなら、どうしてそんなに泣いている」
「それは……」
「見てはいけないものを見たからだろう? だったら、なぜ君は見てはいけないと思った?」
 涙を拭いながら俯き、すぐに答えないカームに、クライセンは追いうちをかける。
「私に建前は必要ないよ。君の能力も知ってる。マルシオがどうなって、どこへ行ったのかも、少しは予想してるんだ。だけど、確実じゃないし分からないことのほうが多い。だから君の見たことを教えて欲しいんだ」
「……僕は、ただ見るだけです」
「それでいい」
「……白い石」
 カームは声を詰まらせながら、強く目を閉じた。
 つい数時間前に聞いたばかりの話だった。この世界を創ったという、「原始の石」――途方のない話で、物語のようで、一介の魔法使いであるカームには現実味を帯びないものだった。そこに友達のマルシオがいたから、能天気なティシラがいたから、あまり気負わずに聞いていられただけ。なのに、まさかこんなにすぐ、こんなに近くで、その存在を見てしまうなんて、夢にも思わなかった。
 まだ信じられない。
 だけど、もしかするとクライセンは分かっていて、わざとその話を聞かせたのかもしれない。そうだとしたらあれが本物だという可能性が高くなる。
 現物があるリヴィオラですら、直視することができなかった。限られた者しか知らない伝説の一部に、こんなにも突然に触れてしまうなんて、カームは気持ちの整理さえできない。
 カームはこのまま突っ立っていても何もならないと思い直し、頭を左右に振った。もしかしたら考えすぎかもしれない。この世は知らないことばかりだ。まさか、「原始の石」なんて、サイネラでさえあまり知らなさそうなことに自分が遭遇してしまう確率は低い。自分が見たものは別のものだったのだ。
 違うと言って欲しかった。だからカームは勇気を出して、まずはその可能性を打ち消すことから始めた。
「あ、あれは、クライセン様が言ってた……原始の石、では、ありませんよね」
 だが、クライセンは待ちもせずに即答した。
「そうだと思う」
 カームはあっさりと希望を打ち砕かれ、再び震え出した。
「そうなんですか? どうしてですか? どうして、マルシオがそんなものを……!」
「マルシオが、何かしらの形でアカシアに関わっているからだろう」
「……アカシア?」
 もう何から疑問に思えばいいかも分からない。ただ困惑するだけのカームを余所に、クライセンはふと顔を上げた。廊下の天井の、その先に目線を向けている。
 着いていけないカームは、止まらない涙を頬から落としながら、彼と同じように暗い天井を見上げた。
「また、招かれざる客が来たようだ」
 クライセンはカームに背を向けながら、片手を大きく振り上げた。すると暗闇の中から、同じ色をした重厚なマントが現れ、ふわりと踊るような動きで彼の体を包み込んだ。
 暗くて狭い廊下で、背中から見ただけだった。だけど、カームにとっては忘れられない一瞬だった。今まではごく普通の青年にしか見えなかったクライセンが、マントを羽織っただけで途端に大きくなったように感じたのだった。不思議だった。あれだけ不安で悲しかった気持ちが吹き飛んでいく。カームはメガネの隙間に指を入れて涙を拭き、先を歩いていくクライセンの背中をじっと見つめた。
 これが、魔法王。この世界の頂点に立つ魔法使い。雲の上の存在だと思うほど高等な魔法使いたちが、更に見上げる位置にいる人物。
 彼はマントを羽織ったと同時、巨大な魔力を身に纏ったのだ。日常と職務中で顔つきや貫録が違う魔法使いを何人も見てきたが、こんなにも落差のある人は初めてだった。だけどその神秘性が、魔法王が幻だと言われる理由の一つなのだろうということをカームは実感した。
 これから何が起こるのか分からない。怖くないとも、驚かないとも言えない。だけどその場に居ることくらいはできる。居られなくなるまでは、居よう。マルシオに何もなければそれでいい。彼とは友達だから、無事を確認するくらいの権利はあるはず。
 カームはクライセンの背中に着いて行こうと、息を飲んで足を踏み出した。



 クライセンはマントを翻して庭に出た。
 夜の一番深い時間だった。森の周囲には他に民家もなく、人通りもほとんどない。今夜は風もなく、静寂だけが空間を満たしていた。
 空気は澄んでおり、空を見上げると砂を撒いたように星々がびっしりと敷き詰められている。煌々と輝く少し欠けた月を、カームは吸い込まれるように見つめた。
 背後から、ミランダが駆けつけてきた。ミランダもすぐに異変を感じ取り、窓から外を見つめていた。そこに二人が出てきたため、急いで部屋を飛び出してきたのだった。
「ねえ、何か変よ。何が起きたの?」
「僕は何も……」
「あなたには訊いてないわ」
 ミランダに一喝され、カームは縮こまった。クライセンは空を見つめたまま返事をしない。ミランダはクライセンの様子がおかしいことに気づき、口を閉じて同じように空を仰いだ。
 星たちが、そよいでいた。
 まるで風に吹かれる雨粒のように動いている。今にも落ちてきそうなほど広大で美しい星空に圧倒され、目眩を起こしているのだと思い、ミランダは目を擦った。同じ感覚に襲われたカームも、メガネの下に指を入れて瞬きを繰り返している。
 しかし何度見ても星は降り続いている。幻覚ではない。そして、降ってきているのは星でも雨でもなく、小さな銀の光の粒だった。
 はらはらと舞い落ちる粒は次第に規則的な動きを始めた。上空で渦巻き、細い線になり、螺旋を描きながら地上に降りてくる。銀の糸はクライセンたちのいる庭に降り注ぎ、生きているように地面を這い出した。
 それを、クライセンは黙って見つめている。銀の線はいくつもの円を描き、その中に直線や図形、見慣れない文字を次々に重ねていく。
 地面に落ちた粉は自ら光を発し、静かで暗かった庭を強く照らしていく。
 困惑しながら銀の線を目で追い続けていたカームとミランダだったが、すぐに図形は庭一杯にまで広がっていった。
 起きていることに追いつけずにいる二人だったが、確かに分かることがあった。庭を埋め尽くした光の粉が描いているものは、魔法陣だった。見たこともなければ、描かれた図形を理解することもできない。それでも、美しかった。決して嫌な感じはしない。
 銀の粉はいつまでも空から降り続け、空中でふわふわと舞い踊っている。魔法陣が完成したあと、一番強い光を発した。宙を舞っていた銀の粉が、魔法陣の中央に集まってくる。粉は人の形を作っていった。だが、カームたちの知る人間ではない。なぜなら、その人影には、翼があったからだった。体型はクライセンと同じくらいで、長い髪が揺らいている。背中から飛び出した羽は、六枚――カームの持つ知識の中で、その姿をした者とはいえば、「五大天使」の中の一人しかいなかった。
 幻かもしれない。こないだ、空に巨大な天使が現れた。あれが何だったのか、カームは知らない。ただただ美しく清らかで、人々の不安を掻き消してくれた。天使は一言も発さなかったがそれだけで十分だった。だから、今目の前に現れた等身大の天使を見ても、まだカームは錯乱しなかった。
 六枚の羽根を持つ純白の天使は地に足を付け、直立した。舞う粉に揺らされて浮いていた銀髪と羽は、音も立てず彼の背中に収まる。庭を照らしていた魔法陣も、静かに消えていった。
 突然舞い降りた天使はおぼろげで、水晶のように透き通っているように見えた。温度を感じないほど完璧な容姿だったが、切れ長の瞳には優しさと憂いが垣間見える。
 しかし見とれている場合ではなかった。遠い昔に地上から消えた天使が空から下りてきた。その中でも特殊でルーダ神に一番近い位置にいる大天使の一人が出てくるなんて、ただ事ではない。
「クライセン……あなたがやったの?」ミランダの声が上擦った。「どうして? 大天使を召喚するなんて、あなたはまた、天使を利用しようと……」
「待った」クライセンは興奮する彼女の言葉を遮り。「私は何もしていない。彼は、自らの意志でここに来たんだ」
「……何のためよ」
「さあ。それは本人に訊かないと分からないな」
 クライセンは天使に向き合った。天使は目を細め、薄く微笑んだ。
「久しぶりだな。クライセン・ウェンドーラ。私を覚えているか?」
 クライセンもふっと口の端を上げる。
「もちろん。ネイジュ・ファクトラ。もう二度と会うことはないと思っていたが……」
「そうだな。マルシオのことは、あなたに任せたつもりだった。彼がどんな道を歩もうが、私たちが手を出すことではないと、認識していた」
「だったら何のために出てきた」
「マルシオのことを伝えなければいけないと思ったからだ」
「マルシオは天界にいるのか」
「ええ。あなたも感じたはず――王が、帰還されたのだ」
 戸惑うことなく伝えられた言葉に、クライセンの表情が僅かに変わった。誰にも分からないほど弱く、奥歯を噛んでいた。
「やっぱり、そういうことか」
 ネイジュは小さく頷く。その顔には希望も絶望もなかった。
「天使の世界が変わるんだな」
「ええ。何もかも」
「原始の石を持つ者が世界を創るのは自然の法則も同然。君たち大天使もその法則の一部に過ぎないだろう。何が問題があるのか?」
「いいえ」
「なら、どうして私に伝えにきた」
「……マルシオが、あなたの弟子だからだ」
 そう言ったネイジュの穏やかな目線が、人知れずクライセンの心を刺した。細くて見えないほどの、産毛程度の針が、風に紛れて付着したように。
 その刺激で、クライセンはネイジュの本心に触れた気がした。
「私は何をすればいい」
「それは師匠であるあなたが決めること――だから、これから話そう。今までラドナハラスがどこにあったのか、私たち五大天使が何を守っていたのか。そして、アカシアのこと、ルーダ神のことも、すべて……」
 覚悟はできていた。クライセンは、まだ長い一日が終わっていないことを感じ、彼の声に耳を傾けた。
 そのとき、玄関からサンディルが大きな声を上げた。
「クライセン……!」
 サンディルは天使の姿を見て驚き、一瞬身を引いていたが、何が起きているのかを察して一同に駆け寄ってきた。
「ティシラが……どこにもおらんのじゃ」
 そのことも含め、ネイジュは話し始めた。





   

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