SHANTiROSE

INNOCENT SIN-28






 星空の奥のほうを見つめていたネイジュが眉を潜めた。
「……消えた」
 クライセンも同じ方向あたりを見上げたが、とくに変わったことはない。
「消えたって?」
「天界で何か動きがあったようだ。おそらく、マルシオがまた世界を壊したのでは」
「壊した? なぜ」
「分からない。今天界にいるのはマルシオとティシラだけのはず。他の五大天使はまだ大きな力を使えるほどの意識はないと思うんだが」
「ティシラは召喚されたんだよな。世界が壊れたら彼女はどうなる」
「マルシオ次第だ。壊れた世界は過去の記録になる。ティシラが外から来た人物なら死ぬことも可能だが、天界の住人として召喚されているため、彼女も記録の一部になってしまう」
「どっちにしても最悪の状況ってことか」
「そう安易にティシラを破棄するとは思えない。マルシオはまたすぐに新しい世界を創るだろう。そこに彼女の記録を連結させれば問題はない」
 クライセンはネイジュの説明を頭の中で整理した。
 つまり、アカシック・レコードであるマルシオはこの世の摂理や道理を自由に操る力を持っているということ。
「過去を修正し、やり直すことで未来を思い通りに操作するのが目的か」
「思い通りにはならない。だからアカシアは何度も修正してきたんだ」
「それもそうだな……」クライセンは、まずは何をすべきかを考える。「今天界にいるのはティシラとマルシオ。まだ何も進んでいないはずなのに、なぜマルシオが世界を壊したか。ネイジュ、君はどう思う?」
「……ティシラに原因があるのではないかと」
「私もそう思う。マルシオなら、ティシラが大人しくしているわけがないことくらい当然知っている。こんなに短時間でティシラを破棄する結論に至るとは思えない」
「だったら、ティシラは無事だ。あなたの予感のとおりなら、力の誇示が目的だった可能性が高い」
「ネイジュ、君は何も影響はないのか?」
「私は今、他次元の世界にいる。できたばかりの土台が壊れたところで影響はない」
 話をしているうちに、ネイジュは再び星の奥を見つめていた目を瞬かせた。
「新しい星が生まれた」クライセンに目線を移し。「新しい世界の構築が始まった。どうする?」
 ネイジュの質問に、クライセンは内側で緊張を高めた。
「天界に物質ができれば人間も赴くことは可能だ。私が道を作る。マルシオに会うか?」
 やはり、と思う。
 ネイジュはどうするかと訊くが、クライセンとマルシオを会わせるためにここに来たに違いない。クライセンは最初からそのつもりだった。向こうから招いてくれるならこれほど有難いことはない。何の迷いもなかった。
「会えるなら会わせてくれ」
「だが先に訊いておきたい。あなたの場合は召喚ではなく招待だ。マルシオがまた世界を壊せば圧縮されて死ぬ。それでもいいのか」
「いいよ」
「行かないという選択肢もある。マルシオの力は破壊ではない。人間の記録を修正すること。そして誰も修正されたことを認識できない。そこに別の人生ができるだけで、後悔も悲しみも伴わないのだ。アカシック・レコードに干渉すれば、あなたはきっと今までの人生や歴史に疑問を抱き、苦しむだろう。迷うことは決して恥ではない。正しい選択をして欲しい」
 クライセンは目線を上げ、空を仰ぐ。
 次に庭を、屋敷を見回した。
 なんとなく、今までのことを思い出す。
 今まで当たり前にあったものが、消えてなくなる。そして、何もかも、もしくは一部が変化し、その変化はなんだったのかなど、気付きもせずに時間は流れるのだろう。
 知られることなく消えることの寂しさは計り知れない。
 いつの間にか消えて、噂だけが人々の記憶の中で言い伝えられ、改竄され、薄れていき、いつか本当の自分を知る者がいなくなれば、もう生まれたことさえ意味を失くす。
 昔はそれでいいと、それがいいと考えたこともあった。
 だけど、今は、誰かが傍にいないと寂しくて仕方がない。
「行くよ」
 クライセンは思い出に浸るのをやめる。
 過去があったから今の自分がいる。やり直さなくても、ささやかな幸福に満たされている。これ以上のものは必要ない。
「マルシオは私の弟子だ。けじめをつける。ティシラもどうせ嫌がっている。だったら助けなければいけないだろう。行かない理由が見当たらない」
 ネイジュからすれば、クライセンの動機は軽いものに感じた。しかしどれだけ問答しても天使である自分が納得する答えは聞けないのだろうと思う。
 もし彼の選択が愚かなものだったなら、きっとマルシオが修正する。
 だからネイジュは今は疑問に思わず、彼の進みたいほうへ道を作ることにした。そのためにここに来たのだから。
 ネイジュが再び星の動きを見上げたとき、背後からカームがバタバタと走ってきた。
「クライセン様、大天使様! 準備は整いました」
 カームは魔法軍の制服に着替え、しっかりと襟を正している。息を切らせて二人の前に直立した。ミランダも身なりを整え、速足で駆け寄ってきていた。
「マルシオとティシラさんを連れ戻しに行くのでしょう? 僕もお供します!」
 彼らがそう言い出すことは多少予想できていたことだが、クライセンは冷たく突き放す。
「ダメだ。君たちはただの客だ。どうしてもというなら保護者に許可をもらってきなさい」
「ええっ」カームは感嘆の声を上げ。「確かに、魔法使いの弟子としてそれが正しい行動だと思います。でも、それじゃ間に合わないでしょう」
「そう思うなら諦めてくれ」
「でも、僕は休暇中なんです。サイネラ様に許可をもらわなくても大丈夫です。すべて自己責任なんです」
「死ぬぞ」
「えっ! 僕がですか?」
「人間なんかマルシオの思考一つで記録に潰されて死ぬ。そうでなくても、誰かが人間界に送り返してくれなければ帰ることはできない。天界に取り残された人間がどうなるかなんて、私にも分からない」
「そ、そんな……」せっかく立ち直りかけていたカームはまた胸に苦しみを感じた。「だったら、クライセン様も同じことでしょう? クライセン様はどうやって帰ってくるんですか?」
「帰れなくてもいい」
 カームは動揺し、おろおろしてミランダに助けを求める。
 ミランダは真剣な面持ちでクライセンに歩み寄った。
「あなたは、神と戦う気でいるの?」
「そういうこと。今のところ、マルシオもティシラも連れ戻して元の日常に戻すという手段はないからね」
「それで解決するの? あなた一人で何ができるというのよ」
「そもそも君たちは今のマルシオを何だと思っている? もうただのマヌケな天使じゃない。世界創世の力を持つ、人間の言う『万能の神』だ。そのことを実感できているのか?」
 ミランダも、カームも返事をできなかった。
 神は今まで認識できないものだった。人間が無条件に畏れるように作られた絶対的な存在。それが突然形になったと言われても、まだピンとこない。あの不器用で無邪気だったマルシオを知っているからこそ、なお現実が見えてこなかった。
「そうね……実感できてないわ」ミランダはクライセンを睨みつけ。「だから私も連れて行って欲しいの。マルシオがどれだけ強い力を持ってるか、言葉では言えても、見てみないことには理解できないのよ。だからこそ見たいの。後悔するかもしれない。理不尽に死んでしまうかもしれない。でもこのまま何も知らないでいられないの。我慢できないの。どうしても知りたいの」
 クライセンは聞き分けのないミランダに苛立ちを覚えながらも、彼女の言い分に共感できるのも否めなかった。
「好奇心だな」
 それなりの覚悟を決めているつもりなのに、そんな軽い言葉でまとめられるミランダは奥歯を噛む。
 しかし、つまり、そういうことなんだと思う。
「ええ、そうね」
「厄介な感情だ……」クライセンはそう呟き。「言っとくけど、私は君たちを助けないよ。そんな余裕はない。ただ、マルシオは殺戮や破壊を目的としてるわけじゃない。そこを忘れないように。そのうえで何をどうすべきかよく考えて、自分の身は自分で守ってくれ」
 まさかクライセンが受け入れてくれるとは思っていなかったミランダは目を丸くしていた。いざ許可されると、それはそれで不安が募る。だがもう後には引けない。知っても知らなくても後悔するなら、知りたい。
 透かさず、カームが割り込んできた。
「もちろん、僕もですよ! 僕は未熟な魔法使いですけど、師匠は個人的な交友関係までは指図できません。僕は絶対に引きませんからね。もしサイネラ様が許さないなら、クビにしてもらったって構いませんから!」
 顔を真っ赤にして叫ぶカームだったが、周囲は冷ややかだった。静かな空気に気づいたカームは拳を握ったまま、恥ずかしそうに口を結んだ。
 クライセンは肩の力を抜いて、もう一つため息をついた。
「まあ、もしサイネラに文句を言われても、私のほうが偉いから別に問題はないよ」
 カームの中で、また魔法使いの星・魔法王のイメージに大きな傷が入った。
「むしろ今この場にサイネラがいたら彼のほうが頭を下げてくるだろうね。出来の悪い弟子を持つ師匠は気苦労が絶えないものだな」
 悔しいが何も言い返せないカームはまた泣きたい気持ちがこみ上げていた。頬を膨らませて奥歯を噛む彼に、ミランダはかける言葉すら見つからなかった。


 ネイジュはそれをアストロ・ゲートと呼んだ。
 星は位置や角度によって星そのものやダークエネルギー、ダークマターを動かし、その動きは人の目には見えない形で影響を与える。人々はそれを運命と呼び、いつしか計算式を割り出し、ホロスコープとして魔法に似た力を得る。アストロ・ゲートはホロスコープの先にある、人間の目では見えない星や空間までを計算した天使の持つ特殊な能力である。
 天界と人間界、つまり異次元と異次元を繋ぎ、人間を天使と同じ物質に変換する門を作り出す。
 クライセンも聞いたことのない力だった。
「ただ計算するだけじゃないんだろう?」
「星を動かしているのだ。星と言っても、人間には認識できない物質だが」
「それは遠くて、人間の寿命をかけても届かない位置にあるから認識できないということか」
「それもある。実際に人間が認識できるかどうかを確かめる手段はないというのが正しいな」
「今までに人間が天界に行ったことは?」
「ない。アストロ・ゲートはずっとあったが、人間を呼ぶために使われたという記録は、私は知らない」
「あったかもしれないんだな」
「そうだとしても、そのときのことを知っているのはアカシック・レコードだけだ。天界の過去はもう消えているからな」
 難儀な世界だと、クライセンは思う。ネイジュは話しながら、星の動きに集中していた。
「ただ、アストロ・ゲートの存在を知っている人間はいた」
「誰?」
「ザインだ」
「へえ。イラバロスは?」
「彼は知らない。ザインの親がアカシアと会ったことがある。天使と人間の世界を繋ぐ道があることは、親からザインに伝えられていた。しかし一度も使用されたことはなかった。大きな理由はない。必要なかっただけのこと。ザインは誰にも口外せず死んでしまったため、人間で知る者はいなくなってしまったんだ」
 誰も知らないし、誰も使ったことがないならないのと同じこと。クライセンはふうんと言うだけでそれ以上は興味を示さなかった。
「アカシック・レコードに触れれば、そうやって消えた事実も掘り返されるってことか」
「そうだ。人間の感情や欲望で都合よく書き換えられた歴史ではなく、無情な真実だけがそこにある」
 そんな会話を黙って聞いているカームとミランダはじっと固まって動けずにいた。
 これが噂なら興味深く聞くことができただろう。だが、天使自身が語る秘術や歴史の真実となると、自分がここにいていいものがどうか激しい葛藤に苛まされてしまうのだった。クライセンのように平然と受け入れることができない。もうこれ以上は聞きたくないとまで思う。しかし好奇心だけは止まらない。今更、やっぱりやめるとは言えなかった。
 話を聞くだけで知識と経験と、精神力まで必要だということを、若い二人は身を持って学習することになった。
 気を紛らわそうと、カームは周囲を見回した。サンディルの姿がなかった。まさか彼の身にも何かあったのではと、そっとクライセンに近づいた。
「あ、あの、クライセン様……」先ほどの勢いはなくなり、遠慮がちだった。「サンディル様が、いないんですが」
「ああ、あの人は気にしなくていい」
「心配じゃないんですか?」
「いらぬ世話だよ。あの人の寿命はとっくに過ぎてるんだから。今更惜しむこともないだろう」
 相変わらず辛辣だと思うと同時、少し慣れ始めていることにカームはまだ気づいていなかった。
「こんな話、聞きたくないだろうしね……」
 そう続けるクライセンに、カームは首を傾げた。
 カームと同じように恐縮していたミランダは、それを聞いて意を決して前に出た。
「ねえ、続きをきかせてよ」
 クライセンとカームは彼女に顔を向けた。
「無情な真実って何? 私たちが知らない、消えた歴史って何?」
 クライセンはネイジュに目配せする。ネイジュは星を見上げたまま、口を開いた。
「君は?」
「ランドール人の血を持つ魔法使いよ」強がるように、目尻を揺らし。「あなたからしたら、そこら辺の雑草と変わりない小さな命でしょうけどね」
 ネイジュは彼女の卑屈な言葉の意味をすぐに理解した。感情を持ち、言語を解する生物は自分を特別扱いしてもらわなければ納得しないもの。天使の彼は人間をそう認識していた。
「……全部を語るには時間が足りない」
「私だって全部を聞くのは無理よ。どうせお婆さんになるほどの時間が必要なんでしょう? 少しでいいの。今の時代、ほとんどの人が知らない無情な真実って、どういうものなの」
 やめたほうがいいのに、とクライセンは思うが、止めなかった。
「ザインは……」ネイジュは空の向こうを見つめながら。「本当は子が欲しかった。自分の持つものを譲り、残したかった。公表していない恋人がいて、その娘はザインの子を孕んでいた」
 カームに聞きたくない、聞かないほうがいいという勘が働いた。だが聞かずにはいられなかった。
「敗戦後、ランドール人の反逆を恐れたアンミールの軍部が、身を隠していた娘を見つけ出し、腹の子ごと暗殺した」
 ミランダの顔が強張った。残酷で不条理な真実に、怒りが込み上げてくる。
「その娘の存在をアンミールの軍に漏らしたのは、イラバロスだった。当初はガラエルに保護を求めての情報提供だったのだが……ガラエルに忠誠を誓ったイラバロスは国の再建のため、ザインの子を始めとする彼の身近な血縁者の暗殺や処刑を、暗黙した」
「……嘘よ!」
 ミランダは堪らず大声を出した。ネイジュは一切の感情を見せず、じっと空から目を離さなかった。
 そんな彼の代わりになったのはクライセンだった。
「聞きたかったんじゃないのか」
「嘘よ、信じられない」ミランダは感情が追いつかず、混乱する。「イラバロスは、ザインを殺しただけじゃ飽きたらず、生き残った彼の大事な人まで奪ったと言うの?」
「解釈の違いだ。そう思う人にはそういうことになる」
「そう思わない人なんかいるの?」
「私は違う。イラバロスはパライアスを守りたかったんだと思う。そのために友人を犠牲にしたことは変わりないが、あれだけの戦争の後の国の再建だ。そうすることで一部の過激派の暴動を抑えることができるなら、致し方なしと判断したんだろう」
「何よそれ……」
「そういうものだ。分からなくてもいい。人間の感情は人それぞれだ。もう死んだイラバロスを今更憎んだところで君の人生に大した変化はない」
 そう言って背を向けるクライセンに、ミランダは激しい怒りを抱いた。
 言いたいことは山ほどあるのに、言葉が出てこない。何から言えば自分の中にある気持ちを伝えられるのか分からない。
 悔しい。ミランダは体を震わせ、悔しさで涙がこみ上げてきた。
 彼女の激情を察したカームが、再び割り込んでくる。
「ク、クライセン様は……!」
 戸惑い、言葉が詰まる。散々騒いだ彼でも、言っていいものかどうか強いブレーキがかかった。だけど、今でなければ、きっと二度と言える機会はない。
「あなたは……イラバロスを憎んだから、その手で彼を裁かれたのではないのですか」
 ミランダの中の熱した怒りが急激に冷めていく。クライセンは黙ったまま、しばらく星空を眺めていた。
 カームの胸が張り裂けそうなほど強く脈打っていた。怖い。このまま答えてくれなくてもいいと思った。怒って追い出されても仕方ないとも思う。
 だけど、クライセンは振り向かずに呟いた。
「違う」その声には怒りも悲しみもなかった。「彼は殺されて当然の男だった」
 恨みでも怒りでもない。故郷への愛もない。誰かのためでもない。
「だから……私にとっては、都合のいい存在だったんだ」
 この苦しみから解放される。
 そのときはそう思った。





   

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