SHANTiROSE

INNOCENT SIN-27






 ネイジュが何かを待っているように星空を見つめている。そんな彼に声をかけようとしたとき、背後で鼻をすする音が聞こえた。振り返ると、なぜかカームが俯いて涙を流していた。
「……僕は、納得いきません」
 クライセンは面倒臭そうな表情を浮かべる。
「どうしてクライセン様はマルシオの気持ちを理解してあげないんですか?」幼気な目を向け。「初恋なのかもしれないじゃないですか。マルシオが不器用なのは、クライセン様のだってご存じでしょう? ずっとため込んでた思いが、暴走してしまったんじゃないですか?」
「……だったら何だ」
「だからってティシラさんを誘拐していいことにはなりません。でも……僕はどうしてクライセン様が頑なに否定されるのか、理由を知りたいんです」
 クライセンのため息が止まらない。
 話もしたくないと思っていたところに、ミランダがカームの肩を叩いた。
「もうやめなさいよ。今それを追及したって何の意味もないでしょう」
「ありますよ。マルシオの積もり積もった不安がこんな事態を引き起こしたんだから」
 カームは頬に流れる涙を拭い、勇気を出してクライセンに向き合った。
「クライセン様、僕は、マルシオの友達として、どうしても言いたいんです。聞いてください」
 無礼を承知で……と覚悟を決めたカームだったが、クライセンは素早く遮った。
「断る」
「えっ!」
「君はもう部屋に戻って寝ろ。うるさい」
「そんな……嫌です。聞いてください」カームはうろたえながらも引かなかった。「クライセン様は冷たいです。もし僕がマルシオだったら、僕だってティシラさんを諦めます。だって、相手があなただなんて、勝てるわけがないじゃないですか」
 カームは冷ややかな態度のクライセンに必死に食らいついた。
「でも、マルシオはあなたに匹敵するような力を得たんでしょう? だからこんな行動に出たんです。それを、ただの勘違いだなんて言葉で片付けて、クライセン様は弟子を叱るおつもりなんでしょう? せめて察してあげてくださいよ。僕はマルシオと同じ立場だから分かるんです。僕だけでも、マルシオの味方でいたいんです」
 涙を零しながら訴えたカームははっと目を見開いた。目の前で、魔法王が自分を睨み付けている。深夜の冷たい空気を纏う彼は、道に立ちはだかる恐ろしい巨人のようだった。
「君がどれだけ友達を大事にしようと自由だが」クライセンの切れ長の目が一段と鋭く尖る。「私にモテない男の気持ちを理解しろというのは無理な注文だ」
 カームは見えない刃に胸を切り裂かれ、抵抗できずにその場に膝をついた。
 クライセンはさっと踵を返してネイジュの元に向かう。
 ミランダはがっくりと落ち込むカームの背中を哀れみの目で見つめた。
「……酷い。魔法使いは心優しく、弱者に寄り添う聖人じゃなかったんですか?」カームはまた涙を流し。「クライセン様は確かにかっこよくて、強くて、モテてモテて、迷惑なくらい人に好かれるんでしょうけど……それを鼻にかけて凡人を見下すような人だったなんて、イメージと違いすぎます」
「彼を勝手に聖人だと思い込んでたのはあなたでしょう」
「そ、そうですけど……」
「クライセンはあなたみたいな人を嫌ってるわよ。少しは自重しなさい」
 カームは更に追い打ちをかけられ、大きな傷がまた開いた。
「それに、あのクライセンと対等に付き合ってるマルシオが、あなたと同じだとは思わないほうがいいんじゃないかしら」
「…………!」
 開いた傷に塩まで塗りこまれたカームは、彼の言うとおりもうベッドに潜って休息を取りたいと思うほど強いショックに打ちのめされていた。
 救いを求めたカームは、暗闇に佇むサンディルを視界に捉え、彼に駆け寄った。
「サンディル様、あなたはどう思いますか?」
 サンディルは今まで眠っていたかのように静かだった。長い眉毛の下い隠れた細い目を瞬かせる。
「儂にとっては、ティシラもマルシオも、クライセンと同じくらい大事な子供たちじゃ」
 カームはサンディルの深く重い言葉に息を飲む。そして、これはただの恋愛の拗れではなく、三人の関係が壊れてしまうかもしれない悲しい事件の始まりだということを思い知った。
「ティシラもマルシオも、クライセンを慕い、孤独だった息子を笑わせてくれた……儂には、あの二人がいない生活など、もう考えられない」
 きっと、クライセンも同じはず――。
 カームは改めて彼らの気持ちを知り、また涙が出た。
 カームがこの家族と触れ合った時間が短い。とても楽しかった。それも、家族が幸せだったから分けてもらえた恩恵だったのだ。
 ずっとそこにあったはずなのに、誰も失くしたくないと望んでいたはずなのに、こんなにも突然に壊れてしまいそうになっている。
(クライセン様も辛いに決まっている。なのに、僕は責めてしまった……)
 酷いのは自分のほうだ。カームは顔を拭き、立ち上がった。
 突然屋敷のほうに駆けていくカームを、ミランダが追いかけてきた。
「今度はなに?」
「僕、着替えてきます」
「え?」
「きっとクライセン様はマルシオを説得するために、お休みもせずに行動なさるおつもりです。僕も手伝いたいんです」
「手伝う? 何を?」
「分かりません。でも、こんな格好でただ悲しんでいるだけなのは嫌なんです。できることがあるならいつでも出撃できるよう、準備しておきたいんです。僕はこれでも軍人ですから」
 臆病なのか無謀なのかよく分からないカームに、ミランダは戸惑うしかなかった。しかし彼の言うとおり、今の無防備な格好では近所に買い物すら行けない。異常事態なのは確かなのだからと、ミランダも着替えてくることにした。
 振り返ると、クライセンとネイジュは深刻な顔で話し合っている。今すぐ動く気配はないが、自分たちを無視して話が進んでいることは分かる。
 ミランダとてこのまま黙って立ち去る気はない。今のうちだと思って急いで部屋に戻った。
「あ、あの、ミランダさん」一度玄関のドアを潜ったカームが顔を出した。「確認する暇がなかったんですけど……マルシオって、天使だったんですね」
 あまりに今更すぎる疑問に、ミランダは一瞬考えてしまった。
「知らなかったの?」
「え……ミランダさんはいつ聞いたんですか?」
「聞かなくても分かることでしょ」
 ミランダは仲間だと思っていたカームはまたショックを受けた。
「わ、分かるわけないでしょう! 初めてできた友達が天使だなんて。しかも、神様だなんて、妄想好きな僕だって、思いつきもしなかったのに」
「知らないわよ」ミランダは苛立ち、カームを押しのけて先に進んだ。「あなたは想像力すら凡人以下だったってことじゃないの」
「凡人以下? せめて凡人にしてください。以下は言い過ぎです!」



*****




 何もない天界には、光の花びらが降り続けていた。よく見ると、足元の金剛石に小さなシミのようなものが浮き出ている。このまま少しずつ増え続け、いつか美しい模様になる前兆だった。だがこんな速さでは、完成はいつになるのか、考えるだけで気が遠くなりそうだった。
 きっと、目の届かない部分でも亀の歩みより遅い速度で何かが変わっているのだと思う。まだこの世界が何を基準に、どういう文明を築くのか、誰も想像できない。
 いつの間にか、五大天使の姿が消えていた。ネイジュが誰に許可を得ることなく人間界に向かったことは、マルシオも気づいていた。彼は彼の役目を感じて動いただけのこと。マルシオは何も問題としなかった。
「他の天使はどこへ行ったの」
 遠くを見つめながらティシラが問う。
「五大天使はまだ不安定な状態だ。自らの存在意義を自覚するまで、浮いたり沈んだりを繰り返しているだろう……まあ、一人はもう見つけたようだが」
 その一人というのが、ティシラには誰のことだか分からない。
「その他の天使は?」
「消えたよ」
「死んだってこと?」
「消えたんだよ。新しいこの世界にはまだ存在していないだけ」
「あんたにも肉親とかいたんでしょ。親は? あの婚約者は? それもみんな消えたってこと?」
「そうだ。血縁や親族という関係もすべて消えた。必要なら、また新しい世界で成形されるだろう」
「……消えた天使はどこに行ったのよ」
「過去の記録の中だ。彼らは役目を終えた」
「つまり、あんたが消したんでしょ? 殺したのと同じことじゃないの?」
 マルシオは王座に座ったまま、物思いに耽るように閉じていた銀の瞳を開けた。白い空を見つめたあと、ティシラに目線を落とす。
「怖いのか? 俺が、同じようにしてクライセンを殺すんじゃないのかと」
 ティシラは素直に頷かなかったが、その態度が答えだった。
「誤解はやめてくれ。俺は悪じゃない。クライセンを殺したところで何も変わりはしない。そんな野蛮な真似はしないよ」
「何が悪じゃないよ。どう見ても悪人よ。極悪だわ」ティシラはかっとなってマルシオを指さし。「大体、あんたクライセンの弟子じゃない。弟子が師匠に歯向かうどころか、師匠の未来の妻を誘拐して横取りしようなんて最低よ! あんたなんか、クライセンにボコボコに……!」
 ヒステリックに怒鳴り散らしていたかと思うと、ティシラは何かを閃き、顔を上げて大きく息を吸った。見開いた深紅の瞳が、次第に輝き始めた。
「……悪い奴に囚われたお姫さまを、強くてかっこいい魔法使いが救いに来る……! もしかしてこれって、最高に素敵な展開じゃない?」
 途端に夢見る少女に変貌したティシラは胸に手を重ね、マルシオに背を向けて一人で語り出した。
「悪役は師匠を裏切り、結ばれる運命にあった二人を引き裂く。魔法使いは大事な姫を取り返すため戦うことを決意し、出来の悪い弟子に制裁を与えるの。師匠の恋人を横取りしようとした悪い天使は敗北し、魔法使いと姫は愛を深め絆を強め……幸せなキスをするのよ……これって、女なら誰もが憧れる王道のラブロマンスじゃない!」
 自由にシナリオを描いたところで振り返り、黙って聞いていたマルシオに無邪気な笑顔を見せた。
「マルシオ、いいわ、許してあげる。こんな素敵な舞台を用意してくれたんだもの。あんたもたまには役に立つじゃない」
 マルシオは冷たい目でティシラを見つめていたが、耐えられなくなり、噴き出した。
「何がおかしいのよ」ティシラはむっとして口を尖らせる。「あんた本気でクライセンに勝てると思ってるの」
 マルシオは笑いながら立ち上がり、数歩、ティシラに近寄った。
「男を狩る魔女のくせに、本気で惚れた相手には手も足も出せない倒錯者が、口だけは達者だな」
 ティシラは再び顔を赤らめ、言い返せずに頬を膨らませた。
「いいだろう。クライセンをここに招待してやるよ。お前の望むラブロマンスとやら、叶えてみればいい」
 バカにされ、ティシラの怒りは頂点に達する。
(何よ……マルシオなんて、クライセンが出てくるまでもないわ。この私が、負かしてやる)
 奥歯を噛み、拳を握るティシラは必死で怒りを鎮め、深呼吸して気持ちを静めた。
「あんただって人のこと言えないじゃない」ティシラからも、歩み寄り。「私のことが好きなんて、今までそんな素振り見せなかったわ。今だって、こんな冷たい石に放置して、指一本触れようとしない。それが好きな女性に対する態度なの?」
 歩みを止めるマルシオに、ティシラはゆっくりと距離を縮めていく。
「知らないんでしょう? 女の扱い方を」手を広げ、誘うように目を細めた。「ほら、抱きしめてみなさいよ。ロマンティックなキスでもしてみなさいよ。できないくせに、口だけ達者なのはどっちなのかしらね」
 ティシラは微動だにしないマルシオに、あと一歩で胸が当たる位置まで近づいた。間近で邪悪な笑みを浮かべ、瞳に魔力の火を灯した。
 誘惑の魔力を至近距離で浴びても、マルシオの銀の目はまったく動じなかった。
 やはり、持つ魔力の差は歴然だ。近くで見れば見るほど、マルシオの内にある魔力の量に圧倒される。まるで引き潮の海のように、何もかもを飲み込んでしまいそうなほど途方がなかった。

 こんなのは、自分の知るマルシオではない。
 こんなマルシオは、嫌い――。

 先に動いたのはティシラだった。
 二人の深紅と銀の瞳が同時に揺れた。
 ティシラの右手が、マルシオの胸に突き刺さっていたのだった。
「……あんたの心臓が、魔力の源なんでしょう?」ティシラは彼の胸の中を指先で探り。「私がただのか弱い美少女じゃないってこと、忘れたわけじゃないわよね」
 原始の石を奪えばマルシオの力は半減する。そのあとどうなるかなど考えてはいなかったが、ティシラはマルシオに少しでも後悔の念を抱かせたかった。
 だが、手に石の感触がなかった。
 ティシラから笑みが消えたとき、代わりにマルシオが笑った。
「残念だったな……」
 初めての感触だった。肉を破るまでは、今までの経験と同じだった。だがその先に熱いほどの血液がなかった。いつもは大量に溢れ出す赤い血が、一滴も流れていなかった。
「俺の心臓は、右だよ」
 マルシオは痛がりもせず、一切抵抗しなかった。
 その不気味な態度がティシラを怯えさせた。
 途端、足元の金剛石に亀裂が走り、一瞬にして、音も立てずに粉々に砕け散った。床はすべて銀の破片となり、底のない空間に崩れ落ちていく。
 マルシオは光の羽に支えられ、その場に留まる。しかし足場を失ったティシラは尖った破片と一緒に落下していくしかなかった。彼の胸から抜けた手の中には、銀色の砂のようなものが握られており、それも宙に溶けて消えていった。
 どこまで落ちるのか、落ちた先でどうなるのか何も分からないティシラを、マルシオは一歩も動かず冷たい目で見送った。





   

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