SHANTiROSE

INNOCENT SIN-26






 話を聞きながら、クライセンは腑に落ちない表情を浮かべていた。
「神がいるとかいないとか、それはどうでもいいんだが」うーん首を捻り。「マルシオが嫉妬って、どういうことだ?」
 ネイジュはやはり微動だにしなかった。マルシオの抱えた矛盾した悩みは、きっと誰が聞いても小さく感じる。そして同時に、誰もが共感できるであろうものだった。笑う者もいるかもしれない。自らも似たような気持ちを抱いても、考え方を変えれば解決する程度のもの。それでも、その小さな悩みが積み重なった結果が、今の状況ということだった。
「……ご、ごめんなさい」
 ネイジュが口を開こうとしたとき、またカームが割り込んできた。ミランダが苛ついた顔で止めようとしたが、カームは涙目になって前に出た。
「僕のせいなんです。僕が、マルシオに変なことを言ってしまったから……」
 カームは寝る前にマルシオと話したことを思い出し、胸が苦しくなって耐えられなかった。
「マルシオはただ、クライセン様とティシラさんがうまくいけばいいって、それだけを願っていたのに、僕が、マルシオに寂しくないかなんて訊いてしまったから……」
 クライセンはため息をつきながらカームに向き合った。
「ごめんなさい」カームは誰の顔も見れずに項垂れる。「僕、すぐ調子に乗ってしまうんです……こんなに楽しい時間なんてなくて、嬉しくて、はしゃいでしまって……マルシオの気持ちも考えずに余計なことを言ってしまいました」
 なるほど、とクライセンは思うが、これは単なるきっかけだ。カームは悪くない。
「きっと、マルシオは傷ついたんです。決してそうじゃないのに、自分だけ置いてけぼりになるんじゃないかなんて、不安になったんだと思うんです」
 原因は分かった。もうその話はいいとクライセンが思っていたところで、カームが顔を上げた。
「やっぱり、マルシオはティシラさんのことが好きだったんですね」
 クライセンは珍しく面食らったような表情になった。
「ティシラさんが、何があってもクライセン様のことしか好きにならないから諦めていただけで、本当は想いを寄せていたんです。僕がいくら言っても絶対に認めなかったのに……」
「……それは違うと思う」
 クライセンが困惑して言うと、カームは大声を上げた。
「どうしてですか!」
「どうしてって……一緒にいて、そう感じたことはなかったから」
「だから、気持ちを押し殺していたんですよ。クライセン様は大人だから分からないんです。ティシラさんのことは好きだけど、ティシラさんはクライセン様のことが好きで、クライセン様と結ばれることがティシラさんの幸せだから、自分は我慢するんだって、マルシオはずっとそう思ってお二人の傍にいたんですよ」
「そ、そうなの……かな」
「――そうではないのか?」
 思いがけず、ネイジュまでも会話に入ってきた。クライセンはまさか大天使がこんな俗な話に加わってくるとは想像しておらず、えっと短い声を上げた。
「マルシオはアカシアとは逆の性質を持っている。感情的で欲深く、狂暴だ。あなたへの嫉妬をきっかけに覚醒したのだと記憶している」
「そうかもしれないが」クライセンは少し考えて。「嫉妬にも種類がある。好意がなくても他人の幸せを妬む者もいる。マルシオのそれは、今の状態の変化への恐れのようなものだと思うんだが……」
「意味が分からないな」
 ネイジュは顔色一つ変えず、問い詰めてくる。何の情もない天使に、多感な少年少女の感情を説明するのはどうも抵抗があった。
「マルシオのティシラさんに対する気持ちは、友情でもあり、愛情でもあったんです」代わりにカームが説明を始めた。「マルシオは不器用だから自分でも分かってなかったんです。ティシラさんの幸せが自分の幸せ。そしてティシラさんを幸せにできるのはクライセン様だけだから、自分の気持ちを犠牲にしてお二人の恋愛を応援していたんですよ」
「待ちなさい」
 またテンションの上がってしまったカームの背後から、今度はミランダが参戦してきた。
「他人の気持ちを勝手に決めつけるのはやめなさい。自分自身でさえ理解できないことだってあるというのに。マルシオにとってティシラは特別な存在だったのは間違いないわ。だとしてもそれがただの憧れなのかどうか、本人にだって区別できないこともある。恋愛の対象ではないけど、もっと近づきたい、ずっと一緒にいたいと、思い焦がれることもあるでしょう。マルシオはそういう微妙な感情の間で揺れていたのではないかしら」
 カームが感心して「さすが……」と呟いたところで、ミランダはそれ以上言わせないように素早く彼の頭を叩いた。
「でも、私には……マルシオはティシラに恋愛感情を持っているように見えたわ」
 クライセンとカームが同時に目を見開いた。
「マルシオはただティシラだけを見ていた。彼女の幸せだけを願っていたのよ……もし彼にその資格があったなら、きっと、ティシラに気持ちを伝えていたのではないかしら」
「ちょっと待ってくれ」堪らずクライセンはミランダを止めた。「それはない。会ってまだ一日も経ってない君に何が分かるんだ」
「ええ、そうね。違うなら違うで結構。私は思ったことを言っただけ。参考にしてもらえれば十分よ」
 ミランダはふんとそっぽを向く。
「クライセン様はどうしてないって思うんですか?」
「私がどうとか関係なく、マルシオには恋愛感情がないんだ。あったとしても、一度も、誰に対してもそういう感情を抱いたことなんかない。出会う前のことは知らないが、彼の態度や性格を見ていてそうだということは分かる」
「天使には」ネイジュが再び口を開く。「愛情はあっても、恋愛という不安定なものは存在しなかった。ただ、今の感情剥き出しのマルシオは別だ」
「そうだとしてもマルシオが覚醒したのはついさっきのことだろう。いきなりティシラを好きになるのは考えにくい」
「だが、マルシオ本人がそう言ったとしたら?」
 クライセンは理解が追いつかず、言葉を失った。
「ティシラからクライセンへの恋心を消すこと……つまり、ティシラの気持ちを自分に向けること。それが、マルシオの願いだと、本人がそう言った」
 クライセンは頭痛が走り、片手で顔を覆った。ネイジュにはその反応の意味が分からなかった。傍らで見守るカームとミランダは、ネイジュの言葉で「やっぱり」と暗い顔をしていた。マルシオには同情できるが、だからといってティシラの気持ちを踏みにじっていい理由にはならない。誰かが幸せになることで、誰かが不幸を我慢しなければいことだ。悲しいが、この世界では珍しい不幸ではない。できることならマルシオに正気を取り戻して欲しいと願う。
 真剣に悩んでいた二人を余所に、クライセンは呆れ果てた末に、いつもの冷たい目に戻った。姿勢を正し、ネイジュを一瞥した。
「私は、違うと断言する」
「なぜ?」
「言っていいかな」
「どうぞ」
「天使はバカだからだ」
 あまりに唐突な暴言に、カームとミランダは声にならない悲鳴を上げた。
 ネイジュは僅かに眉を動かしただけで、黙ってその理由を待った。
「天使に人間の微妙な感情は難しい。マルシオは人間に触れ、感化され、内に恋愛感情に似たものは生まれていた。だがそれが本当に恋愛感情なのかどうかは判断できない。覚醒したマルシオも同じだ。今の彼自身、勘違いしているだけだ」
 ネイジュはクライセンの言葉の意味を考えてみたが、やはり理解はできない。
「本人がそうだと言っていてもなのか?」
「そうだ。ティシラの恋心を消すのと、自分とティシラが恋仲になるのはイコールじゃない。それが分からないからバカだと言った」
「…………」
 ネイジュは少し瞼を落として目線を左右に揺らしていた。彼なりに考えているようだが、その様子から、クライセンの言いたいことをすべて受け入れるのは無理のようだった。
「……そうだとしても、マルシオはティシラを自分の伴侶として新しい世界に留めるつもりだ。今のあなたの話をすれば、マルシオは考えを変えるだろうか」
「変えないだろうね」クライセンは肩を落とし、空を仰ぐ。「マルシオが私と話し合うつもりがあるのかどうか、何よりも、マルシオが私をどうするつもりでいるのかを知る必要がある」
 ネイジュはまた目線を外し、遠くを見つめた。
「魔法みたいにティシラの気持ちを操って消すってだけじゃ済まないんだろう?」
「……マルシオの願いは小さいようで、人間の複雑な感情と欲を象徴するもの。マルシオは人間の性質そのものから変えていくことを考えているだろう」
 クライセンは今日、何度目かの深いため息をついた。



 呆れ果てた表情を浮かべていたのはクライセンだけではなかった。
 ティシラも大きな口を開けて茫然としている。
「バカじゃないの?」
 ティシラは大きな声を出したあと、強くマルシオの手を払いのけた。
「マルシオが私を好き? やめてよ、気持ち悪い」ティシラは見下したように笑い。「私があんたの伴侶に? 冗談じゃないわ。私があんたなんかで満足するならもうとっくに、パパが選んだその辺の貴族とでも結婚してるわよ」
 マルシオは手を引き、目を細める。
「クライセンへの気持ちがなくなっても、同じことが言えると思うか?」
 ティシラはうーんと考えた。だが深刻にはならなかった。
「言えないと思うわ。理由はね、そんな世界に私は存在しないからよ」
 ティシラはなんの迷いもなく、言い切った。
「私から恋心を奪ったら、私は生きている意味を失うの。だからきっと、消えていなくなるでしょうね」
「恋心なんてものはまた新しく作ればいい……次は俺に向ければ、問題ないだろう?」
「そんなもの芽生えないわよ」
「なぜ?」
「なぜって……それは」
 勢いを失くし言葉を詰まらせるティシラに、マルシオは見透かしたような目を向けた。
「なぜはっきり言わない? 『クライセンへの恋心』ではなければ意味がないのだと」
 ティシラは図星を突かれて顔を赤く染めた。
「まだ隠しているつもりか? お前を知っている者は全員分かっていることなのに」
「な、なんですって……全員って、そんなこと……」
「全員、もれなくだ。お前は、クライセンに恋するためだけに生まれてきた、そう信じているんだろう?」
 ティシラの顔がみるみる紅潮していく。悔しく恥ずかしいが、彼の言うとうり、隠す必要はない。
「そうよ」真っ赤な顔で、ティシラはマルシオを睨んだ。「分かってるならこんな茶番はもうやめなさい。あんたが私に何しようが、私はクライセン以外を好きになったりしないの。あんたがどんな凄い力で私の気持ちを消したとしても、あんたを好きになるなんてありえないのよ」
 マルシオはふうん、と呟き、再び笑った。
「試してみようか?」
 ティシラも負けじと挑発的な笑みを向ける。
「やってみなさいよ……!」
 強がりだと思った。そのときは――。





   

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