SHANTiROSE

INNOCENT SIN-25






 どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた。
 幸せな気持ちを抱いて眠りについていたティシラは夢現にその声を聞いた。
 声はとても遠くから、四方に響いていてはっきりしなかった。それが夢なのが現実なのかも判断できない。とても眠い。ティシラは声に耳を澄ましながらも、目を開かなかった。
 声の主が誰なのかも、どうでもよかった。なぜなら、クライセンのそれではないことは確かだったから。用があるなら早く言えばいい。ないなら、また今度にして欲しい。今はいちいち起きて相手をする気にはなれなかった。
 そのうちに声は遠のき、意識が薄れていく。このまま深い眠りに落ちる――のだと思った。
 体が浮いているようだった。横になったままの体制で、どこにも力が入らない。
 ベッドに入っていたティシラを包んでいた枕や布団、シーツが、淡く光った。形を失ったそれらは、はらはらと花が散るように舞い上がっていく。支えるものを失ったはずのティシラの体はその場に浮き、光の花びらに押し上げられるようにのけ反った。
 眠るティシラの周囲にはベッドだけではなく、部屋そのものまでが幻のように消え去っていた。花びらたちは彼女の体に寄り集まり、そのままゆっくりと、彼女の姿を掻き消していった。



 空に浮いているような夢を見ていた気分のティシラは、背中に冷たい感触を感じて目を開いた。
 頭上から照り輝く光の眩しさに驚き、顔を背けて手をかざす。
 慌てて上半身を起こすと、そこは真っさらな、まだ何もない白い世界だった。
 いつものように灯りを消してベッドで寝ていたはずのティシラは目を疑った。
 手をついた床は金剛石でできており、果てが見えなかった。平坦な床だけが広がる、壁も柱もない空間だった。あるものと言えば、空から雪のように延々と降り続ける光の花びら、そして空間の中央にある、銀の繊細な装飾が放射状に広がった巨大な王座だけ。
 そこに、見慣れた人物が座っている。マルシオだ。見慣れているはずなのに、まるで別人のようにも見えた。
 眩しさに少しずつ目が慣れてくると、マルシオの周りに五人の天使がいるのが分かった。彼らは驚くこともなく、ただマルシオに向かって目を伏せて直立しているだけだった。
 ティシラは混乱しながら違和感を抱き、自分の胸に手を当てる。楽なナイトウェア姿だったはずなのに、肩の開いた美しい白いドレスを身に纏っていた。
 ティシラが一番気に入らなかったのはそのドレスだった。
「ちょっと、マルシオ」やっと目を覚まし、大声を上げる。「何なの? これはどういうこと? あんた何してるのよ! このドレスは何! 私は白いドレスは嫌いなのよ。ママ譲りのこの綺麗な黒髪に似合わないでしょ!」
 開口一番それか、とでも言うように、マルシオは王座から彼女を見下ろして薄く笑った。
「天使の世界に黒い服は存在しないんだ。ドレスコードだと思って、我慢してくれ」
「天使の世界……?」
「そうだ。これからはずっと白い服を着ることになる。そのうち、慣れる」
「……何言ってるのよ」
 ティシラは周囲を見回し、息を飲んだ。まだ何も把握できないが、嫌な予感だけは否めない。何もかもが異常だ。夢でないのなら、信じがたいことが起こっている。
「どうして私が天界にいるの?」ティシラはマルシオを睨みつつ、声を上ずらせていた。「私だけじゃない。あんたもよ。それに、ここは本当に天界なの? 何もないじゃない」
「今はな。これから、できる」
「できる? 何が?」
「天使の国がだ。これから、俺が作る」
「……そう」ティシラはまったく着いていけなかった。「よく分からないけど、あんた一応天使だものね。天使が天使の国を作ってもおかしくはないわ。好きにすればいい。でも、私には関係ないことだわ。手伝う気もないし、帰っていいかしら」
「帰れないよ」
「国を作るなんて、時間がかかるものね。クライセンにはしばらく忙しいみたいって伝えておいてあげるから。帰れないなら、そう言っておくわ。それでいいでしょ」
「帰れないのは、ティシラ、お前のことだ」
「どうして?」
「帰る必要がなくなるからだ」
「……どういう意味よ」
「お前のクライセンに対する愛情が、消えてなくなるからだよ」
「な……」ティシラの体をえもいわれぬ恐怖が走り抜けていった。「何を言っているの? ねえ、一体なんなの? あんたは何がしたいのよ」
「やっと興味がわいたか」
 マルシオは笑いを零しながら立ち上がった。目を閉じて膝の上で手の平を空に向けると背中の光の羽が大きく開く。
 ティシラにとってマルシオは臆病でなんの特技もない大人しい少年だった。だから受け入れがたい現実ではあったが、彼女には分かる。今のマルシオにはクライセンにも、ブランケルにも匹敵するほどの強い力があることを。
 次第にことの重さを感じ始め、眉を寄せて奥歯を噛んだ。
「……そうだわ。思い出した。あんた、あのときの奴ね。あのとき、私を殺そうとした」
「そうだ」
「また私を殺そうとしてるわけ? だから私を浚ったの?」
「それは違う。今度は別の用がある」
「ふざけてないではっきり言いなさいよ。あんたは何が目的なの」
「あのとき、マルシオがお前を殺したいと望んだ。だから俺が力を与えた。だが失敗した。だからそのことはもう終わったんだ」
 淡々と話すマルシオに、ティシラは苛立ちを抱く。目の前にいるマルシオは明らかに今までの彼とは違う。いくらティシラが強がっても、決して太刀打ちできない力がある。
「次にマルシオが望んだことを叶えるため、お前をここに連れてきた」
「……マルシオが、何を望んだというの」
「お前の、クライセンへの恋心を消滅させること」
 ティシラは想像もしていなかった言葉に目を丸くさせた。はあ? と、呆れの声を上げる。
「なにそれ?」
「小さなことだろう」マルシオは口の端を上げ。「たったそれだけのことで、俺は天使の王になり、この国を新しく作り直す力を手に入れた。お前がクライセンへの感情を失くすだけで、何もかもが収まる。天界は大きく変わるが、それに伴う犠牲もなく、誰も悲しまない穏やかな未来が始まるんだ」
 ティシラは目眩を起こし、青ざめた。
「バカバカしい。国を作りたいなら勝手に作ればいいじゃない。私の感情に何の関係があるのよ」
「マルシオの願いを叶えることが、原始の石の所持者となる条件なんだ。それがたまたま、お前の恋愛感情を消したいというだけだったこと」
「そんなことあり得ないわ。マルシオはなんだかんだ言って私とクライセンが結ばれるこを望んでた。そうなることが自分の幸せでもあるって考えてたのよ」
「それも正しい。だけどマルシオが望んだのも間違いない。俺は、マルシオ自身だからな」
「それが分からないわ。あんたは何なの。どうしてマルシオを乗っ取るの」
「俺はマルシオだ。アカシアが無になった代わりに生まれた、アカシアのドッペルゲンガーだ」
「ドッペルゲンガー……?」
「知っているか? この世はすべて自然の法則に従って常に変化していることを――」
 マルシオは両手を顔の前にかざし、そこに視線を向けた。すると手の中に小さな光の魔法陣が浮かび上がる。ティシラもそれに目を奪われると、あっという間に円は膨れ上がって上空を回転し始めた。
 その輪の中に、一つの若葉があった。若葉はみるみる成長し大きな木になる。木は太陽の光や雨を食料にし育っていく。大地に根を張り、その根には虫が、枝には鳥が住み着き命を育む。木は花を咲かせ実をつけ、種が地に落ち、水や光、虫や動物の死骸を吸収しまた若葉が芽生える。
 ぐるぐると同じをことを繰り返す若葉の映像はティシラの頭上で高速回転し、見たくもないのに強引に視界を支配する。同じことを同じ場所で何度も繰り返している若葉は、何十回、何百回も変化していった。しかし同じ形の木は一度も育たず、ときに害虫や病に浸蝕され死滅するものもあれば、克服して形を変えるものもあった。
 これはほんの一例。そうやって、すべてが決まった生と死を繰り返す。
「同じ命はこの世に一つとない。似たもの、見分けがつかないもの、まったく同じ条件で育ったものでも、同じではない。なぜなら、この世は常に変化しているからだ。だが命は同じことを繰り返す。そうするしか生きる手段がないからだ。そのうちに、どこかで小さな狂いが生じる。誰も気づかないほど、僅かなズレだ。そのズレは長い時間をかけて大きな亀裂となる。そのとき、穴を生めるために自然の法則を無視して、俺のような『あってはならない存在』が生まれてしまうんだ」
 知りたくない、知る必要のない膨大な記録を押し付けられたティシラは逃げることもできずに苦悶の表情を浮かべていた。マルシオが手を引くと光の輪が砕け散り、開放されたティシラはその場に崩れ落ちる。両手を床につき、呼吸を乱しながらも再びマルシオを睨み付けた。
「怖がる必要はない」マルシオは微笑んだまま。「俺は天使。何も傷つけない、奪わない。誰にも、恐怖を与えることはしない。この世を光で照らし、迷う人々を救う神」
「……神ですって? 笑わせないで。あんたに何ができるの」
「皆の夢を、願いを叶えてやれる」
「願い? それが、私から感情を奪うこと? そんなことをして、誰が救われるっていうのよ」
「マルシオの中の嫉妬心が解消され、将来への不安もなくなる」
「それだけ? そんなことが神のすることなの?」
「そうすることで、人間の望む神が生まれるのだ」
「……どういうこと?」
「あらゆる生物の中で、人の形をした者、感情を持つ者だけが矛盾の行動をとる。望まないことを望み、幸福のために自らを苦痛を選び、愛する者を傷つけないために嘘をつく……その矛盾が世界に歪みを作った。それを修正するため、俺が生まれたのだ」
 ティシラの脳裏に「ルーダ神」という名前が過った。たまに人々が口にする「神」がそれだ。人々は苦しみ行き詰ると神に祈る。だけど一度たりとも神が救ってくれたことはなかった。
 印象に残っているのは、ドゥーリオの祈る姿だった。彼は天に向かって祈った。きっと神が奇跡を起こしてくれると信じて。もし救われなければ、祈りが足りないから……ドゥーリオだけではない。この世界の人間の誰もが、個々の願いを神に祈る。神が姿を見せてくれないのも、声をきかせてくれないのも、願いを叶えてくれないのも、信仰心が足りないから。そうやって何十年も何百年も、もっともっと長い時間、何もしない神を信じ続けて生きてきた。
「……神を作ったのは、人間なの?」
「少し違う。神という人間にとって都合のいい存在を作ったのは、人間の矛盾する感情だ。そしてその偶像を形にしようとしたのが、天使の王・アカシアだった」
「アカシアって?」
「ラドナハラスを持って生まれた天使の王。だがアカシアは人間の望む神にはなれなかった。だから、体を失ったアカシアの代わりに、俺が新しい世界を創る」
「アカシアって、ルーダ神のことじゃないの?」
「人間が勝手にそう名付けた」
「どうして人間はアカシアじゃなくてルーダ神なんて呼んだのよ」
「アカシアという実在するものではだめなんだ。この世のすべての人間にとって都合のいいものが必要だった。そんなものはいない。だから人間はいないものに名をつけ、想像の中に神を作り上げた。それがルーダ神だった」
 矛盾の感情。
 神は美しく聡明で、苦しむ人を救い世界を平和に導くもの。言葉や理想ではそうだと信じ、すべての人々が自然と同じものを想像する。
 なのに、苦しみや願いは千差万別。すべての人の願いが叶うわけがないと、理性が理解しているのだ。
「だからアカシアは『無』になった」
「……神は、どこにもいなかったのね」
「それが、矛盾した感情が望む神の在るべき姿だと、アカシアは考えたんだ」
 ティシラはこれまで見てきた。人は誰かを深く愛した。夢を叶えたくて必死で努力した。大切なものを守るため、命を懸けて戦った。いつか幸せになれると信じてじっと苦痛に耐え続けた。
 苦しい苦しい時間を過ごした。自分が生きている間は叶わなくとも、これまでの努力をいつか実らせるために子孫に受け継がせてきた。
 それもすべて、神を信じていたから。
 アカシアは人間の幻想になったのだ。
 夢や幸福感は神が与えたものではなく、現実で得た自然の法則の一部だということをどこかで知っていながら、苦しみは自らの業、幸せは神の祝福だと宣いながら。
「今まで人間は、いもしない神を信じて祈り続けていたってことなのね」
「それが人間の望んだ世界だった。だが、これからは違う」
 マルシオはティシラにゆっくりと歩み寄る。
「神のいない世界は間違っていたんだ。だから、俺が生まれた。俺が……作り直す」
 そして白い手を差し伸べた。
「お前は王である俺の隣に、ずっといるんだ」





   

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