SHANTiROSE

INNOCENT SIN-36






 魔法大陸ノートンディルの皇帝レオンが座する城の周囲は重厚な白い城壁で囲まれていた。広大な城壁には隅々にまで彫刻が施されている。何万人というランドールの魔法使いが何年もかけて描き続けた守護の呪文が刻まれているのだった。幾重にも重ねられた呪文と魔法陣は唯一無二の魔法であり、他では再現できないほど複雑なものだった。今も国に仕える魔法使いが管理しており、時間によって風化した僅かな掠れを修復し続けている。すべての城壁を修復しながら一周回ったとき、最初の部分がまた風化しているため、作業はいつまでも終わることはなかった。
 その城壁の中には大きな城下町があり、誰もが皇帝の膝元で平和と繁栄を約束された幸福な毎日を過ごしている。町は緩やかな坂になっており、城に近づくにつれ天向かって先細る形になっていた。
 城の周りは壁と建物が連なり、螺旋を描くように設計されている。すべての中心にある城の屋根は花のように広がり、更にその上空には菱型の白金の籠が一つ、空に浮かんでいる。籠の中には太陽にも劣らぬほどの生命力を持つ、青い宝石・リヴィオラが収められていた。
 この世界を成形した原始の石リヴィオラは、この大地の魂そのものであり、すべての生物の命の源。リヴィオラは休むことなく魔力を大地に注ぎ続けている。その大地の上で命を育む生物のすべてがリヴィオラに生かされている。ランドール人は地上の生物を代表し、リヴィオラに最上級の敬意を払い続けることを誓った。
 戦後にランドール人はリヴィオラを採取し、周囲の固い土を特殊な技法で白金に変えて石に繊細なドレスを着せた。その芸術的な籠は美しいだけではなく、空を自由に飛び回る鳥は当然、雨風も雷も雪も何もかもを、一定の距離に寄せ付けない守護の魔法で包まれているのだった。
 そしてリヴィオラの足元にある城の屋上には、マーベラスクラスの魔法使いしか使えない特殊な魔法陣が描かれており、リヴィオラを宙に浮かせ続けているのだった。
 ノートンディルの最高技術を駆使した城を下からゆっくりと見上げていくと、誰もがその芸術的な造形に驚くものだった。
 リヴィオラの魔力は無限。こうして大切に守り、感謝し、魔力の使い方を間違えずにいれば、地上の繁栄は約束され続けるものだと人々は信じていた。城の美しさを確認するたびに、ランドール人がこの世界の主権を握ったことは正しかったのだと、多くの人が運命の導きに感謝するのだった。



 リヴィオラに一番近い部屋には皇帝レオンの玉座がある。
 レオンはまだ若く、国の政治や戦には直接意見を述べることはなかった。すべての実権を握っており、何をするにも彼の許可が必要となっている。だがレオンは言われるままに返事をするだけで、自分の意見を政治に反映させることはなかった。
 それでも、大きな戦争を勝利に導いた王ザインのたった一人の実子である。類稀なる魔力と鋭い先見の目持ち、いずれは父のような偉大な男になることは約束されていた。夜の闇のような神秘的な黒髪と、リヴィオラの高貴な青に似た青い瞳はまさに父親譲りだ。ザインが年老いてもレオンの存在が人々に勇気を与えたものだった。まだ今は世界を混乱させぬためと、レオン自身も自分の力や立場を理解し、心穏やかに世界を見守り続けている。
 レオンはその日、城の一角にある展望室から空を見上げていた。ここは星の動きを観察するための施設で、頭上は半円のガラスで覆われている。中心には大きな望遠鏡があるが、レオンはそれに背を向け、じっと青い空を見つめていた。夜に使われることが多い場所のため、周囲に人はいない。レオンの命令で、数人の警備兵が展望室の外で待機している。
 レオンはここ数日、よくここに足を運んでいた。昼間ならほとんど人は近寄らないため、ときには誰にも言わずに一人で行動することもあった。そのことはごく一部の者だけには報告されていた。
 そろそろ室を出ようかと目線を下げたとき、扉がノックされた。どうぞと言うと、一人の青年が入室してきた。ロアだった。レオンは驚くこともなく、彼に向き合った。
「陛下、こちらにいらっしゃると聞いて……」
「空を見ていただけです」
 ロアも彼の隣に立ち、透き通った青空を見上げた。風で流される雲に陽の光が反射し、まぶしさで目を顰めたあと、皇帝陛下に目線を移した。レオンはすっと顔を逸らし、目線を落とす。数秒の無言があった。沈黙を破ったのは、レオンの小さな笑みだった。
「ロア、あなたの言いたいことは分かってます。昼間の星見は太陽に反する行為……」
 ロアはやっとレオンから目を離した。
「こんな明るい時間に、星が見えるのですか?」
「薄々勘付いていたんでしょう? だからあなたはここに来た……忠告しに」
「誤解です。何かご心労があるのではと心配しているのです」
「心労なんてありません。今の私は皇帝という名のただの子供。力も技術も文明も、法も規律も思想もすべて、戦で勝ち抜いた偉大なる父たちが揃えてくれました。私はこの整備された世界で、用意された玉座に座るだけ。すごく感謝しています。こんなに幸福な子供が、ほかにいるでしょうか」
 ロアは表情を変えず、黙って聞いていた。レオンは素直だが頭がいい。正直な気持ちなのか、皮肉なのか判別が難しい。だが答えを確認することは非礼に当たるため、彼の言葉そのままを受け取るしかなかった。
「でも……」レオンは少しだけ話しを始めた。「最近、不思議な夢を見ます」
「恐ろしい夢でしょうか」
「いいえ、怖くはありません。見たことのない森の夢です。大きな木がびっしりと生えた森。その木は太くて滑らかで、真っ直ぐで、とうてい人の手なんか届かないほど高い位置から枝分かれをしている。枝のある部分には小さな白い葉が、まるで人間の頭髪のように覆い茂っていて、陽の光を完全に遮っているんだ。もちろん地面にまで光は届かず、柱のように真っ直ぐの木には動物も虫も登れない。私には、他の生物との共生を拒んでいるように、いや、必要としていないように見えた。そんな木が密集する地域があったとしたら、人間はどうすると思いますか?」
 ロアは彼の話を聞きながら、不思議な森を想像してみた。これだけの情報ではまだ御伽話の域を超えない。
「人間に害がなければ、そのような森があっても問題ないと思います」
「……そうですね」
 寂しそうに言うレオンを、ロアはちらりと横目で覗き見した。
「地面はどうなっているのでしょう」
「地面?」
「陽の届かない地面は、草も生えておらず、動物や虫が歩いていることもないのでしょうか」
「さあ、どうだったかな……私は上ばかりを見ていて、地面を見ていなかったみたいです」
(……見ていない?)
「何度か見ている夢なんです。また見たら、意識して確認してみます」
「そのときは、ぜひまた聞かせてもらえますか」
 そう言ってほほ笑むロアに、レオンも笑顔で頷いた。
 そんな会話のあと、二人は展望室を後にした。



 その頃、落陽線から戻ってきたアンバーは、部下を連れて城の庭に舞い降りた。周囲には数羽の聖獣が並んでいた。魔法使いの足となる大きな鷲は城の施設で管理されている。選抜された優秀な鷲は専門の魔法使いによって大事に育てられ、教育され、強い魔力を帯びた鷲は他の野鳥より一回りも二回りも大きくなるのだった。
 アンバー一同を迎え入れた飼育係が頭を下げ、彼らの聖獣を預かった。アンバーたちが丁寧に礼を言って立ち去ろうとしたところに、同じ色のマントを羽織った女性が声をかけてきた。
「アンバー、落陽線で何があったの」
 女性はマーベラスの一員であるハーロウだ。部下たちはハーロウに挨拶をして、二人の会話を邪魔せぬよう迅速にその場を後にした。
「何もなかったよ」とアンバーが答える。
「何も? どういうこと? 調べたの?」
「調べてない」
「どうして?」
「あの大人しい村人が、何かしたと思うか?」
「思わないわ。でも事故はどこにでも起こりうる可能性があるものでしょう?」
「そうだ。きっと何か事故があったのだろう」
「それが何か、なぜ調べなかったの」
「村人は、何かを隠していた」
 ハーロウは眉間に皺を寄せ、腑に落ちない表情を露わにした。
「ただの事故だ。それが何なのか、そして村人がそれをどうするかは、これから、彼らが決めること」
 もしそれがランドール人への反逆だったら……という言葉を、ハーロウは飲み込んだ。
 考えられないからだ――今は。
 落陽線の村人は、外に逃げ隠れしているアンミール人とは違う。敗北を受け入れ、牙を抜かれ、抗う意志を放棄した民族。そうなってからもう何十年も経つ。今更、そうそう安易に危険な考えを持つとは思えなかった。
 だからアンバーは何もしなかった。ほんの些細な事故でランドール人が厳しく圧力をかけてしまったら、彼らに新たな恐怖心や憎悪の感情が生まれる可能性がある。それを避けるため、アンバーはあえて何もしなかったのだ。
「だが彼らも人間。いつ何をきっかけに感情に変化があるかは、誰も分からない。本当に『何か』が起こるしたら、次だ。次、何か騒ぎが起きたら、それは悪い報せとなるだろう」
「そうなる前に、芽は摘んでおくべきじゃないの?」
「今は芽すら出ていない。おそらく、種が一つ、村に紛れ込んだのだろう。村人も、その種がどんな花を咲かせ実を生むのかまだ知らない。だから誰であっても、ない芽を摘むことはできない」
 ハーロウは彼の意見を理解しつつ、溜息が出た。
 つまり、その種を捨てるのか、育てるのかは村人次第。アンバーは彼らに選択肢を与えたということ。マーベラスは一人一人が高潔な魔法使いだ。村に足を運び、思考したアンバーが下した結果なら、それはマーベラスが下した結果と同義。ハーロウは「そう」と呟き、それ以上何も言わなかった。



 落陽線の村では密かに鳥の死骸の処分を始めていた。
 数人の村人が集まり、ジギルとモーリスの指示に従って土を払い乾いた薪を積み重ねていく。それを近くで見ていたエミーが不満を漏らした。
「せっかくの肉を骨にするなんてもったいない」
「お前は本気でこんなもの食べるつもりだったのか」ジギルはふんと鼻を鳴らし。「猛禽なんて堅いし臭いしで食えたもんじゃないぞ」
「お前、食ったことあるのか」
「ないが考えたら分かる。人間を食えないのと同じだ」
「なるほどね。物知りの先生のおかげで、貧しいくせに舌は肥えてるようだな」
 エミーは大口を開けて笑った。ジギルは苛立ち、彼女を睨みつける。
「お前が持ち込んだゴミだろう。笑ってないで手伝え」
 村人も、口には出さないが同じ気持ちを抱いた。
「そうだね。私の出したゴミだ。私が処分するよ」
 そう言ってエミーは体を反り返らせて胸を張り、大きく息を吸い込んだ。頬と腹を膨らませたあと、死骸を包んだ薪に向かってふっと息を吹きかけた。その息には吹雪のような威力があった。周囲にいた人々の髪や衣服が舞い上がると同時、薪が一瞬にして燃え上がる。ジギルは驚いて退き、人々は短い声を上げながらその場に尻もちをついていた。薪は死骸と共に燃え上がり、炎は楕円に近い形で激しく渦を巻いている。孕む熱は通常の焚火とは明らかに違いが分かるほどの高温で、人々はあまりの熱さに慌ててその場から距離を取った。そうしているうちに炎は掻き消え、死骸は真っ黒な消し炭になっていた。
 一同は息を飲み、ざらりと崩れる黒い炭に見入った。
「これでいいか?」エミーは得意げに。「骨まで全部燃やした。あとは土に返せばなんの跡形も残らない」
 死骸の処理には、何の文句もなかった。村人は顔を見合わせて戸惑っている。
「気安く魔法を使うな」ジギルは奥歯を噛みながら。「魔法は禁止されている。見つかったら、今度こそ目を付けられる」
 エミーは空を仰ぎ、素知らぬ顔をする。
「誰も見ていない」
「目で見ていなくても魔法を使ったら魔法使いが気配を感じ取る。そんなことも知らないのか」
 怒るジギルと、その言葉に怯えて空を伺う村人たちを、エミーは笑い飛ばした。
「私の魔法はランドール人のものとは型が違う。この程度の魔法じゃあのマヌケどもは何も気づきゃしないさ」
「……型?」
「そんなことも知らないのか」エミーはジギルの顔を覗き込み。「パライアスにも昔は魔法使いがいただろうに。すっかり奴隷根性が染みついて、ほんとにただの虫になっちまったみたいだね……ああ、失礼。ただの虫じゃなかったな。グルメな、虫だ」
 ジギルは悔しさで言葉を失っていた。だが、エミーの魔法が高度なものということも理解できる。素直に認めることができず、二人は睨み合った。
 険悪な雰囲気を壊すように、モーリスが二人の間に割り込み村人に向かって両手を広げた。
「皆、今のを見ただろう。見事な魔法だ」
 怯えていた村人も、緊張を解いてモーリスに注目した。
「彼女の魔法をいいほうに活用すればこの村は更に発展する。正しく使えばランドール人も決して咎めはしないだろう。我々は魔法との共存についてじっくり議論し、新しい道を見出すときに来たのだ」
 モーリスの言葉に村人たちは、この場は納得した。





   

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