SHANTiROSE

INNOCENT SIN-46






 夢も希望もなく、ただ目の前の現実を受け入れるしかなくなったアンミール人にとって、それは奇跡だった。
 祈るものも願うものも何もない。いくら理不尽な不幸に見舞われても、すべて生まれ持った星のもと、それが自分の運命だと諦めるしかないのだ。
 いや、運命なんて大それたものではない。道端に生えた名もない雑草が動くものに踏まれても、何も言わず潰れて人知れず枯れていくのと同じこと。
 そんなアンミール人にとって、「現実ではありえないこと」を叶えて見せた彼女は、失くしていたものを思い出させてくれた「魔法使い」だった。
「お前は、一体……」
 ジンガロは体を起こして、エミーに跪いた格好で彼女を見上げていた。トリル族のすべてが広場に集まり、皆が同じ表情をエミーに向けている。
 ジギルも背後で、一同と同じ表情を浮かべていた。だがふと我に返り、あっという間に色を変えたこの空間の異常さに身震いを起こした。
「私はエミー、魔法使いだ」
 改めて名乗る彼女に、ジンガロは首を横に振った。
「魔法使いだって? ならばお前はランドール人なのか?」
「違う。アンミール人だ。かつてアンミール人にも魔法使いはいた。お前たちは奪われたのだ」
「そうだ……昔はいた。だがお前ほど絶対的な強さを持つ者はいなかった」
「だったら何だ? 私が魔法使いじゃないなら、何だと思う?」
 ジンガロは傍にいた者と目を合わせていき、皆が自分と同じことを考えていることを確認した。再びエミーに向かい、その言葉を噛み締めながら、吐き出した。
「……神だ!」
 広場の空気がざわついた。
 その見えない振動にジギルも揺らされ、目を見開く。咄嗟に自分の体を両腕で抱え込み、抵抗した。
「違う!」エミーは再度、否定する。「神だって? お前たちの思う神とやらは、美しく清廉潔白の天使の王・アカシアではなかったか!」
 ジンガロたちは戸惑った。エミーの言う通りだ。アンミール人も昔はアカシアを魔道の宗(おおもと)だと崇めていた気がする。今もランドール人はアカシアを特別視している。
「……そうだ。しかし、アカシアは……俺たちには何もしてくれない!」
 エミーはアハハと笑った。
「その通りだ! なぜお前たちは誰にも教えられてもないのに、私を『神』だなんて思った? 神は何でも願いを叶えてくれる? 神は抗えない運命を変えてくれる? 誰がそんなことを言った? 過去に一度でも、誰かが神を見たか? 声を聞いたか? 救ってもらったのか?」
 一同は動揺を隠せなかった。確かに、敗戦後の惨めなアンミール人の間に、神の概念など定着した教育はされていない。
 なのに、なぜ破壊と救済を自由に操った彼女を「神」だと思ったのだろう。
「人間の思考は、一つに繋がっているという」エミーは声を落とし、目を細めた。「目に映らない精神世界には、感情を持つ数多の人間のそれぞれの思考が、海より広大で、宇宙より果てしないほどの膨大なエネルギーとして渦巻いている。今この瞬間も、私たち一人一人の考えたことが一つの枝葉になり、巨大な世界を描き続けている。その深さ、質量は、人間には認識できないほど甚大だ。だが、そんな無限に近い精神世界も、深層の、更に深いところで一つにつながっている。だから人間は基本的な思考が統一されているのだ。美しく明るいものを好み、暗く醜いものを嫌悪する。一つ手に入ればもっと欲しくなり、意見の違う者を恐れ、排除したがる。自分より恵まれている者を妬み、羨み、貧しい者を見下す。なぜだ? 誰がそうしろと教えた? 時代が変わり、多様な人種が増え、すべての人間が違う人生を送っているというのに、皆が同じ思考に支配されている。神に対するイメージもその一つだ。誰にも教えてもらっていないのに、私を見たお前たちは同時に『神』という言葉を思い浮かべた。なぜなら、人間の深層心理の底には原始の石があり、すべてはそこから始まっているからだ」
 誰もがエミーの不思議な話に聞き入った。学のない者も多く、首を傾げている者もいる。
 ジギルも例外ではなかった。ずっとエミーのことを、いい加減でデタラメな女だとしか思っていなかった。魔法使いとしてはマーベラスにも匹敵するほどの格があるのは分かっていたといえ、あの凶悪な表情、狂暴な言動が彼女の真の姿を霞ませていた。やはりエミーは本物の、天才魔法使いだ。ジギルは息を飲み、彼女への偏見を捨てた。
「原始の石……とは?」
 あまり難しい話は得意ではないジンガロだったが、一族の頭として、彼女の話に真剣に耳を傾けていた。
「リヴィオラのことさ」
「リヴィオラ? ランドール人が支配している、魔法の源の石か」
「リヴィオラはただの魔力の源ではない。この世界の大地、植物、動物、空気、気候、そして人間を構築した土台となる石だ。人間は自分だけが知性と感情を持つ高等な生物だと驕っているが、その感性もすべてリヴィオラによって構築されたプログラムに過ぎない。理性を持ちルールを守ることを高潔だと誇ることも、何もかも、自ら生み出し洗練された上質な矜持ではなく、大地の育んだ構成の一つなのだ」
 一同はまた顔を見合わせ、首を傾げたり眉を潜めたりしている。トリル族の中でこんな話をしたことも、聞いたこともある者はいなかった。ただただ、困惑の色を強めていく。
 この反応を分かっていたかのように、エミーは続けた。
「お前たちにとって神とは何だ」
「……ずっと、アカシアのことだと思っていた」
「アカシアはランドール人にさえ何もしちゃいないさ。あれは神ではない。ただの王だ」
「じゃあ……やっぱり、お前が神じゃないのか。お前はその細い腕で私を倒し、一瞬で傷を治した。どっちもあり得ないことだ。そのあり得ないことを二つも同時に実現させて見せた。これが奇跡ではなく、何だと言うんだ」
「違う。私は魔法使いだ。確かにお前を剣で倒したのは私だ。魔法使いができるのはそこまで。致命傷を治したのは……」エミーは魔薬の入った瓶を取り出し。「これだよ」
「それは?」
「魔法の薬さ」
「それが? そんな小さなものが神だと言うのか」
「いいや。この薬の源こそが、真の神」
「源……とは、一体」
「薬の原料となる植物たちだ」
 魔薬はまだランドール人にも知られていない。この世界の地下に眠る、魔力を持つ植物だと、エミーは一同に説明した。
「この地上の魔力の源は、天使でもランドール人でもない。リヴィオラなのだ。リヴィオラはこの世界の大地、自然の法則、動物も植物も人間もすべてを創った原始の石。知識を持った人間が欲を張り、身勝手にリヴィオラを支配しているだけのこと。この世界の生物に等級はない。すべてリヴィオラの魔力の上で生死を繰り返している生命の一つに過ぎないのだ」
 次第にトリル族の人々がざわめき始めた。
「この魔薬は毒にも薬にもなる。そして人間といういち生物の命の根源なのだから、殺すことも生かすことも容易い力を持っている。つまり、魔薬こそがこの世界を支配する神。なのになぜお前たちは同じ人間であるランドール人に虐げられ、奴らの命令に従っているのだ」
「それは……」ジンガロが悔しそうに叫んだ。「アンミール人が戦争に敗けたからだ!」
「戦争に敗けてもお前たちは生きているだろう。人間という生物であることには何も変わりはない。なのに、なぜ大人しく奴らの言いなりになる必要がある?」
「……それが戦争というものだ。勝利条件を満たした時点で勝敗は決まる。そうしなければ、必要以上の犠牲が増えるだけだからだ」
「まるでゲームだな。どうせ殺し合い、奪い合い、多大な命も文明も失われるのだ。ほんの少しを留めることになんの意味がある」
「そうやって人間は歴史を積み重ねてきた。すべて失ってしまったら戦う目的も結果もない」
「それでいいじゃないか。戦争なんぞ人間が興じるゲームだろう」
「ゲーム? 戦争をゲームだと、遊びだと言うのか」
「戦争のルールは人間にしか通用しない。そのルールで大地や植物までも支配できるか? 星や太陽が勝者を称え敗者を憂うか? 愛だの矜持だのと崇高な信念に思いを馳せてるのも、何もかも人間の娯楽に過ぎない」
「お前はそれを、子孫を守るために地獄を見て、死んでいった者たちにも同じことが言えるのか……!」
「言えるよ。なぜなら」エミーは目を細め、空を指さした。「どんなに積み重ねてきた重い歴史も、強大な武器も要塞も、どんな強い思いも、何もかも……自然の気まぐれ一つですべて、無慈悲に、無に帰されるからだ」
 ジンガロは言葉を失い、目を泳がせた。
 エミーの言う通りだ。どんな立派な城も王も兵も、大きな自然災害の前では無力。風に飛ばされ、水に流され、炎に焼かれればそこには何も残らない。人間が対抗できるのは人間のみ。その人間は、自然の一部でしかないのだ。
「では、我々はどう生きるべきだと、お前は言うのだ」
「私は今の世を滑稽に思う。くだらない。だから、ランドール人からリヴィオラを奪い、自然に返すために、ここに来た」
「ランドール人から、リヴィオラを……? お前はまたあいつらと戦争するつもりなのか」
「戦争じゃない。ランドール人を倒すことは目的ではないからだ。この世界を、本来あるべき姿に戻す。それが残されたアンミール人にできる役割だと、思っている」
「役割だって?」
「そうさ。強く、美しく、魔力を独占したランドール人は今や敵なし。完璧に近い存在となりつつある。ならば取り残されたアンミール人は何のために生まれた? ランドール人のお膳立てのための噛ませ役か? 神が、いや、すべての生命に平等な大地の母が、そんなことを考えると思うか? この地上では、増えすぎたものは厄災を起こし、数を減らす。それが自然の摂理だ。私たちもまた、その摂理の一部。つまり私たちは、持ち過ぎたランドール人が生んだ『厄災』。偏ったこの世を均すための『害虫』となるのが、神であるリヴィオラの望む役割なんだよ」
 今の現状が当たり前で、仕方のないことだと思っていた人々は、戸惑いの表情を浮かべていた。
「なあ、くだらないと思わないか?」エミーは迷うジンガロを見下ろし。「お前らも、そこらを這うネズミや名もなき花と同じなのだ。なのに、誇り高く生き、立派な死に場所を探し、子孫に語り継がれるため名声を上げようだなんて。何もかも、神のくしゃみ一つで消え去ってしまうというのに……」



「――そうしてエミーは、生きる目的を持たない人々を洗脳し、導いていったのよ」
 ティシラは忌々しそうに目線を落とした。息を飲んで話を聞いていたカームは目を見開き、声を震わせた。
「それが、エミーさんの思想なんですね」
 カームにとってエミーは有名な魔道書の著者で、尊敬する者の一人だった。
「まずは相手を知り、民族の性質に合わせて力を誇示し、絶望を与えたあとに救う……なんて鮮やかなんでしょう」
「感心してる場合?」
 隣からミランダに小突かれ、カームは固まっていた体をほぐすように両手をばたつかせた。
「だって、エミーさんの言うことも一理あるじゃないですか。人間は自然の驚異には敵いません。だから……」
「その自然を操るのが、魔法使いだろ」
 カームの話を遮り、クライセンが口を開いた。
「そ、それじゃあ」彼から意見を言うなんて珍しいことに驚きながら。「エミーさんは本当に神を信じてるわけではないのですか?」
「さあね。私の知る彼女は自然信仰の真理は理解していたが、とくに行動は起こさなかった。こっちのエミーはどうだか分からないよ」
「クライセン様は、エミーさんとどういう関係で?」
「昔の馴染みだよ。幼い頃に少しだけ世話になったらしい。覚えてないけど」
「エミーさんは、本当に生きてるならクライセン様より年上ですよね。それほど長生きしてるアンミール人がいるなんて、驚きです」
「生きてるってば。元気にね――それより」クライセンはティシラに目線を移し。「スカルディア、だっけ? の情報はどうやって入手しているんだ。工作員がいるのか?」
「残念ながら、アンミール人の中には積極的に協力してくれる人も、エミーを裏切ってこちらに付く人もほとんどいないの。今までに何人かのアンミール人を捕えて協力を求めたのだけど……エミーのやり方を受け入れられないという人はいて、内情を話してくれるけど、今までの扱いがあるから、ランドール人も好きになれないって。もしランドール人がエミーを倒したらまた同じことが繰り返されるだけ。そういう人たちは静かに、抗争から遠い地に戻っていくだけなの」
 クライセンは小さくため息をついた。
「自業自得ってことか。拷問は行われてないのか」
「拷問が必要な捕虜は麻薬で化け物になった者ばかり。エミーに洗脳されてる者は命を大事にしない野蛮人だから、何の効果もないそうよ」
「野心を持った者への取引は?」
「それも、仮にエミーを裏切って報酬を得て地位を約束されたとしても、それはいっときの富で、いずれはまた敗北者として虐げられるのだと、誰もランドール人を信用しないんですって」
「うわあ……」カームは身震いを起こす。「エミーさんの洗脳は凄い強力ですね」
「それだけじゃないだろう」とクライセン。「実際そうだろ。もしも一部のアンミール人の裏切りでエミーを倒したとしても、英雄と称され、優遇されるのはいっときのこと。平安が戻れば再びアンミール人が人以下の扱いになるのは、誰でも予想できる。根付いた差別意識ってのはなかなか消えるものじゃないよ」
「ええ、私もそう思う」ティシラは俯き。「クライセンたちも表面上では認めないけど、本当は分かってるみたい。今更アンミール人に敬意は抱けない、って」
 二つの種族の血を受け継ぐミランダは、複雑な思いを整理できないまま、自分の胸に拳を当てて唇を噛んだ。
「もう……お互いに歩み寄ることはできないのね」
 ミランダの呟きは、一同に重く圧し掛かった。





   

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