SHANTiROSE

INNOCENT SIN-65






 青い宝石、リヴィオラの足元に一人の魔法使いが舞い降りた。
 ロアだった。戦地の全線にいた彼は、クライセンのドッペルゲンガーがレオンに会いに来たと聞き、急いで戻ってきたのだった。
 当のクライセンも向かっているが、彼の持ち場は遠く、まだ時間がかかるようだった。
 ロアを迎えたのは彼を待っていたアンバーとハーロウだった。三人は挨拶も簡単に、歩きながら言葉を交わした。
「クライセンのドッペルゲンガーとやらはもう来たのですか」
「はい」
「それで、今はどこに」
「レオン様と、星見の部屋にいらっしゃるとヴェルトに聞きました」
「分かりました。私も向かいます」
 そこでアンバーとハーロウは足を止めてロアを見送った。
「ロア様」アンバーが彼の背中に声をかける。「クライセン様のドッペルゲンガーは、私たちの知る方とは、少々、いえ、かなり、相違ございます」
 ロアには意味が分かず返事はしなかったが、心に留め置いて星見の部屋へ足を運んだ。



 星見の部屋の前には、落ち着かず両手を揉んでいたラムウェンドがいた。ラムウェンドはロアの姿を見てすぐに駆け付けた。
「ロア様、今、中で……」
「聞いています。レオン様とクライセンのドッペルゲンガーがいらっしゃると」
「ええ」
「二人だけでですか?」
「ええ……」
「なぜ? 彼は信用できるのですか?」
「レオン様のご命令で……」
 歯切れの悪いラムウェンドの様子に、ロアは焦りを抱いた。先ほどのアンバーの言葉といい、嫌な予感がする。ロアはドアをノックした。
「レオン様、ロアです」
 中からレオンの声で「はい」と聞こえた。少し間が開く。もしかするとクライセンに是非を問うているのかもしれない。正体不明の輩に自分の動向を仕切られるつもりのないロアは返事を待たずにドアを開けた。ずっとレオンを心配していたラムウェンドは彼を止めようとしない。
「失礼します」
 やはりレオンはクライセンと向き合い、何やら相談していたようだった。
 レオンはすぐにロアに体を向けた。ロアは深く一礼したあと、彼の背後にいる黒いマントを羽織ったクライセンに目を移した。
 クライセンはロアと目が合うと、つい「うわっ」という声を漏らし、嫌なものを見るような顔をする。
 クライセンにそんな表情を向けられたことのなかったロアは、瞬時にして違和感を抱き、やはり彼が自分の知るクライセンではないことを受け入れた。
 クライセンにとって、イラバロスにそっくりな容姿を持つロアは忌まわしい記憶を思い出させる存在だった。予想はしていたが、実際目の前にすると思った以上の嫌悪感や罪悪感がこみ上げる。
 そんなクライセンの態度をよく思わないロアもまた、彼に強い警戒心を抱いた。
「レオン様、その方が、クライセンのドッペルゲンガーですか」
「はい……」
「なぜ二人だけで話をされていらっしゃるのですか?」
 ロアは言いながら、レオンがかばうようにして右腕を左手で掴んでいる様子に気づく。わずかに魔法の痕跡を感じ取り、ほとんど同時、机上に黒ずんだ球根を見つけて眉間にしわを寄せた。
「ここで一体どのような対話をなされたのでしょう。そのドッペルゲンガーは陛下に何をなさいました」
 ロアの口調が厳しくなる。レオンは彼の素早く動いた目線で、ここで何かが起きたことを勘付かれたと察し、額に汗を流した。
 ロアがドアを叩いたとき、レオンが真っ先にクライセンに相談したのは球根を隠すべきかどうかだった。クライセンが「さあ」と首を傾げているうちにドアが開けられたのだった。やはり隠したほうがよかっただろうかとレオンが思っていると、クライセンが代わりに口を開いた。
「もう全部話しなよ。さっきも言っただろう? 君の持つエヴァーツの力には意味があると」
 レオンは目を見開いて大きく息を吸った。ロアも驚きを隠せない。
「君はこの不自然な世界に生まれた不自然な命だ。エミーもジギルも君と同じ不自然な存在で、その二人が操るのは魔薬という生命を持った魔法。それに対する君が『命を奪う』エヴァーツの魔法を使うのは自然なことなんだよ。君が動かなかければこの不自然な世界の物語は完結しない。すべてがなるようにしてなる。不自然な命を奪うことが君の役目だ」
「……ちょっと待ってください」
 いきなり結論から話し出すクライセンについていけず、ロアが遮った。
「なんの話でしょうか。エヴァーツの力が陛下に? それはいつから……」
「前からだよ」ロアに向けるクライセンの目は冷たかった。「本人は気づいていた。だけど使い道が分からなかったのと、彼は君たちが望んでいないと思い込んで黙っていたんだ」
「何ですって……私たちが、望んでいない?」
「そうだろ? レオン様は高潔で純粋で、世界を照らす太陽のような神々しい少年であるべき。君たちはそう望んでいた。そんな彼が命を奪う力を司る魔法使いだなんて知ったら、どう思う?」
 畳みかけられ、ロアは奥歯を噛んだ。
「マーベラスなんていう御大層な理想を持った君たちがレオンの力を封じていたんだ」
「……それは聞き捨てなりませんね」
「どうして? いつかきっとザインのように立派な英雄になる、それが君たちの理想だったんだろう?」
「それの何が間違っているのでしょうか」
「レオンはもう立派な魔法使いだ」
「…………!」
「別世界の最高位の魔法使いとして言わせてもらう。彼はこの世界の最高位の魔法使いだ。世界を救い、同時に滅ぼすほどの力を持っている。待つ必要はない。さっさと認めろ。レオンはこの国の最高指導者だと」
 ロアは強い衝撃を受けたように立ち尽くしていた。今まで常にレオンを尊敬し、信頼してきたつもりだった。だがクライセンは違うと言い切った。「いつか、きっと」――確かに、レオンに対し疑うことなく希望を抱いていた。それでいい、理想が現実になるそれまでは自分たちが幼い皇帝陛下を守っていけばいいと思っていた。それが間違っていたのだ。理想を求めすぎたゆえ、現実を見失っていたのだった。
 ずっと信じていたものが偽りだった。冷静沈着なロアでもすぐには受け入れられない。しかし「別世界から来た最高位の魔法使い」が見たこの世界の評価は、今まで誰も持たなかった目線のもので、無碍に否定することができない。もしかするとまやかしかもしれない。ロアは凝り固まっていた思考を解す努力をした。
 これほど狼狽しているロアを見たことがなかったレオンは、確実に物事が動き出していることを実感して胸が締め付けられていた。
「……まあ、まだ子供だけどね」と付け加え、クライセンは肩を落とした。「エヴァーツの力は不吉なものではない。命あるもの、いつか必ず死ぬ。欲し、増やしてばかりではいつか世界は崩壊する。エヴァーツは憎悪や苦痛、争いを終わらせる力でもあるんだよ。この世界を救えるのはレオンしかいない。私はそう思う」
 クライセンの言葉はロアにもレオンにも重いものだった。
 まだ頭の整理ができていない二人の前で、クライセンは突然声色を変えた。
「何をどう、いつ動くかは君たちで決めてくれ。まずレオンは自分の知っていることを全部明かすんだ。それまで、少し休ませてもらっていいかな」
 レオンはえっと声を漏らし、顔を上げた。
「昨日からろくに眠っていない。短い時間にいろんなことがありすぎて、さすがの私も疲れたよ。まだやることはあるからここに居させてもらうけど、しばらく静かな部屋を貸してもらえないか」
「え、ええ」と返事をしつつも、不安を残し。「でも、私一人でうまく説明できるか……」
「それも含めて君だよ。全部を背負う必要はない。だがのんびりしている時間はないから、まあ、頑張って」
「頑張って……」
「どこの部屋を借りていいかはラムウェンドに聞けばいいかな」
 そう言いながらドアに足を進めるクライセンだったが、ロアの横を過ぎたところで振り返った。口元はほほ笑んでいるが、目の奥は笑っていなかった。
「ロアと言ったね。君にはあとで頼みたいことができると思う。そのときはよろしく」
 ロアはクライセンに怪訝な目線を向ける。彼の言葉に疑いはない。しかしどうも好意的になれない。
「頼みたいこと、とは……断ることもできるものでしょうか」
 ロアも遠慮なく不愉快な感情をぶつけた。クライセンは肩を竦めて目を細めた。
「できないと思うよ。大事な皇帝陛下のためだと言われたら」
 ロアは目尻を揺らす。
「……一つお尋ねしますが」
「なに?」
「あなたの世界で、私たちの関係は良好ではないのでしょうか」
「ああ」クライセンはとぼけたように目線を上げ。「私の世界では私と君は赤の他人で、会ったこともないよ」
「そうでしたか……では、私はなぜ他人同士のあなたから、出会い頭に不遜な態度をとられているのでしょう」
 その問いに、クライセンは迷いも見せずに答えた。
「なんとなく、君とは仲良くなれそうにないからかな」
 ロアも、傍にいたレオンも呆気に取られた。そんな二人を置いて、クライセンは退室していった。
 彼の背中を見送ったあと、レオンは深い息を吐いた。戸惑いの空気が残る中、ロアは彼に歩み寄る。
「レオン様、お体のほうはご無事でしょうか」
 レオンは再び右腕を左手で掴んだ。大丈夫、と言って隠そうとしたが、すぐに改める。ゆっくりと右腕の袖を捲って見せた。
 そこには傷こそなかったものの、手のひらから肘の近くまで、皮膚に木の根のような薄い筋が赤黒く残っていた。
「それは……」
「クライセン様が魔士から奪ってきた球根に魔力を与えたら、私の体に根を張ろうとしてきました。その球根の命を、私が奪いました。痛みはありません。これもただの形跡なのでそのうち消えるでしょう」
 ロアには何もかもが信じ難いことだった。
 クライセンのドッペルゲンガーというだけで唐突だというのに、その彼が持ち込んだスカルディアの球根、それがレオンの体を傷つけ、レオン本人の秘めていた魔法で撃退していたなんて、何もかもが急速すぎて理解が追い付かない。
「クライセン様の言うとおりだと思います」レオンは袖を直しながら。「魔薬は生命の塊。野望も善悪もなく、ただ生きるためだけの生命体。それに対抗するために、この命を奪う力は有効です」
 ロアもその通りだと思う。だが、なぜだろう。スカルディアに対抗する手段が見えてきているというのに、レオンもロアも浮かない表情のままなのだ。
 ここにきて、突然現れたドッペルゲンガーという「化け物」にマーベラスを否定された。正しいと信じて築いてきた信念が覆されそうになっている。
「レオン様は……私たちの、いえ、この国の在り方を間違っていると、思われたことが今までにあったのでしょうか」
 レオンは強い迷いを見せるロアに動揺した。クライセンの言葉は間違ってはいないが彼はロアを責めているような言い方だった。それが彼を傷つけているのだった。
「いえ、私もあなたと同じです」レオンは素直な少年の顔で。「私もまだどうすればいいのか、はっきりとした意志が固まっていません。クライセン様は自分で考えるよう仰いましたが、何を行えばいいのかも、何が正しいのかも、まだ……」
 レオンは言葉を失い、俯く。
 ロアは彼も同じ思いであることを知り、少しの安堵を得た。
「……本物のクライセンがもうしばらくしたら戻るでしょう」
 ロアは目を伏せて頭を下げる。レオンは「本物の」という枕詞に悪意を感じたが深く考えないようにした。
「あの、私から皆さんにすべてを話します。ただ、最初は少数の方に打ち明けたいのですが、よろしいいでしょうか」
「と、仰いますと?」
「それではいけないのかもしれませんが、やはり、まだ私一人ではうまく話せないかもしれません。いいえ、きっと緊張してみっともない姿を晒してしまうことでしょう。なので、まずはあなたとクライセン、あとラムウェンドとサンディル殿、他は、あなた方が必要だと思われる方の少数だけで会議を行いたいのです」
 目を泳がせながら、恥をしのんで正直に気持ちを伝えるレオンの様子は、迷うロアの気持ちを引き締めた。クライセンも彼を「まだ子供」だと言った。それが執政にはまだ早いと決めつけていた自分たちのせいならば、大人として責任を取らなければいけない。やることが変わったわけではない。この純真無垢な少年に「命を奪う魔法」を正しく操ってもらうため、周囲の大人が彼を支えていく必要がある。
「陛下のご意向、理解いたしました」
「あ、あの、でも、決して上手く話せないことが恥ずかしいからではなく、やはり、優秀な魔法使いの方々を納得させるには、説得力のようなものが必要だと思うのです」レオンは言い訳するように続ける。「そこで、私がまとまりのないことを言って、愛想を尽かせてしまう方がいては、よくないので、それで……」
「レオン様」ロアは落ち着いた表情で、彼の前に跪いた。「ご心配ならずとも大丈夫です。私たちのあなたへの忠誠心は変わりません。ただ、私たちはもうあなたを担いで運ぶようなことは致しません。あなたの行きたい方へお進みください。たとえそれが崖の向こうであっても、私たちは後ろから、必ず着いてまいります」
 ゆっくりと語る誓いの言葉は、レオンの心に染み渡った。レオンもやっと肩の力を抜き、足の裏から地を踏んでいる感触が伝わってきた。
 そこに、ドアがノックされ、ラムウェンドの声が聞こえてきた。レオンがすぐに返事をすると心配そうな顔をしたラムウェンドが早足で駆け込んできた。
「クライセン様は西の奥の客室へ案内しました。しばらくお休みになるそうです」
「そうですか」と返事をしたのはロアだった。「レオン様は無事です。私はクライセンの帰りを待ちます。詳しい話はそれからです。ラムウェンドはレオン様のそばにいてください」
「は、はい」
 ロアは立ち上がり、二人に背を向けた。
 いつもの廊下を歩みながら、この「完璧な国」に亀裂が入っていることを実感し、手足の震えを抑えられなかった。





   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.