SHANTiROSE

INNOCENT SIN-64






 カームはジギルに乱暴に床に投げ捨てられ、腰をさすりながら不満を漏らした。
「もう、もっと丁寧に扱ってよ。それが協力を求める態度?」
「協力を求める態度ってなんだよ。そんなの、聞いたこともない」
「お願いしますっていう気持ちだよ。二人で一緒に作業するにはお互いに思いやりってものがないとうまくいかないんだよ」
「お願いします? 俺に頭下げろっていうのか」
「そうじゃないよ。僕は君の味方なんだよ。もっと僕を肯定してよ」
「なんだお前、嫌なのか?」
「え?」
「嫌なら出ていけ。俺は頼んだ覚えはない」
「ちょ、ちょっと待ってよ。嫌だなんて思ってないよ。そうじゃなくて……」
「好きでやってんだろ? だったら文句言うな」
「えーっ」
 ジギルは笑いもせずに部屋の奥に足を運んだ。あまりに協調性のないジギルに悲しい思いを抱いたカームは彼の動きを目で追う。ジギルは重なるように並んだ本棚の隙間に入っていく。カームが体を起こして隙間を覗いた。ごちゃごちゃした室内は乱雑にものが詰まっているだけだと思っていたが、隙間の奥にはドアがあり、ジギルはノブに手をかけていた。
「おい、早く来い」
 言われて、カームは彼と同じように隙間に潜った。
 ドアは棚が邪魔して人一人が通れるほどしか開かない。カームはすぐに気づいた。ドアの向こうには魔法がかけてあると。ジギルが先に入り、カームもあとに続くと、暗くて狭い通路になっていた。ドアの隙間から漏れるわずかな光で、通路のすぐ先は下に降りる階段だけがあるのが分かる。
「ここは? もしかして、秘密の通路?」
「ある場所に繋がってる。魔法でエミーに近道を作ってもらったんだ」
 ドアを閉めると真っ暗になり、カームは慌てて石の壁に手をついた。ジギルはこの階段の幅も距離も理解しており、先に下りていった。
「ああ、だから魔力を感じたんだね。ある場所って? どこに繋がっているの?」
「実験室」
「実験室? なんの?」
「魔薬に決まってんだろ」
 カームは息を飲んだ。
 真っ暗で右も左も分からない狭い階段を下りているうちに、宙を浮いているような妙な錯覚を感じた。ぞくぞくと胸元がしびれる。「魔薬王」の「秘密の実験室」――見てはいけないものを見せられるのだと、足が震えた。
 怖い、というカームの感情は正しかった。
 本当は引き返したかったが、理由が見つからずについていくしかできない。
 ジギルの足音が止まる。階段が終わった先には、頑丈な鉄の扉があった。ドアノブはなく、ジギルがドアの真ん中に手を当てると、分厚い鉄がギギと音を立てた。
 その瞬間、気を失いそうな悪臭がカームの鼻をついた。カームは咄嗟に鼻と口を両手で塞いだ。
 エミーの魔法は通路だけではなかった。この中に渦巻く異臭と、奇妙な魔力を外に漏らさないように強力な結界で包み込んでいたのだ。
 異臭は嗅覚だけではなく、目にも染みる。涙目になって震えているカームに気づき、ジギルは彼の腕を引いた。
 嫌だと言いたくても声が出ない。首を激しく横に振るカームを、ジギルは無理やり室内に引き入れた。
 カームの足の震えが激しくなる。
 そこは、血と錆で変色した鉄に囲まれたあまりに悍ましい空間だった。
 壁に沿う棚には、様々な大きさや色をした肉の塊の瓶詰が並んでいる。もはや原型を留めていないものも多いが、どう見ても眼球や人の手にしか見えないものもあり、ときおり痙攣するように動いている、ような気がした。
 室内の中央には薄汚れた、大きな鉄の台が乱雑に並び、所々に肉の破片がこびりついている。
 さらに室内の奥にはどす黒い鉄の檻があった。
 正確に脳が働かないカームはそこに目線を送ることを拒否していたが、視界の端に、蠢く大きな肉があったのを捕えていた。それが何なのか、確かめたくなかった。肉の一部から粘り気のある液体が噴出していたり、血で染まった蛇のような触手が踊っているような様子が、自分の意志を無視して記憶に入り込もうとした。
 それだけなら幻だったと思い込むこともできるが、塞いでも塞ぎきれない悪臭がカームの体を蝕んでいく。目を閉じても匂いが染みて涙が止まらない。頭が割れそうなほど痛い。腹の中の臓物が暴れていうことを聞かない。
 カームは理解が追い付かないまま、耐えられずにその場に膝をついて嘔吐した。
 すごい声を上げて倒れこむカームに驚いたのは、ジギルだった。
 これが普通の反応だということを、彼は理解できない。
「おい、何やってんだよ」
 涙と鼻水と吐しゃ物で汚れた彼を見ても、ジギルはそのまま話を続けようとする。
「ここで魔薬の臨床実験や解剖を行っている。奥にいるのがもう自分で動けないし思考能力もないはずなのにまだ動くんだ。一体どういう……」
 淡々と言いながら奥を指さすジギルの話を最後まで聞かず、カームは限界を感じて悲鳴を上げた。
「もう嫌だ! ほんっとに無理! これ以上続けるなら、本気で絶交だ!」
 ひとしきり騒いだあと、カームは壊れた人形のようにふらつきながら立ち上がり、背後の鉄の扉を必死で叩き始めた。落ち着いて力を入れれば内側からは開くようになっているのだが、取り乱しているカームはただ泣きわめくしかできなかった。
「開けて! 助けて! 早く、誰か!」
「お、落ち着けよ……」
 カームのあまりの錯乱ぶりにさすがのジギルも気が引けてきた。
「早く開けて! じゃないと死ぬ! 君を殺して僕も死ぬ!」
「分かったよ……」
 わあっと泣き崩れるカームが可哀想に思えたジギルは仕方なく扉を開けた。カームは這うようにして室を出て、何度も躓きながら暗い階段を駆け上がっていった。



 ため息をつきながらジギルは元の部屋に戻った。書斎にカームはおらず、隣の部屋から嗚咽が聞こえる。彼はソファで項垂れて肩を揺らしていた。
「なんだよ、そんなに泣くことか」
 ジギルが椅子に腰かけながら呆れて言うと、カームはぐしゃぐしゃになった顔を上げて睨みつけた。
「そんなに泣くことだよ! 酷いじゃないか。あんなものをいきなり見せるなんて!」
「あんなん慣れだろ」
「君ね、慣れの意味分かってる? 君は何度もあれを見てたんだろうけど、僕は初めてだったんだよ。冷静でいられるわけがないだろ!」
「はいはい、分かったよ。まったく、ほんとに役に立たねえな、お前」
 カームは腹が立つやら悲しいやらでまた涙が出てくる。
「ああもう、普通の友達が欲しいよ……天使とか魔法王とか魔薬王とか、興味はあるけどちっとも楽しくない。恋愛とか食べ物の話とか、どうでもいいことで盛り上がれるような、平凡な人と友達になりたい」
「俺は普通じゃないのか?」
「普通じゃないよ。まさか自分で気づいてないの? そんなに頭がいいのに?」
 いつもは腰が低く優しいカームも、とうとう毒を吐き始める。
「何が変なんだよ」
「もうちょっと人の気持ちを考えたほうがいいんじゃないかな」
「なんのために?」
「だからさあ、そいいう質問が無神経なんだよ」カームは諦めたように天を仰いだ。「はあ……やっぱり、ああいうことしてたんだね」
「ああいうことってなんだよ」
「実験だよ。でも、まあそうだよね。そのくらいしないと確かな情報は集まらないもんね」
「お前はまた勝手に妄想してんのか? 言っておくがあれは自ら魔薬を投与して死んだ者か、自分で動けなくなるほどめちゃくちゃに変態したものばかりだぞ。まさか俺が嫌がる奴を無理やり実験台にしてるとでも思ってんじゃねえだろうな」
「……違うの?」
「あのな、俺は別に魔薬で偉くなりたいとか儲けたいとか、そんな具体的な理由はないんだよ。ただ試したいだけだ。お前が思うようなシリアルキラーみたいなことはやってないし、やりたいとも思ってない。この実験室も被験体もエミーが用意したものだ。俺はそこにあるものでしか実験はしない」
 ジギルはあまり変わらなかった。エミーに必要なものがあれば言えと言われても、進んでものを欲しがらなかった。それでは研究が進まないと、エミーが魔士たちに「革命のために犠牲になれ」と説得し、体が使い物にならなくなったときは実験に使って欲しいと志願させたのだった。命を無駄にするなと言われ、ジギルの研究はさらに危険な領域に足を踏み入れていった。
 だがそれでも、ジギルは理性を保ち続け、欲を出すことはなかった。
 
 理想とは遠くかけ離れていて現実は厳しいもの、なんて思い始めていたカームだったが、ジギルを非情で極悪非道な人だと決めつけようとしていた自分に気づいた。ジギルはそんなに悪い人ではない。そう思おうとしてた矢先に、残酷な現場を見せられ、それに対してなんの情も持たない彼が遠い存在に感じてしまったのだ。やはりジギルは普通ではない。よく考えてみれば、魔薬を自在に操るほどの力がそう簡単に手に入るわけがない。彼は普通ではない、と繰り返す。その「普通ではない」というのは、「異常」と同意なのではなく、普通では耐え難いグロテスクな現実と向き合える精神力を持ち合わせている天才なのだ。
 気持ちの整理がつき始めたカームは改めて自省した。彼は思っていた以上に身勝手で乱暴な人だった。だけど、意志の疎通もできず話ができないわけではない。
 これほどストイックに勉強を続け、その分協調性に欠けた彼が、なぜ人として最後のラインを越えずにいるのか。
 ジギルは無理やり他人を実験の犠牲にしているわけではないという。きっと、本当だと思う。その理由は簡単だった。
「ねえ……」カームは落ち着いて、ジギルに尋ねた。「どうして君は自分自身を実験台にしたの?」
 きっとそれは彼の中にある良心や情がさせている行動だ。カームは分かっていた。だけどジギルから聞きたかった。友達になるために。
 ジギルは、また「質問の意図が分からない」とでも言うような怪訝な顔をする。
「他の人に使ったほうが、経過も見やすいし、もし失敗したら解剖だってできるよね。でも君は自分に使った。どうしてそんな危険なことをしたの?」
「この実験は、失敗しても成功しても何の役にも立たないからだよ」
 ジギルはカームに「汚れた顔を拭け」という意味で、引き出しからタオルを投げて渡した。
「もしかしたら、こうすればこうなるかもしれないという、ただの好奇心だった」
「でも、失敗したらどうしたの?」カームはタオルで手や顔を拭きながら。「君がいなくなったらそれこそ革命は台無しなんじゃないの?」
「そうなんだよな……」
 そこで、ジギルは初めて迷いを見せた。初めて、自分の行動に答えを出せずにいたのだ。
「どうしてたんだろうな」
 ジギルの見せる、人間らしい言葉と表情だった。誤魔化すように鼻で笑い、口の端を上げる。
「ま、俺が死んだあとの世界なんてどうなろうが知ったこっちゃないけどな」
 本音なのか建前なのかよく分からない言葉だったが、カームはなぜかほっとしていた。やっとジギルが自分と同じ「少年」に見えたからだ。答えの出ない疑問を、答えを出さないままにする。そんな曖昧でグレーな感情こそ、人間特有の性質なのだ。その答えを出そうとしない彼はやはり賢いと思う。

 カームはあのとき、彼に頼まれてメガネを外してジギルの体の中を見た。
 カームの力は、肉眼で見えないものに関してはぼんやりしたイメージでしか伝わってこない。実際に腹を割いて見るような映像とは違う。カームが見たものは、二種類の動く「紐」が内側で互いに絡み合い、一つの完全体になる様子だった。魔薬は人体の組織に入り込み、壊し、本来は存在しない細胞を作り出すものだと、ジギルが言っていた。彼の作った解毒剤は、邪魔なものの破壊と、足りないものを精製する動きを、別の魔薬で補って役割を終わらせ機能を停止させるものだった。
 ジギルは彼を試すために最初は何も説明しなかった。しかしカームは、抽象的とはいえ、彼の想像していたとおりの動きを読んでいた。だからジギルはカームを信用した。
 ジギルが知りたかったのは、内側で停止した魔薬の残骸がどうなるのかだった。再び動き出すかもしれない。少しでも法則が乱れたら何が起きるか分からない。その不安はずっと抱えたままだった。
 カームは、残骸は完全に死んでると答えた。あとは体の中で溶けて自然と排泄されていくのだと。
 ジギルはほっと肩を落とした。人に協力を求めたのも、それに助けられたと感じたのも初めてだったかもしれない。
 ジギルの実験はそれで終わったつもりだった。しかしカームがそうさせない。
「ねえ、イジューに……解毒剤を使う気はあるの?」
 ふっとジギルから表情が消えた。
「魔薬は例え傷や病気を治したとしても、それだけ強いエネルギーを使ってるよね。しかもそのエネルギーは、魔薬を投与した人体から作り出してる。その分体を酷使してるってことは、寿命が短くなるってことだよね」
「そうだよ。でも不便がなくなるんだ。使い方によっては普通の人間にはできない能力が備わる。寿命なんて見えないものだし、どうせ人はいつか死ぬんだ。魔薬を使わなかったからって長生きできるとは限らないだろ。それに長生きになんの価値がある? 好きなことをして力尽きて死ぬのも、生まれてきた甲斐があるってもんじゃないのか」
「みんな生まれついて個性を持ってる。人より足が遅かったり、体が小さかったり、不器用なことがあったりするし、毎日生活してたら病気もケガもする。そうやって人は失敗とか後悔を重ねて、様々な幸福を見つけていくんだ。人間の世界って、そういう小さな幸福と不幸が、空や風や、空気みたいに巡っていて、膨大な思い出に満ち溢れている美しいものだと思う。魔薬で自分の個性を潰してしまう人ばかりになったら、もうそれは人間の世界じゃないような気がするんだよ」
「人間の世界じゃなかったら何だってんだよ」
「このまま革命が進んだら、魔薬が支配する世界になってしまうんじゃないかな。だから、君が解毒剤を成功させたことには、すごく大きな意味があると思うんだ」
「魔薬が支配する世界? バカな。お前は他所の世界から来たから分からないんだろうが、ここじゃ魔薬は別に悪いものという認識はない。だからと言って万能なわけでもない。何かを手に入れるために何かを犠牲にする駆け引きはどんな世界でもあることだろう。ここではそれが魔薬の力ってだけの話だ」
「僕の世界では魔薬は悪だという結論が出たんだ。そんなものに頼らなくても生きていける。きっとこの世界でも同じだよ。違うのは、君みたいに理性をもって魔薬を熟知してる人がいるってこと。だから君がもっと魔薬を自在に操れるようになれば、この世界はもっとよくなるはずだよ」
「それとイジューの魔薬を無効化することになんの関係あるっていうんだよ」
「それこそが革命の始まりなんじゃないかな。君が人々の幸せを願って魔薬を使えば、きっとランドール人もその力を認めるよ。僕の世界で、失った魔法を求めてランドール人の生き残りを大事に保護したように、この世界でも人々の意識を変えていく手段はあるはずだ。それこそが、君の本当の役目なんじゃないのかな」
 ジギルの心は揺れていた。
 魔薬を極めれば、ランドール人と和解できる――それを望んでいるわけではない。だが人間に根付いた意識を変えることができたとしたら、この世界は一変するに違いない。
「……そうは言っても、今更、方向を変えられるわけがないだろう」
 ジギルは俯いたまま、小声で呟いた。
「一人でやってるわけじゃないんだ。みんなエミーを信じて着いてきた。ここで俺一人が勝手なことをすれば、スカルディアは崩壊してマーベラスに潰されるだけだ。今更幸せだの平和だの、心にもない言葉なんかに誰が耳を貸す?」
「心にもないって……」カームは一つ息をついて。「まあ、でも、確か君の言ってることも分かるよ。正直に話せる人はいない? 相談できる人。あの女の子たちは? 友達なんでしょう?」
「バカか。あいつらは別に友達でもなんでもねえよ。俺が一人でいるから暇潰しに絡んできてるだけだ。そんな大事な話ができるか」
「へー……いいなあ。僕もいつも一人だけど、誰も寄ってこないのに」
 カームはまた気を散らし、がっくりと頭を垂れていた。
「というか勝手に話を進めるな。俺は解毒剤をまた作ろうなんて思ってない」
「どうして?」
「形跡を残すわけにはいかなかったからな、俺は解毒剤の記録を何も残してない」
「え? どういうこと?」
「俺はなんでも書き残す癖があるが、これだけは頭の中でだけ計算しながら作ったんだ。もしまた作るとしても再計算が必要だ。中には希少な魔薬もあるし、加工に時間がかかるものもある。それに被験者に合わせた配合が必要だ。相当時間がかかる」
「どれくらい?」
「おそらく、エミーの革命が始まる頃には、まったく間に合わないだろうな」
「そうなの? エミーさんの革命はいつ始まるの?」
「さあ」
「分からないのに、どうして間に合わないなんて言えるの?」
「それだけ時間がかかるってことだよ」
 カームは目線を上げてため息をついた。
 ジギルは一人、それに、と思う。
 クライセンのドッペルゲンガーが出たという現実に、エミーが何もしないわけがない。今までと状況が変わったのだ。今ジギルの目の前にいるカームの存在が、そのことを嫌でも教えてくれる。黙って墓場までもっていくつもりだった解毒剤の存在が明確になってしまった。自分自身が認めたことは、未来に大きな影響を与えるような気がして、胸騒ぎがする。
「……まあ、はったりでも、解毒剤の存在をマーベラスに示唆すれば、もしかしたら駆け引きの道具にはなるのかもしれないな」
「そうか」カームはぽんと手を叩き。「その手があったね。今からでも処方箋を作ろうよ。間に合わなかったとしても、何もしないよりはいいよ。君がやるって言うなら手伝うから」
 先ほど酷い目に遭ったのも忘れて無邪気に目を輝かせるカームとは対照的に、ジギルは説明できない不安に包まれていた。
 それは目に見えないものということだけは分かっていた。
 ずっと自分に感じていた違和感の正体は、外部からの干渉が起こした歪みが原因だった。ここは本来存在しなかった世界。知能のない「世界」という概念が違和感を抱き、それを解消しようと「無意識」を働かせた。その歪みは形になり、不自然ながらも誰も気づくことがないまま、この世界で生まれて死ぬ一つの生命体となって地に足を着けた。
 ジギルは、天使による歴史の改ざんが生んだバグ(虫)だったのだ。だとしたら、これから起こす自分の行動はすべて決められたことなのだろうか。だから学ぶこと以外に興味が沸かず、人間の基準でいう「大罪」に手を汚しながらも、周囲に必要とされて敬意を寄せられる存在になっているのだろうか。誰も彼を裁こうとしないのは、彼のしていることは「人間の犯す罪」ではなく、「世界の無意識が起こす事象」だから――。
 これまでにも何度も迷うときがあった。今もまた大きな岐路に立たされている。色んな可能性を考えて、どれだけ悩んで行先を決めたとしても、もしかするとそれは、すでに決められていたことなのかもしれない。
(……そうなら、俺は自分のやりたようにやればいいだろうか)
 ジギルは改めて考える。理性や建前を捨てて、自分がどうしたいのかを。
 出た答えを行動に起こしたとして、次にどうなり、何に影響を与えるのか。そんなことはもう考えても考えなくても結果は同じなのかもしれない。
「……なあ」ジギルはふと、疑問を抱いた。「天使が変えた歴史って、一体何なんだ?」
 なんだかうまくいきそうだと、気楽に考えていたカームも笑みを消す。
「何って?」
「天使が歴史の一部を書き換えたんだろ? 誰の何を変えたのかってことだよ」
「ああ……そういえば、知らないなあ」
「知らない?」
「うん。聞いてない」
 どうして今までそのことを考えなかったのか、不思議に思うほど肝心なことだった。
「クライセンは知っているのか?」
「うーん、マルシオとの会話ではそんな話なかったし、僕と一緒にいるあいだもはっきりは聞かなかったよ」
 ジギルは自然と意識を遠くに飛ばした。自分の中で凝り固まっている常識や理屈をほぐそうとしたのだ。そうしなければ空の上の生命体の考えなど及ばないと思ったからだ。
 ぼんやりと、空に浮かぶ天使の姿を想像した。彼が何を考えて、何を言うのか。ぼんやりと想像する。
「……マルシオって奴は、師匠であるクライセンを疎ましく思い、この世から消したい。そのためには、恋人である魔界の王女が邪魔なんだ」
 独り言をつぶやくジギルを、カームは首をかしげて見つめていた。
「ティシラはクライセンのことを、運命を感じるほど好きだから、そう簡単には引き離せない。もしクライセンを殺してしまったら、ティシラが許さない。彼女まで殺そうものなら、父親が激怒し、魔界の王と対決するほどの事態に発展する。それだけは避けなければいけない……だから、二人が自然に別れる世界が必要……」
 例えば、戦争で彼が死ぬ。
「いや、それはないな。ランドール人が敗戦した未来でもクライセンは生きてティシラと出会っている。もっと、確実に死ぬ方法は……」
 そのときジギルは先ほどのカームの言った言葉を思い出した。「魔薬が支配する世界」。それは人類の衰退、もしくは滅亡を意味する。
 クライセンとて人間。人間が滅亡するのなら、彼も同じく生きていく手段を失う。そうなったらティシラが共に死ぬことを望んだとしても道連れにすることはできない。ティシラにも、彼との決別を受け入れる以外の道はなくなる。
「人類滅亡、か……」
 そうだとしても、アカシアの力は未来を操ることはできない。マルシオは何を変えたことで人類が滅亡すると確信を得たのだろう。
「未来……予知」ジギルははっと目を見開いた。「予見……イラバロスの能力だ。もう一つの世界ではイラバロスが裏切ったことでランドール人が敗戦した。なぜ彼が裏切ったのか……人類滅亡の未来を見たからだ」
 黙って聞いていたカームも大きく息を吸い込んだ。
「マルシオはイラバロスの予見を、彼の見た未来の映像を消したんだ」
 魔薬が世界を支配し、人間は滅ぶ。きっとエミーはそんな未来を目指しているのだ。だとしたら彼女の意味深な思想が理解できる。植物の支配する世界で人間は矛盾した感情など持たず、争いも悩みもなく生きて死ぬだけの単純な人生を送ることができる。
 それこそが、人間の望む「究極の平和」な世界なのだから。
 イラバロスが何を犠牲にしても避けたかった未来が、すぐそこまで来ている。





   

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