SHANTiROSE

INNOCENT SIN-73






 倒れたカームはリビングの奥にあるソファに運ばれて横になっていた。目を覚ますと心配そうな顔をしたミランダがあっと声を上げた。
「カーム、大丈夫?」
 カームは何が起きたのかを思い出しながら上半身を起こした。
「どうしたの突然。具合が悪いの?」
 カームはすぐに返事をせず、ぼんやりした頭で辺りを見回す。キッチンには誰もいなかった。
 ミランダがねえと言いながら顔を覗き込むと、やっとカームは我に返った。
「あ、すみません。大丈夫です」
「本当? 一体何があったの?」ミランダは声を潜め。「エミーの後を追おうとして、急に倒れるなんて……彼女に何かされたの?」
「い、いいえ」カームは頭を左右に振り。「……エミーさんの、本心が知りたくて、つい……」
 苦笑いを浮かべるカームに、ミランダはいい顔はしなかった。
「そんなことを……」近くにあった椅子に腰かけて。「それで、どうなったの?」
「僕が知りたかったことは見えませんでした」
 カームは見えたことより、自分の無力さを噛みしめていた。
 見えたものは、エミーの出生の一部だったのだろう。きっとあの光景は彼女自身しか知らない事実。それを知ってしまったことはカームの持つ力だからこその特別な情報だ。しかし、そんなものは何の役にも立たないと思う。自分がやるべきことはエミーとの対立ではなく、ミランダを無事に元の世界に帰すことだから。
「エミーさんが、本当にベリルさんたちを裏切ろうとしているのか、確認したかったんです。もしかしたら、情が出て戸惑っているんじゃないかとか、期待してたんですが……」
「そうじゃなかったの?」
「分かりません。エミーさんが何を考えているかなんて、知りたいことは見えませんでした」
「……エミーがあなたの力を知っていて、妨害されたとか」
「いえ、エミーさんにとって僕なんて取るに足らない存在です。エミーさんほどの魔法使いの深層心理を、そう簡単に覗けるわけがないんです。ただの僕の力不足。これが、僕が力を封じて隠している理由です」はは、と自嘲し。「全然コントロールできないんです。見たいものを自由に見れるわけではない。見たいものは見れず、見たくないものが見えてしまうなんて、よくあることです」
 ミランダにはカームの無念さが伝わった。
 未熟な魔法使いとは、誰もが常にこういう屈辱を抱いているものなのだから。
 彼を責めるとしたら、無理をしてしまうところだ。
「何を焦っているの?」
「……え? 焦ってる?」
「あなたも、私も、小さな存在よ。とくにこの世界では、隙間から紛れ込んだ小さな虫に過ぎない」
 ミランダは悔しそうに膝の上で拳を握った。
「だけど……小さな虫も生きてる。呼吸をして、何かを食べ、何かに触れる。それだけで、何かに影響を与える。私たちはこの世界に来る必要はなったかもしれないけど、来てしまったからには、わずかでも何かを変えているの。だから、私は思うの……きっと私たちにも役目がある。とても小さな役目かもしれない。誰かと友達になるとか、その人と一緒に笑ったり泣いたりするとか、その瞬間はとても満ち足りていて、幸せが目に見えて形になる。英雄でも、救世主でもなくてもいい。今、このとき、できることをすればいいじゃない」
 ミランダは素直に「心配している」と言えなかった。カームとはそれほど親しくないはずなのに、自分に何の相談もなく無茶をする彼が歯痒かった。その理由は、クライセンとはぐれてしまった今、この世界に迷い込み取り残されてしまっているたった二人の仲間だからだった。カームに何かあったらミランダは完全に孤独になる。ベリルたちと仲良くなれたとしても、同じ気持ちは共有できない。だからカームに一人で暴走して欲しくないという不安に襲われていたのだった。
 気まずそうに下を向いたままのミランダに、カームは申し訳ない気持ちを抱いた。
「そうですよね。この世界のこと、何も分からないのに、出しゃばった真似をしていました。何よりも大事なのは、僕たちの身を守ることですよね。ジギルやベリルさんたちの役に立ちたいなんて、烏滸がましいですよね」
「ち、違う」落ち込んでいくカームに、ミランダはつい声を上げた。「あなたを悪く言ってるわけじゃないわ。あなたの持つ力は、きっと凄いもので、いつか役に立つと思う。でも、それを無理に使う必要はないってこと。人の心を覗いたり、秘密を探ったりするんじゃなくて、他の使い方があるはずよ」
「え?」
「えっと、あの……具体的には、まだ分からないけど……」
 言葉を濁すミランダに、カームは彼女が励まそうとしてくれている様子を垣間見た。今度は嬉しい笑みを浮かべる。
「ミランダさんって、思ってたより優しいんですね」
 突然の言葉に、ミランダは目を丸くして顔を上げた。
「あ、思ってたよりなんて、失礼ですね。いえ、もっと、いつも先を見ているような、ミステリアスな雰囲気があると思ってたんで」
「そんなことないわよ……私の悩みなんて、この世界では意味のないことだわ。もしこのまま帰れないのなら、もうその悩みは悩みではなくなるのだもの」
 カームは言葉を飲んだ。彼女の悩みが何なのか知りたくないと言えば嘘になるが、きっと聞いても何の力になれないのだろうと思うから。ミランダの言うとおり、元の世界に戻れないとなったら、今まで重ねてきた思い出や苦労も楽しみの多くはすべて夢となる。
「それより」ミランダは気を取り直し、腰を上げた。「体は大丈夫なの?」
「あ、はい。すぐに気絶しちゃったんで、そんなに魔力は消耗していませんし」
「そう。私たちは先に朝食をいただいたわ。あなたの分は残してある。ベリルたちは用があるからって出ていったけど、あなたを心配してたわよ」
「そうなんですね。気を使わせてしまって申し訳ないなあ」
「気にしなくていいの、そんなこと」
 カームはキッチンに向かうミランダのあとを追った。



 カームはミランダに温め直してもらった朝食を嬉しそうに頬張った。ミランダもお茶を淹れて向かいの椅子に座る。
 窓の外から、時折動物の鳴き声のようなものが聞こえる。魔士の声だった。魔士の中にはほぼ猛獣と化している者もいる。それでも人の知能は失っていないのだから、この段階でも自分の世界にあった魔薬の性能を超えていることが分かる。
 これを平和のために使えたら……そう思うが、カームにはジギルの気持ちも理解できた。エミーがいたからジギルはここまで昇華できたのだ。なのに、知識と技術だけを自分のものにしてエミーに反旗を翻すなんて、最悪の裏切り行為だ。それに、と思う。ジギルは勉強が好きでやっているだけというのが本音なのも分かる。そんな彼が独自の強い意志を持って、準備してきた大きな革命を、それに希望を託してきた仲間の夢を破壊するなんて、きっとできない。
 だから、外の世界からきた自分が背中を押したいと、カームは思っていた。
 無理な介入はできない。ジギル本人の意志が必要だ。彼なら短い時間でもそのときの最善の道を見つけるに違いない。ジギルには大きな力がある。この世界を、大勢の人々を導く運命を背負っているはず。やっていることは悪いことだとしても、ジギル本人は悪い人ではないと思うから。

 そのとき、キッチンのドアがノックされた。ベリルたちが戻ってきたのかと思ったが、聞いたことのない男性が声が聞こえた。
「ジギル、ここにいるのか?」
 優しそうな声に、カームは警戒せず席を立ってドアを開けた。そこにはモーリスがいた。
「ジギル? いや、どなたかな」
「ジギルは今いません。僕は彼の友達です」
「友達?」
「カームと言います。魔法使いです」
 モーリスは槐のマントを羽織っている彼が魔法使いと名乗っても不思議には思わなかった。礼儀正しい少年なのもあって、モーリスも警戒せずに室に入ってくる。
「私はモーリス。洛陽線の村の村長です」
「洛陽線、といえば……」
「スカルディアと隣接する村です」
 カームはああと言いつつ、洛陽線のことはあまり知らない。そういえば、もともとジギルは村に居て、そこにエミーが来て一部を革命軍の城にしたと聞いたことを思い出した。
「僕、ここに来たばかりで、詳しいことは知らないんです。失礼を承知でお尋ねしますが、ジギルとはどのようなご関係の方でしょうか」
 モーリスは思っていた以上に丁寧な言葉使いをするカームに面食らっていた。これほど教育の行き届いたアンミール人の集落がどこかにあったのだろうか。しかも、来たばかりなのにあのジギルと友達だなんて、にわかには信じられない。
「わ、私は、ジギルの……」モーリスは少し考え。「家族のようなものだと、思っています」
「そうなんですね」
 なんの疑いもなく笑顔を浮かべるカームは、モーリスが見たことのないタイプの少年だった。
 モーリスはカームをじっと見つめ、密かに汗を流した。彼の背後にいる少女も、いつもジギルの周りにいる者とは違う、初めて見る顔だった。
「ジギルは、すぐに戻りますか?」
「さあ。昨夜から会っていません。誰かに呼ばれて退室していきましたが、どこに行くのかも何も聞いていないんです」
 モーリスは戸惑いながら、別の質問を投げかける。
「あの、ここに、イジューという娘がいませんでしたか?」
「ああ、知ってますよ」
「彼女の両親が心配していまして。ジギルがいるから大丈夫とは思うのですが、もう五日も連絡がないとなると、さすがにこれ以上放っておくわけにもいきません。ここで何をしているのかご存知ないですか?」
 カームは途端に口を一文字に結んだ。
 そういえば、イジューは魔薬を使ったことを親に言っていないと言っていた。しかも彼女も革命軍の一員になっている。カームは部外者である自分がそんな大事なことを軽々しく人に喋ってはいけないと思った。
「えっと、それは、ジギルに聞いてもらえませんか? あ、イジューは元気ですよ。少し前に、みんなで一緒に食事をしましたから」
「そうですか……元気ならよかったです」
 そうしているうちに、廊下の先から話声が近づいいてきた。三人は同時にドアのほうに顔を向けた。
「……エミーはまだそこにいるのか?」
 ジギルの声だった。モーリスはほっとしたように息を吐いて開けっ放しのドアに足を運ぶ。
 ジギルと話しているのはイジューだった。
「朝ごはんを、つまみ食いして、出て、行った……」
「はあ? じゃあもういないのか」
「うん」
 モーリスはドアから顔だけ出し、会話する二人の姿を見て――自分の目を疑いながら固まった。
 カームとミランダは顔を見合わせ、汗を流した。
 ジギルとイジューは廊下の途中で足を止めて話しており、モーリスに気づかない。
「どこに行くとか、いつ戻ってくるとか言ってなかったのか」
「私は、何も、聞いてない」
 ジギルははあと息を吐いて肩を落とした。
 モーリスは慌てて顔を引っ込める。
「こいつに聞いてもしょうがないか」
 ジギルは言いながら、キッチンとは逆の方向に足を向ける。イジューはいじけたように俯いていた。
「何なんだよ、エミーは何を考えてるんだ。ああクソ、俺は寝てないし腹も減ってるんだよ。部屋に戻って寝るから、ベリルたちが戻ってきたら食事を持ってくるように伝えてくれ」
「……うん」
 イジューはジギルを見送り、彼が角を曲がったあと、同じ方法に歩いていった。

 モーリスは青ざめ、激しく困惑していた。
 どうしてイジューが喋っているのだろう。ジギルの声を聞き、たどたどしいながらもちゃんと受け答えをしていた。
 どうして、どうして、と繰り返しながらも、一つしか考えられない答えを受け入れることができない。
 イジューが魔薬を使って、魔士になっている――?
 どうして。モーリスは何度も何度も繰り返した。
 カームとミランダも、酷いショックを受けている老人に何を言えばいいのか分からなかった。
 モーリスから質問されれば答えることもできるが、彼はただ全身を震わせて立ち尽くしているだけ。
「あ、あの」カームが一歩近づき。「ジギル、部屋に戻るって言ってましたね。呼んできましょうか?」
 声をかけられても、モーリスは目を泳がせるだけで返事をしなかった。
「二人で話したいのでしたら、あなたが部屋に行ってみたらどうですか?」
 カームがそっと肩に手を乗せると、モーリスはビクリと体を揺らして顔を上げた。やっと二人と目を合わせたモーリスだったが、どうしてもまともに頭が働かなかった。
「……いえ」やっと声を絞り出し。「取り乱してしまって、すみません……ジギルには、話したいことがありまして……」
 モーリスは独り言のように言いながら、ふらふらとドアに向かった。
「よ、よかったら、ジギルに伝えてもらえませんか……私の家に、顔を出して欲しいと……」
 カームはモーリスに駆け寄って手を貸そうとする。
「大丈夫ですか? 少し休んでいかれたほうが……」
「い、いいえ。ジギルには私の家に来てくれと言うつもりで来たのです。だから、そう伝えてください」
「分かりました。必ず伝えます。どうか、気を付けて」
「ああ、ありがとう。よろしく、頼みます……」
 力なく歩いていくモーリスを、二人は心配そうに見送った。



 モーリスは額に流れる冷たい汗を、震える手でぬぐった。
(……まさか)
 心の中でさえ呟きたくない言葉だった。
(ジギルのやっていることは、本当に……人類を滅亡に導くものなのだろうか)
 いや、違うと否定する。そう思いたいのに、先ほど見たイジューの姿が脳裏から離れない。
 ジギルが何をしていようと、村人の安全だけは守るものだと信じていた。だから必要以上に口出しをしなかった。
 なのに彼は、村で一番と言っていいほど体も心も弱い少女を化け物に変えていた。
(あの人の言ったことは本当なのだろうか……)眩暈が起きる。(私は一体、何を信じればいい?)
 モーリスは必死で気を強く持ち、ジギルが訪れてくるそのときまでを、じっと待った。





   

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