SHANTiROSE

INNOCENT SIN-74






 レオンは一人、灰色のローブをまとい深くフードを被って歩いていた。
 そこはとある、おそらくつい数時間前までは活気溢れる町だった場所。
 建物や木々も、倒れる人間とそれに似た何かも、すべてが元の形を失っている。くすぶる炎と煙、打ち壊された木や石の残骸、あちこちにこびり付いた毒を含む粘液が激しい戦いの様子を伝えてくる。生きている者はいなかった。魔士と式兵は撤退し、限界まで抵抗した魔法軍は生き残りを連れてここを去ったのだろう。
 酷い有り様だ。
 地面は割れて土や石には黒い茨が絡みついている。この地が再び人が住めるようになるには時間がかかる。それもスカルディアの狙い通りだという話は何度も聞いてきた。
 こんな惨劇が、レオンの知らないところで何度も何度も起きてきたのだ。
 瓦礫に紛れて、いくつかの果物が落ちていた。レオンはそれに近づいて一つのリンゴを手に取った。埃を被っているが傷はなかった。ローブの裾で磨いて、一口、齧る。
 新鮮で瑞々しく、甘かった。
 果物の傍に、人の足先が見えた。大きな柱の下敷きになっていて、おそらく後日に掘り起こされて埋葬されるであろう遺体だった。
 きっとこの戦闘がなければ、今頃この人は果物を食べながら家族と笑いあっていたのかもしれない。
 そんなことを考えても仕方がないと思う。あったかもしれない未来など、ただの妄想に過ぎないのだから。
 レオンはリンゴをその場に返し、上空を仰いで口笛を吹いた。するとどこかに隠れていた巨大な鷲が降りてきた。レオンは再びその背に乗り、空高く上昇した。
 鷲は空を大きく旋回したあと、スピードを上げて真っ直ぐに空気を切り裂いた。レオンは背にしっかり捕まって、向かい風に目をしかめながら地面を見つめている。森を抜けて荒野に出た。乾いた岩の地面が続くその上に、レオンは視界に何かを捕え、それを指さすと鷲は方向を変えた。
 鷲が向かう先には数十人の行列があった。
 人の形をした角を持つ魔士。体の大きさは疎らなその集団には、ケガをしている者や手足を失っている者もいる。
 レオンはこの集団が先ほどの町を襲ったスカルディアの軍だと確信を持ち、列の先頭を少し超えたところで鷲から飛び降りた。鷲はまた遠くへ飛び去っていった。
 スカルディアの魔士は突然目の前に現れた小柄な人物を見て足を止めた。
 先頭にいたのは、魔士の中でも最強の戦闘力を持つジンガロだった。
 レオンは姿勢を正して彼らの前に立ち、じっと魔士を見つめていた。
「何者だ、貴様」
 そう怒鳴るジンガロは数年前よりさらに巨大化していた。角は頭から背、肩や腕にも生え、大きな目、口、牙を持つ姿はもはや人間に似ているとさえ言い難い。
 他の魔士も鎧の類はほとんど身に着けていない。その場の状況に応じて魔薬を投じ、体全体や一部を巨大化したり変形させたりするためだ。彼らにとっては分厚い筋肉と脂肪が鎧なのである。
 恐ろしい――レオンはそう思う。こんな化け物の集団に襲われるなんて、地獄絵図そのものだ。
 表情を変えずに返事もしないレオンに、ジンガロは怪訝な目を向ける。背後の魔士たちも身構え、小柄な少年にさえ対警戒を見せる。
「貴様、魔法使いだな」ジンガロは血のついた剣を抜き。「なんの用だ。さっきの町で殺された者の敵討ちか?」
 それでもレオンは何も言わなかった。ゆっくりと、ジンガロに近づく。
 魔法使いを見た目で判断してはいけない。ジンガロは嫌というほどそれを学んできた。それでも、レオンのような不気味な態度と表情で近づいてくる者を見たことがなかった。
 彼の目的が分からない。ジンガロは片手を上げ、魔士たちに「戦うな」と指示を出した。魔士たちは警戒したまま、腰を引く。
 その様子に、レオンが目尻を揺らす。
「へえ……情報のとおり、よく訓練されているのですね」
 呑気に感心している少年に、ジンガロは苛立ちを覚える。だが平静を欠くことはなかった。
「あなた……」レオンはジンガロを見つめ。「もしかして元トリル族の最強の戦士、ジンガロ、ですか?」
 ジンガロは何かを思い出そうとしていた。
「そうだ。貴様は誰だ。マーベラスの魔法使いか? それにしては地味な恰好だが……俺の知る情報の中には、貴様のような単独行動する魔法使いなどいない」
「そうですか。ちょうどよかった。その役に、不足なし」
 レオンは彼の質問には一切答えない。小さく頷いたあと左手でローブを翻し、右手には、赤い光の円盤のようなものが高速で回転していた。
 しまった、と思うより早く、レオンは地を蹴り、小さな体でジンガロの胸元に飛び込んでいた。
(そうだ、思い出した)
 ジンガロの脳裏にはあのときの記憶が鮮明によ蘇っていた。
 エミーにやられた、あのときの光景が。
(こいつは……)
 あのときと同じだった。エミーに対して抱いた底知れぬ恐怖。そして僅かに遅れてこみ上げる、死に至るほどの激痛。
 ジンガロは赤い魔力の光に胸を切り裂かれ、大量の血飛沫を上げて倒れた。
 魔士たちが悲鳴を上げる。倒れたジンガロに群がり、慌てて魔薬で傷を塞ごうとしていた。
 レオンは踵を返して魔士たちから一歩離れ、変わらず無表情のままでジンガロを見下ろしていた。
「貴様……」魔士の一人がレオンを睨みつけ。「よくも!」
 ジンガロが「やめろ」とさえ言えずにいるうちに、魔士はみるみる巨大化していった。皮膚が紫に変色し、体内を蛇が駆け巡っているかように蠢いている。体の中を毒液で満たし、レオンの上に被さるように襲い掛かってきた。
 レオンは顔色一つ変えずに紫の化け物に向かって片手を伸ばした。レオンの体に触れる直前、彼の手のひらからあふれた白い光を浴びた魔士は、真っ黒な液体となって破裂する。
 黒い液体となった魔士は、元は人であったという形跡さえ失い、地面に広がる染みとなって沈黙した。
 黒い液体の飛沫を浴びた魔士たちは言葉を失った。ジンガロは奥歯を噛みしめ、無念の表情を浮かべる。ジンガロに投与された魔薬は効かず、意識が遠のいていく。
「薬は効きません……が、彼の命はもう少しだけ持ちます」レオンは冷たい声で。「早くここを立ち去りなさい。ああ、もし、この場に命を絶ち切って欲しい者がいるなら、これも何かの縁、その願いを叶えて差し上げます」
 そう優しく言いながら手を差し出す少年に、魔士たちは寒気を感じて震え出した。互いに顔を見合わせながら、ジンガロの指示を待った。
 ジンガロは魔士たちに抱えられながら体を起こし、必死で足を前に出した。これ以上彼には関わらない。それがジンガロの下した判断だった。
 最後まで名前も目的も言わず、静かに命を操った魔法使いの出現に、ジンガロはこの争いの終焉を予感した。



 ジンガロがスカルディアの支部に戻ると、魔法使いたちがすぐにエミーに報せを届けた。まさかあのジンガロが、と、スカルディアは騒然となった。
 エミーは近くにいたらしく、すぐに駆け付けた。そしてジンガロがなす術なく死んでいく様を見届けた。
 ジンガロは出会った魔法使いのことをエミーに伝えた。
 エミーには「彼」がジンガロをすぐ殺さず、少しの時間を与えた意味が分かった。
 少年はエミーへ合図を送っているのだ。
 最強の戦士であるジンガロを瀕死の状態にし、今までにない衝撃を与えて心を乱させようという目的が見て取れた。
 回りくどいようで、分かりやすい。
 エミーはただの肉の塊になったジンガロの胸に手を当て、「彼」の元へ向かった。



*****




 太陽が地平線に隠れ、薄く赤い光を残していた時間にジギルは洛陽線に向かった。
 モーリスの家に着く頃には空は暗い紫に染まっており、人家の窓からはランプの明かりが漏れていた。
 ジギルがドアをノックすると緊張した面持ちのモーリスが彼を室内に迎え入れた。モーリスは早くに妻を亡くし、子供は二人いたが出稼ぎで遠くにいて、ずっと一人暮らしをしている。相変わらず、一人では広すぎる寂しい家だった。
 村人に話しかけられたくなかったジギルは深いフードのついたマントを羽織っており、挨拶もなくそれを脱いだ。モーリスはマントを預かって玄関のコート掛けに掛け、先に奥へ歩いていく彼のあとを追った。
「ジギル、わざわざ来てもらってすまないね」
 そう言うモーリスの笑顔は引きつっていた。
「そこの椅子にかけてくれ。お茶を淹れてくるから」
 言われるままに、ジギルはキッチンとつながっているダイニングのテーブルについた。
「お前がうちに来るのは久しぶりだな」
 キッチンから優しい声をかけるが、やはりジギルは返事をしなかった。前もって準備していたお茶はすぐに出された。モーリスは向かいに腰かけ、懐かしいものを見る目で彼を見つめた。
「……ずっと忙しかったのだろう。ここに来たときくらい、昔のように、自由に羽を伸ばしておくれ」
 ジギルはお茶に手を出さず、話し始めた。
「本当は、イジューも連れてくるつもりだった」
 いきなり本題に入るジギルに、モーリスは息を飲んだ。
「見たんだろ? あいつと俺が話してるところ……そうだよ、イジューは、魔薬を使って、化け物になったんだ」
「……どうして、そんなことに?」
「本人がそうしたいって、俺の知らないところでエミーに頼んだらしい」
 それを聞いて、モーリスは目を見開いた。
「ほ、本当か?」
「何が?」
「お前がイジューに魔薬を使わせたわけじゃないんだな」
「当たり前だろ。エミーには村人には手を出すなとずっと言ってあるんだ。そりゃあ、強い意志と理由があって、命をかけることの意味が分かってるような奴は革命軍に入ってるけど、あのガキがそんな覚悟を持ってるわけがない。いくらお願いされても俺が許可するわけねえよ」
「そうか……」モーリスは今までの息苦しさから解放される。「そうだよな」
「そうだよ。せいぜい耳が聞こえるようになりたいっていう願いくらいはあるんだろうなと思うが……魔薬なんかで叶えても、耳が聞こえないなんて比べものにならないくらいの化け物になっちまうんだ。そもそもスカルディアは病院じゃねえ。誰がそんな奴歓迎するかよ」
「そうだな」モーリスは目を堅く閉じて何度も頷いていた。「そうだ。ジギル、お前が冷静でよかった。お前は、何も変わっていない」
 心の中でよかったと繰り返すモーリスの目頭は震えていた。
「……だからって俺に何の責任もないとは思っていないけどな」
 ジギルはため息をつきながら、気まずそうに目を逸らす。
「とりあえず、村長にも親にもまだ何も言ってないって言ってたから、今日、一緒に来いって言ったんだよ」
「……それで、イジューはどうしたんだ?」
「逃げた」
「え? どうして?」
「今のままだと反対されて連れ戻される。もっと会話が上手になって魔法も使えるようになってからじゃなければ嫌だって言って、泣き出して……探したけど見つからなかったから、ベリルたちに任せて俺だけ出てきた」
 モーリスの胸が締め付けられた。
 イジューはきっと、もっとたくさん話したのだと思う。彼女はジギルの傍にいたいのだ。だからこんな残酷な選択をした。だがジギル自身は少女の恋心なんか理解できない。そのもどかしさが、イジューに無理をさせているのだと思う。
 それでも、このままにはしておけないと思う。
 モーリスはやっとお茶を一口飲み、一息置く。
「ジギル、お前は、どうするつもりなんだ」
「は? どうって?」
「今日は、改めてお前の気持ちを聞きたくてここに呼んだんだ」
 そういえばと、ジギルは思う。モーリスが来たのはイジューと話しているのを見る前だ。彼女のことを聞きたくてここに呼んだわけではないことが伺える。彼が何を知りたいのかは分からないが、聞かれたことには答えるつもりで来た。ジギルもお茶をすする。懐かしい味がした。
「イジューのことも含めて、お前はこのまま魔薬の研究を続けて、一体何を目標にしているんだ」
 ジギルは、一度は考えることを止めたことを、再度考えてみた。
 明確な答えは出ない。当然だった。答えはないというのが、答えだったから。
「誰が何をして未来がどうなるかなんて、分かるわけがないだろう」
「……そんなことは」
 聞いていない、と言おうとしたモーリスを遮り、ジギルは続けた。
「だけど、この世界が作られたものだと知って、自分が何者か……余計に分からなくなった」
「え?」
「この世界はアカシアが過去を書き換えたことでできた『もしも』の世界線だったんだ」
 ジギルは唖然とするモーリスに、カームから聞いたもう一つの歴史を話した。
 モーリスには多少難しい部分もあったが、ジギルが何を言いたいのかは察することができた。
「……ジギル、お前が、世界を滅ぼす大罪人の代理だと、そう思うのか」
「じゃないと、俺のこの能力の説明ができないだろ」
 どこにでもいるただの少年だった。出生も分からず、とくに華があるわけでもなく、ただ勉強が好きだというだけで周囲に頼られ、魔薬と出会い、エミーと出会い、革命に欠かせない存在になった。
「この時代、才能なんかあっても埋もれていく奴のほうが多い。なのに俺は、望んでもいないのに、誰も成し得ない世界を動かすほどの力に加担している」
 人に頼られ、慕われ、「悪」として矢面立つエミーの影で、誰も彼を裁こうとしない。
「……それどころか、イジューは魔薬をいい方に使えるんだと、証明しようとさえした」
 ジギルは疲れたように、ぐったりと肩を落とした。
「それでさ、あのカームって奴、会ったんだろ? あの鬱陶しいおしゃべり野郎」
 モーリスは顔を上げ、カームのことを思い出した。彼に奇妙な点を感じたのは別の世界からきた人物だったからだ。
「あいつが言うんだ。イジューを許してやれって。許すって何なんだよ。イジューは別に悪いことをしたわけじゃないし、俺が何をどうすれば許したことになるってんだ。なあ――」
 ジギルはテーブルに拳を叩きつけ、体を揺らして驚くモーリスを睨みつけた。
「――教えてくれよ。俺は悪人だ。罪人なんだろ? あんな無邪気なガキを許すってどういう意味なんだよ。俺は魔薬を使って人間を化け物に変えるしか能がないんだよ。だけどそれは革命に必要なものなんだ。この力があったから生き甲斐を見つけて、幸せという目標を持って、夢をみながら笑う奴らがたくさんいるんだよ。ただ虫のように土の上で一人で死んで腐っていく奴と、役目を果たして仲間に見守られながら埋葬される奴は一体どっちが人間らしいんだ? だけど、魔士が殺した人間もたくさんいる。そいつらは俺がいなけりゃ死ぬことはなかった。俺の力でどれだけの人間が不幸になって幸せになるのか、そんなことを考えたら頭がおかしくなりそうなんだよ」
 モーリスは数秒息をするのを忘れ、ジギルを見つめたまま固まっていた。
 彼が「教えてくれ」なんて、初めて聞いたからだ。いつも教える立場だった。きっとジギルにも分からないことくらいあるはずだが、誰かに教えを請うなんて考えられないことだった。
 何も変わらないことはない。
 ジギルは変わりつつある。
 きっとそれは、ほんの少しの軌道修正で悪にも善にもなるに違いない。
 そう思っていたのは、モーリスだけではなかった。
「……その話、私も混ぜてくれる?」
 聞き覚えのない声に、ジギルは顔を上げた。
 声の主は静かに、音も立てずにドアの前に立っていた。黒いマントを羽織ったその者は細く、凛とした女性だった。コツコツと靴音を鳴らして二人の座るテーブルに近づく。
「ジギル、初めまして。突然話に割り込んでごめんなさい」
 女性はマントを脱いで開いた椅子を引いて背もたれにかけた。マントの下は白い立派なスーツ姿だった。
 この制服は見たことがある。ジギルは緊張し、一瞬で固まった。
「私はハーロウ・シグナス――マーベラスの魔法使いよ」





   

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