SHANTiROSE

INNOCENT SIN-75






 ジギルは蒼白しながら慌てて立ち上がった。
「どうして……」
 モーリスを見ると、彼は気まずそうに汗を流しているもののそれほど困惑はしていない。ジギルはかっとなってモーリスを怒鳴りつけた。
「おい、どういうことだ! お前、スパイだったのか!」
「ち、違う……!」
 モーリスも咄嗟に大きな声を上げる。
「待って!」ハーロウも大声を出した。「落ち着いて……と言っても驚いて当然よね。聞いて。モーリスさんはスパイなんかじゃないわ。そして私もスパイじゃない。ここにいるあいだは何も傷つけない。絶対に。約束する」
 ジギルは逃げなかったが、不安で体が震えていた。
 無理もない。ただのランドール人なだけならともかく、マーベラスの魔法使いがこんな民家の中で、自分の目の前にいるのだ。スカルディアとマーベラスは殺し合いを始めてもう何年も経っている。お互いに同胞の仇であり、無防備な状態のジギルなど彼女からすればただのひ弱な少年に過ぎないのだから。
「そんな目でみないで」ハーロウはため息をついて。「殺すならもうとっくにやってる」
「……何だと」
「今回はモーリスさんに協力してもらってここに来たけど、その気になれば力尽くでこの村に、何ならスカルディアのアジトに侵入することもできるのよ」
 ジギルは息を飲んだ。ハーロウは彼の心を捕えたことを確かめ、椅子に腰かける。
「目的があなたとの対話だったから、穏便にと思ってこのルートで来たの。あなたは色んなことがうまくいってるから知らないのでしょうけど……私たちは革命軍含めアンミール人をせん滅する程度の力くらいは持っているのよ」
「……脅しに来たのか」
「違う。本当のことを言ってるだけ。でも犠牲を最小限にという陛下の命令に従っているから、あなたたちが攻撃してきたときだけ抗戦してる状態なの。魔法軍は烏合の衆じゃない。上に与えられた力を上からの命令にのみに使用する道具に過ぎないわ。エミーはそれを分かっててうまく利用してる。本音を言うと、とても屈辱」
 ジギルは自分はずっとエミーの影に隠れていたことを思い出す。こうして敵を目の前にしても、何もできない現実を受け入れなければいけない。
「座って」
 ハーロウにほほ笑みかけられ、ジギルは震えながら椅子に腰を下ろした。
「怖がらないで。何もしないと言ってるでしょう。モーリスさんは私を信じてくれたわよ」
 ジギルがモーリスを睨むと、モーリスは気まずそうに俯いた。
「あなたとモーリスさんのことはアンバーから聞いたの」
「アンバーだって?」
「彼にジギルってどういう人か尋ねたの。どうして表に出てこないのかとか、それは納得したわ」
「偉そうに」ジギルは吐き捨て。「あいつに俺の何が分かる」
「そうやって大人を見下す性格も聞いてる。それがあなたの弱点の一つだっていうのもアンバーの見解よ」
 ジギルは悔しそうに下唇を噛む。
「でもそれだけあなたが賢いのも事実。だから表に出てこないのでしょう? 普通の少年なら調子に乗って支配者を気取って、大人に叩き潰されるもの。いくら勉強ができても子供は子供だからね。だけどあなたはそれをしない。我慢してるのではなく、無欲で無邪気だから」
 モーリスは自然と小さく頷いていた。それをハーロウは見逃さず、密かに目を細めた。
「だから村人も革命軍もあなたを信頼して慕っているの。でしょう? モーリスさん」
 モーリスはえっと短い声を上げて目を見開いたが、ジギルの目の前で彼女に同調することはできず再び俯いた。肯定しているも同然の彼の態度に満足し、ハーロウは続ける。
「アンバーは言ったわ。だからこそ対話を望んでもジギルは出てこないと。エミーを出し抜いて敵と密会だなんて、まったく興味も示さない。どうしてなんて考えもしない。ジギルはそういう人。そこでアンバーはモーリスさんのことを教えてくれたの」
 ハーロウは右手の指を鳴らす。すると指先から金の光の粉が舞い、小さな蝶が現れ、室内をふらふら飛びながら、煙のように消えていった。
「私は分身の蝶をこの家に向かわせ、モーリスさんに囁いた――ジギルが人類を滅亡させようとしていることを知っていますか、と」
「はあ?」ジギルは大きな声を上げた。「何言ってんだよ。人類滅亡? 誰がそんなことを……」
 興奮していたジギルは突然はっと息を詰まらせた。
 人類滅亡――確か、カームと話していてそんな言葉が出てきたことを思い出した。
「どうしたの?」
 ハーロウに追及されるが、あんなものはただの仮定に過ぎないとジギルは迷いを振り払った。
「よくそんなガキの空想みたいな嘘が言えるな。それが高等魔法使い様の使う手かよ。バカバカしい」次にモーリスを睨み。「おい、よくもこんな幼稚な話に騙されたもんだな。そんなに俺が信用できねえのか」
 モーリスは首を横に振るだけで、何も言わなかった。ジギルはもどかしさで奥歯を噛みしめる。
 ハーロウは彼の態度を見て、いくつかの確信を得た。
「やっぱり、あなたは何も知らないのね。でも、もしかしてと頭を過ぎったことくらいはあるのかしら……アンバーの言うとおり、あえて真実から目を逸らして、何も知らないまま、影に身を潜めている」
 ジギルは苛立ちが募る。腹の中に重い鉛がうねっているような感覚を覚えたとき、ハーロウがテーブルを叩いた。
「賢くて幼い――大人というものは自分の行動に責任を持つことよ。あなたは自分のしたことの責任を取らずに済むように、好奇心を殺して肝心なことを知ろうとしない、賢い子供。エミーもそれを分かって利用してる。あなたは利用されていることも知っていて、知らないふりをしてきたのね」
 ハーロウの声は優しかったが、ジギルに向ける目線は鋭かった。
 ジギルは心の中まで見透かされてしまいそうな視線から逃げたかった。しかし見えない刃に刺されたかのように体が動かなかった。魔法、ではない。彼女の言うとおりだったから。今までエミーの本心を聞かずにいたのは、自分に責任が課せられるのが怖かったからだ。
「お、俺は……」ジギルはハーロウから目を離せず、震える声を出した。「ただ勉強や研究をしていただけ。その結果なんて、周囲が望んだことを叶えたに過ぎない。聞かれたことに答え、頼まれたものを作った」
「ええ、そうね。あなたがが生み出したものを他人がどう使うかなんて、あなたは知らない。だから責任はないわ。でもどうして? 責任が取れないなら取らなければいいじゃない。どうして責任から逃げようとしているの?」
「はあ……?」
「いっそ悪人になってしまえば楽だと思うの。罪人になるより、罪を犯さないように常に自らを戒め続ける聖人でいるほうがずっと大変。そう思わない?」
「俺は自分を戒めたことは一度もない。聖人にも悪人にもなろうと思ったこともない。だけど、客観的に見て悪人だと思っている」
「どうして?」
「人間の心理の根底に共通する感覚がそうだからだ。薬で化け物になって、命を削って敵を殺す武器になる。そんなものを正しいと思う奴が、今の世の中にいるわけがない」
「今の世の中? 革命で世界が変わったらあなたのしたことは正義になり得るの? あなたは善人になりたくて革命を起こしているの?」
「善も悪もねえよ。俺は自分のしたいことをやっている。それを人間が勝手にいいか悪いか判断しようとしているだけだ」
「あなただって人間でしょう? どちらか判断しようとは思わないの?」
「思わねえな。俺はどっちでもいいんだ。悪だから断罪するも、善だから称賛するも、他の奴らで勝手にやればいい」
 ハーロウはふうんと呟き、ゆっくりとした瞬きをする。するとハーロウから厳しい眼光は消えていた。
「それより、さっき話してたことを聞かせてくれる?」
「さっきって、なんだよ」
「イジューって子? 女の子なの? 耳が聞こえない子が、魔薬を使って、どうなったの?」
 ジギルは眉間に皺を寄せ、顔を背けた。
「あの、それについては」モーリスが恐る恐る口を開いた。「私にお話させてください」
「お前は余計なこと言うな!」
「よ、余計なことは言わないよ」モーリスは罪悪感でいっぱいで、すっかり暗い表情になっている。「ジギル、先に謝らせてくれ……騙したようになってしまってすまない。私はこの方に、魔薬で人類滅亡することをジギルは知っているのかと尋ねられ、何も答えられなかったんだ。革命が成功しても失敗しても、本当にお前が後悔しないのかどうか、改めて知りたかった」
「……だったら、あんただけで聞けばよかったじゃねえか」
「それじゃ今までと変わらないだろう。このまま時間が流れて、もし取り返しのつかないことになったとき、お前がそれでいいなら私も後悔はしない……だが、お前は何も知らないんだろう?」
 ジギルは舌打ちし、再度テーブルを叩く。
「だから、人類滅亡って何なんだよ。なんで俺が無差別に人間を皆殺しにする凶悪な悪魔みたいに言われてるんだよ」
「ちょっと待って」ハーロウが高い声を上げ。「その話を先にしたほうがいいかしら?」
「ふん、ただの脅しだろ?」
「脅しじゃないって。じゃあいいわ。話してあげる。今から話すことはマーベラスの中でも一部の者しか知らないことよ。まず、人類滅亡ね。これはレオン様が見た未来予知よ」
「未来予知?」ジギルは鼻で笑い。「なんだよ、ただの占いか。そんなものでマーベラス様が直々にこんな田舎に出向いたってわけか」
「口を慎みなさい。レオン様は世界最高の魔法使いなのよ」
「そのレオン様はただのお飾りなんだろうが」
「つい最近まではね。それは否定しない。でもレオン様はもう私たちの手には負えないほど秘めていた力を覚醒されたのよ」
「なんだって……?」
「私たちも陛下の予知夢を映像化したものを見せてもらったわ。それはずっと先の未来だけど、悍ましいものだった。世界は見たことのない植物に支配され、人間は退化し、植物の餌として、裸で地面を這って繁殖を繰り返すだけの生き物となっていたの」
 ジギルは背中が冷えていくのを感じる。モーリスも怯えて目を見開き、体を竦ませていた。
「私の見たものをここで再現して、あなたたちにも見せることはできるけど、やめておくわ。普通の精神では耐えられないほど恐ろしいものだから」
「……魔薬のせいで、この世界はそんなふうになってしまうということか?」
「私たちは信じてる。レオン様の力だもの。あなたはどう?」
「急にそんなこと言われて信じられるか。それより……レオンはどうするつもりなんだ」
「さあ。今は行方不明なのよ」
「は?」
「詳しくは分からない。突然、何の説明もなく一人で出て行ってしまわれたの。これはほんの少し前の出来事。マーベラスの魔法使いはみんな狼狽しているわ」
「何だよそれ……」
 ジギルは自分の知らないところで一気に事が動いているのだと察した。
 何もせずに、なるがままに身を任せていてはいけない。
 そんなことを、初めて思った。
「ジギル、あなたにだから話したのよ。私が独断でここに来たこと自体がマーベラスの魔法使いとしてあり得ない行動なの。同胞が危険に晒されるかもしれないほどのことよ。だから、あなたにも話して欲しい」
 ジギルは俯き、頭の中にたくさんの情報を並べて考えた。瞬きもせずに一点に集中しており、ときおりブツブツと呟いている。
 ハーロウは異常なまでに無防備な状態になっているジギルの変化に気づき、何も言わずに待った。
(……レオンが突然覚醒したのは別世界との接触が原因なのか?)
 ハーロウがここに来たのも、エミーが姿を消したのも、カームたちの存在が明確になってからだ。
 マーベラス側にはクライセンのドッペルゲンガーが現れ、レオンは彼から別世界の話を聞いた。
(俺の仮定が当たってるとしたら、マルシオが消したはずの人類滅亡の予見を、代わりにレオンが見たということなのか?)
 やはり世界は生きている。
 消した過去の一部が歪みを作り、その小さな傷を修復しようと空間が無意識に動いているのだ。
「……人類滅亡の予見を見たイラバロスはザインと共に滅びの道を選んだ。だからもう一つの世界は違う形で進化を遂げた」
 ジギルは自然と声に出していた。
「だけどそれは魔法戦争が終わる前だ。レオンが見たとしても、戦争も終わって、今の完璧と言われる世界ができてから。それじゃ、手遅れなんだ」
 ハーロウは耳を澄ませて彼の独り言を聞き取っていた。
「……それでもノーラという人間が生まれ、結局は世界を破壊される危機に陥った。なぜだ? 人類滅亡の危機は大いなる犠牲によって避けられたはずなのに」
 ジギルはゆっくりと背を丸め、深く、自分だけの世界に沈み込んでいく。
「ノーラを生んだのが、魔法王クライセンだからだ。クライセンは生き残った、たった一人の純血の魔法使いとして神になった。その強い光が生んだ影がノーラだった……ザインたちは知っていたんだ。未来に違う形の危機が訪れても、クライセンという希望が残っていることを。彼らが自ら死を選んだのには、他にも理由があったということか……」
 生まれてくるはずだった大罪人ノーラの役目はなくなり、ジギルが変わりに生まれた。だから自分も同じ道を辿るのかもしれないと考えた。
「クライセンの代わりがレオンじゃないのか? 俺はノーラの代わりだ。それでバランスが取れる。そうじゃないのか?」
 ザインとイラバロスがどうしても避けたかった未来とは?
 ジギルははっと顔を上げ、黙って見守っていたハーロウに目線を向けた。
「なあ……」
「なに?」
「魔法大国の高等魔法使いであるあんたに聞きたい。もし、未来に、人類を滅亡させるほどの罪を背負ったランドールの魔法使いが生まれるという予見を見たら、お前たちはどうする?」
 ハーロウは眉をひそめた。考えたくもない不名誉なことだ。ジギルの発言は、ただのたとえ話だったとしても普通なら制裁を与えなければいけないほどの不敬。しかし、もうそんな時代はとっくに終わったのだ。今は身分を捨て、怒りを鎮める。
「……そうならないように、できる限りの手を尽くすわ」
「どうしても避けられないとしたら?」
「どうしても避けられないって、どういう状況?」
「例えば、そいつが、既に身ごもっている王の子、だとしたら……」
 ハーロウの顔色が変わった。





   

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