SHANTiROSE

INNOCENT SIN-76






 ハーロウの全身が不穏な空気に包まれた。
 それほど大きく表情が変わったわけではないのに、優しく凛々しい美女から恐ろしい悪鬼に入れ替わったのかと思うほどの殺気があふれ出している。
 魔力を持たないジギルとモーリスにもその禍々しいもので血の気が引いていくほどだった。
「お、おい……」ジギルは危険を感じ。「どうしたんだよ」
 ハーロウは奥歯を噛んで目を強く閉じた。
「……レオン様はね、私たちランドール人にとって、傍にお仕えする私たちマーベラスにはとくに、唯一無二の、汚れなき、輝かしい珠玉の光のようなものなの……あなたには分からないだろうけど、あのお方を侮辱されることは、這いつくばって泥を舐めさせられるよりも、許し難いほどの、屈辱なのよ……」
 ジギルはあの時のことを思い出した。エミーに襲われて豹変したアンバーのことを。
 まずい。今ここで彼女に暴れられたら自分たちは当然、村人もどれだけ巻き込まれるか分からない。
「おいこら!」ジギルは慌てて大声を上げる。「別に俺はレオンを侮辱したつもりはないぞ。もしもの話をしただけだろうが」
「……分かってる」ハーロウは両手で自分の肩を掴んで項垂れた。「誰も傷つけないと、約束したものね。大丈夫。気持ちを静めるから、少しだけ待って……」
 さすがのジギルも焦りを隠せない。ここにはエミーどころか、魔士さえいないのだ。いつもの調子で憎まれ口を叩いてはいけないことは理解した。
「た、頼むから、落ち着いてくれよ……」
 ハーロウは怒りで紅潮した顔を隠すように、片手を目元に当てて呼吸を整えていた。
 マーベラスの魔法使いの闘争心の凄まじさに、モーリスは気を失いそうになるほど怯えていた。何もされていないのに、近くにいるだけで震えあがり、戦うどころか逃げる気力さえ無くなるほどのものだった。今まではハーロウを間近で見ても上品な女性にしか見えずすっかり気を許していたが、モーリスもジギルと同じく、あのときのアンバーから受けた衝撃を思い出さずにはいられなかった。今になって、ハーロウを安易に村に招き入れジギルと引き合わせたことを後悔する。
 それにしてもとジギルは思う。ランドール人のレオンへの信仰心の高さは理解できない。この価値感の違いが民族間の争いを起こしているのだと思う。
「……話せる状態じゃないなら」ジギルは様子を伺いながら。「もう出て行ってくれ。お前が村を破壊しても何の解決にもならないだろう」
「……ええ、そうね」
「俺を殺しても同じことだからな。そんなことをしても今更エミーは動じない。だが俺を殺して気が済むならそうすればいい。ただし、暴れるのだけは勘弁してくれ」
 ハーロウは眉間に深い皺を寄せてジギルを睨みつけた。ジギルの心臓がぎゅっと掴みあげられたように強く脈を打った。
「人を野蛮人みたいに言わないで……お願いだから、少し黙って」
 ジギルはモーリスを連れて逃げようかと考える。先に行動を起こしたのはモーリスだった。真っ青な顔でそっと椅子から降りてテーブルを離れる。ジギルがそれでいいと思っていると、彼はキッチンのほうに向かい、カチャカチャと音を立ててお茶を淹れ始めた。ジギルはハーロウの様子を伺いながら彼の後を追う。
「おい、何やってんだよ。あんたはもういいから逃げろ」
「……私としたことが、お客様にお茶を出すのを忘れていたよ」
「そんなことしてる場合か。お前でもやばい状況だってくらい分かるだろ」
 モーリスの手は目に見えるほど震えていた。額には汗がにじみ出している。
「ジギルだけを残して、逃げるわけにはいかないよ」
「お前がいたって何も変わらねえだろ。俺が話すから、とにかくここから離れろ」
 モーリスは頷かず、お茶を淹れ続けた。戸棚からカラフルな砂糖菓子を出し、皿に移して一息つく。そしてジギルの横を素通りしてハーロウの元に戻った。
 ハーロウは頭を抱えて俯いていた。そんな彼女の前に、モーリスはそっとお茶と菓子を置く。
「……あの、お茶を、どうぞ」
 震える声に、ハーロウは目元を陰らせたまま顔を上げた。
「このお菓子は、私の祖父母の代からいつも家にあったものです。この村の子供はみんなこれを食べて育ってきました」
 ジギルはモーリスの態度に言葉を失っていた。怒りを堪えている「人間爆弾」を前に何の話をしているんだと呆気に取られるしかなかった。
「伝統的なお菓子、というには程遠く、とても質素で手軽なものです。しかし、これを嫌いと言う人に、私は会ったことがありません。甘いものが苦手な大人も、疲れたときに口にすると気持ちが落ち着くと言ってくれ、自然と村全体に広まりました」
 ハーロウは肩を揺らしてゆっくりと呼吸をしていた。モーリスは構わずに続けた。
「きっと、あなたのお口にも合うのではないかと思います……同じ、人間ですから」
 ハーロウは俯いたまま奥歯を鳴らした。彼女は、ゆっくりと菓子に手を伸ばしたし、一つつまんで口に入れ、舌でそれを溶かす。
「……あまり、おいしいものではないわね」
 ジギルは息を飲んだ。こんな粗末なものを食べさせて、更に屈辱を与えてしまったのではないかと怯える。
「でも……確かに、少し落ち着いたわ」
 一つ深呼吸をしたハーロウから激しい怒りは消えていた。取り乱したことを恥ずかしく思うように、自分の頬を撫で、髪を整える。
 モーリスはほっとして再び席に着く。
「よかった。ああ、お茶もどうぞ」
「……ありがとう」
 ジギルは目を丸くして驚いていた。まるで猛獣の懐柔を目の前で見たような気分だった。
「信じられない」ハーロウは目線を落とし。「何もかも……」
 ジギルも椅子に腰かけ、緊張したままハーロウを見つめていた。だが彼女はそれ以上口を開こうとしない。沈黙の時間は短かったが、ジギルには長く感じた。



*****




 そこは何もない大地の広がる場所だった。
 岩がむき出しで乾燥しており、花も咲かない寂しい空間。
 レオンには居心地がよかった。視界を遮るものがほとんどなく、空気が澄み星がよく見える。風遠しもよく、頬を撫でる冷たいものが心を洗ってくれるようだった。
 レオンは切り立った大きな岩の上に立っていた。
 空には大きな月が煌々と銀の光を放ち、足元にある影はまるで昼間のように濃い。月の光を浴びながら目を閉じていると、足音が聞こえた。
 黒い帽子を被った刺々しい女性――エミーはレオンの背後に現れた。レオンは目を開け、ゆっくりと振り返って彼女に向き合った。
 広く開放されたその地に、二人の魔法使いが対峙した。
 
「レオン・シルオーラ……とうとう覚醒したか」
 エミーは口の端を上げてレオンを睨みつけた。レオンは夜風に黒髪を靡かせ、青い目の奥に強い光を宿していた。
「ジンガロは死んだよ……よくもやってくれたね。あいつは革命軍で最強の戦士だった。魔薬も効かない魔法に、誰もが怯えていた」
 エミーは一瞬だけ目線を外し、僅かに無念の表情を浮かべた。
「これがあんたの宣戦布告か。私がやったことよりずっと乱暴で野蛮だね。まったく、皇帝陛下のやることかね」
「……宣戦布告だなんて、そんな大それたものではありませんよ」
 レオンの細い声は風に乗って、エミーの耳にはっきりと届いた。
「それに、私はもう皇帝ではありませんので」
「なんだって?」
「辞めたんです。だから今の私はただの魔法使いです」
 エミーは呆れたように息を吐いた。
「なんだそりゃ。反抗期かい?」
 レオンは口の端を上げ、目を細めた。
「そうかもしれません」
「さすが、英雄の息子の反抗期は規模がでかいね。大人たちは相当困っているんじゃないかい」
「でしょうね。でも、今の私は自分のことしか考えられないので、仕方ありません」
 エミーは肩を揺らして笑う。
「いいね。分かりやすい反抗期だ。それで、お前は何に不満を持っているんだ?」
「確かめたいことがあります」
「何?」
「ジギルは、悪人ですか?」
 エミーは笑うのをやめ、じっと彼の青い目を見つめ返した。
「教えてください」
 レオンが何を知りたいのか、エミーには分かった。
 とうとう、終わりが始まる。
 こつこつと作り続けてきた革命の扉が開く。
 エミーは心を鎮めて、答えた。
「違うよ」
「では、善人ですか?」
「それも違う」
「では……私は悪人ですか?」
 エミーは口の端を上げた。
「どうしてそう思う?」
「ここに来る前、殺し合いのあった町を見てきました。たくさんの人が死んでいました。あんなに凄惨な状況を実際に見たのは、当然、初めてでした……でも、私は怖いとも思わず、涙の一つも出てこなかったのです」
「だから自分が残酷な人間だとでも思ったのかい? 今まで温室育ちだったせいでまだ現実だと理解できてないだけかもしれないよ」
「では、私はこの手で二人の魔士を殺しました。それもまた、なんの恐怖も感情も抱きませんでした」
「美しいものにだけ囲まれて育ったあんたには、醜い魔士が人間に見えなかったんじゃないのか」
 エミーが茶化しているのは見て取れた。それでもレオンは真剣に尋ねる。
「では、私は善人なのですか?」
 するとエミーは大きく口を開けて笑った。
「善人が顔色一つ変えずに自分より巨大な化け物を殺せるわけがないだろう」
 レオンはやっと表情を崩す。目尻を揺らし、唇を噛んだ。
「まともな神経持った奴なら少しくらいはためらうだろうよ。あんな化け物でも、お前と同じ人間なんだからな」
「だったら、私は悪人なのですね」
「知るか。そんなもの、自分で決めな」
「もし、私が悪人だったら……誰がこの世界を救うのでしょう」
「さあねえ。そもそも、世界を救う必要があるのかい?」
「必要があるかないかは問題ではありません。世界は常に目に見えない力でバランスを取っています。善人がいるだけ悪人もいます。光あるところに必ず影があるように。そして今、人類は滅亡の危機に陥っているのだから、自然とこの流れを断ち切らなければいけないと考える者がいるはずなのです」
「あんたはそう考えないのか?」
「考えたとしても、その役目は自分ではないような気がしています」
「だから皇帝を辞めたってわけか」
「そうです。英雄の血を受け継ぐ私が世界を救えないのなら、他の誰かがその役目を担っています……私はそれが誰なのか、知りたい」
 エミーは笑うのをやめ、ふうん、と呟いた。
 そんな彼女に、レオンは冷たい目線を向けた。
「……エミー、あなたは、ご存知なのではないのですか?」
 エミーは一呼吸置き、彼に負けない鋭い眼力で睨み返す。
「ああ、知ってるよ」
「教えてもらえますか?」
「分かってるんだろ? ――ジギルだよ」
 レオンは初めて困惑の色を見せた。目を泳がせ、震え出す手を強く握った。
 エミーは再び微笑む。
「だから私はジギルの邪魔しているんだ」
「……何を?」
「あいつが世界の救世主になることを」
「…………!」
「私はジギルを救世主になんかさせるつもりはない。ジギルが持つ『運命』のエネルギーは計り知れない。なのに本人はそれに気づきもせずに、自分の中にある純粋な正義感を押し殺し、悪人にも善人にもなれず道のないところを歩き続けて本来の姿を見失っている。そんな行き場のないジギルの力を利用してきたから私はここまで成功してきたんだ」
 エミーはこうべを垂れていくレオンに話を続けた。
「そうそう、変な奴らと出会ったよ。別の歴史を歩んだ世界線から迷いんできたんだと。知っているだろう?」
 クライセンのドッペルゲンガーのことだ。クライセンと一緒に二人の魔法使いもいて、彼らはスカルディアに捕まったと言っていた。きっと彼らに話を聞いたのだと思う。
「もう一つの世界では人間の曲がった感情が歪みを作り出し、それが天使の王にまで影響を与えたらしいね。ではこの世界の歪みとは、何だと思う?」
 レオンは顔を上げて、星の声に耳を澄ました。
 もう答えは分かっている。だけど口に出すことをレオンは恐れた。
 代わりに、エミーが答える。
「人類を滅ぼす力を持って生まれた罪の赤子を持ち上げ、邪悪な帝国を作り上げたことに気づかない人間の愚かさだよ」
 レオンは目を見開く。
 認めたくなかった。
 星がそうだと呟いても、何かの間違いだと思っていたかった。

 アカシアがザインとイラバロスから消した記録は――ザインの子・レオンが世界を滅ぼす運命を背負って生まれてくるという予見だったのだ。

 彼らはその先の、人類は退化し魔薬が大地を支配する恐ろしい未来も見た。
 ザインの息子がそうなるように世界を導くという暗示も。
 だから真実を隠し、人類の未来を守るために、クライセンという救世主にすべてを託して、彼らは自ら滅びの道を選んだのだ。

「……私が、世界を滅ぼす?」
 レオンは自分の手のひらを見つめた。
「誰も止めてはくれないのですか?」
 絶望に包まれ哀れに見える少年に、エミーは容赦なく現実を突きつける。
「世界トップクラスの魔法使い様たちは、全部、あんたの言いなりだ。もしあんたが世界を滅ぼすと言えば、奴らはその大儀に従うだけ」
「じゃあ……ジギルは?」
 レオンは縋るように希望を探した。
「ジギルなら、私を止めてくれるのではないですか? 彼は救世主なのでしょう?」
「できるかもね。でも残念ながら……ジギルは、私が潰す」
「え……? ジギルを? 殺すつもりなのですか?」
「まさか。ジギルはいい子だ。私にも情くらいある。この手で殺すなんて、いくら私でもそんな酷いことはできないよ」
「でも、今、潰すと……」
「まあね。ちょっと可哀想だけど、邪魔させてもらう。あいつに救世主になってもらったら困るんだ。革命が失敗するからね。だからジギルにはあんたを救うことはできないよ」
「……革命? 革命とは何なのですか? 何のために革命を起こすのですか?」
「私は信じてるんだよ。魔薬は神だと」
「神? 言語も解さない植物が?」
「そうだよ。言語を解さないからこそだ。言葉こそが、今の世界を支配している神だ。言葉があるから人間は残酷になる。だから奪ってやるんだよ。そうすれば世界は本当の平穏を手に入れる。それが神託だ」
「そんな……」
「それが私の信じる神だよ」エミーは不適に笑い。「理解できないなら、あんたはあんたの信じる神を見つけることだね。なんだっていい。信じて戦い、勝ち取ればそれが神になるんだ」

 星が囁く。
 地上での争いは神の代理戦争だと。

 花が語る。
 人間の掲げる正義は罪悪であると。





   

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