SHANTiROSEINNOCENT SIN-77ハーロウは出されたお茶を飲んだあと、大きく深呼吸をしていた。 落ち着こうという気持ちは汲み取れる。ジギルとモーリスは大人しく椅子に座って彼女から目線を外してじっとしていた。 重い沈黙の時間はそれほど長くなかった。ハーロウはもう一つ大きく息を吐いて二人に向き合った。 「驚かせてごめんなさい」前髪をかき上げながら。「もう大丈夫よ――そうだわ。さっきの話の続きだけど、イジューって子の話を聞かせてくれる?」 ジギルとモーリスは同時に彼女に顔を向け、固まっていた背筋を丸めた。 「ねえ、その子は、ジギルの恋人なの?」 真面目な顔で言われ、ジギルは一瞬意味が分からなかった。ジギルの顔が赤くなるより前に、モーリスの顔が青ざめていった。そんな二人の表情にハーロウは首を傾げていた。 ジギルが怒る前にと、モーリスが慌てて口を開いた。 「い、いえ!」勢い余って声が裏返ってしまったモーリスは一つ咳払いをして続ける。「いえ、イジューはまだ小さな女の子でして……彼女はジギルに憧れの気持ちを持っているようですが、決してそれ以上の関係ではございません」 怒鳴るタイミングを逃したジギルは体を震わせて唇を噛む。 二人の反応が理解できないハーロウは「そう」と呟いて目を伏せた。 「そんな小さな子が魔薬を、ね……」 彼女のその言葉は重く二人に圧し掛かった。 「どうするつもりなの? その子を私たちと戦わせるの?」 ジギルは眉間に皺を寄せてハーロウを睨みつけた。 「……はあ?」 「私たちは子供だろうが遠慮はしないわよ」 「なんだよ、挑発してんのか?」 「挑発じゃない。事実よ。相手にどんな事情があろうと私たちには関係ないもの。殺さないと殺される。小さな子供でも刃物を向けられたなら、私たちはその子を全力で排除する。完全に息の根を止めるまで。それが私たちの仕事だからね。あなたたちも同じでしょう?」 「同じだって? 一緒にするな。俺は子供が相手なら少しは戸惑うさ。それが普通の人間の感覚だ。お前らは異常なんだよ」 「へえ。じゃあ小さな子を化け物にして、私たちに同情を求めるのが目的だったの? でも残念。当てが外れたわね。私たちは異常だから情けなんかかけないわ。その子は無駄死にする。ご愁傷様」 「ふざけんな!」 ジギルは立ち上がってテーブルを叩いた。モーリスは涙目になり、ハーロウは驚きもせず冷たい目でジギルを見つめていた。 「どうして怒るの? あなたは仲間を化け物に変えて命を懸けて戦わせる悪人。私は陛下を守るという大義の元、女子供にも同情せず残酷になれる異常者なんでしょう? 間違ってる?」 「勝手なことを言うな! イジューは戦うために魔薬を使ったんじゃない。魔薬は魔法の薬だ、化け物になるだけじゃなくて、病気や怪我を治す力もあるはずだ、人を幸せにする力があるはずだと信じていたんだ。それを自身で証明したかっただけだ!」 「……ふうん。いい子なのね」 「何がいい子だ! お前らにイジューの何が分かる! 何も知らない、正義も大儀もない、誰に強制されることもなく、世界中が殺し合っている中、一人で違う道を見出したんだ。お前ら魔法使い様の中に、一人でもそんな奴がいるのか?」 「……思ったとしても、口に出して行動する者はいないでしょうね」 「そうだな、お前たちには魔法がある。だけど俺たちにはない。だから魔薬を使った。今は攻撃するための力だが、本来、薬というものは苦しみを和らげるものじゃないのかと、イジューは自らを実験台にしたんだ」 「それで、証明されたの?」 「な……」 「だから、魔薬でその子は幸せになれたの?」 「それは……」 ジギルは言葉を失い、項垂れ、椅子に腰を落とした。 感情が昂って目頭が熱くなったモーリスは声を押し殺して嗚咽を飲み込んだ。あまりにも残酷な現実だった。イジューはジギルを救いたくて自らを犠牲にした。ジギルは彼女の気持ちを理解し、本当のことを言えず、何もできず苦しんでいる。あまりにも、二人が可哀想だった。 「……なあ」ジギルは顔を伏せたまま、震える声を出した。「もし、イジューを、助けたら、俺は、どうなると思う……?」 ハーロウはジギルの変化を素早く察知する。モーリスも彼が何を言い出しているのかすぐには分からなかったが、自然と目を見開いていた。 「……善人とか、悪人とか、本当にどうでもいい。もし、俺が魔薬を無効化させることができたとして、そんなものを世に出したら……この革命は一体、どうなるんだよ」 モーリスは瞬きするのを忘れるほど驚き、全身から汗が滲み出した。 ハーロウはすぐに答えず、肩を揺らすジギルを見つめていた。 そして、悲しそうに、目線を落とした。 「……やっぱり、そうなのね」 ジギルは涙を堪え切れず、完全にテーブルにつっぷして顔を隠した。 ジギルは完全に道を見失っていた。今まで何の責任もなく自由だった。何をしても成功してきた。しかしイジューのことだけは何もしないわけにはいかなかった。 なまじ彼女を元に戻す手段があるせいで、救いの手を差し伸べるか見殺しにするか、必ずどちらかを選ばなければいけないからだった。 このまま革命を進めるのか、エミーや今までの犠牲者を裏切って魔薬の価値を変えていく道を選ぶのか、どちらが自分のやるべきことなのか――ジギルにはどちらの選択も、あまりに重くて選ぶことができずにいる。 苦しかった。ずっと誰にも言えなかった。 ジギルは見て見ぬふりをしてきた行き止まりに初めて向き合い、怖くて怖くて立ち竦んでしまっていたのだった。 強がってきた少年の泣き崩れる姿は酷く物悲しかった。 モーリスも静かに涙を流し、黙って頬を濡らしている。 ハーロウもいっそ泣いてしまいたかった。 まさかという予感を抱いていた。ジギルが本当に悪人ならそれでいい。今までどおりに敵として戦うだけ。 しかし、彼は悪人ではなかった。 「つまり……」ハーロウの声も僅かに震えていた。「ジギル、あなたが……この世界を救う力を持っているということなのね」 ジギルはピクリと指先を揺らすだけで顔は上げなかった。 「さっきのあなたの話を聞いたあと、自然と一つの仮説に導かれた。この世界で最高位の魔法使いであるレオン様がそうではないのなら……あなたしかいないと」 モーリスは濡れた顔を手で拭いながら何度も瞬きを繰り返していた。 「泣きたいのはこっちだわ」ハーロウは目尻を揺らし。「それでも、私たちの意志は変わらない。変えることはできない。レオン様が何者であっても、私たちはあのお方を敬愛してやまない。そういうふうに心ができているの」 「……なんだよ」ジギルは袖で顔を擦りながら。「ほんとに勝手な奴らだな。人類を滅ぼす悪魔の守護を、大した理由もねえのに偉そうに正当化かよ」 「それが信仰心というものよ」ハーロウは拳をテーブルに叩きつけ。「でもあなたは違う! あなたは自由よ。何者にも支配されていない。自分の思うままに行動できる!」 ハーロウは身を乗り出し、両手で無理やりジギルの顔を持ち上げた。 「そうでしょう? ねえ、一度でいい。一度、突っ張るのをやめてみない? 私たちは変われないけど、あなたは変われるの」 ハーロウは真っ直ぐな瞳を向け、ジギルの心を開こうと、堅く閉じられた扉に手をかけた。 「ねえ……お願い。今だけでいい。素直になってみて……あなたの本心を聞かせてよ」 ジギルは、強い魔力の篭ったハーロウの目に囚われて逃げることができなかった。 「本当は、イジューを助けたいんでしょう? 本当は、人の悩みを解決してあげるのが好きなんでしょう? 本当は、みんなにありがとうって言われるのが、嬉しいんでしょう?」 ジギルの心拍数が上がっていく。これ以上ハーロウの目に見つめられていたくないのに、逃げることができない。 「いいとか悪いとかどうでもいいし、理屈も理由もいらない。ねえ、一度だけでいいから、わがままを言ってみなさいよ」 「……や、やめろ」 「子供らしく、身勝手に、自分の都合のいいように、周りに迷惑をかけて、嫌われても、軽蔑されてもいいじゃない。みんなそうしてきたの。だけど何とかなるものなのよ。それでも許してくれる人もいるし、慕ってくれる人もいる。人間って、みんな違うの。同じ人は二人といないから。あなたがどんなに最悪な行動を起こしても、絶対にあなたを見捨てない人がいる。だから怖がらないで。完璧である必要はない。世界なんか、救わなくてもいいから……」 「……やめろ!」 ジギルはハーロウの手を振り払い、再び頭を抱えて俯いた。 ***** もうすぐ朝日が空の色をゆっくりと染めていく頃、クライセンは客室の窓際で一人、暗い空を眺めていた。 城内は緊張した空気に包まれたまま一日が終わり、誰も心休まることのない時間を過ごしていた。 そんな中、クライセンはこれ以上周囲に刺激を与えるのは得策ではないと思い、室内でじっとしていた。仮に自分のせいでレオンに何かあったとしても、なるようにしかならないと開き直っていた。 誰もがレオンの安否を心配している中、彼は客室のテラスに姿を現した。 クライセンが鳥の羽音に気づいて目線を向けたとき、既にレオンは窓を開けて室内に入ってきていた。 レオンは驚いているクライセンを横目に、疲れた様子でソファに腰かけた。 全身から重苦しい空気を醸し出すレオンに、クライセンは嫌々声をかけながら向かいのソファに座る。 「……おかえり」 「ただいま、戻りました」 レオンは素知らぬ顔でテーブルに置いてあったチョコを口に入れた。 「皇帝を辞めたと聞いたが」 「はい」 「どうして戻ってきたんだ?」 「自分の家に帰ってきただけです」 「ああ、それもそうだな……で、どうしてこの部屋に来た?」 「ラムウェンドたちのところに行けば説教されると思ったので」 「それはそうだろうけど、代わりに私が酷く怒られたんだが」 「なぜ?」 「私が君に余計なことを言って、純粋な少年の心をかき乱したんだと」 「実際そうでしょう。あなたがここに来たから私たちは知る必要のない真実を知ったのですから」 「それは批難されることなのか?」 「私はそうは思いませんが、私が謝ればいいですか? もう皇帝でもなんでもないですけど」 クライセンは大きなため息をついた。 「……分かったよ」脱力したように肩を落とし。「話したいことがあるなら付き合うよ。どこに行ってたんだ」 「エミーに会ってきました」 「そう……」 「この世界はもうダメです。エミーの革命は止められないし、頼みのジギルは潰されるそうです」 「うん」 「あなたの世界で父とイラバロスが自ら滅びの道を選んだのは、私が人類滅亡へ導く運命を背負っていたからなんです。つまりあなたの世界のほうがやはり正解だったということ。私は、生まれてきてはいけない人間だったのです」 「ちょ……ちょっと待った」クライセンは額に片手を当て。「長い話は好きじゃないが、ちょっと端的すぎるんじゃないかな」 「詳しく話せば、あなたがこの世界を救ってくれるんですか?」 「どうしてそうなるんだよ」 「父はあなたという希望の光を見出していたから一族を犠牲にできたんです。私が生まれてしまうと、ランドールの魔法使いが悪魔となる。しかし私さえいなければ、一族は滅んでもランドールの魔法使いが世界を救う英雄となる。だからあなたにすべてを託したのです。しかしアカシアの悪戯で予見の力を封じられた私たちランドール人は人類滅亡の道を進むしかなかった。そんな世界に、またアカシアの悪戯であなたという希望の光が迷い込んだ。あなたならこの世界をも救えるのではないでしょうか」 レオンの投げやりな話を聞きながら、クライセンは静かに苛立ちを抱いた。だが目の前にいるのは反抗期の少年。同じ目線で話をしても聞きはしないと思う。 「できるかもね。でも、私はしないよ」 「どうしてですか?」 「私は自分の世界に戻る。戻れないなら、この世界で君たちと一緒に滅亡しよう」 「……戻る手段とは」レオンは声を落とし。「私が父から受け継いだ魔法のことですね」 「そうだよ。嫌とは言わせない」 「嫌とは言いません。では、この世界を救ってください。その代わりに魔法をかけて差し上げます」 言うと思ったと、クライセンは口の端を上げる。 「私と取引しようと言うのか。今の君にそんな実力はない」 レオンが不愉快そうにクライセンを睨むと、それ以上の鋭い目線が少年を返り討ちにする。レオンは奥歯を噛む。 「無礼な人ですね」 「やっと自我が芽生えたばかりのクソガキが」クライセンは鼻で笑い。「無礼なのは君のほうだ。私は世界なんかどうなろうが構わない。君の言いなりになるくらいなら死んだほうがマシだ」 勢いで生意気な口をきいてしまったことをレオンは後悔していた。この世界で自分に逆らえる者はいないはずだが、彼は別だ。拗ねたように目を逸らした。 「それに、君が戻らないかもしれない可能性も考えて次の手を打っていたんだ」 「……え? 次の手とは?」 「今、君の手下が準備してくれているよ。もし聞きたいことがあるなら今のうちにどうぞ」 一体何を……レオンは目を閉じ耳を澄まし、城内に意識を巡らせた。 Copyright RoicoeuR. 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