SHANTiROSE

INNOCENT SIN-78






 シルオーラ城の「水晶の部屋」は大きな魔法を使うための特殊な室だった。
 そこには何もなかった。だがレオンは、ろうそくを灯すように次々と増幅していく魔力の気配を感じ取り、更に上に意識を飛ばした。すると本来はないはずの透明の壁が広がった。そこは薄い金剛石の花びらが重なり合った蕾の形をした空間だった。
 その中央にはクライセンとロアの姿があった。いつもの赤ではなく、儀式用の白いマントを羽織っている。
 二人は空中に浮いた球体の上に立ち、目を閉じて呪文を唱え続けていた。
 その呪文は魔力の風となって空間を駆け巡り、まるで種を生むように、数えきれないほどの光の玉が分裂しながらゆっくりと浮遊していた。


 レオンは目を開けて遠くを見つめた。
「……天使降臨の魔法ですか」
 クライセンはほほ笑むだけで返事はしなかった。
「ただの天使ではなく……アカシアを呼ぶつもりなのですね」
「この世界のためだよ」
 そう言うクライセンを、レオンは横目で見つめる。
「まだこの世界はマルシオが悪戯に過去を改ざんしたために生まれあやふやな存在だ。卵のように内側で生命を育んではいるものの、中身が何なのかを知る者がいない。殻を破るには外部との接触が必要だ。こっちの世界のアカシアが人間の世界に足を踏み入れ人間と接触することで、マルシオは簡単に世界を消滅させることはできなくなる」
「……マルシオはアカシアのドッペルゲンガー。アカシアがこの世界の天使の王として記録されれば、この世界はマルシオの手の中から独立できるというわけですね」
「そう。ついでに、私を戻してもらえるように頼んでみようと思っている」
「しかし、元々この世界の天使の王はアカシアだったはず。わざわざ呼ぶことに意味はあるのですか」
「天使の王がアカシアだということはあくまでこの世界の人間側の記憶に過ぎない。現実にすることに意味があるんだよ」



 ――光の粉が降り注ぐ金剛石の城で、クライセンの様子を伺っていたマルシオは一人、忌々しそうに奥歯を噛んでいた。



 それに似たような表情を浮かべたあと、レオンは首を横に振って気を取り直す。
「……あなたと話ができるのも、あと僅かということですか」
「多分ね。アカシアがこの現状をどう思い、どういう態度をとるかは、まだ分からないけど」
「そういえば、アカシアを知る者はいなかったのでしたね」
「私の世界にもアカシアはいなかったから、彼がどういう性格なのか、まったく未知数だよ。見た目は、よく知ってるけど」
「そうですか……」レオンは一つ瞬きをした後、クライセンに体を向ける。「早速ですが、あなたに、外の世界から来たあなたに、別の世界で神と化したあなたに、尋ねたいことがあります」
 妙にくどい言い方をするレオンに、僅かに警戒しつつ、クライセンは口の端を上げた。
「何なりと。この世界の神、皇帝陛下レオン様」
 皮肉にしか聞こえなかったがレオンは気にせずに質問した。
「愛、とは何ですか?」
 クライセンは一瞬意味が分からず肩を落とした。
「愛?」
「愛です。人それぞれだとか、見えないものだとか、抽象的な答えではなく、一般的に言われている愛が何なのか、教えてください」
 レオンが何を聞きたいのか分からない、はずだった。
 だがクライセンはこの質問で、彼がなぜ突然変わってしまったのかを理解した。
 ちゃんと話をしようと思う。せっかく会えた「生まれてこないはずだった皇帝」なのだから。
「重くて、苦しくて、脆くて、複雑で、何の利益も得られないし、なくても生きていける。だけど、守りたいものだ」
 レオンは彼の言葉を心の中でかみ砕き、反芻し、いろんなことを考えた。
 そして、一つの答えを導いた。
「ならば、私には愛がないということなのですね」
「どうして?」
「私には、守りたいものが何もありません」
 表情を変えずに言い切る少年は、長い時間孤独に囚われていたクライセンには哀れに見えた。
「この国は?」
「私がいなくても何も変わりません」
「過去の戦いで死んでいった者たちへの思いは?」
「私が生まれる前の出来事です」
「ずっと君の傍にいて何よりも大切に見守ってきた人たちは?」
「それが彼らの仕事です」
「本当にそう思ってる?」
「情はあります。いなくなったら悲しいし寂しいと思います。でも、『皇帝陛下に忠誠を誓う者』なら、代わりはいます」
「じゃあ、好きなものはないのか? 食べ物でも、景色でもいい。誰かの笑顔とか、もっと知りたいものとか」
 レオンは少しだけ考えた。
「ありますが、それはすべて、生まれたときから用意されていたもの。何が美しく、価値のあるものなのか、私が考えて選んだものは、何一つ……ない」
 クライセンは微笑しながらため息をつく。
「ランドールの魔法は? 失われてしまったら、もったいないと思わないか?」
「……別に、思いません。魔法は自然から生まれるもので、人間が誇るものでも、守っていく必要があるものでもないでしょう」
「それを、ラムウェンドやこっちの私、ロアという青年の前で言える?」
 レオンはやはり、表情を変えなかった。
「はい」
「彼らはどう思うかな」
「さあ。人の感情なんて、他人には分かりませんから」
「嫌われても平気? 軽蔑されるかも」
「仕方のないことです。やめてくださいと頼んでも、どうするかは本人が決めることなので」
「そうか……」
 そう言って目線を外すクライセンに、レオンは不満そうに眉間に皺を寄せた。
「私は間違っていますか?」
「いいや。感心してるんだよ。その若さでここまで明確に自分の意志を固めているなんて、なかなかできないことだ」
「また皮肉ですか」
「本音だよ。これほどの時間と犠牲を費やして築き上げてきた世界に何の執着も未練もない。見事だよ。相当な精神力の持ち主だ」
 やはり皮肉にしか聞こえなかったレオンは、面白くなさそうに目を伏せる。だがクライセンは決して茶化していなかった。
「君のような純粋で無知な少年がどうやって人類を滅亡に導くのか、最初はまったくイメージできなかったけど――」
 レオンは彼の言葉の続きを聞くより先に、胸に鈍痛を感じた。
「――何の不思議もなかったんだね。この世界にエヴァーツの力を持った魔法使いが生まれることは必然だったんだ」
 だからザインはその未来を消した。レオンは否定できず、だが納得もできずに震え出した。
「どうすればいいのですか……? 今からでも私が消えれば人類滅亡は避けられますか?」
「それで間に合うならザインは他の方法も考えたと思うよ」
「私は滅ぼしたくなど、ありません」
「どうして?」
「この世界には美しいものも尊いものもたくさんあります。何より、数多の人々が一生懸命に生きているのです。それを、私が……何の理由もなく奪っていいはずがない!」
「どうして?」
 レオンはクライセンの疑問の意味が分からず、すぐには返事をしなかった。
 待つ理由もなく、クライセンは続ける。
「君はこの世界で最高位の魔法使いだ。誰がそう名付けたわけでもなく、事実、その力を持って生まれてきた」
「……どういう意味、でしょうか」
「救いたいなら救えばいいし、滅ぼしたいなら滅ぼせばいい」
「…………」
 言葉を失ったレオンの顔には「何を言っているか分からない」と書いてあるようだった。彼のそんな表情に、クライセンはほほ笑みかけた。
「愛がないなら滅ぼせ。そして、君の愛する国を創ればいい」
 レオンは体の震えが止まらなかった。自らを抑制するように自分の手を握りしめる。
「……そんな、身勝手が、許されるはずが、ありません」
「そう? 誰が許さないの?」
「世界です。起こした波はいずれ返ってきます。大きければ大きいほど強い力を溜め込み、自分が起こした波よりも巨大になって返ってくるのです。それが自然の法則です」
 真剣に語るレオンを見て、クライセンは噴出す。
「そんなことは、君よりも私のほうがよく知ってるよ」
 苛立ったレオンは顔を紅潮させ、大声を上げた。
「バカにするのもいい加減にしてください!」
「だったら話は終わりだ!」
 クライセンも被せるように大きな声を出す。そして炎を吹き消されたろうそくのように呼吸だけをしているレオンに、最後のほほ笑みを見せた。
「あとはからかうくらいしか、私が君にできることはないんでね」
 レオンの感情は完全に吹き消されていた。
 どこまでが真剣でどこからがおふざけだったのか――それも、どうでもいいと思う。
 自分で選べ、と、クライセンは言っているのだ。
 彼が言わなくても、いずれそうしなければいけないのだから。
「……あと一つだけ、聞かせてください」
 レオンが呟くと、クライセンはどうぞと返した。
「あなたはなぜ、世界を救おうと思ったのでしょうか」
 クライセンは一瞬、表情を消した。
 あのときのことを思い出すと、まるで夢ではなかったのかと錯覚するほどの懐かしさを抱く。なぜだろうと考えた末、ティシラの姿が答えを出してくれた。いつからか、ずっとそうだった。語り尽くせないほどの長い歴史も苦痛も孤独も、彼女が全部思い出に変えてくれる。心からの幸せを全身全霊で自分に向けてくれるその姿は、何もかも間違っていなかったのだと教えてくれる。
 ティシラに出会う前の未熟だった自分を思い出し、苦笑いを浮かべた。
「救おうと思ったことはない……邪魔が入らなければ、私は、世界を滅ぼしていたよ」
「では、滅ぼそうと思っていたのですか?」
「そこまで考えていなかった。どっちでもよかったんだ」
 あのとき、もし世界を救えなかったとしても、きっとティシラがそれでいいと言えば後悔しなかったに違いない。
 懐かしむように言うクライセンの心情が変わったことを、レオンは素早く察知した。
 何があったのか詳しく聞きたい。そうレオンは思うが、クライセン自身はあまり語りたい気分にはなれなかった。少なくとも、今はまだ。
 ふと、クライセンが目線を上げた。それとほとんど同時にレオンも同じように何かを感じ取る。
「……そろそろ時間だね」
 見えない空間を覆う金剛石の蕾が、ゆっくりと開花していく。





   

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