SHANTiROSE

INNOCENT SIN-93






 ロアが戦場となった城に辿り着いたとき、巨大な黒い獣であるアンバーは傷だらけだった。
 アンバーの獣化は狂暴なだけではなく、その大きさで敵の恐怖心を煽り闘争心を削ぐ力があった。しかし魔士も式兵も死を恐れない。一つ一つなら獣の咆哮だけで消滅するほどの差があるにも関わらず、弱い体が束になって襲いかかり、少しずつだが確実に小さな傷をつけていく。その量は回復が追い付かないほどで、とくに足に集中しており次第にアンバーの動きが鈍っていった。
 敵は意志のある者だけではなく、地面から無限に伸びて暴れている茨の群れも厄介だった。うねりながら地面を埋めるそれらは体の自由を奪う。どこに逃げて隠れても茨に地面を破壊される絶望は、人は大地がなければ生きていけないという現実を突きつけた。
 駆け付けたロアの流星導が次々と茨を切り裂き、地中で芽吹く球根を殺していく。その早さと見事な剣裁きは、名のとおり流星のように多数の人々の心に希望の光を灯した。
 その灯を大きくならないうちに掻き消そうと、エミーが立ちはだかった。二つの剣が火花を散らす。
「なるほどね」エミーは口の端から牙を覗かせて笑っていた。「それがもう一つのエヴァーツの力の正体か」
 ロアはエミーとの再会に大きな脈を打った。
 彼女こそすべての元凶。笑いながら命より大事なものを奪う恐るべき悪魔。
「レオンの体の一部を使って鍛えられた剣だな……くだらねえな」
「くだらない?」
「そうさ。所詮は複製。偽物だ。そんなもので命を奪う行為にどれだけの業が生まれると思っている?」
 ロアは息を飲み、一瞬だけ怯んだ。
「過ぎたる武器だね。てめえがしていることはただの暴力だ。太陽の光を称え世界を守る大儀はどこに行った? なあ、世界一美しい魔法使い様よ」
 剣を交え、ロアが僅かに押された直後、アンバーが大量の血を吐きながら吠えた。その声でロアの全身に痺れが走り、目を見開いた。
 惑わされるな。
 アンバーはそう言っていたのだ。ロアも自身に言い聞かせた。
 落ち着きを取り戻したロアに、エミーは驚かなかった。
「バカだね。私は大事なことを教えてあげてるのにね」
「大事なこと?」ロアは奥歯を噛み。「あなたに教わることなどありません」
「私はアンシーの魔法使い。その剣を受け、感じ取ったことを言葉にしただけさ。付け焼刃にしちゃいい剣だ。だからこそ、正しく使わなければ真の力は発揮されない」
「……黙りなさい」
 ロアはエミーの言葉を遮った。
 聞いていけない。しかし、彼女は本物の魔法使いだ。人には聞こえない声を聞く力がある。そしてエミーの言葉は魔法。彼女の言うとおり、この剣は他に役目があるのかもしれない。
 それでも、今は迷っている暇はなかった。
 剣を構えたロアの決心を見抜き、エミーはまた笑った。
「ほんとに、ランドールの魔法使いはバカばっかりだ」
 ロアから離れ、ハーロウの作った巨大な金剛石の前に立った。
「ご覧。この、命を懸けた壮大な魔法の末路を」
 この世で一番堅い石が、軋んだ。
 石の中は時間が止まっているはず。なのに、透明な空間に青い光が走った。
 ロアは目を疑う。動揺せずにはいられなかった。
「てめえらの力の源はなんだ?」エミーは剣を構えたまま。「リヴィオラだ。てめえらがどれだけ魔法を知り洗練したって、その頂点に存在するリヴィオラをどうこうできるとこまでは行けねえんだよ!」
 エミーは剣を振り上げ、体を翻し金剛石に突き立てた。
 どんなに強い衝撃を与えても傷一つつかなかった最強の盾に、剣の切っ先が刺さった。そこから青い光が漏れ、四方に亀裂が走っていく。
 ロアとアンバーが立ち竦むほんの数秒で、城を丸ごと包んでいた金剛石が砕け散った。
 石の中に閉じ込められていた人間も魔士も茨もすべてが息絶えていた。魔法は解かれたのではなく、壊されたからだった。
 城の中にはザインがいた。
 傍にはラムウェンドもいたはずだ。数えきれない魔法使いも……。
 どうなったかなんて確認する気も起きなかった。
 割れた石の中から、青い宝石が浮き上がった。リヴィオラを包んでいた銀の籠も、絡みついていた根も茨も無残に千切れて落ちていく。
 とうとうリヴィオラが解放されたのだ。
 ゆっくりと浮き上がったリヴィオラは上空に、穏やかに佇んだ。放つ青い光が大地に降り注ぎ、すべての生物に平等に生命力を与えた。
 その力は地中の球根が吸収し、張り巡らせた根を通して大地を魔力で満たしていく。
 今までは魔法で制御し、必要な魔力を必要な場所に与えることができた。そうなってからどれくらいの時間が過ぎていたのか、もう誰も知らない。だからこそ争いが起きた。だからこそ魔法使いが特別な存在でいられた。
 その秩序、人間が血を流しながら作り上げたシステムは崩壊した。
「……それでも」ロアは剣を握り直し。「私たちの信念は変わらない!」
 突如、ロアの中心に衝撃波が波紋を広げた。それに触れた茨や瓦礫が吹き飛ぶ。
 猛禽のように襲いかかってきたエミーの剣を剣で受けた瞬間のものだった。
「国とは、洗脳された愚か者の掃き溜めだ」
 エミーが力を込めて踏み込むと、また衝撃波が起きた。
「それは誰の声だ。私たちは一体誰に洗脳されたと言うのか」
「亡霊だよ。言葉を持つ者の幻想が子孫に理想を押し付けている。そうだろう? お前たちが美しいと信じるものは本当に美しいのか? お前たちが守りたいものは本当に必要なものなのか?」
「当然だ」
「敗者を蹂躙し種を滅ぼすことも正義だと信じているのか?」
「そうだ!」
「ならば、てめえらこそが生命の芽を食い荒らす害虫だ!」
 エミーの怒声とともに、足元から大量の茨と式兵が飛び出した。地面は原型を失い、世界の中心だったシルオーラ城が音を立てて崩れ落ちていった。
 ロアは剣をいったん鞘に納め、両手を組んで呪文を唱えるとほとんど同時に無数の白い光の柱が空と地上を結んだ。その光に触れた魔士や式兵は体が千切れ、茨は枯れて地面に消えていく。敵が散っていき視界が開けるのも短時間だった。すぐに新しい茨と式兵が生まれてくる。
 しかしほんの一瞬でよかった。光の柱の隙間から見えた黒い魔法使い・エミーを琥珀色の瞳が捕えた。
 アンバーは短い時間でロアの意図を読み取り、満身創痍の体に残った力を凝縮し、鋭く早い黒豹に変えてエミーに向かって突進した。アンバーは彼女を守ろうと飛び出した複数の式兵をすべて貫通し、エミーの喉に爪を立てた。
 エミーの首の肉と骨は切り裂かれ、繋がっていた皮一枚も千切れる。首は背中を通り足もとに転がる。残った体は立ったまま血飛沫を上げた。
 エミーを殺すことが最終目的ではないが、彼女の心を揺さぶる言葉は封じ、仲間の仇は討った――そう思った。
 変わらず地面からは茨と式兵が生えてくる。もう立ち上がる力の残っていないアンバーは彼らに覆い尽くされ、肉塊に変えられていった。
 感傷に浸る時間はない。ロアは再び剣を握り呪文を唱えながら地面に突き刺した。切っ先から赤い光が波紋を広げ近くに埋まっていた球根を殺していく。茨と式兵は残り少ない魔法兵たちに退治され、数を減らしていった。
 リヴィオラは解放され、世界に魔力を振りまいている。その恩恵をいただいた地面から、新しい植物が芽吹いていた。放っておけば数日で草木に満ちた大地に変わり果てるだろう。
 人間がやり直すのはそのあとからでいい。ロアが瓦礫となった城に背を向けたとき、左肩を青い閃光弾が貫いた。
 ロアは目を見開いて振り返る。そこには、二千ほどの飛行型の魔士が夜空を埋め尽くしていたのだった。
 更にその上に、あの巨大な瞳が浮かんでいた。
 殺したはずだった。だが、エミーはここにはいなかったのだ。
 目の前でマーベラスのトップクラスの魔法使いが二人も命を落とした。それでもリヴィオラの解放は止められず、エミーにかすり傷一つ付けられなかった。
 負傷したロアに大量の魔士が襲い掛かってくる。何をしても常に上手を行くエミーに、改めて恐怖を抱いた。ここで魔士を皆殺しにしてもきっとまた別の方法で畳みかけてくるに違いない。
 ロアの心は折れかけた。
(……レオン様、あなたの声を、聞かせてください)
 ロアは戦う理由を確かめたかった。
(どうか、戦えと、言ってください)
 そうすればどんなに絶望の中でもすべてを投げ捨てて、何も恐れずに前に進める。
(それが洗脳でも、欺瞞でも、なんでもいい……私が死んだあと、残った仲間が必ず勝利を手にすると約束してくれたら、私はいつでも、この命を捨てることができます)
 レオンの心はここにない。
 それでいいと思っていたはずだった。しかしどれだけの犠牲を出しても何も好転せずただ傷を負うだけの現実に、ロアは拠り所を求めた。
(なぜ、私は……こんなにも弱いのでしょう)
 その理由を探した。
(何かが、足りない)
 なくても何とかなると思っていたものが脳裏を過ぎった。
(……クライセン)
 彼は一体どこに行ったのだ。今まで二人で協力してレオンを守ってきた。双璧の片方が欠けていることを思い出したロアは途端に孤独に苛まれた。
 まともに呪文も唱えられないほどの集中攻撃にロアの体は削り取られていく。かろうじて剣で応戦しているが、次第に足が震え今にも倒れそうだった。
 そのとき、一人の魔法使いが七百ほどの兵を連れて戦場に飛び込んできた。
「ロア!」
 見慣れた赤いマントの魔法使いに体を支えられ、ロアは彼の顔を確かめた。
「……ヴェルト」
「なんということだ」ヴェルトは青ざめて、怒りで震えていた。「あなたがいながら、この惨状は一体……信じられない」
 ヴェルトがロアの体を労わる言葉をかけなかったのは、もう彼が戦える状態ではないと分かっていたからだった。
 それはロア自身も分かっていた。だがこのまま黙って息を引き取るつもりはなかった。
「ヴェルト……剣は、あなたに返します」
 ロアは自分の足で立ち、流星導をヴェルトに渡した。
「ロア、傷の治療を。数人の魔法使いをあなたにつけます。治癒を優先してください」
「その必要はありません」
「ダメだ。このままではあなたは……」
「その剣は、やはり鍛えたあなたが持つべきもののようです」
「なぜそのようなことを?」
 ロアは答えられなかった。エミーから聞いた言葉だなんて言えるわけがない。しかもその真意までは解明できていないのだから。しかし彼女の言葉は本当だと思えた。悔しいが、このままこの剣を殺す道具として使っていては何も終わらない。そんな予感が胸を騒がせていた。
「レオン様は、無事ですか?」
「ああ。だが人の心配をしている場合では……」
「クライセンは……」
「え?」
「クライセンは、やはり見つからないのですか」
 ヴェルトは奥歯を噛んで俯いた。彼はもう死んでしまったと割り切るか、信じて待つべきなのか、誰もが迷っていた。
「聞いてください」ロアはヴェルトの肩を掴み。「彼は生きています」
「何だって?」
「小さな光が見えました。あれは幻ではありません。暗い空間から、身動きの取れないクライセンが助けを求めて足掻いています」
「……それは」
「予見の力です。希望は僅かかもしれませんが、どうか、正しい道を進んでください」
 ロアは手を下ろしてヴェルトから離れ、足元に魔法陣を描いて飛び立った。
「ロア、どこへ行くんだ」
 ロアは答えず、最後の力を振り絞って手のひらから銀の弓矢を作り出した。その矢で残っていた魔士をせん滅しながら姿を消した。
(……剣は、次の者に託しました)
 平常心を取り戻したロアは血を吐きながら自分の死期と向き合った。
(私には、まだやり残したことがあります)
 ロアが向かう空の先は、夜明け前の一番深い黒から藍色に変わろうとしていた。



*****




 眠れぬまま朝を迎えるティシラはウェンドーラの屋敷のリビングで震えていた。同じように世界の異常に怯えるピクシーたちも屋敷の中のあちこち走り回っている。
 人間以上に魔力に敏感な魔族の彼女は当然、革命の始まりをすぐに感じ取った。
 ティシラはあれから、時折上空を旋回して様子を伺う魔法使いから隠れるために地下に篭っていた。サンディルの前で演じた態度が効したようで、強引に室内を覗いたり踏み込んでくる者はいなかった。
 きっとクライセンは見つかる、必ず帰ってくると信じて留まったティシラだったが、待つ間もなく世界は一変した。敷地内とその周辺に球根は植えられておらず、地面が破壊されることはなかった。しかし早い速度で大地を浸蝕し続けている根はいずれここにも届く。ティシラもそのことを感じていた。
 窓から外を覗くと朝日に照らされ赤や黄色に染まった雲が流れ、その上には澄んだ青空が広がっている。そしてその下にはオーロラや何重にも重なった虹、稲妻、竜巻が入り乱れていた。
 幻か夢か。ティシラは屋敷から出れば視界の先で起きている異常現象に触れてしまうようで、怖くて身動きが取れずにいた。
「何なのよ……」クッションを抱きしめ、出窓の傍に座り込む。「これじゃほんとに死んじゃうかもしれないじゃない」
 革命と言っても、人間同士の殺し合い程度のイメージしかなかった。大量の血が流されるとしても自分には関係ないと、ティシラは楽観視していたことを後悔する。
「人間にここまでの力があるなんて、信じられない」
 ぎゅっと目を閉じると脳裏に青い光が灯った。ティシラははっと目を開く。
「違うわ……これは、リヴィオラの力だわ」
 これは戦争ではなく革命――その言葉の意味が分かった。この世界の基盤を創る原始の石の力を、知恵と感情を持つ人間が利用すれば天使と魔族の世界と同じように思い通りに操ることができるのだ。それを実行しているのが、人間の負の感情を糧に育ったエミーという魔法使い。
 そして、大地を核とするこの世界にのみ存在する植物、魔薬に通ずるジギルが引き起こした天変地異。
 これは魔界の王ブランケルと同等の権限が行使されていると言っても過言ではなかった。そう思うと、人の原動力である強い愛情も憎悪も信念も、何もかもが意味のない雑音の一部に成り下がっている。
「……そんな」ティシラはクッションに顔を埋め。「だったら、この気持ちは何なの? こんなに苦しいのに、このままだと死にそうなくらい痛いのに、全部ただの思い込みなの? 本当はどこも痛くないの? 嘘よ……だったら、私はどうしてここにいるのよ」
 涙は出なかった。悲しみ以上に痛みが強く、それを消す方法が見つからない現実に心が折れてしまいそうだった。
 そのとき、庭の草を踏む音がした。
 ティシラは顔を上げ、立ち上がって窓を覗いた。赤いマントの端が視界に入り、大きく目を見開く。
「……クライセン?」
 途端に胸の痛みが消え、目頭が熱くなる。ティシラが玄関に走り扉を叩き開けると、その音に驚いたピクシーたちは慌てて家具の影に隠れた。
 ティシラは家を飛び出して走った。胸に満ち溢れた希望は――一瞬にして砕け散る。
 そこにいたのは、血塗れで息も絶え絶えのロアだった。立つこともできず、庭の真ん中で肩を揺らして背を丸めている。
 ティシラは一度足を止めたあと、表情を消してゆっくりと彼に歩み寄った。
「……なんであんたがここにいるのよ」
 呟くと、ロアが顔を上げる。ティシラを見るなり目尻を揺らして睨みつけた。
「やはり……まだいたのですね」
 ティシラは瀕死の彼の姿を見て、絶望の崖から突き落とされたような衝撃を受けていた。
 あのロアが治癒も追い付かないほど傷ついている現実は、遠くから見ている状況以上に救いのない惨劇が起こっているのだと分かる。
 何より、クライセンではなかった。
 クライセンどころか、嫌悪し合っているロアが現れた。
 こんなにも愛しているのに。息が止まりそうなほど強く信じて待っていたのに……ティシラは思う。
 ――この世に、神はいない。
 虚ろな顔で立ち竦むティシラに、ロアは足を引きずりながら近づいた。
「もう分かったでしょう。クライセンは来ません。早く、魔界に帰りなさい」
 ロアは最後の役目を果たすためにここに来た。
 もしかしたらクライセンは戻ってくるかもしれない。だとしても自分たちがいないあとを引き継ぎ、彼とて無事ではいられないはず。ティシラが孤独であることに変わりはないのだ。ここにいては傷つくだけ。
 ティシラに安全な場所である魔界に帰ってもらいたい理由は、レオンのため。そしてクライセンのためでもあった。
 ティシラのことは認められないとはいえ、親友であるクライセンの守りたかった人だ。このあと彼がどんな死に方をしようと、ティシラが無事だと分かれば後悔も無念もない。クライセンを助けられなかった。レオンに着いていくことができなかった。だからせめて、たった一つの命だけでも守りたいと思った。
 だが、ティシラという少女には、遠回しな情など伝わらない。
「ねえ……あんた、死ぬの?」
 ティシラの様子がおかしい。ロアは不穏な空気を察知し、警戒した。
「偉そうに大口叩いて、この私を侮辱しておきながら……かっこわるいわね」
 ティシラは目を細め、鼻で笑う。
「よくもそんな無様な姿を私に見せる気になったわね。それほど事態が逼迫してるってこと? だから何? 言ったはずよ。私とクライセンが結ばれない世界なんて滅んだほうがいいって」
「あなたは、何を言って……」
「私に何かあったらパパが怒る? だから帰れ? は! バカじゃないの?」
 ティシラは弱っていくロアの傍に膝をついて顔を覗き込んだ。
「パパが出るまでもないわ。私が、滅ぼしてやる……!」
 ロアの全身に寒気が走る。近くで見たティシラの赤い瞳に強い魔力が宿っていた。ヴァンパイアの能力である魔眼だ。ロアは這ってでも彼女から離れたかったが、体の自由が利かず、ティシラに乱暴に胸倉を掴まれた。
「……な、何のつもりだ」
「あんたどうせ死ぬんでしょ? だったら……」
 ティシラが喋るたびに、唇の端から牙が覗く。深紅の瞳は冷たいのに、一番奥で激しい熱を発していた。
「最後くらい私の役に立ちなさい……無駄死にさせないであげる。感謝してね」
 ティシラは太く鋭い牙をロアの首筋に突き刺した。
 激痛と同時、全身の血が吸い上げられていく悍ましい感触にロアは悲鳴を上げた。彼の残り少なかった体力も意識も、ティシラの牙に搾り取られていく。
 ティシラは顔を離し、血で染まった口の端を上げた。
 指先や骨の髄まで、高貴な魔法使いの血が駆け巡り、ティシラの中の魔力が解放されていく。体の中にあった堰が壊れていく感触が気持ちよかった。
 ティシラが手を離すとロアは地面に倒れ、遠のいていく意識の中、彼女が魔王の娘としての力を覚醒させる様を見届けた。
 黒髪の中から二本の角が、うねりながら天に向かって伸び、ティシラが獣のように吠えると背中から巨大な黒い羽が花開いた。
 化け物だとロアは思った。
 しかしそれほど不快ではなかった。
 もしかしたら、彼女ならエミーを倒せるかもしれないと思ったからだ。ただの少女だったティシラが高等魔族として生まれ変わったことは、エミーの計算にはないはず。それに、ティシラの我の強さにはエミーの言葉は通用しないだろう。
 ティシラは地面に手をついて再度ロアに顔を寄せた。
「安心して。あんたなんか、下僕にする気はないから」口元の血を拭い、不適に笑う。「私は優しいから、潔く死なせてあげる。そういうのが、あんたたちのいう矜持とか、名誉ってやつなんでしょ? よく分かんないけど」
 ロアにはもう言葉を発する力もなかった。嫌悪していた「化け物」のほほ笑みが最後の希望となるのは屈辱――と、元気だったならそう思ったに違いない。しかしティシラが自分の命と引き換えに戦ってくれるのなら、悪くない気分だった。
 レオンのことは頼めない。彼女に任せられるのはただ一つ。
 クライセンを、守ってくれ。
 口だけを動かして伝えたが、ティシラに聞こえたかは分からなかった。
 ティシラは本能のままに舌を出し、ロアの口にねじ込んだ。そのまま魂を抜き取るかのように生命力を吸い上げる。彼の最後を飲み込むと、ロアの瞳孔は開き、息絶えた。
 ティシラは魔力で潤う瞳を輝かせながら翼を最大に開き、朝の澄んだ空気の中に舞い上がった。それが起こした風に草木が大きく揺れ、花びらは散り木々は折れて倒れていく。

 地上にまた一つ、大きな力が現れた。
 その気配を感じ取ったレオンとエミーは手を止め、空を仰いだ。





   

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