SHANTiROSEINNOCENT SIN-92急速に成長していく紫の根は地面の中を這いまわり、その振動が地上の人々にも伝わってきていた。 誰もが恐怖と絶望に震え上がった。地面が支配されてしまうと、この世界の生物のほとんどは生きていけないのだから。 リヴィオラを包んだ茨の束を魔法使いたちが必死ではぎ取ろうと抗戦している。しかし無限の魔力を帯びた魔士や、際限なく生まれてくる式兵に襲われて無残な命の奪い合いだけが繰り広げられていた。 リヴィオラだけは守らなければいけないと、アンバーが覚悟を決める。 その気配に気づいたハーロウはすぐに上空に上がり、魔法兵たちに避難命令を与えた。魔法兵たちは急いでその場を離れていく。そうしているうちに、アンバーが黒い光に包まれた。光は爆発するように膨れ上がり、そこにいた者、空を飛ぶ飛行型の魔士もすべてが仰け反ってそれを見上げた。 光は真っ黒な次第に形を作り、シルオーラ城を超える巨大な獣に姿を変えていった。 アンバーは黒豹の顔と体を持ち、尾は三匹の蛇、背には翼を持つ神獣となり、何も惜しまず襲い掛かってくる魔士や式兵を前足一本の一振りで蹴散らしていく。動くたびに地面が揺れ、吠えるだけで全身がしびれるほどの振動で空間が揺らいだ。 幻かと思うような大きさで、何度か彼の獣化を見てきたハーロウもここまでの規模は初めて見る魔法だった。 これほどの大きさの獣、普通の状態であったなら自重でまともに動けず、魔力も長くは続かない。だが今は無限の魔力がある。アンバーは自分の肉体の限界まで駆使し、あとのことは仲間に託す思いで城に群がる敵を払い続けた。 (……このままでは、魔士は減っても式兵も茨もなくならない) ハーロウは大振りなアンバーの攻撃を避けながら考えた。 (アンバーが無駄死にする) 自分にもできることをと、茨に絡まれ地面に引きずり降ろされていくリヴィオラに向かった。 式兵を倒しながらリヴィオラに辿り着いたとき、思いがけず強い魔力の攻撃に弾き飛ばされて目を見開いた。 すぐに体制を整えて攻顔を上げると、そこには黒い剣を構えたエミーがいた。 ハーロウがエミーを直接見たのは初めてだったが、一瞬で分かった。黒い服に黒い帽子、浮かべる笑みは邪悪。決して大柄ではない細腕の女性なのに、存在だけで圧倒される魔力の強さ――こんな魔法使いはマーベラスにも、この世のどこにも二人といない。 ハーロウはすべての元凶である彼女を睨みつけ、立ち上がった。 「この世界は、私たちが守る」 エミーは不適に目を細める。 「何から守るって?」 「あなたのような、悪意ある魔法使いからだ」 「悪意? この期に及んでまだ言うか」 「何ですって?」 「この世に悪も善もない。あるのは勝利と敗北だけだ!」 エミーは剣を振り上げ、足元の茨の束に突き刺した。強い魔力を込めて野太い茨を切り裂く。隙間からリヴィオラの青い光が溢れ出す。その光を浴びたハーロウは温かさを感じ生命力が漲っていくのが分かった。だがそう感じるのは彼女だけではなかった。 空からばら撒かれた球根が根を張り、城を破壊し始めた。 これほどの力が自由に開放されてしまっては収集がつかない。 ハーロウはその場から離れ、茨を伝って城の屋上に向かった。エミーは追わず、口の端を上げてその場から姿を消した。 ハーロウは屋上から起きている現実を見て心を痛めた。あまりの惨状に体が震える。しかし恐怖心を振り払い、顔の前で指を結んだ。目を閉じて呪文を唱えると、ハーロウの体は白い光に包まれ、わずかに宙に浮く。 魔法の気配を感じとり、アンバーが顔を上げて空に向かって咆哮した。その声には決意と別れ、武運を祈る意味が込められていた。 ハーロウはそれを受け取り、魔法を完成させる。 彼女の体から強い光が放たれた。目を持つ者の視界を白く染め上げ、目を眩ませる。純白の空間は次第に個体となり、太陽の光を反射し輝きだした。 先ほどまでの争乱が静まり返っていた。 ハーロウのアカシック・レイで城全体が金剛石に閉じ込められていたからだ。 金剛石は茨で地に引きずり降ろされていたリヴィオラごと抱きかかえていた。石の中にいる茨も根も人間も、すべての時間が止まっていた。 リヴィオラを閉じ込めたことでこの世界の力の源である魔力がどうなるのか、誰も知りようがなかった。それでも、このままエミーの思い通りにさせるわけにはいかなかったのだった。 魔法兵から城が襲われていると報せを受けたロアは急いで踵を返していた。まさか空から襲撃を受けるとは誰も予想してなかった。ロアは奥歯を噛んだ。 移動途中にもエミーが現れたこと、ハーロウがアカシック・レイを使ったことを知らされた。緩やかに世界を包んでいた魔力が弱まったことを感じ取るが、これで終わるとはとても思えない。 「レオン様は?」 とロアが兵に尋ねると、「連絡が取れない」と返ってきた。 「何かあったのでは」 『いえ、つい先ほどシバ地方で応戦中という報告がありました。通信機を喪失されたか、妨害されているのかもしれません』 そう兵が答えると、ロアは冷静になった。 彼なりの判断で行動しているのではと思う。となると、レオンは城やリヴィオラへの関心を失っている可能性があった。 そうだとしても彼への嫌悪など、今更沸きようがなかった。ただ、レオンとの連携は期待できない。彼は最早、敵ではないが味方でもないと思っていい。ロアはそう割り切り、自分の役目を果たそうと集中した。 「レオン様の警護、援護は抜かりなくお願いします。魔法によっては発動までの数秒、無防備になることがあります。レオン様はまだ戦闘経験が少なく、そのことを敵は知っています。隙を狙われることのないよう、しっかり着いていってください」 兵が「はい」と返事をしたところで、視界の先に巨大な黒い獣が見えた。アンバーだ。その足元には数えきれないほどの茨がまとわりついている。 あるはずのところにないリヴィオラと、傾いている城を確認できたところで、空が白く光り、ハーロウのアカシック・レイが発動した。 ***** スカルディアの城も地面から伝わる振動で揺れていた。古い建物は軋み、今にも崩れ落ちそうだったが、城の周辺に球根は植えられておらず、遠くの戦闘の衝撃が伝わってきているに留まっていた。 その奥にある洛陽線の村も異常な空気に包まれ、村人はただ怯えて震えるしかできなかった。 村の中にモーリスの姿がなかった。彼はジギルにもうすぐイジューの薬ができると聞いており、城のほうに向かっているところだった。自分から行動できない村人はモーリスの帰りを待った。彼ならジギルから何か情報を聞いてくるはずだと信じ、今のところは被害のない村の中で不穏な時間をじっとやり過ごしていた。 涙の止まらないミランダはカームに手を引かれて客室に走った。 その途中、空間が歪んだような感覚に寒気を感じ、二人は足を止めた。 「……なに?」 ミランダが涙をぬぐいながら辺りを見回す。 「これは……」カームの足が震えた。「足元から、魔力が沸き出ているような……」 二人ははっとハーキマーの言葉を思い出す。 世界に魔力が満ち溢れる――。 「革命が始まったのね」 「はい。急ぎましょう」 ここまで届く魔力はまだ微量なものだったが、その量は無限。これなら、と、二人は顔を見合わせて強く頷いた。客室に駆け込んだ二人はすぐに魔法に取り掛かった。 集中すると体中を駆け抜けるように魔力が集まってくる。こんな感覚は初めてだった。自分の器以上の大量の魔力が溢れ出すなんて、そのこと自体が魔法のようだった。高等魔法使いたちはこんな感覚をいつも味わっているのかと、憧れと嫉妬の感情さえ抱く。今だけ、サイネラやライザ、そしてクライセンたちと同等の魔法使いになれる。今だけ、と自分に言い聞かせながら二人は失われた秘術を思い通りに操った。 広大な宇宙空間が二人の視界に広がる。 数えきれないほどの星々はすべてに個性があり、姿も大きさも様々。あまりに広く果てがないような空間でも、星々に自由はなかった。そこで生まれて消えていくことも、巨大な星に引かれて離れていくことも、同じ成分で集まり一つの銀河を生成することも、すべて宇宙の法則に遵って描かれた世界。 太陽の光で目を覚まし、月の満ち欠けで心を動かされるように、二人は星々と一つになる。人間も自然の一部。身を委ね、祈れば願いは叶う。 生まれ育った故郷へ。本来あるべき居場所へ――二人は同じ風景を思い描いた。迷いはない。複雑なパズルが解けたような感触を心に刻んだ二人は、星に導かれてこの世界から姿を消した。 城内でジギルとイジューを探していたモーリスは地面が振動しているような異常に足を止めた。地震とは違う。 辺りを見回していると城を駆け回る複数の足音が聞こえた。次に、外にいる魔士たちも騒ぎ出しているのが分かった。 何が起きたのか分からないのに心拍数が上がる。 モーリスは胸騒ぎを覚えて走り出した。 ジギルのいそうな部屋に彼の姿はなかった。廊下の先をベリルが走り去っていった。声をかけようとしたが追い付きそうになく、彼女が出てきたほうへ向かった。すると扉の間に行き当たった。 モーリスは一度も入ったことのない部屋のドアをそっと開けた。そこには、探していた二人がいた。 ジギルは呆然と力を失くし、その前にはイジューが血塗れで横たわっている。 心臓が大きく脈打った。 まさか、そんなことがあるはずがない。 そう思いたかったが、想像していた最悪の状況を上回る最悪が、そこにあった。 「ジギル……一体、何が……」 イジューはもう何度呼んでも返事をしない。だからジギルに尋ねた。 ジギルは顔面蒼白し、目を見開いて震えていた。 「ジギル……」モーリスは彼の肩を掴んで揺らした。「ジギル!」 ジギルははっと息を吸った。 深い眠りから叩き起こされたような衝撃に混乱し、瞬きを何度も繰り返す。そして目の前のイジューを見て、再び震え出した。 「あ、あ……ああ……」 これほど狼狽するジギルを見たのは初めてだった。その様子で、彼がエミーに欺かれたのだと察した。 ジギルは何が起きても、考える時間さえあれば次にすべきことを導き出してきた。だが、どんな力があっても死んだ者を救う手段はどこにもなかった。回避しようのない不幸に初めて直面したジギルはの苦悩は、ただ頼ってばかりだったモーリスには想像を超えるものなのだろうと思う。 城が揺れ、魔士の咆哮が響いた。足元から、不穏な気配が押し寄せてくる。 魔法には縁遠いモーリスでもその気配を感じ取り、身震いを起こした。 ジギルは顔を上げ、現実を一つ一つ受け入れ始めた。同じことは繰り返したくない。そんな強い思いが彼の思考を刺激し、正気を取り戻させる。 「革命が……始まったんだ」 ジギルは呟き、床に手をついた。 地下の魔薬がざわついている。ジギルには彼らの混乱が伝わっていた。世界に魔力が満ち溢れている。この周辺に球根は植えられておらず、魔薬の住処である洞窟にまでは届いていない。しかし世界を包むリヴィオラの光に反応しているのだった。 ジギルの目の焦点が合い、隣にいるモーリスを認識した。 「おい」ジギルは立ち上がりながら。「お前はここにいろ。いいか。絶対に外には出るな」 「ジギル?」 モーリスの疑問には一切答えず、ジギルは駆け出して部屋を出ていった。 城の中にはもうほとんど人は残っていなかった。 革命が始まったとき、エミーは一部の者以外のすべての魔法使いや魔士に、ここを出て敵に決死の攻撃をするよう指示していたのだ。 ジギルは城の中を走り回り、屋上に辿り着いた。 そこから見える地上の様子は幻想のようだった。地平線の先には西で竜巻が起き、南の空は厚い雲に覆われ稲妻が暴れていた。また別の場所では大火災が起き大気が真っ赤に染まっている。また別の場所では大量の雨と雪と雹がすべての温度を奪い、その地に根付いていた人々や植物の命、文明も技術も失われていった。 今、世界中で天変地異が起こっている。 すべてマーベラスの魔法使いが起こしている現象だった。それぞれの属性の魔法を、無限の魔力を使って自然を操っているのだ。 エミーの言うとおりだ。権利や資源を奪い合う戦争なんかじゃない。世界が原型を失い、今までの秩序が破壊されている。まるで見えない神がすべてを作り直すために、命を弄んでいるようだった。 屋上の端に、一人の魔法使いが佇んでいた。 ハーキマーだ。ジギルは急いで駆け寄った。 「……おい! 何やってる。早く逃げろ!」 ハーキマーは穏やかな夜空の下、遠くで起こっている激しい戦闘を見つめていた。 「ジギル。みんな、城を出ました」 「はあ? 何言ってるんだよ。そんなのいいから、早く……」 ハーキマーの肩を掴むジギルの手を叩き、ハーキマーは振り返った。 「逃げるって、どこへ?」 ジギルは答えられず、拳を握った。 「……どこでもいい。逃げろ……逃げてくれ。頼むから」 ハーキマーがじっと見つめる中、ジギルは瞳を震わせた。 「もう嫌なんだ。死なないでくれ。頼むから……」 初めてだった。大事な家族が、友人が、傷ついて死んでしまうことの辛さを知った。どうしても割り切ることができなかった。だから情に訴えるしかなかった。人の心は操れないのだから。 「俺のせいだ……こうなることは予測できたはずなのに、ずっと目を逸らしてきたんだ。手遅れだろうけど、これから、罪を償うよ。自分の力を違う方向に使って、世界を変えていく。だから、死なないでくれよ」 ジギルは必死で堪えたが、どうしても溢れる涙を止められなかった。 ハーキマーはジギルの心からの訴えを黙って聞いていた。しかしそれには応えなかった。 「……私ね、誰かのお嫁さんになりたいっていう夢、あれ、本当なの」 ジギルはまったく予想していなかった彼女の言葉に呆気に取られた。 「でももう叶わないんだなって、思うと、残念」 「な、何言ってんだよ、こんなときに……生き残れば、そんなの、どうにでもなるだろ」 「私、ここで終わりだから」 「何でだよ……!」 「私たちが逃げたら、誰がここを守るの?」 「え?」 「私たちの役目はここを、地下に生息する魔薬を守ることなの」 「エミーの命令なのか? そんなものに律儀に遵う必要はない」 「人類が滅びたらいずれ根はここにも届く。そうしたら魔薬は暴走し、彼らの原型もなくなる。エミーはここに、人の手の加わっていない命の種を残しておきたいの。革命のあと、ここから新しい植物が世界を成形してほしいと思ってる。だからリヴィオラが自然の姿を取り戻すまで、ここは保護しなければいけない。って、エミーが言ってた」 つまり、このままでは洛陽線の村も壊滅するということ。ジギルは息を飲んだ。 「そ……それでも、死んで欲しくないんだよ……無駄だったとしても、逃げてくれよ」 俯いて素直に泣き言をいうジギルに、ハーキマーはほほ笑んだ。 「夢はとっくに諦めてた」涙で濡れたジギルの頬に手のひらを当て。「未練はないわ……だけど、どんな感じなのか、少しだけ知りたい」 ハーキマーはジギルに一歩近づき、彼の顔を持ち上げた。 そして顔を寄せながら目を閉じ、唇を重ねた。 初めてのキスは物悲しく、涙の味がした。だけど、ほんの少しだけ胸が鳴り、頬が温かくなった。 ――ああ、気持ちいい。もっと知りたい……恋、したかったなあ。 ハーキマーは生きているという実感を噛みしめ、小さな幸福感を心の中に抱きしめた。そして、何をされたのか分からない顔のままのジギルの胸を軽く押し、髪をなびかせて片足を引いた。 「……今まで楽しかった。他のみんなもそう言ってた。ありがとう」 あっという間だった。ハーキマーは背後の囲いに昇り、その先の茨の森に落ちていった。 ジギルは我に返って後を追った。囲いから身を乗り出して彼女に手を伸ばしたが間に合うはずもなく、茨の上で彼女を待っていたベリルとメノウと目が合った。二人はジギルに手を振り、笑顔を見せた。馴染みの彼女たち以外にも、数人の魔法使いがその時を待っていた。 ベリルの合図で魔法使いたちが呪文を唱え始めると、足元の茨が動き出した。茨は生き物のように蠢き、地面から更に量を増やし城を囲んでいく。 魔法使いが淡い光に包まれた。光は強くなり、花の蕾の形となり、回転しながら花開いた。 その花は現存するそれのどれよりも大きかった。そして赤や青の鮮やかな花びらで城を包み込んだ。花の根は次々に茨を掻き分け地面に潜り、地下の洞窟まで囲っていく。強い植物に浸蝕され、茨はみるみる枯れていき肥しとなった。 地下の魔薬たちが落ち着きを取り戻したのが分かった。 ジギルは大切な仲間が命を懸けて作った防護壁の中で孤独に苛まれ、崩れ落ちるように膝を着いた。 Copyright RoicoeuR. 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