MurderousWorld
10-Execution




 一番の問題は酒豪のエイダでも、負けず嫌いなルークスでもなく、冷静でいなければならないはずのブラッドにあった。
 二人の飲み比べが始まってからブラッドはほとんど喋らなかったのだが、緊張を紛らわすためにいつもよりも多く飲んでしまっており、いつの間にかジョッキ片手にテーブルに上半身を預けてしまっていた。
 散々飲みまくっていたエイダは、数時間すると急に我に返り、顔を真っ赤にしてふらつきながらも席を立ってどこかに消えていった。ルークスは、トイレにでも行ったのだろうと思いながら、隣で潰れているブラッドに声をかけた。しかし、意識はあったが彼は正気を保てておらず、これはやばそうだとルークスは酔いながら額に汗を流した。
 そろそろ帰らないと本当に明日に響くと思いエイダが戻ってくるのを待ったが、彼は二度と席に姿を現さなかった。
 二十分ほどして、ルークスの痺れが切れようとしたところに店員が顔を出し、エイダは三人分の会計を済ませてもう店を出ていったことを告げた。
 ルークスは怒りで震え上がり、酔いつぶれたブラッドを押しのけて店を出る、出ようとした。だが半泣き状態のブラッドに抱きつかれて動きを封じられる。
「離せ!」
 ブラッドは全体重をルークスにかけ、蚊の鳴くような声で縋りついた。
「……置いていかないで」
「クソ、あのサル。黙って帰るなんて、非常識にも程があるだろ」
「もう飲めない」
「アホか。なんでお前がそんなに飲んでるんだよ。離れろ」
「歩けない」
「知らねえよ」
「……死ぬ」
「死ね!」
 ルークスはブラッドを振りほどこうと暴れるが、自分も相当飲んでしまっていた。足元がふらつき、バランスを崩して椅子を巻き込んで倒れてしまう。それでもブラッドはルークスから離れない。
「……は」
 離れろ、と怒鳴りそうになるが、ふと周囲の目線に気を取られる。誰もが面白いものを見る目で二人に注目していた。恥、屈辱。ルークスは今すぐこの場から逃げ出したかった。もう一度ブラッドを突き放そうとするが、やはり彼はしっかりと抱きついて簡単には剥がせない。このままでは笑いものになる。とりあえずこの場を離れて、ブラッドはどこかその辺に捨てようと思う。仕方なく彼を抱えて立ち上がり、足取りを重くして店を後にした。


「あー、クソったれ!」
 店の前の大通りで、ルークスは苛立ちを露わにした。一応意識のあったブラッドは、今度はヘラヘラと笑い出している。ルークスはこめかみに青筋を立て、ブラッドを道路に放り投げた。
 ブラッドは派手にしりもちをつき、呻きながら腰をさする。ルークスは仁王立ちしてブラッドを睨み付けた。
「てめえら、覚えてろよ。後悔させてやるからな」
 とにかく今日は帰らねばと、ルークスは捨て台詞を残してブラッドに背を向けた。大股で立ち去ろうとしたが、のろりと立ち上がったブラッドから尋常ではない殺気を叩きつけられ、足を止める。
「……どこ、行くんだ」
 呂律は回らず、目が据わっている。性質の悪い酔っ払いそのもの顔だった。
「どこじゃねえよ」ルークスは嫌な予感を否定できない。「てめえはここで寝てろ」
「こんなところで寝たら、風邪引くだろ」
「だったら帰れ!」
「送って。歩けない」
「俺が知るか。てゆうか、しっかり立ってるじゃねえか」
「口答えするな」
「……な」
 ブラッドは顔を陰らせ、片足を大きく後ろに引く。そして相手に逃げる隙も与えずに素早く彼の足を掬い上げた。ルークスは思いがけない攻撃を受け、背中を地面に打ち付ける。一瞬息ができなかったが、すぐに体勢を整える。もう、我慢ならない。
「……やる気かよ」ルークスは立ち上がり、ブラッドに向き合う。「だったら、こっちも本気でいくぞ」
 ブラッドは黙ってルークスを見据えていた。ルークスは彼の感情のない表情にゾッとしたが、あれはただの酔っ払いだと恐怖を振り払った。
 しかし、もう勝ち負けの問題ではないと思った。この酒癖の悪さは普通ではない。頭にくるが、今はこれ以上関わるべきではないという、正しい防衛本能が働いていた。一発殴ってその隙に逃げよう。そうルークスが考えているうちに、ブラッドが先に動いた。
「!」
 迫る危険は、暴力などとは比べ物にならなかった。ブラッドは途端に顔を真っ青にしてルークスに向かって嘔吐し出したのだ。ルークスは悲鳴を上げて間一髪で避けたものの、涙目になったブラッドは汚れた手でルークスにしがみ付いてきた。
「やめろ、近づくな!」
「置いていかないで……気持ち悪い、助けて……」
 必死で嫌がるルークスに、ブラッドも必死で抱きついてくる。
「頭が痛い……助けて」
「わ、分かった、分かったから。頼むから離れてくれ」
「歩けないよ。離れられない。離さないで」
「この……いい加減にしろ!」
 ルークスは感情に任せて拳を握り、ブラッドに向けて突き出した。この至近距離だ。避けられるわけがないと思うのが普通の人間なのだが、ブラッドは普通ではなかった。フラフラで朦朧としているはずのブラッドは、飛んできた拳を信じられない速さで掴む。
 まったく予想もできていなかったルークスは目を見開いた。掴まれた腕が、動かない。ルークスは「あの時」の光景を思い出した。夜の倉庫で、エイダを叩きのめした彼の姿を。今度は逆に、ルークスがこの至近距離を恨めしく思った。この距離で、この体勢で攻撃されたらひとたまりもない。抜け出したいが、拳に覆い被さった指先は、ゆっくりと力を入れていく。
 ミシ、と骨が軋んだと同時、ルークスは顔を歪めた。
(なんだよこの握力は……こいつのどこにこんな力が?)
 周囲は、奇妙に絡み合う二人の男を見物する通行人に囲まれていた。このままでは片手を握り潰される。恥を忍んで助けを求めるべきかもしれないと思った次の瞬間、ブラッドは突然声を上げて泣き出した。
「殴らないで、捨てないで」手を離し、ルークスの胸に顔を埋める。「今日だけでいいから一緒にいて」
「……え」
「お願いだから、酷いことしないで」
「な、いや、ちが……」
 ルークスは混乱し、誰にともなく言い訳しようとする。だが周囲を見回すと、いつも自分を思慕の眼差しで見つめる女性でさえ、遠巻きに変な目線を送っている。他に、軽蔑、嘲笑など、今までルークスが味合わう必要のなかった慣れない感情を露骨に打ち付けられていることに酷く心が痛んだ。
 ルークスは震え出した。確かにこれでは、誰が見ても……と、完全に戦意喪失し、握った拳をだらりと垂らした。ブラッドが形振り構わずに泣き喚くうちに、二人を取り巻く周囲の目が変わっていくのを敏感に感じ取った。
 もうダメだと、ルークスは全身の力を抜いてその場に座り込む。ブラッドは泣きながら、逃がさんとでも言わんばかりに彼の首や胴体にしっかりと腕を巻きつけた。
(なんで、こんなことに……)
 泣きたいのはルークスの方だった。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。自分よりいくつも年上のブラッドは勝手に飲んで勝手に泥酔して、吐くやら泣くやらで子供のように甘えてくる。終いにはオカマの真似事をして最上級の恥をかかせられる。わざとだろうか。わざとでなければ、一体なんのつもりなんだろう。こんなただの酔っ払いは適当に捨てていけばいい。言うことを聞かないのならば殴って黙らせるのが普通のはずなのに、なぜか彼には自分の力は通用しない。なんなんだ、こいつは。どうすればいいんだ。ルークスは、初めて遭遇した「珍しい人種」に困惑するしかなかった。


 仕方なくルークスは腹を括り、ブラッドに肩を貸して送り届けることにした。
「場所はどこだ」
 そう言いつつ、ブラッドが少しでも隙を見せたら逃げるつもりでいる。
「……あっち」
 一人で歩けないほど酔っているくせに、道案内だけはしっかりしている。本当に酔っているのかと疑うが、これが演技なら騙されても仕方ないと思えるほどブラッドはまともではなかった。時々顔を持ち上げてはあっちだこっちだと指示してくる。きっと、酔って気分が悪いのは確かだろうが、一人で帰ろうと思えば帰れるのだと思う。おそらく酔っ払い特有の寂しい感情が抑えられない病気のようなものなのだろう。子供じゃあるまいし、とルークスはブラッドを心底疎ましく思った。


 二時間ほどかけてブラッドの自宅に到着した。玄関に置いていこうとしたが、まだルークスは解放してもらえなかった。ブラッドにベッドまで連れていけと命令されたのだ。腸が煮えくり返りそうだったが今は耐え、彼が正気のときに報復を与えてやると決意する。
 やっとのことでブラッドをベッドまで運ぶと、彼は秒速で眠ってしまった。その安らかな寝顔を、ルークスはナイフで切り刻んでやりたかった。だが自分ももう休まなければ、さすがに体力の限界を感じていた。
 そう言えば、エイダに煽られてかなり飲んだ。ブラッドに振り回されて忘れていたが、相当酔いが回っている。そのことに気づいた途端、ルークスの足がふらついた。立っていられなくなり、ブラッドの足元に倒れこんだ。目が回る。少し無理をしすぎた、いや、させられた。これほどまでに自分のペースを崩されたことは生まれて初めてかもしれない。恨みを募らせながら、ルークスは意識を失う。


 寝ても覚めても悪夢は続くことを知らずに、ルークスはひと時の休息に体を預けた。



   




Copyright(c) RoicoeuR. All rights reserved.