12




 早朝、寝室の座布団の上で目覚めた才戯は昨夜のことを思い出して歯ぎしりした。
 周囲が寝静まった子の刻に床を這い出て、早速暁津にかけられた術を試すことにした。儀式だの呪文だのの説明はなかった。とりあえず目を閉じ、心の中で彼女を名を呼び、姿を思い出す。次に樹燐のいた風景を脳裏に描いた。
 空気に乗るように、体が軽くなった気がした。
 思ったより簡単だと、才戯は軽く考え、目を閉じたまま体の力を抜く。
 物事を難しく捉えない才戯には似合った術だった。だが問題は、集中力が続かないことにあった。
 想像が現実になっていく。才戯が目を開けると、周囲にはあの竹林が広がっていた。どこか朧げで、それらに触れないことは理解できた。手足もどこも動かしていないのに、風景が流れていく。そのうちに、あの庭が見えてきた。
 成功だ、と、才戯は気を抜く。すると途端に体が重くなり、庭の木々の根元に落ちた。
 体の側面を強く打ったが、確かにあの庭にたどり着いたことに、才戯は「やった」と拳を握る。だが立ち上がるより早く、体の内側から発熱が起こった。
 これは、暁津に術をかけられているときに感じたあれと同じだった。才戯は剥離した魂と体が完全に一つになる前に、心を乱してしまっていた。
 暁津はこの術のせいで死んでしまうような複雑な仕組みにはしていなかった。しかし失敗すれば魂と肉体が摩擦を起こし、燃えそうなほどの熱を発する。
 本当ならじっとしていても元の場所に引き戻されていたのだが、才戯はあまりの熱さに目の前にあった池に飛び込んでしまった。そこで意識を失い、気がついたら朝になっていた。
 才戯は術に失敗したことを悔しく思っていた。
「あーあ」仰向けになったまま息を吐き。「今度は三日後か……」
 面白くなさそうに布団に潜り込み、ふて寝した。
 それでも、感覚は掴んだ。今度こそ成功させてみせると意気込む彼は、この時間、本来の目的を忘れてしまっており、あの場に樹燐がいて全部見ていたことには、まったく気づいていなかった。


+++++



 次の日、樹燐は朝の習い事が一通り終わったところで、実珂に尋ねた。
「ねえ、実珂」何も変わったところのない庭を見つめながら。「昨日、変な夢を見たのだけど」
「どんな夢でした?」
「……私と同じくらいの子が、苦しんでいたの」
「同じくらいの子? どなたでしょう」
「知らない人よ」
 夢の中に見知らぬ人が出てくることはあるが、樹燐は外の世界を知らない。そんな彼女が身内以外の者の夢を見、そのことをわざわざ話すなんてと、実珂は興味を示した。
「どんなお子様だったのですか?」
「よく覚えてないわ。でも、少し嫌な感じがして……」
 樹燐は「あれは夢だった」と思うことにしていたが、まさか彼の身に何かあり、その報せだったのではと胸騒ぎを感じていた。
「最近、誰かが怪我をしたとか、そういう話、聞いたことない?」
 実珂は樹燐の世話や教育のため、毎日身近な周囲の様子も調べ、世間で何が起こり、話題になっているか、必要な情報を集めている。樹燐の不安を察し、考えてみた。しかしこれといって心当たりはなかった。
「いいえ。とくに……」
「そう……ならいいの」
「あの少年」には立派な角があるのだから、それなりの血筋の子であることは樹燐でも分かる。彼に万が一のことがあれば、自分たちに直接関係はなくても話くらいは入ってくるはず。
 いっそ彼の特徴を言ってしまえば、どこの誰かまで分かるのかもしれないが、当然、できるわけがなかった。
 やはりあれは夢だったのだ。みっともない、と樹燐は思う。一瞬顔を合わせただけの相手の幻まで見てしまうなんて。こんなことでは母の期待に添える大人にはなれない。
 もう山査子の枝は捨ててしまおうか。母に頼んで、庭の木ごと取り去ってもらおうかとまで考えた。
「――そういえば、蒼雫様が紅葉を見に行かれたとき、どなたかのお子様が迷子になったっておっしゃっていました」
 実際は、可笑しそうに「どこかのバカな子が」と言っていたのだが、そこは端折った。
「え?」
 樹燐は先ほどまで思いつめていた気持ちを忘れ、顔を上げて目を丸くする。 その日は、まさにあの少年が迷い込んできたときだったから。
「どんな子?」
「さあ、詳しくは聞いていないので……」
「男の子?」
「はっきりは分かりませんが、私は聞いていて、そんな気がしましたね」
「それで、その子はどうなったの?」
 気の強い蒼雫が敵対している者は少なくない。どうやらあの日、その中の誰かの子が失態を晒すという事故があったようだ。蒼雫は樹燐を自慢に思っている。余所の子と比べて欠点を見つけては、自分の子のほうが優れているのだとよく優越感に浸っている。
 そうは言っても、もしその迷子になった子に何かあったのなら、いくらなんでも愉快そうに語ることはないと実珂は思う。せめて「気の毒」くらいの言葉は出るはず。いくらその親とケンカして蹴りを食らっていたとしても。
「無事だったのだと思いますよ」
「本当?」
「たぶん……蒼雫様に聞いてみましょうか?」
 樹燐は息を飲んだ。その子の安否は当然、どういう姿をしていて、誰の子なのかも全部知りたいのが本音だったが、そんなことに興味を持つ理由がなかった。
 それに、知ったところでどうなるわけでもない。彼と会ったことも、幻を見たことも全部夢。それでいい。そう思わなければいけない。自分のため、母のためにも。
「い、いいえ。お母様に心配をかけるわけにはいかないわ。ただの夢だし、そんなに気になるわけじゃないの。大丈夫よ」
 樹燐は無理に笑い、実珂を安心させた。


+++++



「おい」
 いつものように才戯と一緒に彼の部屋で朝食を摂っていた那智に、才戯が唐突に声をかけた。
「イロマチってなんだ」
 那智は手に持っていたお椀を落としそうになる。
「は?」才戯に厳しい目を向け。「いきなり何なんですか」
「なんでそんな怖い顔すんだよ」才戯は不満そうに那智を睨み返す。「分からないから訊いてるんだろ。さっさと答えろ」
 二人は仲直りして元に戻っただけではなく、那智は前より才戯に遠慮しなくなっていた。
「勉強はまともにしないのに、どうしてそういういらぬことにばかり興味持つんですか?」
「なんだと? 勉強ならしてるだろ」
「頭に入らないならしてないも同然です。大体、そんな言葉、どこで覚えてくるんですか」
 どうやら訊いてはいけないことだったようだ。才戯は「失敗した」と後悔したが、遅かった。
「あ、まさか!」那智は箸を置き、才戯を指さす。「昨日、訓練場であのお二人と一緒にいたとき……そんな話をしてたんじゃないでしょうね」
 才戯は目を逸らして汗を流した。「イロマチ」という一言で、なぜそこまでバレるのか理解できない。
「俺が話してたわけじゃねえよ。あいつらが言ってたのが聞こえただけだ」
「じゃああなたはお二人と何を話したんですか」
「……別に俺は何も。試合を見たくて塔に行ったらあいつらが通りがかっただけだって言っただろ」
「大体、出会ったばかりで、どんな話をしたらそんな言葉が出るんですか」
「あいつらが二人でそういう話してたんだ」
「それを盗み聞きしたとでも?」
「盗み聞きじゃねえ。俺を無視して勝手に盛り上がってたんだよ。意味が分からなかったから訊いてんじゃねえか」
「そんな言葉は覚えて、どうして話した相手の名前は覚えてないんですか」
「一回で覚えられるか」
「普通は覚えます!」

 あのあと塔から出て、他の観客に混ざって試合を見た二人だったが、鎖真を中心とした武神の顔ぶれの中に、才戯と話していた者の姿があった。
 抜き打ちに来る武神の面子はそのときにより、有名だったり無名だったりする。無名だとしてもそれらは目立った行動をしないだけで訓練場の師範代よりはずっと格が上なのは確かだった。今回は有名な中でも断トツなほうだった。「天上界一」と言われる鎖真が率いているのだから当然のことで、その後ろにいる彼らもまた、個性的で派手な武神が揃っているということは、名前を知らなくても想像できるものだった。
 鎖真の「天上界一」というのには、いろんな意味が含まれている。武力、権力、名声、知識、経験など尊敬できる部分だけではなく、暴力、女癖、酒癖という悪い部分も天上界一と言われている。潔癖な依毘士と比べると親しみやすく、彼の周りには人がよく集まる。だが武神という権威の鎧を脱いだときの彼らの流す浮名は――どこまで本当かはともかく――それは酷いものだった。
 檀上の後方に、塔で会った青年がいた。単独で見たときはすぐに名は出なかったが、足を開き胸を張り片手に武器を持った立ち姿を見ていて、那智は彼が「毘沙門天の眷属・暁津」だと分かった。
 那智は、また才戯がとんでもない人と面識を持ってしまったと青ざめた。見た目は穏やかで優しく、実際自分に微笑みかけたあの表情と声は、甘えたくなるような温かさがあった。しかし彼が誰だか分かった途端、外見だけで判断してはいけない人なのだと、那智は気を引き締めた。
 以前に才戯が鎖真と二人で宝庫に入って行ったときから、嫌な予感は絶ち切れない。才戯は勉強はできないが、この気性の荒さとケンカへの積極性から、将来は武神になる、それ以外に道はないのだと思う。できることなら品行方正な武神の下に就き、真面目な大人になって欲しいと願っていたが、この年であの面子と関わりを持ってしまっては、おそらく「今のまま」体だけ大人になってしまうのだろうと絶望することがよくあった。
 まだ諦めるには早いと信じ、できることなら彼の進む道を矯正してやりたかった。しかし那智の心配をよそに、才戯は誰も止められない無頼漢から着々と不良の道に導かれているように見える。いっそただの放蕩者なら厳しく制限できるものの、彼らは血筋も実力も本物で、釈迦からも特別な敬意を戴く存在。とても太刀打ちできそうにない。
 那智はため息をつく。
「ところで、暁津様と一緒にいらした女性はどなたなんですか」
 才戯は珠烙のことを思い出し、機嫌を損ねる。
「知らねえよ」
 那智の前で珠烙は一言も喋らなかった。女装したままだったが、中身は男に戻っていた。それでも、線の細い彼は一見は女にしか見えないため、那智は檀上で武装姿に戻っていた珠烙と「彼女」が同一人物であることには気づいていなかった。
「知らない? あの人とは話してないんですか?」
「話した」
 というか、蹴られた。二回も。しかも騙された。と思うが、才戯は言わなかった。
 那智は口数の減る才戯を疑いの目で見つめた。彼があんな「きれいな女性」を冷たくあしらうとは思えない。
「もしかして」那智は彼の気持ちを知らず、再度人差し指を向けた。「あの人は暁津様の恋仲なのでは?」
 才戯はじろりと那智を一瞥する。
「だから才戯様、妬いているんでしょう」
 その目には「バカかお前は」という思いが込められていたのだが、那智はそこまで読めなかった。
「……それにしても、あの二人がそんな過激な会話をするようには見えなかったけどなあ」
 那智は指を引っ込め、肩を落とした。もう一つ深い息を吐き、食事に戻った。
「あっ、ということは」かと思うと、独り言ち続ける。「暁津様のご結婚が近いということ? でもそんな話、噂にもなってないのに……もしかしたら、私はすごい情報を知ってしまったのでは……ああ、これも永霞様に報告したほうがいいのでしょうか。でも確かじゃないまま言いふらされたら困るし……」
 一人で焦燥する那智を、才戯は止めもせずに先に食事を終わらせた。


 そうして他愛のない時間が過ぎていった。
 三日後、弦のように細い月が浮かぶ空の下、二人の少年少女が再会するまで。




・・・  ・・・  ・・・  ・・・




Copyright(c) RoicoeuR. All rights reserved.