13




 その日の子の刻も、樹燐は一人で夜風に当たっていた。
 これは前からの習慣で、別に何かを待っているわけではない。毎日欠かさず山査子の実の揺れる一輪挿しの手入れを忘れないのも、不当に枝から切り離されたものへの情に過ぎない。
 あれから何も起きなかったし、気になる夢も見なかった。池に映る月は細く、今日の夜は暗かった。肌寒い。樹燐は自分の肩を撫で、そろそろ秋の月見も終わりだと考えた。
 そのとき、またあの音が聞こえた。反射的に山査子の木に顔を向ける。
 するとまた、あの少年がそこに立っていたのだった。
「……やった」才戯は頭に木の葉を乗せ、笑顔になった。「成功だ!」
 樹燐はまた夢を見ているのだと思った、思おうとした。まだ床には入ってないはずなのにと、抗えない戸惑いを隠して。
 才戯は拳を握って庭に走り出た。
「すげえな。本当に移動できてる。夢みたいだ――あっ」
 地を踏み空を仰ぎ、一人ではしゃいでいた才戯は、縁側に人形のように黙って座していた樹燐に、やっと気づく。
「なんだ、お前、いたのか」
 今の樹燐は寝る前の姿で、薄着で髪は下ろしており、本来なら他人に見せていいものではなかった。しかし今はそんなことを気にしている余裕はない。
 相変わらず反応がおかしい樹燐に、才戯は首を傾げながら向き合った。
「俺のこと、覚えてるか?」
 樹燐は瞬きも、返事もしない。
「おい、寝てんのか」
 才戯が近づいてくると、樹燐ははっと我に返るように目を見開いた。
「――来ないで」
「え?」
「これは、夢でしょう?」
 才戯は足を止め、うーんと唸った。確かに、彼女からしたら信じられないことが起きているわけなのだから。
「違う」
「……嘘よ。じゃあ、あなたは何なの」
「何って……お前に会いに来たんだよ」
 樹燐は困惑し、目を泳がせる。
「どうして?」
「うーん」と、才戯はもう一度首を捻り。「気になったから」
 何が、と問う前に、才戯は月を背に、ゆっくりと樹燐に歩み寄った。
「お前、閉じ込められてるんだろ?」
 樹燐は踵を上げ片手を板に着き、警戒の姿勢を取る。才戯は一瞬足を止めたが、また一歩進んだ。
「外に出たいとは思わないのか?」
「……思わないわ」
「なんでだよ」
「私は十分に恵まれてる。今のままで満足してるの。私が外に出るのは、外に出ても恥ずかしくない大人になって、お母様に認められたときだと決まっているの」
 迷いなく答える樹燐の気迫に、さすがの才戯も立ち止まった。
「生まれたときから、そう決まっているの。分かったのなら、もう行って。それ以上近づいたら、人を呼ぶわ」
 才戯はいじけたように口をへの字に曲げていた。俯いた顔は陰り、樹燐には今にも泣き出しそうに見える。
「……分からねえよ」
 才戯の呟くような声は、澄んだ空間ではっきりと聞こえた。
「お前の言ってること、意味が分からねえ」
 それだけ言うと、才戯は手の届く距離まで近づいた。
 樹燐はこれほど無神経な者を見たことがなく、逃げるのも忘れて茫然と彼を見上げた。これは夢だということを思い出して、一度目を閉じて頭を横に振るが、彼は消えなかった。腰が抜けたかのように、足を崩してその場にへたり込む。
「……これは、夢でしょう?」
「夢じゃねえって」
「ど、どうやって、あなたはここに来たの」
「今は術を使って来たんだ。最初は、本当に道に迷っただけだけど」
「術って?」
「一瞬でここに移動する術だ。半刻しか使えないけどな」
 樹燐は真っ直ぐに才戯の顔を見ることができず、風の冷たさとこみ上げる不安で身震いを起こす。そっと音を立てないように後退りするが、才戯は一歩も引かなかった。
「こ、これは夢よ……」
 樹燐は今の状況に耐えられなくなり、体を捻って才戯に背を向けた。
「夢に決まってる。こんなこと、お母様がお許しになるわけがないわ……」
 さっきからお母様お母様と、才戯は樹燐の思考に苛立ってくる。
「なんだよ。こっち向けよ」
「!」
 才戯に腕を掴まれ、樹燐は悲鳴を上げそうになった。やっと向けた彼女の顔は恐怖に怯え、真っ青で震えている。さすがの才戯も怖気づき、手の力を抜いた。
 その隙に、樹燐は強く腕を振り払った。
 才戯の胸の奥に、鈍い痛みが走る。それは、今まで散々喧嘩や悪戯を繰り返して怪我ばかりしていた彼が、初めて感じた苦痛だった。
 しばらく沈黙が流れた。樹燐は自分の胸を押さえ、呼吸を整えている。そのあいだ、どうしていいか分からない才戯は、彼女が落ち着くのを待っていた。
「……夢でいいから」才戯は気まずそうに呟いた。「もう少し、話したい。せっかく、ここまで来たんだし」
「…………」
 樹燐は激しい葛藤に苛まれていた。
 これは夢だ。そう思えば、また朝が来て何もなかったことになる。そう思いたかった。だけど、確かに彼はそこにいて、今自分に触った。
 これほど人の話を聞かず強引に自我を通す人を知らない。あんな風に乱暴に腕を掴まれたことなど、一度もなかった。夢にしては、あまりに刺激が強い。逃げたかった。逃げてしまえば、この夢は終わる。本当に終わらせたいなら、今すぐ人を呼べばいい。
 だけど、それはできなかった。樹燐はその理由を考える。
 急に大人しくなり、これ以上は踏み込もうとしなくなった才戯を見て、同情の気持ちが湧いてくる。
 考える、が、なぜ、どうしてという疑問しか出てこない。そして、分かった。自分は彼をもっと知りたいのだということを。
 夢でも現実でも、なぜ彼がこの閉鎖された空間にやって来たのか。どうして自分に会いに来たのかを知りたかった。だから、逃げることができずにいたのだった。
 樹燐は最後の決断をする覚悟を持った。逃げるか、逃げないか。
 鼓動が正常に戻ってきた。冷静になるよう、自分に言い聞かせる。
 彼は半刻だけと言っていた。ほんの少しの時間だ。誰もいない、一人の時間に、彼の夢を見る。それは、母を裏切る行為なのかどうか、自分のためになる時間なのか否か――。
 樹燐はふっと肩を落とした。
 ――どう考えても、許されない。
 彼の侵入は、今まで築き上げてきたものを壊し、これから進むべき道への妨げになる。
「……ごめんなさい」
 ぽつりと漏らした樹燐の一言に、才戯の胸がもうひとつ痛んだ。
「正直に言うと、あなたに会えて、嬉しかった。元気な姿を見て、ほっとしたわ。でも、やっぱりダメなの。あなたはお母様の与えてくださったものではないから」
 途端に才戯はむっとし、眉を寄せた。
「また『お母様』か。お前はそれしかないのか」
「そうよ」樹燐は遮るように、語気を強めた。「今の私はお母様がすべてなの。あなたが不当に私に会いに来たのは、お母様がお許しにならないからでしょう。つまり私にとって、あなたはよくないものなの」
 明らかに不愉快そうな顔をする才戯に、樹燐は戸惑った。
「ごめんなさい。酷いことを言ってしまって……違うの。言い方を変えるわ。あなたと知り合うことは、今の私には相応しくないということよ」
「はあ?」
「私が子供だから。未熟だから。お母様の許可もなくあなたと知り合って、親しくなる価値は、まだ私にはないの」
 才戯は開いた口が塞がらなかった。
「お前、それ本気で言ってんのか」
「そうよ。おかしいかしら」
「ああ、おかしいな。変だよ」
 今度は樹燐がむっとする。
「そう。変で結構。あなたには関係のないことよ。とにかく、それが私たち家族なの。分かったならもう帰っ……」
「分からねえ」才戯はまた一歩樹燐に近づいた。「分かりたくもねえよ、そんなアホらしい話。聞いてて頭が痛くなりそうだ」
「なんですって……」
「いいから」才戯はまた近づき、声を落とした。「まだ時間があるんだ。座っていいか?」
 樹燐は面食らい、つい「ええ」と頷いて姿勢を正した。
 才戯は厚かましく隣に腰を降ろす。調子の狂う樹燐はさりげなく膝を擦って距離を開けようとする。間近で目が合い、さっと逸らしてしまった。
「あ、あなた、名前は……?」
 沈黙に耐えられない樹燐は、もっと早く知りたかったことを訪ねた。
「俺は才戯だ。夜叉族の才戯」
「才戯……」
「そうだ。ちゃんと覚えろよ。才戯だ」
「そんなに何度も言わなくても……」
「もう覚えたのか?」
「一回で十分よ」
 ああそうか、と、才戯は少々恥ずかしくなった。
「私は……」
「知ってる。樹燐だろ」
「どうして知ってるの?」
「何度も聞いたから」
「何度も? 誰に?」
「いろんな奴に。お前結構有名だぞ」
「え……どうして?」
「閉じ込められてるから。それと、釈迦と同じ日に生まれたから」
「…………」
「俺も同じなんだ。釈迦と同じ日に生まれたんだ」
「本当?」
「ああ。年も同じだ。お前とは、ほとんど同じときに生まれたんだって」
 この単なる自己紹介程度の会話だけで、樹燐は新鮮な空気を吸っているようだった。
 楽しい。もっと話したい。もっといろんなことを聞きたい。それは、幼少のころ、母に絵本を読んでもらっていたときや、空想に思いを馳せていたときの気持ちと似ていた。
 だけど、まだ真っ直ぐに才戯の目を見ることができない樹燐は、何度も目線を上げたり下げたりを繰り返している。
 そんな彼女の緊張感に反して、才戯は違うことを考え始めていた。
 近くで見れば見るほど、好みだった。もっと近くで見たい。
 でも、と思う。ふっと珠烙のことを思い出してしまった。悔しいことに、女装した珠烙も、今まで見たことないがないほど可愛いと思っていた。見た目だけではなく、細部まで行き届いた女性らしい仕草や表情は誰の心も揺さぶるものだった。
 なのにあの仕打ち。珠烙の残酷な悪ふざけは、幼い少年をひどく傷つけていたのだった。
 樹燐に対する恋心は否定できないところまで育っていた。才戯はつい無言になってしまうほど、彼女を見つめる。目線は無意識に、顔から首元へ下がっていく。
 黙って自分を見つめてくる才戯に、樹燐はまた少し後退る。冷たい風が撫でているはずの頬が、ほんのり赤く染まっていた。
 恥ずかしく、胸が高鳴る。照れ隠しでずっと池に映った月に目線を向けたままの樹燐だったが、才戯の気持ちは対極のところに向かっていた。
 珠烙のことがあったばかりの才戯は、どうしても彼女が本当に女なのか、確かめたくなっていた。樹燐はゆとりのある着物を纏っているため、胸があるのかどうか目では確かめられない。そもそもまだ、才戯の好みの大きさになるような年齢ではないのは分かるが、気持ちが募るほど、二度とあんな目には遭いたくないという不安も募っていく。
 手で触ってはいけない。それは学習した。
(だったら……)
 才戯は意を決し、逃げ腰の樹燐に手を伸ばした。
 そして樹燐が逃げる隙もないうちに、強引に引き寄せ、背中に腕を回して強く抱きしめた。
 樹燐が気を失いそうなほどの衝撃を受けているあいだ、才戯は彼女の体を自分に密着させてその感触を「確かめた」。
 あった。そこに、まだ成長途中の、才戯が知りたかったものが確かにあった。
 よし、と心の中で安堵を得る――が、彼にはまだ、恋愛が相手あってのことだということは、理解できていなかった。
 満足した才戯が体を離すと、腕の中で、樹燐は顔を真っ赤にして放心していた。
 このまま抱いていていいならそうしようかと思っていたが、そんなわけがなかった。
 樹燐は壊れた人形のように、突然目を吊り上げた。奥歯を噛みながら、才戯を両手で強く押し返す。
「……帰って」
「え?」
「もう二度と来ないで」
 そう言い捨て、樹燐は這いながら部屋に引っ込んで戸を閉めた。
「おい……!」
「帰って。これ以上近づいたら、本当に人を呼ぶから」
 才戯は焦りつつも、伸ばした手を引いた。また失敗してしまったようだ。しかし何が悪かったのかが分からない。
「なあ」今日はもう諦めようと思い。「分かった。帰る。でも、また来ていいか?」
 返事はなかった。戸を開けたかったが、本当に、これ以上は危険だと感じて踏み止まる。
「悪かったよ。もうしないから……」
 もう少し粘ってみる。
 すると、戸がさっと開いた。許してもらえた、はずがない。覗いた樹燐の顔は何かもを拒絶する憤怒それだった。
 才戯が逃げようとするより早く、樹燐は彼の頬を叩いた。そしてまたさっと戸を閉じる。
「もう顔も見たくない」
「な……」
「大っ嫌いよ」
 樹燐はその言葉を最後に、床に潜った。
 それから、外からは何も聞こえなかった。怒りの収まらない樹燐は、外に取り残された彼がどうしたのかも考えないまま眠りについた。




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