14
次の早朝から、蒼雫は実珂と数人の家来を連れて帝の城を訪れていた。
樹燐の教育係も兼ねて請け負っている実珂は、社会勉強のため、たまに蒼雫に外に連れて行かれることがあった。
蒼雫は北側の城の最上階である五階まで昇り、広場の見える檜板の広縁で足を止めた。家来に椅子を用意させて腰を降ろし、実珂はその隣に立つ。蒼雫は目的を言わなかったが、この場に集まった者の顔ぶれに、実珂は自然と萎縮せざるを得なかった。
失礼にならないように周囲を見ていると、誰も名前が出てくる者ばかりである。だが早朝の清々しい空気に反して、誰もが厳粛な表情を浮かべている。
緊張していた空気がさらに張り詰めた。実珂は釣られるように広間に目線を移す。すると広間の中央に、三人の白装束の者が連れてこられた。髪は乱れ、両手を縛られたそれらは一目で「罪人」と分かる。肌は黄土色に変化し、顔も手足も皺だらけで性別さえ判別できないほど惨めな容貌である。
実珂は嫌な気分になり、息を飲んだ。
群衆の見守る中、依毘士と鎖真の二人が姿を現した。武器は背負ったまま構えることなく、罪人の前方に立つだけだった。
罪人ががくりと膝をついて頭を垂れると、彼らの背後に処刑人の仮面をつけた男が三人、抜き身の刀を手に整列した。
「あの……」実珂が小声で蒼雫に尋ねる。「あのお二方がいらっしゃるということは……」
「そうよ」蒼雫は肘をつき、上がる口角を指先で隠した。「奴らは天の宝を盗んだ大罪人。今からそれの処刑が始まるのよ」
実珂の血の気が引いた。そんなもの見たくないのが本音だったが、おそらく蒼雫が教えたいことは他にあるのだと思う。考えてみると、違和感があった。原則として「天の宝」に分類されるものを汚した罪人の処刑は、確かに依毘士と鎖真の仕事だ。だが彼らは直接手を下そうとはしていない。形式的にそこにいるだけに見える。
「天の宝とは、一体……」
蒼雫は罪人を見つめたまま、目を細めた。
「菩提心(ぼだいしん)よ」
えっと実珂が声を出しそうになった直前、周囲がざわついた。
罪人の首に刀が当てられ、実珂が目をそらすより早く、血しぶきが上がった。誰も声を失っている。そこに漂うのは悲哀、恐怖、落胆、嫌悪、そして歓喜、嘲笑を含めた様々な心模様だった。実珂は異様な雰囲気に寒気を感じ、これが他人にとっては単なる見世物でしかないことを思い知った。
目眩を起こした実珂は蒼雫の家来に水を頼み、柱の影で一息ついた。蒼雫を待たせるわけにはいかないと、すぐに彼女の隣に戻り、頭を下げる。改めて広場を見ると、処刑人も罪人も消え失せ、血痕だけが残っていた。
処刑は終わり、周囲の人もまばらになった頃、蒼雫は背もたれに体を預けて楽な姿勢になった。様子を見て、実珂は蒼雫に問う。
「あの、蒼雫様。菩提心って、どういうことですか? 盗めるようなものではありませんよね……」
菩提心とは無上の悟りを求めて、修行に志す基本となる心のことである。天上人にも人間にとっても徳を積み悟りを開き、高みを目指す者が最初に抱かなければいけないもの。
確かに言い様によっては宝かもしれない。しかし菩提心は盗めるものでもないし、欲しいと思えばいつでも人の心に宿るものだ。人前で処刑されてしまう理由が、実珂には分からなかった。
乾いていく血痕を見つめて暗い顔になっていく実珂に、蒼雫はため息をついた。
「正しくは、菩提心珠(ぼだいしんじゅ)よ」
「え……」
実珂は顔を上げ、目を見開いた。
「奴らは菩提心珠を盗んだの。あの枯れた姿は、体に取り込もうとして失敗したなれの果てね。年の頃や性別どころか、顔も判別できないほど醜くなって……わざわざ罪を問われて正式に処刑されただけ、有難い最期だったのよ」
菩提心珠とは、二根交会で習得した最上の悦びを目に見える形にしたものである。
二根交会、つまり男女の生殖器による交わりのことで、互いに愛し合い、共に快感を極め、脱魂状態へ昇ったあと、女性の性器から取り出された混ざり合う体液を入れ物に封じたもの、それが菩提心珠だった。
菩提心珠は小指の先ほどの大きさで珠の形をしており、ほとんどは女性が大事に守り続けている。蒼雫も例外ではなく、体内の心臓の近くに収めていた。そうやって内に秘めた菩提心珠から放たれる生命力を維持し続けることで若さと美しさを保つことができるのだった。
菩提心珠の価値は二根交会の状態で変化する。高貴なる血筋の、一生に一人と誓い合った強い絆で結ばれた者同士、男女の肉体と心が一つに溶け合うほど時間をかけた愛撫ののち、仏に導かれるがごとく激しく脱魂したときに溢れ、濃く混ざり合った液体ほど、聖なる力を宿すと言う。
さらにそこに処女の血が含まれていれば、なお強く輝く宝となる。
ただし菩提心珠には、今回のように他人の生命力を凌駕し、命を奪う力もあった。扱い方を誤ってしまうと、逆に力を吸われ、心も体ももぬけの空となってしまうのだ。一度邪な心に触れた菩提心珠は邪悪なものとして処分される。浄化されるまで何十年もかかるもので、盗んだ者だけではなく、管理する者にも冷たい目線を送られる。
菩提心珠の扱いは難しく、その性質は悪に利用されやすい。今回のように強奪し力を得ようとする者だけではなく、禁断の呪術の道具となることもあった。
それは二根交会中に命を落とした者の体液で作られた菩提心珠だった。女が跨ったまま男の首を絞めて殺すと、息絶える瞬間に射精することがある。男性の生殖本能がさせる現象を利用したもので、そうして造られた菩提心珠には人を呪い殺す力を宿すとして恐れられている。この術を使えば、呪いをかけられた者だけではなく、かけた者も例外なく醜悪で悲惨な最期を迎えることになる。
だがこういった話もどこまで本当なのかを証明されているわけではなかった。今までに成功したことがあったとしても、関わった者すべてが原型を留めないため、証拠は残らないと言われている。今では大人の御伽話として楽しまれているものの、単に帝もその部下も、触れたくない事実から目を逸らしているだけではないかと勘繰る者も少なくなかった。
様々な逸話を持つ菩提心珠だが、愛情溢れ、女性の体内で大事に守られながら宿し育まれた生命力は輝かしいものだった。ゆえに「天の宝」に分類されている。
しかし本当に聖なる力を持つ菩提心珠は数少なく、それらは大抵持ち主の体内にあり、表に出ることはほとんどない。誰にでも造ろうと思えば造れるもので、世には質の悪いもののほうが多かった。男女の慕情のもつれや個人的な恨み妬みなどによる盗難や破壊は、実り人知れず落ちて土に還る果物と同様、罪に問われることはなかった。
価値のあいまいなこの件について、本当は依毘士と鎖真はあまり関わりたくないと思っていた。
ただし今回は、名は公表はされなかったが、かなり価値の高い菩提心珠だということで、蒼雫も興味を持っていたのだった。
「たぶんだけどね」蒼雫も血痕を見つめ、微笑む。「盗まれたのは迦楼羅の眷属なんじゃないかと思うの」
「え……そ、そういえば」
少し前に迦楼羅の若い娘が祝言を上げた話を聞いた。若い夫婦で、仲睦まじく歩いていたところを見たこともある。とても幸せそうだった。女にとって菩提心珠は愛の証。こんなことになってしまって、実珂は可哀想に思う。
「間抜けな子ね」だが蒼雫は同情していなかった。「きっと浮かれていて、隙を見せたのでしょうね。こんな騒ぎになってはもう堂々と表には出られないことでしょう」
「そうならないように、誰のものか公表されないのですよね」
「隠しても分かるものよ。価値ある菩提心珠はそこらに転がってるわけじゃないのだから」
菩提心珠を作る身分ではない実珂には何も言えなかった。盗まれた被害者を哀れむことすら烏滸がましいのだと思う。
今回蒼雫が自分を連れてきたのは、いつか樹燐もこの宝を手にするときがくること、そして菩提心珠がどれだけの価値があるのかを学ばせたかったに違いない。実珂は虚しくも汚らわしい血痕をもう一度見つめ、心に留め置いた。
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蒼雫は帰る途中、金細工の職人のところに立ち寄った。家に着いた頃には巳の刻になろうとしていた。
樹燐は実珂のいない時間、別室で一人、琴の練習をしていた。蒼雫が聞こえてくる美しい音色に耳を澄ます。
「なんて綺麗な琴の音でしょう」
実珂の手には赤い紐の結わえてある箱があった。
「樹燐様ですね。上達がお早くて、先生も驚いていましたよ」
すっかり機嫌のよくなった蒼雫は足早に樹燐のいる部屋へ向かった。
蒼雫の姿を見て、樹燐は手を止めて駆け寄った。
「お母様、実珂、おかえりなさいませ」
「ただいま、樹燐」蒼雫は膝を折り、樹燐を抱きしめる。「琴の音、聞こえていましたよ。なんて素晴らしいの。もう先生を超えてしまったのではないのかしら」
「ありがとうございます」樹燐は照れながら。「でも、まだまだ先生には及びません。追いつくように、頑張って練習しているところです」
「あなたは私の自慢の娘よ。あ、実珂、それを」
一歩引いて正座する樹燐の前に、実珂は箱を置いた。
「樹燐様。これ、蒼雫様からの贈り物です」
「贈り物?」
「前から職人に注文していたのよ」と蒼雫。「近くを通ったから、寄って受け取ってきたの」
樹燐は期待を膨らませ、逸る気持ちを押さえて紐を丁寧に解いた。蓋を開けると薄い絹の布に包まれたものがあり、樹燐はそっとそれをめくる。そこにあったのは、目が眩むような金のかんざしだった。
樹燐は目を輝かせ、こみ上げる喜びを堪えきれない。
それはまるで糸ほど細い金が複雑に、そして正確に編み込まれた見事な金細工だった。金の装飾品は今までいくつも貰ったが、これほど繊細なものは初めて目にする。
隣から実珂が覗き込み、樹燐と同じように破顔した。
「素敵……樹燐様、着けてみてください。似合いますよ」
「でも、触って平気かしら。解けて壊れてしまいそうだわ」
浮かれている二人を微笑ましく見つめる蒼雫も、幸せそうだった。
「大丈夫よ。糸のようだけど、本物の金なのだから」
樹燐は小さく頷いて、それに指で触れた。取り出すと、同じく糸のような金でできた豆鈴が揺れ、ちりちりと可愛い音を奏でる。掌に乗せ、上下左右から眺めてみる。そこには大振りな牡丹から羽ばたいていく鶴が描かれていた。
樹燐は蒼雫に笑顔を向けたあと、着けていたかんざしを取り、代わりにそれを差し込んだ。実珂が膝立ち、整えていく。
「どうかしら、お母様、似合いますか?」
「ええ。よく似合いますよ」蒼雫は胸元から手鏡を取り出し、樹燐に渡す。「あなたのことを思いながら注文したのだから、当然です」
樹燐は鏡を見ながら、頬を赤く染めて目を細めた。
「ありがとうございます、お母様」
「私もよくお似合いだと思います」と実珂。
「ありがとう」樹燐は鏡を見つめて。「嬉しいわ。私はこのかんざしが似合うほどの女性になれたということなのね……」
樹燐にとって、蒼雫からの贈り物、蒼雫の笑顔は自分の成長の証だった。
樹燐は動くたびに耳の近くで鳴る豆鈴の澄んだ音が気に入り、部屋に戻っても金のかんざしを着けたままにしていた。
実珂が食事の準備を始めた頃、傷をつけないよう、外して箱にしまった。
その日の夜、樹燐は化粧台の上においていた箱を開け、嬉しそうにかんざしを再度見つめていた。そのうちに、近くにあった山査子が視界に入り、すっと笑みが消える。
昨夜のことを思い出し、眉を寄せた。
不愉快だった。蒼雫や実珂、そして自分自身、大事にしてきたものに、不躾に手垢をつける才戯が。もうあれが夢でも現実でもどっちでもいいと思う。
あれだけはっきり拒絶したのだ。もう、彼は来ないだろう。
そう思うのに、今日も一輪挿しを磨き、山査子の水を取り換えた。いくつかの実が落ちた。もうだいぶ、枯れ始めていた。
生気を失った植物を傍に置くのはよくない。普通ならもう捨てている。
これが枯れたとき、忘れると決めていた――。
樹燐はもう今季の月見はやめるつもりだったのに、足音を忍ばせて縁側に近づいた。少しだけ戸を開け、庭を覗く。しばらく見ていたが、今日はなんの変化もなかった。
当然だ。あんなふうにあしらわれて、のこのこやってくるわけがない。
樹燐は寂しさを自覚しないまま、その日は静かに床に入った。
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