15




 次の朝の寝覚めは最悪だった。
 天候はよく、朝日も空気も心地いい。だが樹燐は今までにないほど、自分の体が重く感じていた。
 のそのそと床から這い出て、化粧台の前で髪を解き始める。鏡に映った情けない自分の顔を見て、ああ、と声を漏らしてしまった。
 昨夜、なぜか寝つきが悪く、眠りも浅いまま朝を迎えてしまった。原因は分かる。注ぎ込む朝日を浴びている、枯れかかった山査子を樹燐は横目で確認した。
 もう来なくていいと思ったし、来ないでと言った。なのに、才戯は本当にもう来ないのだろうか、来ないと決めてしまっているのだろうかなんてことを考え始め、眠れなくなっていたのだった。
 来るなと言ったはいいが、彼の返事を聞いていない。一方的に戸を閉じてそれすら拒否したのも自分だと分かっているが、今更、確認すればよかったなどと思う。
 来ないと分かっていれば、気にならない。来るかもしれない、来ないかもしれない……どちらかだけ、その答えを教えるためにまた来て欲しいというのが、樹燐の中の願望になっていた。
 鏡に目線を戻したとき、昨日母からもらったかんざしが目に入った。じっと見つめたあと、自分の頬に両手をあてて気持ちを入れ替える。
(しっかりしなきゃ。これよりもっといいものをお母様からいただくために、もっと自分を磨くのよ)
 よし、と気合を入れ、樹燐は着替えるために立ち上がった。
(……二度と会えないわけじゃないわ。私が一人前になって外に出られるようになったら、きっと、どこかで会える)
 だから、今はやるべきことに集中しよう。それでいいと、樹燐は山査子から目を逸らした。
 背を向けたとき、山査子の実が一つ、音も立てずに落ちた。


 その日の未の刻、樹燐は習字の練習のため、別室で一刻ほど過ごした。
 寝不足だったがなんとか集中でき、部屋で一休みしようと思いながら戻ったときだった。

 庭の掃除をしていた実珂が樹燐を出迎え、いつものように茶菓子を用意しようとした、そのときのこと。
 樹燐は部屋に違和感を覚えた。
 ――山査子が、なくなっていたのだ。
 化粧台の隣の棚の上に置いていた一輪挿しだけが残っていた。
「実珂……!」
 一輪挿しを手に取り、樹燐は大きな声で実珂を呼んだ。実珂は驚いて引き返してくる。
「どうしました?」
「これ……」空の一輪挿しを見せて。「中はどうしたの?」
「枯れていたので、処分しましたが……」
 樹燐は言葉を失って、肩を震わせた。
「周りに実がいくつも落ちていて、汚れていたので……いけませんでしたでしょうか」
 様子のおかしい樹燐に、実珂は戸惑い始める。
 樹燐はしばらく一輪挿しを睨みつけたまま動かなかった。実珂が様子を伺おうと近寄ったとき、突然、樹燐は大声を上げた。
「どうしてそんな勝手なことをしたの!」
 実珂は目を見開き、体を引いた。
「あの実をどうするかは、私が決めるの。私のものを、勝手に捨てるなんて……誰が許したのよ!」
 実珂は動揺し樹燐の前に座り込み、両手をついた。
「も、申し訳ございません」声が上擦ってしまう。「樹燐様のお心持ちを、察することができませんで……お許しください」
 実珂は額を床に擦るほど、頭を下げる。そのまま、何度も謝罪を繰り返した。
 樹燐もまた、動揺していた。
 山査子の実は近いうちに捨てようと思っていた。なのに、なくなると途端に胸が絞めつけられた。しかも、実珂に悪気がないのはよく分かっているのに、興奮して八つ当たりしてしまっている自分が信じられない。
「わ、私こそ……」樹燐は必死で感情を抑えた。「大きな声を出してしまって、ごめんなさい」
 土下座する実珂に座り、顔を上げるように肩に手を当てた。
「……もう捨てなくちゃいけないのは、分かっていたの。でも、私が初めてお世話した生き物だったから、愛着が湧いてしまっていて……それだけよ」
 樹燐は呼吸を深くしながら取り繕った。実珂は顔を上げて、改めて謝罪する。
「申し訳ございません。仰るとおりです。樹燐様が戻られるのを待つべきでした。枯れていたとはいえ、樹燐様の持ち物を私の判断で処分するなんて、浅はかでした。深く反省いたします」
「いいの」樹燐はやっと落ち着きを取り戻し始めた。「あなたは悪くないわ。枯れていたのだし、掃除も実珂の役目で、今までそうしてきたものね……あなたは当然のことをしただけよ。もう忘れて、これからも、そうしてちょうだい」
 実珂は唇を噛み、涙を落とした。
「いいの……」
 これでいい。
 樹燐は虚ろな目で、これでいいと、心の中で繰り返した。
 枯れたら忘れると決めていたのに、枯れても捨てず、忘れようとしなかった。卑怯だったと、自分を責めた。


 実珂はいつまでも元気のない樹燐に気を遣い、あれこれと手をかけようとした。
「あの、蒼雫様にお願いして、生花を飾りませんか? いろんな種類や色の花を選ぶのも楽しいですし、樹燐様ならその審美眼で美しい作品ができあがりますよ」
「ええ。楽しそうね……でも、他に勉強しなければいけないことがあるから、今はいいわ」
「で、では、小鳥を飼ってみませんか? もちろん私もお手伝いいたしますから。可愛らしい姿や鳴き声は癒されますよ。それに、命の大切さ、尊さを学ぶこともできると思うんです」
「ええ……」
 だが樹燐はぼんやりした様子で、「少し疲れたから休みたい」と言って、彼女に退室を命じた。母にこのことは言わないようにと伝えて。
 居た堪れなくなった実珂は、自室でまた泣いていた。


 子の刻、空になった一輪挿しを隣に置いて、樹燐は縁側で池に映った月を見つめた。もう月見はやめたはずだったのだが、この日はいつもより長くそこに居た。
 ずっと待った。
 だけど、葉の揺れる音さえしなかった。
 樹燐の頬に、涙が伝う。
 全部、自分が悪い。実珂が山査子を捨てたのも、決められていたことだったのだと思う。やはり、まだ自分には早かったのだ。母に秘密を持って、見知らぬ少年と知り合うなど、まだ自分にその価値はなかったということ。
 袖で撫でるように涙を拭うと、嗚咽が漏れた。
 欲張ったせいで、才戯にも実珂にもひどいことを言ってしまった。後悔しながら、胸中で何度も謝った。母を裏切ろうとしたことも、全部後悔しながら。


+++++



 次の日、樹燐は朝から蒼雫にもらった金のかんざしを着けていた。鏡で何度も自分の姿を確認し、指先からまつ毛まで整える。
 様子を伺うように訪れた実珂に、屈託のない笑顔を見せた。
「実珂、おはよう」
 想像していなかった樹燐の様子に実珂は驚いて、戸惑いながらの返答になった。
「お、おはようございます。いつもよりお早いですね」
「今日はすごく気分がいいの。このかんざし、ずっと着けていたいのだけど、いいと思う?」
「ええ、もちろんです」実珂は安堵し、いつもの笑みを浮かべた。「今日は舞踊のお稽古があります。きっといつも以上に美しい舞いになりますね」
「そうね。これを着けていると自然と背筋が伸びるわ」樹燐は再度鏡を覗き込み。「どんどん自分が綺麗になっていくと感じるの。そのうち、この世から私以上に美しい宝石がなくなってしまったと、お母様を困らせてしまうかもしれないわね」
 そんな冗談を言いながら目を細めた。
 実珂はこれほど前向きになっている樹燐を見たことがなかった。どんな心情の変化かは分からないが、決して悪いことではない。昨日のことで少女を傷つけてしまったと伏せっていた自分を情けなく思った。

 樹燐は今までにないほどの葛藤と後悔を経たあと、現実を見つめた。
 もう枯れた実は処分され、どこにもない。そして、彼ももう来ない。
 あるのは、母にもらった高価な金のかんざし。それが意味するものを考え、胸を詰まらせた。
 あんな地に落ちた枝の一本にどうして執着していたのか、この煌びやかなかんざしを見ていると馬鹿ばかしく思う。実珂が捨ててくれたことには感謝しなければいけない。
 これは神示だ。目に見えない力が、迷いかけた自分を正しい道へ導いてくれたのだ。
 だから樹燐は母から与えられたかんざしをしっかり身に着け、さらなる高みを目指すと決意したのだった。

 なのに――鬼の子は、また現れた。

 その夜、月の光はほとんどなかった。
 見間違いではない。暗い空の下でも、少年の大きな角の形ははっきり分かる。
 まるで呪いにかけられているようで、樹燐は縁側で立ち竦んでいた。
「……どうしてあなたは、またそこにいるの?」
 その問いかけは、才戯には唐突だった。
「もう実は枯れて捨てたの。私には綺麗な着物や装飾品が……私には、私を証明するものが必要なの」
 才戯は相変わらず意味の分からない彼女の言葉に眉間にしわを寄せる。
「何言ってんの、お前」
「……何も残さずに消えゆくものは、もう見たくないの」
 樹燐の目は虚ろで、只ならぬ雰囲気を醸し出している。
 怒らせたことは覚えている。まだ根に持っているのかどうか、会ってみないと分からないと考えた才戯は、軽い気持ちでここへ来た。
 今の樹燐は、感情を剥き出しにして怒ったあのときよりも近寄りがたかった。
 何も残さずに消えゆくもの――才戯は一応、彼女の言葉の意味を考える。
「それって、俺のことか?」
 樹燐はわずかに瞳を揺らした。しかし、はいともいいえとも答えない。
 才戯は彼女の言いたいことを聞くより先に、ここへ来て言いたいことがあった。
「お前、こないだ俺と会う価値はないとか言ってたよな」
 樹燐の中に、あの感情が蘇ってきた。もっと知りたい、という欲求が。
「そんなの、勝手に決めるなよ。俺はお前に会いたいから来てるんだ」
 たぶん、と思う。今から彼は、誰にも言われたことのない、想像もしていない言葉を口にする。
 そう予感するだけで、目頭が熱くなった。
「お前には、俺が会いたいと思う価値があるんだよ」
 唇が震え出した。抑えるために少し噛みながら、降ろした髪と白い着物の掛け襟に手を当てる。
「……今の私、化粧もしてない。綺麗なかんざしも着物も着てない。あなたは、私のこと、何も知らない。なのに、どうしてあなたに私の価値が分かるのよ」
 そう言われると、答えられない。才戯は困ったあと、すぐに開き直った。
「分かった。それは今度考えてくる」
「今度?」
「次に来たときだ。三日後な。そういう術なんだ」
 半刻だけというのは聞いたが、三日後というのは初耳だった。だから彼はすぐに来なかった。それだけだった。才戯は何も悩んでなどいなかった。
 とうとう、樹燐は涙を落とす。
 我慢したが耐えられなかった。それでも、これ以上泣かないようにぐっと感情を抑えた。
「なんだよ、泣いてんのか?」
 才戯にはなぜ樹燐がいちいち泣いたり怒ったりするのか理解できない。女が繊細で神経質で、感情の変化が激しいのはなんとなく知っている。だがそれを制御する方法は知らない。
「泣いてないわ」
 樹燐は必死で涙を堪え、それでも流れるものを指先でそっと押さえるように拭う。
 才戯は何も考えずに彼女に近寄り、顔を覗き込んだ。
「泣いてるじゃないか」
 そう言って無神経に伸ばしてきた手を、樹燐は素早く払った。
「触らないで。泣いてないの。泣いてはいけないの」
「は? なんでだよ」
「泣いたら目が腫れて顔が浮腫むでしょう。だから泣いてはいけないと、お母様に教えてもらったの」
 また始まったと才戯は思う。
「大きく口をあけて笑うことも、怒鳴ることも禁止なの。品がないし、皺になるから。喉も傷めてしまうのよ。毎日気を使っているの。だからそんな汚れた手で触らないで」
 そう言って樹燐は顎を上げ、鼻をすすりながらつんと顔を背けた。
 才戯は樹燐の虚勢には興味すら持たず、縁側に上がり込み、両手で彼女の肩を掴んで引き寄せる。
「ちょっと……何するの」
 才戯は嫌がる樹燐の顔をべたべた触り続けた。
「やめて……!」
 樹燐はつい大きな声を上げそうになったが、すぐに口を閉ざした。耳を澄まし、部屋の向こうに人の気配がないか確認する。深夜特有の静かな空気だけがあった。
 顔を掴んだまま離さない才戯の手を振りほどこうとしても、彼は腕に力を入れて抵抗を見せた。
「……何なのよ」
 至近距離でじっと見つめられ、樹燐は赤面し、目を泳がせる。
 これ以上の沈黙に耐えられなく、また、涙が出てきた。
 一瞬戸惑った才戯は手を緩める。また突き飛ばされるか逃げられるかと思った。
 しかし樹燐は泣き顔を隠すように、才戯の肩に額を当てた。




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