17




 三日後の夜、樹燐は縁側に出て才戯を待った。
 だいぶ空気が冷たくなった。長い時間外に居ることを想定し、薄い肌掛けを肩から被って膝を抱えた。
 いつもならもう月見は止めている時期である。だけど今は月見のためではない。樹燐はもう言い訳をせず、明確に「才戯に会うため」にそこに居た。
 しばらくすると山査子の木の下から彼が現れた。才戯はもう当然のように樹燐の隣に腰を降ろした。
「こんばんは」
 樹燐が改めて言うと、才戯は「ああ」とだけ答える。
「いつもこの時間ね。それも決まっているの?」
「いや、俺が先に寝たふりして、那智が寝るまで待ってたら大体このくらいなんだ」
「なち?」
「俺の付き人。口うるさい奴なんだ」
 付き人がいるということは、彼はやはり高等な血族の人なのだと樹燐は思う。見ていて、そういう感じはしないが。
「ねえ、才戯の夢は何?」
「夢?」
 月の光の弱い夜は星の瞬きが強く見える。それらを眺めながら、才戯は考えた。
「とくにないけど、強くなりたい」
「強く? 武神になるってこと?」
「そうなのかな」
「何か努力しているの?」
「訓練とか、いろいろ」
 ケンカもしょっちゅうしている、と言おうとしたが、また妙なことを言い出われそうな気がして止めた。
「なれそうなの?」
「なれるだろ」
 あっさりと答える才戯に樹燐は拍子抜けした。
「そんなに簡単になれるものなの?」
「俺は強いからなれる。体が大きくなれば、誰にも負けない」
 武道や武術のことをよく知らない樹燐は「そういうものなんだろうか」としか思わない。
「そっか」
 それだけ言うと夜空を見つめ、少しの沈黙の間にあの恋人の絵画を思い出した。
「ねえ、才戯は恋したことってある?」
 樹燐の何気ない質問に、才戯は意味を考え、それから違和感を覚えた。すぐに返事をしない彼に、樹燐は首を傾げた。
「好きな人とか、いるの?」
 再度訊いてくる樹燐に才戯は目線を向け、とりあえず答える。
「……うん、まあ」
「そうなの?」樹燐は驚いて背筋を伸ばした。「やっぱりあなたは自由なのね。他の人もこのくらいの年で自由に恋愛しているの?」
「する奴もいるし、しない奴もいるんじゃねえの」
「相手はどうやって選んでいるの? 誰かに教えてもらっているの?」
「いや……他の奴はどうか知らねえけど、てきとうに……」
「てきとう? そんなものなの? 才戯はどうやって相手と知り合って、どうして好きになったの?」
「…………」
 興味津々な樹燐の様子に反して、才戯は苦虫を噛んだような顔になっていた。彼女がどうも何か勘違いをしているような気がしてならなかったからだ。
「……もしかしてお前さ、俺がどうしてここに来てるか分かってないのか」
「え?」
「え、じゃなくて、どうして俺がお前に会いに来てるのか、分からないのか?」
 身を乗り出して詰め寄る才戯に、樹燐は体を引いた。何回か目を泳がせ、閃いたかのように目を丸くする。
 そして何かに気づいたように樹燐は頬を赤く染め、慌てて膝を抱え直して縮こまった。
 やっと分かったか、と、才戯も座り直して溜息をつく。
 しかし樹燐は彼の期待を裏切った。
「ダメよ」
「は?」
「私はまだ恋愛なんかできないの」
 もう「なぜ」とは思わない。どうせまた「お母様」の許可がないとでも言うのだろう。
「そんなの知るか」才戯はふんと鼻を鳴らし。「俺はお前に会いたいから会いに来てるんだ。お前だっていつもここで待ってるじゃねえか」
「またそういう嫌な言い方をする」
「お前も俺のこと好きなんだろ」
「それは……」
 樹燐はさらに顔を赤らめる。好きかどうかを考えたことはなかったが、今までの自分の行動や気持ちを振り返ると否定はできない。
「……でも、私は他の人と結婚するかもしれないのよ」
 才戯は再度「はあ?」と呆れた声を上げた。
「私は鬼子母神を継承するの。私の夫となる人は、そんな私に相応しい相手でなければいけないのだから」
「何言ってんだよ」
「そうでなければお母様に怒られてしまうの」
「ああもう、お前はバカか」才戯は苛立ちを露わにして。「好きとか嫌いとかって、そういうものじゃないだろ」
「才戯こそどうして分かってくれないの。私はあなたと違うの。私はこれからもずっと、間違えたり傷ついたりしてはいけないの。今の私には誰を好きになるかなんて決める資格はないの」
 才戯は奥歯を噛み、喉を唸らせた。言いたいことがあるというより、怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られる。だがここで騒ぐわけにはいかないし、そんなことをしたらまた泣かれてしまう。才戯はぐっと堪えて頭を抱えた。
 そんな彼の様子を見つめ、樹燐はだんだん申し訳ない気分になってきた。
「……あなたは、私と結婚したいの?」
 呟くような小さな声に、才戯は俯いたまま頷いた。
「いくら自由でも、まだ私たち子供よ。もし私と縁がなかったら、あなたは別の人を探さなければいけないでしょう。そんなに簡単に答えを出せるものではないと思うの」
「それでも」才戯は顔を上げ、目を合わせた。「俺はお前が他の奴と結婚するのが嫌なんだ。俺以外の男と親しくするなんて、許せない」
「……なにそれ」
「惚れるってそういうことなんだよ」
 率直で情熱的な才戯の態度に、樹燐は照れを隠せず、戸惑う。顔が熱くなっているのが自分で分かるが、夜風に吹かれても冷めそうになかった。
「どうして私なの」
 肌掛けを整えながら夜空を見上げる。いつの間にか、池に映る月を見なくなっていた。
「外の世界にはいろんな人がたくさんいるんでしょう。あなたは自由なのに、どうして人目を忍んでまで私に会いにくるの」
 才戯は彼女に伝えたかったことがあったことを思い出した。
「あ、そうだ――俺たち、前世で恋人だったらしいんだ」
 唐突な才戯の言葉を、樹燐はすぐには理解できなかった。少し顔を傾け、じっと彼を見つめた。
「なんかうまくいかなくて、来世で必ず結ばれようって約束してたんだって」
「…………」
 再度、樹燐はあの恋人の絵を思い浮かべた。
 もしあれが自分たちの姿だとしたら、未来のものだと思っていた。しかし今の話を聞いた途端、もしかして過去のものだったのかもしれない、そんなことを想像した。
 寝ぼけているかのような樹燐の表情に、才戯はまるで自分が世迷言を言っているようで恥ずかしくなり、痺れを切らす。
「おい、聞いてんのか」
「……ええ。聞いてるわ」
「だったらなんか言えよ」
「とても素敵な話だと思うわ」
 取り繕ったような返事に、才戯は不満そうだった。この話を教えた珠烙のことはもう忘れたかったが、前世の話は自分自身の言動に納得できる理由になっていた。なのに、樹燐にまさかこんな態度を取られるとは思っておらず、苛立ちが止まらない。
 本当は樹燐もまた、彼以上に胸に来るものを感じていた。前世で何があったか分からないが、愛し合った者同士が引き裂かれ、死んでなお惹かれ合うなんて、これほど劇的な恋愛が他にあるだろうか。
 もしそれが本当なら、彼が偶然ここに迷い込んだことも、樹燐が外界から隔離された存在なのも、すべて運命なのだと思える。
 密かに、樹燐の胸が躍った。あの絵に描かれた恋人のように自分もなれるのだと、想像だけで幸せになれる気がする。
「……とても、素敵。でも――」
 まだ受け入れることはできなかった。
「――そんなの、ずるいわ」
 まだ反抗する樹燐に、才戯は肩を落とす。
「なんだよ、ずるいって」
「もしかしたら、私たちはあなたの言うとおり前世で悲しい別れをした恋人だったかもしれない。だけどそれを証明するものは何もないでしょう?」
 確かに、と才戯は思う。しかも聞いた相手はあの珠烙だ。どこまで本当か分からない。
「それに、将来が決まっていて、それを知ることができるのなら、私は何のためにお母さまの言いつけに従って努力しているというの?」
 樹燐は返事に困っている才戯に向き合った。
「もし私がお母様の子供じゃなかったら、才戯とは出会えなかったの?」
 問いかけられるたびに考えてみるが、才戯は眉間に皺を寄せるだけで答えは出ない。
「才戯は、ここに居たのが私じゃなかったら好きにならなかったの?」
「うーん……」
 そう声を漏らす才戯は考えているようで、実は考えていなかった。考える努力はしているのだが、樹燐の言葉の「もし」を想像しようとしても、ありもしないことを画にするほどの想像力がなかったからだ。
 夜風に当たってじっとしていると肌寒いうえに、意味の分からない話を続けられ、だんだん眠くなってきた。
「ねえ」
 樹燐は俯く彼の顔を覗き込むように背を丸める。
 才戯ははっと顔を上げ、半分寝ていたことを隠すように慌てて口を開いた。
「寒い」
 樹燐は面食らったが、頬に当たる風は冷たい。自分だけ肌掛けに包まっていることを悪く思う。
「そ、そうね……待ってて、何か掛けるものを取ってくるわ」
 樹燐が部屋に戻ろうと背を伸ばしたが、才戯はそれを待たなかった。
「いい。それ貸してくれ」
 才戯は手を伸ばし、樹燐の肌掛けを掴んで引き寄せた。
「え、ちょっと……」
 まさか自分から剥ぎ取るつもりなのかと樹燐は疑うが、才戯の遠慮知らずは彼女の想像を超えていた。
 才戯は樹燐と肌掛けの隙間に腕を突っ込み、彼女に抱き着いてきた。
「何をするの……!」
 樹燐は弱々しくも抵抗を見せるが、才戯は強引に彼女の脇の下に片手を回し、もう片方の手で肌掛けを奪い取り体に巻き付ける。揉み合っているうちにずるずると床を移動していき、そのうちに、樹燐は背後から、才戯の手足にがっちりと捕まえられた形になった。
 これほど異性と密着したことはなく、その感触に樹燐の顔が真っ赤になる。高熱が出たかと思うほど、自分でも顔が火照っているのが分かった。腰から回された彼の腕を掴んで押してみるが、まったく動かない。
 才戯は動揺している彼女の気持ちなど知らず、樹燐の肩に顔を乗せる。
「あー、温かい」
 満足そうに呟く才戯だったが、樹燐は緊張で声が出なかった。
「……このまま眠りたいな」
 こうして一つの肌掛けの中で抱きしめられることの意味を、まだ彼女は知らない。本当に嫌なら、振りほどくことはできた。だけどしなかったのは、才戯の言葉のとおり、温かかったからだった。
 じっとしているうちに、緊張も解けてきた。樹燐も「このまま眠りたい」と思う。
「……ねえ」
 樹燐の小さな声は、落ちてきた静寂を破るには十分なものだった。才戯は閉じていた瞼を揺らす。
「聞きたいの。才戯は、私のこと、好きなの?」
 樹燐は自分の気持ちを自覚し始めていた。どうして彼がここに来るのか、どうして自分が理解できない彼を受け入れているのか。これが、恋というものなのか。
 才戯は当然のように、頷いた。
「じゃあ……私のこと、綺麗だと思う?」
 才戯はまた頷いた。しかし樹燐は納得しない。
「言って。聞きたいの」
「……眠いんだよ」
「言ってよ。私にとって自分を磨くことは生き甲斐なの。そうじゃなくちゃダメなの。才戯は、本当に着飾ってない私を綺麗だと思うの?」
 才戯は面倒臭そうに樹燐の肩に額をこすり付けた。彼の大きな角が後頭部に当たる。
「……綺麗だよ。お前が綺麗じゃなかったら、そこらへん、醜女だらけだよ」
 投げやりのような才戯の言葉に、樹燐は不満が残った。聞きたかった答えなのに、物足りない。
 そんな彼女に、才戯は寝ぼけた声で続けた。
「それだけじゃないだろ。温かいし、柔らかくて、気持ちいい」
 樹燐の顔がまた赤くなる。
 才戯はもっと欲しがるように、彼女の体に回した腕に力を入れ、更に体をくっつけてくる。どさくさに片手を動かし、薄い服の上から胸を触ろうとしてきた。
 樹燐は悲鳴を堪え、慌てて爪を立てて彼の手を強くつねる。さすがの才戯も激痛に一瞬顔を上げ、大人しく諦めた。
 温かくて、気持ちいい。このまま眠ってしまいたい。
 樹燐も同じ気持ちだった。
 もっと冷たい風が吹いて、ずっとこうしていられる理由が欲しいとまで思う。
 時間が止まっているようだった。
 温かくて、幸せだった。

 夢現に微睡かけたとき、ふっとその幸せが掻き消えた。
 音も立てず、肌掛けが床に落ちる。
 途端に冷たい空気に曝された樹燐は驚き、目を見開いて振り返る。才戯の姿がどこにもなかった。
 いつの間にか半刻が過ぎ、術が解け、才戯は強制的に引き戻されてしまったのだった。

 どこまでが現実でどこまでが夢なのか、頭の中を整理するのは時間がかかりそうだった。樹燐は困惑し、しばらくその場で茫然と佇んでいた。




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