18
朝、樹燐は腑に落ちないまま目を覚ました。起きて鏡と向き合い、自分を見つめながら、昨夜のことが夢だったのではと思う。
不思議だった。あの温かさも、彼に抱きしめられた感触も覚えている。だけど、それを証明するものは何もなかった。才戯の名を呼んで、彼を探して見つかるならそうしたい。また二人で温め合って、できることなら一緒に眠りたい。
これはただの夢なのだろうか。夜の短い時間だけ会って話して触れ合う。そこにどんな感情や思いが育とうと、朝が来れば全部消え去ってしまう。
本当は、才戯なんて少年はどこにも存在しないのかもしれない。夢の中にだけ現れる、幻、だとしたら、いつまでこの夢は続くのかという不安がこみ上げた。
樹燐の胸の奥に、引っかかれたような痛みが走る。母への罪悪感は、もうない――忘れてしまっていた。
しばらくすると実珂が元気に挨拶しながらやってきた。
いつもの日常だった。
だが、もしかしたら実珂のいる明るい時間のほうが夢なのかもしれない。そんなことを考えた。
それでも、樹燐には与えられたものしかない。目の前にある現実が夢であったとしても、今までと同じように決められた道を進むしかできなかった。
ここ数日、樹燐は母や実珂からの賞賛より、彼に会っている時間のほうが大事に思えていた。
誰にも言えない辛さを隠し、樹燐は才戯が会いに来るまでの三日間、逸る気持ちを隠して待ち続けた。
その夜が来た。
樹燐はまた肌掛けを被って縁側に座った。
会いたい。
夢でもいい。早く。
いつもの時間が過ぎる。いつも才戯が出てくる山査子の木の陰を見つめていた。時々、月を見上げる。
(……遅い)
ずっと続いていた胸の高鳴りが、次第に、鈍痛に変わっていく。
いつもの時間はとっくに過ぎていた。普通なら、もう子供は寝ている頃だ。
(どうして……?)
樹燐の顔が青ざめ始めた。寒いからではない。内側からこみ上げる悪寒に、手を震わせる。
そのうちに夜は更け、大人でも寝る頃になった。
樹燐はじっと待ち続けた。もう今日は諦める……ことができなかった。もう少し待てば、来るかもしれなかったからだ。ここまで待ったのだから、すれ違うなんて悲しすぎる。
だがいつまで待っても、そこには誰も来なかった。
樹燐は不安に染まり、体が固まって動けなかった。子の刻になるまで、会ったらどんな話をしようか、話はなくても、またあの温かさを与えあいたい。そんな期待で頬が緩んでしまっていた。
なのに、深夜の寒空の下、樹燐は一人ぼっちだった。
どうして、と、いない相手に何度も問いかけた。
都合が悪くなったのだろうか。怪我や病気でもしたのだろうか。
(……私のこと、忘れてしまったのかしら)
心の中で呟くと、目頭が熱くなった。
(やっぱり、彼は幻だったの? いつか消えてしまうものだったの?)
樹燐は俯き、自分を抱きしめるように膝を抱えて丸まった。
(……それとも、私以外の誰かを好きになってしまったの?)
嫌な気持ちばかりが募り、樹燐は才戯が他の少女と抱き合っている姿を想像してしまう。彼は自由だ。毎日外の世界でいろんな人と接していろんな経験をしている。いつでも会える相手が見つかれば、もう人に隠れ、手間をかけて自分に会いにくる理由はなくなる。いつ何がきっかけで気が変わってもおかしくないのだ。
目が潤み、瞼を閉じると流れ落ちた。
苦しくて辛くて、眠るのが怖かった。このままここに居ても、悪いことしか考えられないのに、彼を思う自分さえ夢になってしまうのが怖かった。
声を上げて泣きたかった。だけどそれはできない。
樹燐は肌掛けで涙をぬぐいながら、部屋に戻った。何度も振り返りながら。
床に入ってからも寝付けなかった。遅れて来た才戯が、戸を叩く音を聞き逃したくなかったからだ。
しかし、何も起きないまま夜は明けた。
本当は誰にも会いたくなかった。実珂の笑顔も母の褒め言葉も、その日の樹燐には虚しいものでしかなかった。
だが樹燐は「悪い夢を見ただけ」と自分に言い聞かせ、空元気で時間を過ごした。
外を眺めてつい溜息を洩らした樹燐に、実珂が声をかけてきた。
「どうなさいました?」
樹燐ははっと我に返り、笑顔を作る。
「昨夜、ちょっと寝つきが悪かったの」
「また何か怖い夢を見ました?」
「……そうかもしれないわ。何も覚えてないけど」
どうして、と、何度も思う。
忘れようと努力したのに、母や実珂を裏切る行為なのだからもうやめようと決めたこともあったのに――それを許さなかったのは才戯ではないか。
ここに来て水の泡となり消えるくらいなら、もっと早くそうして欲しかった。
ずっと真面目に生きてきただけなのに、どうしてこんな思いをしなければいけないのだろう。
あまりの仕打ちに絶望し、涙はもう出なかった。
考えても答えは出ない。
なせが彼が来ないのかも、今どこで何をしているのかも、そもそも彼が何者なのかも、何も。
誰に打ち明けることも、相談することもできない。孤独だった。
見えないものに試されたのだろうか。だとしたらこれは、誘惑され、欲を出したゆえに与えられた罰なのだと、樹燐は自分を責めた。
あれだけ夜が待ち遠しかったのに、今はこの暗闇が怖いとさえ思う。
樹燐は早めに床に入り、目を閉じていたが、眠れずに何度も寝返りを打っていた。
今頃、才戯が他の子と親しくしているのかもしれないと思うと目の奥が痛む。自分にしたように、この冷たい夜に誰かと温め合っているのかもしれないと思うと、唇が震え出す。
感情が昂ぶって、とても眠れそうになかった。泣きたくても、また顔が浮腫んでしまったらもう誤魔化しがきかなくなる。
夜の静寂をこんなにも重く感じたことはなかった。眠ってしまえば朝になる。早く眠ろう。そう思って目を閉じるが、力が抜けて瞼が薄く開いてしまう。
さわ、と外で風が枝を揺らす音がした。
違う、と思う。
あれは「現実」の音だ。幼い頃からずっと聞いてきた音。
夢でもいい。会いたい。
そう願ったそのとき、庭から土を踏む音がした。
樹燐は何度か瞬きをし、上半身を起こした。
耳を澄ますと、もう一つ、足音がする。
樹燐は裏切られることを恐れず、床から出て縁側の戸を開いた。庭を見回すまでもなく、すぐ近くまで彼は来ていた。才戯は目を見開いて、何もなかったかのように近づいてきた。
これが夢でもいい。樹燐はこみ上げる涙を我慢できず、裸足で庭に下りて才戯に抱き着いた。
「……な、なんだよ」
才戯は戸惑い、樹燐の肩に手を置く。
「ずっと待ってたのよ」樹燐は縋りつくように、才戯の胸に顔を押し付けた。「どうして昨日は来なかったの」
実は、昨夜はつい転寝し、子の刻に起きるつもりだったのだが、結局そのまま朝になっていただけだった。笑って済まそうと思って来たのだったが、どうもそれはやめたほうがよさそうだと判断する。
「い、いや、昨日は……那智が夜更かししてて、出掛けられなかったんだよ」
「本当?」
「うん、まあ」
「……他に好きな娘ができたわけじゃないの?」
「え?」
「私のこと見捨てたんじゃないのね」
なぜ樹燐がここまで激情しているのか、理由が分かった。一日遅れただけでもう自分が来ないんじゃないかと考えていたことが伝わる。申し訳ないというより、やっぱり寂しいんじゃないかと、彼女を見る目が変わるきっかけになった。
二人は縁側に腰掛け、体を寄せ合った。
「そんなに泣くなよ。ちょっと遅れたくらいで」
相変わらず無神経な才戯に、樹燐は濡れた顔で睨み付けた。
「ちょっとじゃないわ。三日に一度って言ったじゃない。私はあなたが外で誰と何をしているか分からないのよ。どうしてって悩んで当然でしょう」
「だからってたった一日で、もう二度と来ないとか、他に好きな人ができたんじゃないかとか、考えすぎだろ」
「それじゃあ何か報せを届けるようにできないの」
「無茶言うなよ」才戯は汗を流した。「そもそも俺の家、歩いてこれるような場所にすらないんだぞ」
確かに、無茶を言っていると樹燐は思う。いつからこんなにわがままになってしまったのか。途端に落ち込み、暗い顔になる。
「……日中は、来られないの?」
「三日以上開ければ来られるけど、周りに人がいるから無理だろ。この術は人に見られたら二度と使えなくなるんだからな」
「その術は、自分でできるようになったの?」
「いや、ある人にかけられたものだ」
「ある人って誰?」
「知らない」
「……言えないの?」
「違う。本当に知らないんだ」
ただ名前を忘れただけだが、何にしても二人にとって重要ではなかった。
そうして才戯の温度を感じながら会話をしているうちに、樹燐の気持ちが落ち着いていった。
改めて、目の前に彼がいることが夢なのかどうかを確認する。しかし、確かにそこにいて触れ合い、言葉を交わし、どれだけ愛しく思っても、やはり才戯は朝が来る前に消えていなくなってしまう。
どうすれば現実に彼と繋がりを持つことができるだろう。
いくら考えても、「今は無理」だという答えしか出なかった。理由は、自分に自由がないからだった。
「ねえ、聞いて」
涙の止まった樹燐は、少々腫れた目を才戯に向けた。
「私、あなたのこと、好きみたい」
才戯からすれば、今更な告白だった。だが面と向かって言われると、才戯でも照れが生じる。
「最初は、何かおかしなことが起こっていて、今だけ不思議な夢を見てるんだと思ってた。あなたと話をするのが楽しかったから、それだけでいいと思ってた。でも、今はそれだけじゃ足りないの」
出会ったばかりの頃とは明らかに変わった樹燐は、恥ずかしがることなく、才戯の手を握った。
「こないだ、あなたが言ってたことの意味が分かったわ。私も同じよ。あなたが他の娘と親しくするなんて嫌。私以外の娘と結婚するなんて許せない。ずっと一緒に居たいの」
才戯は柄にもなく顔を赤らめている。こんなに真っ直ぐに好意を向けられるのは初めてで、嬉しいだけではなく、戸惑いも隠せなかった。
「でも、私たちはまだ子供だから、今は何もできない。だから、いつまで人目を忍んで会っていられるか分からないけど、好きでいたいの。大人になって私が外に出られるようになるまで、人前で会えるようになるまで、ずっと好きでいたいの」
樹燐は手を離し、片手の小指を差し出した。
「約束して。いつか外で、私たちが自分で自分の道を選べるようになるまで、ずっと好きでいるって」
そう言って、樹燐は才戯をじっと見つめた。小指を立てて、彼の返事を待つ。
才戯は表情を変えず、睨むような目つきで樹燐を見つめ返していた。
本当は、話を半分くらいしか聞いていなかった。彼からすれば、好きなら好きでいればいいし、そのときがくれば夫婦になってずっと一緒に居ればいいとしか思えない。才戯は未だに、特殊な術を使って決まった時間だけしか彼女に会えない理由を、重く捉えてはいなかったのだった。
「ねえ」痺れを切らしたように、樹燐が口を開く。「聞いてるの?」
「え、ああ、うん」
「約束して。お願い」
才戯は樹燐が差し出す小指の意味が分からなかった。
「なんだよこれ」
「指切りよ。知らないの?」
「知らない」
「……才戯も、同じように小指を出して」
樹燐は少々の苛立ちを抑え、才戯の手を掴んだ。
「こうして」互いの小指を交わらせる。「約束するの」
「へえ。これ何の意味があるんだ? なんかの術か?」
指切りはただの儀式であり、口約束と同様、何の効力もない。樹燐はバカにされているようで、またむっとした。それでも「約束」が欲しかった。
「術じゃないわ。ただの約束。でも、破ったら針千本よ」
「?」
「針を千本飲ませるの」樹燐は小指に力を入れ、強引に縦に振る。「分かった?」
低い声で脅すように言われ、才戯は数回頷いた。
指切りには何の効力もない。だが、約束を交わした。前世などという不確かなものより、樹燐の心にいくらかの安堵を与えてくれた。
自然と頬が緩んだ。つい先ほどまで、自分で処理できないほどの絶望感に苛まれていたことが嘘のようだった。
その様子を間近で見ていた才戯には、樹燐の表情の変化が分かった。
また、笑った。
才戯の知る彼女は、いつも怒っていたり泣いていたり、思い詰めている姿ばかりだった。いつだったか、消える寸前に微笑んでいたのを覚えている。あの穏やかな顔をもっと、近くで見たいと思っていた。
いつの間にか、呼吸の音が聞こえるほど二人の距離は縮まっている。
結んでいた小指が自然に解け、手を握り合っていた。
見えない雰囲気に押されるように、顔が近付いていくが、触れる寸前、樹燐は目を閉じて俯いた。才戯の額が頭に当たり、しばらく固まってしまう。恐る恐る目線を上げると、すぐ傍で才戯の力強い瞳が自分を見ていた。
これ以上は無理だと思ったが、四日前の夜、突如彼が消えたときのことを思い出す。もうあんな寂しさ、寒さを一人で耐えたくない。
樹燐は将来の夢も母のことも忘れ、顔を上げる。唇が触れ合うまで、思っていたより一瞬のことだった。だけどその瞬間、心臓が割れるかと思うほど、強く脈を打った。その痛みは心地よくて、きっと二度とないもの。そして、たとえ拒否したとしてもいつまでも消えずに残る傷なのだと感じ取れた。
こうしてこの夜、二人は人知れず、幼い恋人となった。
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