千代の幽凪

-此





 泣き崩れた金穂の嗚咽がいつまで続いても、誰も二人の前に姿を現さなかった。暗簾は静かに隣に居て、彼女が落ち着いた頃に「行こう」と声をかけた。
 金穂はしばらくまともに喋れず、今度は彼女が暗簾に着いていくような形で歩き出した。
 何も分からなかった。頭に浮かぶのは父の隣で明るく笑っていられた昔のことばかり。ずっとその時間が続くと思っていた。
 不思議なことに、今、群れを離れた途端に、父が死んでからの苦しい時間が夢だったかのように思えていた。どこかで「逃げたい」などと思っていたせいだろうか。金穂の胸が痛んだ。父のことも、仲間のこともあれだけ大事に思っていたのに、死にたくないという気持ちのほうが強かったのだろうかと、自分の浅ましさに嫌悪感を抱いた。
 しかし、だからと言って昔の恵まれた自分が近くに感じるかといえば、そうではなかった。あれも夢のようだったとしか思えない。
 金穂は途方に暮れていた。どれが本当の自分なのか。自分は今まで何をしてきたのか。そして、これから何をすればいいのか、何も見えない。


 枯れ葉を踏む音だけが続く中、暗簾はふと足を止め、耳を澄ましたあとに走り出した。金穂は虚ろな表情でゆっくりと後を追う。
 暗簾が木々や草を掻き分けて音のするほうに進むと、低い丘の上に出た。木々がなくなり、視界には小石の転がる河原が広がった。川が横切っており、せせらぎが聞こえる。暗簾が丘を駆け下りると、石の隙間から見える地面は湿っていた。川がどこから流れてきているのかは分からないが、時折水かさが増えるのだろう。今は底が見えるほど浅く、緩やかな流れだった。
 とくに美しい景色ではないのだが、二人は自然とここで休息しようという気持ちになった。
 暗簾は川に走って行って気持ちよさそうに水を蹴り、金穂に手を振った。無邪気に歯を見せた笑顔を見て、金穂も少しだけ口の端を上げる。岸まで進んで膝を折り、両手で水をすくって泣き疲れた目元を冷やす。気持ちよかった。しかし体に力は入らず、虚ろなままその場に座り込んだ。
 暗簾は川の向こう側まで行って周囲をうろついたあと、また川を渡って戻り、膝を抱えて遠くを見つめていた金穂の隣に座った。
 二人はしばらくそうして休んでいた。やはり風はなく、視界に映る木々の葉はじっと黙っている。
 無意識に、金穂の瞳から涙が流れていた。擦れて赤くなった目に沁みて、自分が泣いていることに気づく。手で押さえるようにして涙を拭い、ため息をついた。
「……私は一体、何者なのだろうな」
 暗簾は足を伸ばして指先を水につけ、蹴り上げて遊びながら話す。
「何って、金穂だろ」
「……そういうことじゃない。私の将来は決まっているものだと思っていた。敵と戦い、生き残った者で箕雨の傘の下で生きていく。晃牙のままで、晃牙が築き上げた歴史を守りながら。肩身の狭い思いはするかもしれないが、自分たちが敗者であることを受け入れ、静かに余生を過ごす。それが私の行く末だと信じていた」
「決め付けなくても、それ以外の生き方もあるんじゃないの」
 金穂は膝を抱く手に力を入れ、背を丸めた。暗簾には自分の気持ちは分からない。分かってもらいたい。だが、仲間のところへ戻れと言って欲しいとも思わなかった。
「生死を共にすると誓ったはずの家族は、私を必要としていなかった……私は今まで何をしていたのだろう」
「必要ないってことじゃないだろ。大事だから生きて欲しかったんだよ。お前さえいればその『誇り高い血』ってのも残るわけだしさ。そんなに落ち込むなよ」
 暗簾は気軽に言っているが、金穂には染みる言葉だった。
 また涙が頬を伝った。仲間の思いは分かる。暗簾の言うとおりなのだろう。
 死は覚悟していた。なのに、突然すぎて、どうしても「最悪の結果」から免れたという実感が持てなかった。家族を、生きる意味を失った。その絶望感や寂しさのほうが大きくて、悲しみから解放されることはないような気がしていた。
 嗚咽を漏らす金穂の姿は、とても一族の頭とは思えないほど小さく見えた。
 そんな彼女よりも小さくて幼い暗簾は、いつまでもこのまま泣かれ続けられるような不安を抱いた。
「……戻りたいのか?」
 金穂は濡れた瞳を揺らし、暗簾まで泣きそうな顔になっていることに気づいた。
「……ち、違う。いや……分からない」涙を拭い。「御桐たちや、父が望むなら、これでいいのかもしれない。だけど、そうではなかったら……私はただの裏切り者になってしまう。仲間を見捨て、一人だけ楽をしても、そんなものは本当の幸せなんかじゃない。仲間への罪悪感が消える方法が見つからないのだ」
 思い悩み、金穂は両手で顔を覆う。深い呼吸を繰り返している彼女を見つめ、暗簾は眉を寄せた。
「……俺と一緒にいればいいじゃないか」
 金穂は格好はそのままで、動きを止める。
「俺、すぐに大きくなる。お前の背丈なんか、すぐに追い抜く」暗簾は金穂に体を向け。「誰よりも強くなるよ。本当だ。だから、俺と一緒にいろよ」
 金穂は手を下ろし、赤くなった目で暗簾を見つめ返した。
「この森を抜けたら俺の力を見せてやるよ。そしたら信じられるから。もうお前が戦わなくてもいいように、俺がずっと守ってやるから。だから、一緒に居ろよ」
 暗簾の言葉は切実で、金穂の心を癒した。金穂はやっと、少しだけ笑った。子供の言うことが可笑しかったのもあるが、それだけではなかった。
 嬉しかった。守ってやるという言葉が。
 今までも仲間に似たようなことを言われてきたが、それは忠義心からのものに過ぎない。金穂という「女」にではなく、「晃牙の頭」へのそれだった。
 とくに「もう戦わなくてもいい」という言葉は、彼女に胸に温かく感じた。父がいたときは、まるで箱に入れられたように可愛がられていた。しかし自分が跡を継いでからは、不本意ながら戦うことを義務付けられてしまった。いつの間にか、それが当たり前になっていた。
 自分が女であることを忘れたことはなかった。忘れることなどできなかった。自分を取り巻く豪傑たちより体は小さく、ひ弱な自分の情けなさが辛く、いつも感情を押し殺していたのだから。
 戦わなくていい――いつかきっと誰かにそう言ってもらえると、心のどこかで信じていたことに、今気づく。嬉しかった。金穂はその感情を隠すことができず、優しく目を細める
 その表情が嬉しくて、暗簾も笑顔になった。
「暗簾、お前は自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「え? どういうことだ?」
「お前は幼くても男だ。時間が経てば大人になる。そのときも、そのあともずっと一緒に、ということは、求婚しているも同然なのだぞ」
 金穂は照れくさそうに言うが、暗簾の態度は変わらなかった。
「それでいい。そのつもりだ。お前、今は俺のこと子供だと思ってバカにしてるんだろうけど、本当にすぐ大きくなって、強くなるからな。お前の望むことは叶えてやる。欲しいものは与えてやる。お前に辛い思いなんかさせない」
 幼い瞳と声で熱心に口説いてくる暗簾が可愛かった。同時に、恥ずかしかった。金穂は頬の緩みを隠すように俯いた。
「……で、でも、言っただろう。私には許婚がいるのに」
「そんなの知るか」暗簾は声を荒げる。「俺はそいつよりお前を大事にする。もう家族とか仲間とか関係ないだろ。お前は一人だ、自由なんだ。勘定なしで好きにしていいんだぞ」
 金穂はまた、僅かに悲しみを抱いた。しかし、今はできるだけ考えないようにした。
「……私を、好いてくれているのか」
 暗簾は迷いなく頷いた。
「どうして? 私なんかのどこがいい」
「うーん、まあ、可愛いし」
 金穂は聞いた途端、ふふっと笑いを零す。こんなに薄汚れ、体も傷だらけだというのにと、自嘲した。
「本当はな、俺、お前らを食おうと思ったんだ」
「食う? ああ、暗簾は寄生種だと言ったな」
 寄生種の妖怪はさほど恐れられていなかった。しかも暗簾は子供で仲間もいない。金穂に恐怖は一切なかった。
「でも、金穂の顔を見たら、その気が失せたんだ。どうしてこんなに哀しそうな顔をしているんだろう、とか、一体どこへ行って何をするんだろう、とか、そんなことを思った。だから後に着いて行ったんだ。それで、話を聞けば聞くほど、腹が立ってきた」
 金穂から自然と表情が消えていた。じっと暗簾の言葉に耳を傾けている。
「お前たちの考え方、俺には分からない。どうして死ぬって分かってて逃げないのか。どうして仲間がいるのに助けを求めないのか。家族だの仲間だのいいながら、どうして本当のことを言わないのか、全然分からないんだ」
 暗簾は拗ねたように口を尖らせていた。
「悔しかった。俺、金穂に会う前に大人になっとけばよかったって思った。そしたら、俺の思い通りにできたのに」
「思い通りに……?」
「敵をやっつけて、お前も、お前の仲間も全部守ってやれた」
「……そう簡単に言うが、鎌鼬は大きな鎌を持ち、それが千匹以上の群れで襲ってくるのだぞ」
 数を聞けば暗簾でも驚くだろうと思ったが、彼は変わらなかった。
「俺が強くなったら、そんなの全部返り討ちにできる」
 金穂は暗簾の言い分に面食らった。どうして暗簾がそこまで自信を持てるのか分からない。だが、こんなことを言う者は、今まで彼女の周りにはいなかった。これが自由に生きる子供の発想なのだと思うと微笑ましかった。
 金穂は笑顔を取り戻し、少々血の上っている暗簾を抱きしめた。
「ありがとう……お前に会えてよかった」
 暗簾は未だ子供扱いされることが気に入らなかったが、温かくて優しい金穂の腕の中で力を抜いた。
「お前を信じる。一緒にいよう。だから、強く、いい男になってくれ」
 暗簾はそのつもりでいたのだが、いざ事がうまく進むと何を言っていいのか分からなくなり、拍子抜けしてしまう。
「……ほ、本当か」
「ああ。だが……今まで私のすべてだったことを捨て、割り切るには時間がかかりそうだ。それだけ、分かって欲しい」
 暗簾は、二人の間にある簡単には崩せそうにない距離を感じながらも、素直に頷いた。
 悔しい――。
 いつかこの行動が正しかったのだと、自分と一緒に来てよかったと思わせたい。今が過去になったとき、振り返っても何も悔やませないようにしたい。
 そのためには早く強くならなければと、暗簾は自分の未熟さを恨めしくさえ思った。





  



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