千代の幽凪

-圄





 暗簾は早く森を出たかったのだが、金穂がもうしばらくここに居させて欲しいと言って足を進めなかった。やはり仲間が気になるようで、何度も振り返って遠くを見つめている。金穂の態度に暗簾の胸中は穏やかではなかったが、できるだけ嫌なことは考えないように平静に振舞った。
「なあ、森を出たらどこかの集落に行こう。俺、そこで餌食って大きくなる。お前には、そうだな、まずはその格好を変えよう」
 暗簾は妖怪を襲い、盗みを働くことを前提にものを言っていた。金穂がそれをどう思うかまでは考えていない。
 金穂は河原に座ったまま、微笑んで少し首を傾げた。
「格好?」
「女ものの着物を着て、もっと綺麗になるんだ。化粧も飾りも、欲しいものはなんでも持ってきてやるからな」
 鮮やかに着飾り、気取っていた昔を思い出し、金穂は懐かしくなった。
「住むところも探そう。俺が強くなって誰もが怖がるようになれば、どんな場所も手に入る。お前の気に入るところが見つかるまで、ずっと探そう」
 暗簾は無邪気な笑顔ではしゃいでいたが、金穂を元気付けようとしているのが見て取れた。金穂はその気持ちを嬉しく思うと同時、幼い子に気を遣わせていることを申し訳なく感じていた。
 金穂の中にある葛藤は解決などしていなかった。いくら自由になったからと言って、簡単に考え方を変えることはできない。生まれたときから晃牙頭首の一人娘だった。集団で生活するためには秩序を守り、互いに思いやっていかなければいけなかった。それに、何があればすぐに小言を言ってきていた御桐が、これから先もずっといないなど、今はまだ実感が湧かない。
 一族の頭として誰にも恥じぬよう気を張り続けてきた。その呪縛がなくなることが、いいことなのか悪いことなのかも分からない。
 金穂はふっと瞼を落とした。今まで考えたことがなかった世界を想像してみる。
 ただ暗簾と二人で気楽に時間を過ごす自分の姿。華やかな着物を纏い、少々行儀が悪くても叱られることのない型のない生活。そこに友はいるのだろうか。一体、毎日何をして過ごすのだろう。
 敵もいるかもしれない。だが、隣に自分を守ってくれる青年の暗簾がいた。大人になった彼の姿を明確に思い浮かべることはできなかったが、なぜか安心できた。
「……いいな」金穂は目を閉じたまま呟いた。「私は、ただの女なのだな。笑い、泣いているだけでいい、ただの女になれるのだな」
 暗簾には金穂の独り言が理解できなかったが、徐々に彼女の心が軽くなっていることだけは感じ取ることができた。
 そのとき、まるで語りかけるかのように金穂の腰に結びつけていた狐の面が揺れた。途端に二人の間に緊張が走った。金穂は気まずそうに面を手に取り、唇を噛んだ。
 これだけは、捨てることはできない。だが、暗簾はきっと許してくれないだろうと思う。それに、これを持っていれば敵に襲われる可能性もある。御桐たちがいても守りきれなかったものである。一人でどうこうできるとは、とても思えなかった。
 金穂が無意識に眉間に皺を寄せていると、暗簾も面をじっと見つめていた。
「……いいよ」
 その声で我に返った金穂は顔を上げる。
「それ、持ってろよ」
「え……でも」
「大事なものなんだろ? それをずっと持ってるのも、お前の望みなんだろ」
 金穂は正直に頷くことができず、戸惑っていた。
「いいよ。それもまとめて、俺が全部守ってやるから。いらないなら捨てていいし、そうなじゃないなら、持ってればいいよ」
 暗簾は目を逸らし、言いにくそうだった。できることなら金穂には身一つになってもらい、しがらみとなるものは切り捨てて欲しいという感情が表れてしまっていた。
 それでも、金穂の気持ちを考え、優先していたのだった。
「ありがとう……」
 本当は自分が暗簾に譲らなければいけないはずなのに、と金穂は思う。決して不幸ではないことを改めて噛み締め、面を持つ手が震えた。昔も今も、いつも誰かが傍にいてくれることには感謝しなければいけない。
 辛い時間はもうすぐ終わる。それは「死」という哀しい結末のはずだった。だけど、違ったのだと、金穂は自分の運命に感動していた。


 答えを出した二人はいろんな話をし、次第に金穂も明るい表情を浮かべるようになっていた。
 当然、簡単に仲間のことを忘れられるわけがなかったのだが、できるだけ考えないように努力していた。それでもこの場から動くことができずに、結局そのまま一眠りすることになった。
 河原から大木の下へ移動し、二人はそこで体を休めた。
 金穂は浅い眠りをくり返しており、寝付けなかった。膝元で寝息を立てている暗簾の頭を優しく撫で、音を潜めて立ち上がる。
 川の近くまで歩き、せせらぎを聞きながら暗い空を仰いだ。
 ――これでいい。
 そう何度も自分に言い聞かせる。
 父が亡くなったときから、弱い自分が頭にならざるを得なくなったときから、すべてが終わっていたのだ。分かっていて認められなかったために多くの犠牲者を出してしまった。この罪は重い。
 しかし、自分が死ぬことで償えるわけではない。一生忘れずに、仲間の命を背負って生きていく。それが自分にできること。満足のいく敵討ちなど、叶わぬ夢なのだ。
 時間が止まっているような空間が静かすぎて、金穂は瞬きをすることさえ怖く感じた。
 そのとき、突然風が吹きぬけた。
 金穂は反射的に目を閉じて身を縮めた。今まで黙っていた森に、吠えられたようだった。
 ――――!
 胸元に当てた手に何かが当たった。
 一枚の紙だった。それが何かはすぐに分かる。自分がそこに入れて持ち歩いていたものだったのだから。
 金穂は折りたたまれた紙を取り出し、開く。
 自分で書いた文字が並んでいるのに、まるで初めて見たかのような衝撃が走った。
 ――もし、この文を、私以外の誰かが目にしたのならば、私はもうこの世にはいないのでしょう。
 遺書だった。
 敗北など、決して前提として考えてはいけなかった。どれだけ不利でも、勝つことしか許されない。それでも、金穂は自分の気持ちを形にして残したかったのだった。
 もちろん御桐にも、誰にも、遺書が存在することさえ知られていなかった。自分の死、つまり一族の滅亡のあと、誰かに見て欲しい。そして誰かに伝えて欲しい。
 男なら女々しいと言われることだろうが、金穂は女。きっと許してもらえると、書き綴っていたものだった。
 読み返しているうちに、金穂は再び虚ろな瞳になっていった。
 まるで、何かが取り憑いていくかのようだった。邪悪なものではなかった。命を捨てて誇りを貫くもう一人の自分に、背後から抱きしめられているようだった。
 金穂はしばらく遺書を見つめていた。そのうちに、風は遠くへ去って行った。
 金穂の中に今までの自分の姿が甦ってきた。多くの仲間に囲まれて笑う自分。父の死に直面し、斬り落とされた首を抱きしめる自分。飾りを、女を捨て、大きな声で男を指揮する自分。力及ばず仲間の死体の前に佇み、絶望に染まる自分。
 最後の戦いを決死する自分。
 そのときの自分が、立ち尽くす金穂の中に溶け込んできた。


 風が揺らした木の葉の音で目を覚ました暗簾が起きてきた。
 川の傍で背を向けて立っている金穂を見つけ、声をかける。
「どうしたんだ……」
 金穂の様子がおかしいことに、すぐ気づく。逆らえない寒気が背筋を走った。
 金穂はゆっくりと振り返る。面をつけ、力強くかかとを地につけた姿に女の面影はなかった。
「……暗簾」狐面の口元が歪んだ。「すまない。やっぱり、一緒には行けない」
「……え?」
「お前には感謝している。好意を抱いたのも本当だ。もしお前が大人だったら、私は選ぶこともないまま、お前のものになっていたのかもしれない」
 暗簾は頭の中が真っ白になっていた。しかし動揺している場合ではないと、必死で考えた。
「か、金穂? 何を言っ……」
「聞いてくれ」金穂から、もう迷いは感じられなかった。「嬉しかった。僅かでも女としての幸せを感じることができたこと。お前と一緒に見た夢こそが、本当の私が望んだ将来なのだと思う……だけど、それはやはり夢だったのだ」
 暗簾は目を見開いたまま、動くことができなかった。金穂の気持ちが、言っていることがまったく理解できない。
「夢が形になったとき、目が覚めた。何かに叩き起こされたのかもしれない。私は晃牙として生まれ、晃牙として死ぬ。不幸だったとしても、それが現実なのだ。一時でも理想の女になれたこと、幸せだった。もう、心残りはない」
 金穂の髪が揺れた。風が吹いたのではない。彼女が妖術で、足元からつむじ風を起こしているのだった。
 暗簾は青ざめ、走り出した、出そうとした。
 が、つむじ風は暗簾を襲い、声を出す間もなく枯れ葉に包み込まれた。暗簾は手を翳して金穂を探したが、目眩を起こし、気を失ってしまった。
 風は上空へ掻き消え、静寂が戻った。
 金穂は意識を失った暗簾を見下ろしていた。
(……すまない。お前を安全な場所まで連れていくと言ったが、それもできそうにない……これ以上お前と一緒にいたら、また欲深い私が出てくるかもしれないから……)
 金穂は意を決し、足を一歩下げる。
(お前が目覚めたとき、私はここには居ないだろう。どうか、忘れて欲しい……いいや、忘れないで欲しい。恨んでもいい。忘れないでくれ……)
 その思いを残し、金穂は暗簾に背を向けた。





  



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