千代の幽凪
-禄
御桐たちは黙々と進み続けており、森を出る直前まで進んでいた。 金穂がいなくなったことを深く追求する者はいなかった。どこかでこうなることを予感していた者、そして、望んでいた者もいたからだった。頭がいなければ戦う理由はないと考える者もいなくはなかったが、誰かが不満を募らせる前に、御桐が「ここからの指揮は自分がとる」と皆の先頭に立った。 「我々は勝つことだけを目的にしている。どんな形でも、金穂様に生きていただくこと。それが戦う理由だ。納得ができぬ者は、今すぐここから立ち去れ」 そう言われて、列から離れる者はいなかった。 今まで動揺することなく死に向かって歩いていた一同がざわついた。 背後から仲間の気配が近づいていることに気がついたからだった。 先頭にいた御桐が、滅多に見せない驚きの感情をむき出した。背後にいた手下たちを押しのけ、背後から感じる何者かの姿を確認する。 そこに、金穂がいた。 肩を揺らして深く呼吸をしながら立っていたのだった。 御桐は様々な感情を交錯させながらも、ただ、戻ってきた「頭首」に一礼した。 「……お待ちしておりました」 御桐は意外な言葉を吐いたが、他の者も戸惑いを隠し、金穂に向き直って跪いた。 金穂はその光景をしっかり見つめ、「この者たちと共に死ぬ」こと以外を考えないようにする。 金穂はここに戻るまで、いろんな不安を抱いていた。戻っても受け入れられないかもしれない、余所者と逃げた女と虐げられるかもしれない。 しかし、そんな心配は無用だった。強さだけを求めるなら、名前だけの頭など誰も必要とせず、とうの昔に御桐が頭首を勤めていただろう。そうではない。だから金穂は戻ってきたのだ。 「少し、道に迷った。すまない……」 御桐にだけ聞こえる声で、金穂は「言い訳」をした。 「もう、大丈夫だ」 「……心残りは」 「ない」 金穂がはっきりと、迷いなく言った一言で、仲間の心が一つになった気がした。 皆が抱えていた薄暗い不安は、金穂の中にあった迷いだったからだった。他の者も同じだった。金穂だけならどこかで生きていける。一人でもどこかで静かに暮らすことが彼女のあるべき姿かもしれないという、確かめようのない希望を捨てることができなかったのだった。 だが、金穂は仲間と生死を共にするために戻ってきた。幼子と二人で何を交わしたのかは分からないが、その「寄り道」が彼女を変えた。 金穂の一言で仲間が一つになったことで、やはり彼女は晃牙の頭首であることを確信した。 正しいのか、間違っているのか、答えはここにない。 「……よかった。安心、いたしました」 御桐はいつもより深く頭を下げていた。きっと、浮かべた表情を見られたくないのだろうと察する。金穂は面の下で微笑んだあと、一つ呼吸をしてから突然大きな声を張り上げた。 「何をしている!」早足で御桐を横切りながら。「敵に背を向けるなど、言語道断!」 金穂が跪く一同の中心を突き進み、森の出口まで移動すると全員が立ち上がりながら振り返った。御桐も姿勢を正し、金穂の後に着いて傍に立った。 「皆の者、聞け! これから総攻撃を開始する!」 怒鳴る金穂の面の目が吊り上がっていた。 「敵は鎌鼬、千以上もの数で待ち構えている。恐れずに前に進め。戦いの終わりは、敵を皆殺しにしたときだ!」 一同の妖気が、闘志が高まり始めていた。見えないそれに揺らされ、森がざわつく。 「目が見えなくなり、呼吸が止まったなら、あと一歩前に進め! 最後に一太刀でも浴びせて死ぬのだ! 後のことは考えるな。自分が死んでも、他の者が必ず仇を討つ。一匹でも多く殺せ! 怖気づく者、逃げる者あらば、敵より先にそいつの喉を掻っ切れ! これが最後だ! 何も惜しむな。命を懸けろ!」 金穂の面がぐにゃりと歪んだ。 「晃牙一族の誇りと栄光のために! 行くぞ!」 一同の咆哮と同時、森が震えた。そして、金穂は森の向こうの平原へ向かい、地を蹴った。 面の口が耳まで裂ける。瞳は狂気を帯び、炎を孕んだ。 面の端が溶けるように、後方に流れる。目の錯覚ではない。面は水のように流れ出し、金穂の体を包んでいく。金穂は彗星のように、細い光になった。 金色に発光した鋭いものは、地面すれすれでくるりと回転する。光が膨張したかと思うと、それは巨大な狐の形に変化していった。 殺戮のためだけの凶暴な妖獣が現れた。大きく、禍々しい光を放つ狐は、四つ足から伸びる爪で地を削りながら平原を駆け抜けていく。背後の御桐たちも同じように変化していった。先頭を走る金穂はそれらより一回り小さいが、誰も不満などなかった。 鋭い牙の並ぶ口の奥から獣の唸り声が漏れていた。溜まったものを吐き出すように、金穂は首を振って嘶いた。その雄叫びは人の心を恐怖で震わせるほどの迫力があり、空虚な空にこだまする。 地平線に、星が並んでいた。 星ではない。鼬たちが放つ無数の眼光だった。近付くにつれ、それが膨大な数で狐たちを待ち構えているのが分かる。鎌鼬は名のとおり、それぞれの体の一部が大きな鎌に変化しており、素早く細かい動きで敵を切り刻む。何度も襲撃されてきた。今更その鋭さ、残酷さに驚くことはない。 金穂は恐れるどころか、笑った、ように見えた。 大きく口を開け、白い息を吐きながら鼬の群れに飛び込んで行った。 ◇ ◆ ◇ 木の葉に塗れて倒れていた暗簾の指が揺れた。 意識を取り戻して瞼を上げるが、何が起きたのか、すぐには思い出せなかった。顔を上げると木の葉がはらりと落ちる。周囲は変わらず静かで、何の気配もなかった。 そこには誰もいない――一緒に行くと決めたはずの彼女も、誰も。 暗簾は目を見開いた。 慌てて立ち上がると眩んだが、頭を抑えて辺りを見回す。 「……金穂」 最後に見た彼女の姿、言葉を思い出し、体を震わせた。 「……どうして」 自分がどのくらい気を失っていたのか分からない。 もしかするともう終わっているかもしれない。もしかするとまだ間に合うかもしれない。もしかすると、金穂だけは生きているかもしれない。 いろんな思いを巡らせながら、暗簾は手足に力を入れて走り出した。 森の匂いを嗅ぐと、妖狐の気が微かに感じられた。まだそんなに時間は経ってないようだ。暗簾は気を追った。 どうしてこんなことになったのか、暗簾は頭の中が整理できない。金穂の気持ちがまったく分からなかったのだった。 目の前に逃げ道があるのに、どうして自分から死地へ向かうのか、向かうことができるのか。男ならば逃げて恥をかくよりも死んだほうがいいと思う者もいるだろう。しかし、金穂は女。そこまでして戦わなければいけない理由が、一体どこにあるというのだろう。 暗簾は時折足を止め、狐の匂いを探した。どこを走っても同じところを回っているような気がしたが、繁り続ける木々に隙間が見えた。森の果てだ。 暗簾は森から出る直前の場所で立ち止まった。金穂たちの気配を探してみたが、やはり誰もいない。 ここにいないということは……まさか、もう出撃してしまったのか。 暗簾は呼吸を乱したまま青ざめた。森を出て広がる平原を見つめていると、草の焼けた匂いが鼻をついた。暗簾はそれがするほうへ走った。 進むと、地面が不自然に削げ、表面だけが焼けていた。強い狐火を纏った金穂たちが通ったあとだと推測できた。やはり出撃したのか、いや、したのだとしか思えなかった。走っても戦闘の気配がないことに、暗簾は嫌なことしか考えられなかった。 地平線に、何かが見えた。広い範囲に渡り、大きな塊が散らばっている。そこから生気は感じられなかった。 まさか、まさか、と暗簾は震える体に鞭打ちながら夢中で走った。 ――――。 そんな彼の目の前に広がったのは、予想を上回る凄惨な光景だった。 辺り一面の血の海。それに浸る、死骸の山。 巨大な鎌を持った鼬の体は千切れ、焼け、潰れたものばかりだった。血肉だけではなく、腸(はらわた)や目玉、脳が生々しく散らばっている。その数はざっと、生き残っていた晃牙一族の十倍以上はある。物静かな人の姿しか見ていなかった暗簾は、彼らがここまで戦えたことに畏怖の念を抱いた。 しかしここに、自分以外の生きた者はどこにもいなかった。誰も生き残っていないとしたら、晃牙は負けたのである。いくら健闘したとしても、それを称える者さえ、どこにもいない――。 暗簾は真っ青な顔で、ゆっくりと血の海を踏んだ。呼吸が深くなり、肩が大きく揺れている。 死骸の間を歩いていると、人の姿をしたそれもあった。暗簾は息を飲みながら近付く。確認するまでもない。四肢を鎌に掻き切られた晃牙一族の一人だった。 首は胴体から離れ、無残に転がっていた。暗簾は血に塗れながら他の者を探した。まさか金穂もこんな姿に……? いいや、どこかで生きているかもしれない。御桐たちは金穂を守りたがっていた。もしかしたら、もしかしたらと、暗簾は血の海を駆けずり回った。 暗簾はまた人の頭を見つけた。一度も面の下を見たことがなかったが、すぐに分かった。御桐だった。体は、近くにはなかった。 暗簾の息が上がっていく。鼬の死骸の隙間からも頭を見つけた。金穂ではない。傍で、もう一つ見つける。これも違う。 そうしているうちに、何かに気づく。晃牙があれだけ大事にしていた面がどこにもなかったのだ。どうやら、鼬は首を切り落として面を奪っていたのだろう。なんたる屈辱、なんたる無念。自分のことではないとはいえ、暗簾は彼らの悔しさを察することができた。 また一つ、人の体を見つける。複数の鼬の下敷きになっており、足だけが見えていた。 暗簾は込み上げる悲鳴を飲み込み、その足を小さな手で引っ張った。それに首が繋がっていることを祈った。なぜなら、すぐに分かったからだった。その体が他の者より小さいことに。 金穂だ。間違いない。 |
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