千獄の宵に宴を



  第十場 天界 


1


 神々の統治する天上界。
 人間界、魔界とは違う次元にある遠く、果てしなく、煌びやかな世界だった。六道りくどうの最上に位置する天界は、声聞界しょうもんかい縁覚界えんがくかい、菩薩界、仏界に分類される。その仏界の中央には釈迦を主とする大きな城があった。その広さは計り知れず、まるで光のように膨張し続けていると思われている。



 斬太は何度かそこに足を踏み入れたことがあった。本来妖怪という、神とは対象に存在する種族は近付くことも不可能な位置にある空間である。
 普段、斬太は魔界の隅で目立つこともなく、何の望みも持たずにひっそりと生息していた。こんな大いなる世界になど興味もなく、できることなら用があっても関わりたくないとさえ思う。
 面倒臭かった。それに、ここの住民である神々はどれも派手で美しい姿をした者ばかりだった。それに引き替え、自分は背も低いし光るものなど何も持たない。明らかに場違いで息苦しかった。
 何よりも、神々もまた自分の来訪を快く思っていなかったのである。無力な斬太に害がないことは誰でも分かる。しかし、やはり妖怪という、神からすれば汚らわしい存在と同じ空気を吸うことに嫌悪感を抱くのだろう。
 直接関わってくる者は優しく声をかけてくれるのだが、その笑顔の裏では自分のことなど虫けら程度だとしか思っていないのだと斬太は感じていた。何の役割があるのかは知らないが、城内のあちこちで見かける官女に至っては、愛想も建前もなく斬太に皮肉を浴びせてくる。
 当然腹が立つ。だが斬太は、自分も好きで来ているわけじゃないと、聞こえないふりをして場を凌いできた。

 斬太の待つ応接室の扉が開いた。鎧と武器を装備した顔の見えない見張りの二人が扉を挟んで頭を下げる。扉の向こうからは、斬太に一番近い存在である弟の久遠が駆けてきた。
「兄さん」
 斬太とは似ても似つかない美しい姿には、無邪気な笑顔と豪華な着物や装飾品がよく似合っていた。天界でも、母国の魔界でもチビで無能とバカにされる兄に、久遠は戸惑うことなく跪いてその手を握った。
「お会いしとうございました」
 久遠は昔からこうだったと、斬太は引きつった笑顔を返した。見張りの二人が兜の下から、この不釣合いな兄弟に怪訝な目線を投げていることが分かる。正直、斬太も恥ずかしい。笑顔を保ちながら彼の手を収めさせた。
「ひ、久しぶり……」
「はい」久遠は目を輝かせている。「この日をどんなに待ちわびたことか」
「……そっか」
 斬太が戸惑っていると、開けたままだった扉から数人の女性が歩んできた。天界で久遠の管理をしている鬼子母神の眷族・樹燐きりん。背後で目を伏せている女性たちは彼女の専用の女官たちである。樹燐は天部でも位が高く、神通力も貫禄も女神族の中では別格だった。ただ、その気位の高さを謙遜することなくひけらかしており、周囲から敬遠されがちなところもある。常に派手な衣装も肩や胸元をわざと開けたものであったりと、神仏の品性が疑われると、彼女をよく思っていない者も少なくはない。しかし樹燐は周囲の目線など気にも留めずに我が道だけを進んできた。彼女は愛用の扇子を手に、仲睦まじい兄弟に微笑みかけた。
「本日は一年に一度の、兄との面会の日」
 久遠は恭しく樹燐に頭を下げる。
「樹燐様の恩恵には大変感謝しております」
「久遠殿。そなたは素直でいい子だ」
 樹燐の彼を見る目は、まるで本当の息子を見つめる母親のそれのようだった。
「時間は限られているが、存分に兄上に甘えてくるがよい」
「はい」久遠は万遍の笑みで答える。「ありがとうございます」
 その傍らで斬太は、この世界に違和感のない弟の背中を見つめていた。

 斬太は久遠に案内されて城を出た。正門とは逆にある西方の庭へ向かう。一面には睡蓮が万年咲き誇る大きな池が広がっていた。水面に浮かぶまだらな白い霧は、青緑の水と鮮やかなピンクの花を幻想的に演出している。池の中心に細く長い、朱色の橋がかかっていた。二人はそれに乗り、突き当たりにある庵まで進んだ。そこは四方を柱で支えられているだけの簡素な一角だった。宮廷から距離があり、人の気配も声も届かない。眩しいほどの建物は少々霧で薄れて見え、一望できる睡蓮の池に浮かぶ絵画のようだった。
 斬太と久遠は、静寂の漂うそこで心を落ち着かせ、庵を囲むように設置されている腰掛に座った。
「いいところでしょう」久遠がゆっくりと口を開いた。「ここは城にある圧迫感がありません。最近知った場所なのですが、ぜひ兄さんを招待したいとずっと思っていました」
 斬太は、確かに落ち着くが、わざわざ来たいと思う場所ではないと思いながら遠くを見つめた。
「ところで、元気にやってるのか」
「はい。未だにここの空気には慣れませんが、一年に一度、こうして兄さんに会える日だけを心の支えにして過ごしております」
「そっか」
 久遠は慣れないと言うが、斬太にはもう十分に馴染んでいるように見えた。



 久遠が天界に隔離されて、もう十年近くが経つ。
 久遠も生まれたときは、斬太と同じように魔界の隅で目立たないように生活していた。能力はあっても見た目が子供のような斬太と、美しい容姿でありながらも妖力が皆無だった久遠。それぞれに欠陥のある兄弟は周囲から笑われ、意地悪な妖怪からは酷い仕打ちを受けることもあった。
 それでも二人は、自分を慕う兄弟だけが拠り所と信じ、手を取り合って慎ましく生きていた。
 特に久遠は美しく、そして弱いという理由で妖怪に追われることがよくあった。それをいつも助けていたのが斬太だった。斬太もまた体が小さいという理由でなにかと見下されてしまいがちだったが、彼にはサトリ特有である黄金の両の目には特別な力があった。サトリには本来、心眼の力がある。その中でも斬太の目は千里眼という特殊なものだった。そこらの低級妖怪程度なら捻り潰せる妖力くらいは持ち合わせている。しかしヘタに目立てば、心眼の能力さえ欠如している久遠が余計に狙われることになり兼ねない。だから斬太は、弟を守るためだけにその力を利用してきた。噂が立たないように、確実に戦った相手の息の根を止め、すぐに二人で姿を眩ます。そうやって生きているうちに、二人は自然とお互いを一心同体だと思うようになっていった。
 斬太と久遠の金の瞳は、宿る力には大きな差があったが、兄弟が唯一共通する大事な印として誇りにさえ思っていた。

 そんな兄弟を引き離したのは、天界からの使者だった。
 魔界で地味に生きてきた二人の前に、彼は突然現れた。
 天部界の者が、顔も見せずにお忍びで魔界へ降りてきたのだ。敵意はなかった。しかし、二人に取っては敵に襲われるよりも震え上がらせられる事実を突きつけられた。
皇凰こうおう……炎極魂えんごくこん?」
 重苦しい響きの名前に、久遠は怯える。斬太もまた手に汗を握っていたが、兄として気丈に天部の者に向き合った。
「どうしてそんなものが久遠の中に眠っているというんだ。俺たちは欠陥妖怪とまで言われて蔑まれてきた。そんな大それたもの、関わりがあるわけない」
 天部の者は羽織る頭巾の下で、まるで呼吸もしていないかのような不気味さで語った。
「入れ物の等価は関係ないのです。炎極魂は神の真理。誰にも支配されず、どこにも留まらない実体のないもの」
「なんだよ、それは。どうしてこいつの中にあるんだ。大体、久遠は妖力さえほとんど持ってない。それ以外で変わったところはないし、逆にそんな無力な妖怪に、そんな特別なものが宿ってるなんて信じられるわけないだろ」
「炎極魂は人の形をしたものを入れ物とします。それは神、人間、妖怪のどれも選びません。久遠殿が生まれる前は人間の懐にありました。その者は、寿命を全うするまで天界で暮らしました。入れ物を失った炎極魂は、再び人の形をしたものへ、柔らかい胎児へと移行しました。それが、久遠殿でした」
「…………」
 斬太は眉を寄せ、久遠と目を合わせる。少し考えてから、黙る天部の者に確認した。
「まさか……そのナントカが宿る相手は、無差別っていうことなのか?」
 天部の者は冷静に答える。
「あなた方の言葉で申し上げるのならば、そういうことになります」
「はあ? ふざけんな。大体そのナントカって何なんだよ。何のために勝手に人の中に入ってきたりするんだ。それに、そんなもの、俺たちはいらない。天上が欲しいなら取り出して持っていけばいいじゃないか」
「……ひとつずつお答えします。皇凰炎極魂とは、先ほど申し上げたとおりのものでございます。我々天上人だけが知るものですが、この世の命のすべてに関わる重要な魂なのです。我々はそれを守る権利があってそうしております」
 淡々と語られるその事実も、天部の者の口調にも斬太は苛立ってくる。それを露わにする斬太に構わず、男は続けた。
「炎極魂は魂。魂には入れ物、つまり肉体が必要です。それはこの世で生きるすべてに共通すること。誰にも咎めることは適いません。そして、炎極魂を取り出す手段ですが……現時点では皆無でございます。魂を肉体から引き離すことは、例外なく死を意味します。つまり炎極魂を久遠殿から取り出してしまえば、そこには確実に死が伴います」
「……そんな」
 斬太は言葉を失った。背後で久遠が唇を噛んで俯く。恐ろしさで涙を堪える弟の気持ちを感じ取り、守る手段を持たない斬太は悔しくて拳を握った。
「ど、どうしてそんなもののために久遠が犠牲にならないといけないんだ。魂を引き離す手段だって、もっとちゃんと調べろよ。お前たちが管理する権利があるって言うなら、そのくらいのこと、今からでもいいからやればいいだろ」
「炎極魂は天上に取って大いなる魂です。今まで誰にも汚されることなく守り続けられてきました。それはこれからも我々の背負う課題の一つとして重要視されていきます」
「こ、答えになってねえよ」
「今まで、炎極魂を取り出す必要に駆られたことはありませんでした。もしかすると炎極魂が宿る条件、周波のようなものがあるのかもしれません。しかし、現時点ではそれは解明されておりません。現在、久遠殿の中に宿っている。今分かることはそれだけです」
 斬太は嫌な予感に包まれ、声が震える。
「なんだよ、それ。じゃあ、そのナントカが久遠の中にあるって証拠を見せてみろ」
「目で見える形では、難しいと思われます」
「そんないい加減な」
 天部の者は強気に出ようとした斬太を素早く遮った。
「ただ、神の目に間違いはありません。万が一人違いだとすれば久遠殿は速やかにお返しいたしますので、ご安心を」
 斬太の目が揺れた。やはり、と上がる呼吸を必死で整えた。久遠も涙目で体を縮める。
「……お返ししますって、どういうことだ。大体、お前たちは久遠をどうしたいんだ」
 天部の者は、警戒する斬太に遠慮することなく告げる。
「久遠殿を天界にお連れします」
「!」
「皇凰炎極魂を持つ者として、何者にも汚されることがないように、天帝様のお膝元にてお守りいたします」
 斬太は一瞬、頭の中が真っ白になった。どうして、ただ生まれたから生きているだけの無欲な自分たちがこんなことになるのか、まったく理解できない。固まる斬太の裾を、久遠がぎゅっと掴んだ。その感触で斬太は我に返り、必死で声を絞り出した。
「つ、つまり、久遠を、天上界に連れていって……そこに閉じ込めるってことか」
「少々語弊がございます。閉じ込めるのではありません。確実に安全な場所で神々に見守られながら生きていただく、ということです」
「お、同じことじゃないのか。仮に連れていって、それで久遠は、弟はいつ返してくれるんだよ」
「こちらへお返しすることは」男の口調が僅かに強くなった。「致しかねます」
「…………!」
「久遠殿には生涯を天上で全うしていただきます。魂が肉体から離れたとき、すなわち死を迎えられたときが炎極魂から解放されるときです。それまで、決して苦しまれることなくお過ごしいただくことを保障いたします。ご理解を……」
「ふざけるな!」
 斬太は頭に血が上り、咄嗟に大声を出してしまう。だがそれを、男は抑え込むように少々体を倒した。
「今までの宿し人もそうしてきました。彼らは生涯を優雅に過ごしました。決して、心身共に、何の不自由もさせませんので、ご理解ください」
 小さい斬太は、男に覗き込まれるような体制になり、顔も見せない彼から制圧されていた。それでも、決して頷くことはできなかった。斬太の裾を握って離さない久遠が涙を零して、何度も頭を横に振っていたからだ。
「……嫌です」
 つい零れた久遠の本音は、聞かずとも斬太には分かる。自分には雲の上の存在であろう男にどれだけ脅されても、どれだけの条件を提示されても屈する気にはなれなかった。
「いかがでしょう」男は、頭巾の中で微かに笑った。「名もなき妖怪として、この暗い世界の隅で、いてもいなくてもいいような一生を過ごすよりも、天上で美しいものに囲まれていたほうが、せっかく受けた命も甲斐があるというものではないのでしょうか」
 その見下した言葉に、斬太は奥歯を噛み締めた。今すぐ久遠を連れて逃げようか、そんなことを考えていると、小さくなって震えていた久遠が大きな声を上げた。
「僕は……!」兄の裾を掴んだままの手に力を入れ。「豪華な住処も、上等な着物も欲しくなんかありません。僕のことを大事にしてくれる、僕のことを守ってくれる兄さんさえいてくれれば十分幸せなんです」
「……久遠」
「生きる意味だって、どうでもいいんです。僕は妖怪として生まれながら、何の力も持つことができませんでした。みんなは、そんな僕をバカにします。でも、兄さんだけは僕を守ってくれるんです。最初は自分が嫌いでした。でも、兄さんが僕を守るたびにとても安心した顔を見せてくれるんです。だから、だんだん、僕は自分が弱くてよかったとまで思うようになりました。僕が弱くなければ、兄さんは僕を守ってくれなかったのですから」
 久遠は止め処なく涙を流しながら、訴えるように男に向き合った。
「あなたに、その気持ちが分かりますか。僕には兄さんが必要なんです。兄さんがいたから、生きてて、生まれてきてよかったと思えるんです。僕は裕福な暮らしなんか欲しくなんかありません。もしも何かに恵まれてしまったら、兄さんは僕を守ってくれなくなるのです。だから今のままでいいんです。例え、どこかで惨めな死に方をしてしまったとしても、それは僕が一生懸命生きた果てに過ぎません。僕は、久遠です。兄さんの弟です。それ以外の何者でもないのです。このまま静かに時を過ごすことが僕の望みです」
 久遠の必死な言葉に、天部の者は黙った。斬太は傍らで驚いている。こんなにも自我を押し出している彼を見たことがなかったからだ。それに、自分のことをそういうふうに考えていることも、今まで明確に聞いたことがなかった。
 久遠は、兄と同じ金色の瞳を濡らしたまま、鋭い光を灯して男を睨みつける。
「……その望みを、あなたは、神々は、本当に叶えてくれるのですか?」
 斬太は寒気を感じた。今まで心も体も弱いと思っていた久遠がこんな表情をするなんてと、戸惑い、額に汗を流す。
 久遠と天部の者はしばらく見つめあった。こうして「敵」に立ち向かう弟の姿に、斬太は初めて恐れを抱いた。だが同時に、久遠も妖怪の端くれなのだということを思い出す。
 ふっと、男は姿勢を正す。斬太と久遠は、男から発せられていた威圧の空気が変わったことを感じ取った。
「大変失礼いたしました」改めて、男は頭を下げた。「先ほどの無礼な発言、どうかご容赦ください」
「……え」
 素直な謝罪に、二人も緊張の糸を緩めた。
「私とあなた方の住む世界はまったく相違なるもの。そのことを考慮できず、尊厳を傷つけるような真似をしてしまったこと、深くお詫びいたします」
 斬太と久遠は顔を見合わせ、すぐに男に向きなおした。
「そ、それじゃあ……諦めてくれるのか……?」
「いいえ。それは、不可能でございます」
 僅かでも希望を抱いた二人は再び落胆した。
「……どうしてなんだよ。俺たちは静かに生きてきた。ナントカっていうのなんて聞いたこともなければ、それを感じたこともない。俺の眼だって、こいつに変なものがあるなんて見えたことないんだ。これからもそうやってちゃいけないのか? 今までと同じようにして、何も知らないままで、どこかで死んでいったらダメなのか?」
 切実な斬太の願いに、天部の者はじっと聞き入った。二人は黙って彼の答えを待つ。
 しかしすべての期待は、男の低くした声に打ち砕かれた。
「炎極魂の名前は、一部の妖怪には知られているのです」
「え?」
「天界でも注意を促されるほどの高等な妖力を持つ極悪妖怪であれば、その言葉を耳にしています」
「じゃあ、久遠がそいつらに狙われる可能性が高いってことなのか?」
「はい」
 久遠は再び身を震わせた。
「ただし、彼らの間では単純に天界の宝として認識されています。その在り処と正体までは知らずして、ただ何か価値のあるもの、天界を揺るがすほどの大いなる魂であるという情報だけで彼らは奪う機会を狙っているのです。炎極魂が宝であることは確かです。今まで天上で守られてきたからこそ侵されることがありませんでした」
 斬太は俯いた。今までのように久遠を守ることに抵抗はない。しかし、男が言う「極悪妖怪」のことは知っている。会ったことはない。会ったことがあれば、それに危害を加えられているのであれば、自分たちなど簡単に殺されてしまっていたのだろうと思う。それほどの妖怪に襲われてしまったとき、斬太ではとても守りきれるはずがないのだ。自分がなんとかする、とは口が裂けても言えないほど、力の差は歴然。悔しい。
「そ、そいつらに、久遠を狙うなって言ってくれないのか。天界が命令すれば、大人しくしてくれるんじゃないのか?」
 そんなことで済むことではないのだろうと思うが、怯える久遠の隣で、斬太はどうしても素直に従うことができなかった。
「言って分かる相手なら、天界も彼らを敵とは見做しません」
「……そうだよな」
「裁き、罰を与えるには理由が必要です。天界の宝を汚すことがどれだけの行為なのか、彼らには言葉で説明しても理解できないでしょう。悪こそ正義として生きる輩なのですから」
 斬太の心は折れかけていた。弱気な表情を浮かべる兄を見て、久遠は更に恐怖を募らせた。
「あ、あの」久遠が一歩前に出る。「もしも……どうしても、僕が拒絶したとしたら……どういうお咎めを受けることになるのでしょうか」
「久遠」
 普段は控えめで争い事が嫌いな久遠が、見知らぬ相手に逆らおうとしている。今まであまり無理をさせないように気を遣ってきた斬太が、いつも癖のように止めようとしたが、久遠は早口で続けた。
「僕だけが辛い思いをするのであれば我慢できます。でも、兄さんにまで危害が及ぶようであれば……僕は……」
 斬太は口を閉ざした。自分が情けなくなる。こんなときに、自分は極悪妖怪に恐れをなしているというのに、久遠は兄の身を心配しているのだ。守られているのはどっちだと、惨めさが増した。
 男はその質問に、迷いなく答えた。
「その心配はございません。あなたにも、兄上殿にも、我々が危害を加えることはないと断言いたします」
 二人は同時に顔を上げる。しかし、やはり期待は裏切られることになった。
「あなた方に選択権はないのです」
「……な」
「拒絶することは不可能。お気持ちは察しますが、あなた方が逃げても、我々天上人は必ず久遠殿をお連れいたしますから」
 男は、逃げても無駄だと言っていたのだ。
「拒絶も逃亡も自由です。しかし、どこに、どんな形で逃げても、我々は確実に久遠殿を見つけ出すでしょう」
「な、なんだよ、それ。そんなら……」
「はっきり申し上げます。我々がお守りするのはあなた方ではなく、皇凰炎極魂なのです。あなた方が従ってくだされば協力者として最上の持て成しを与え、その命を尊重いたします。ただし、そうでない場合は……多少の手荒な扱いは覚悟していたくことになります」
 これは命令だ。気持ちを伝えることは可能でも、どうしたいという希望はまったく通らないのだということを、二人は体で感じた。
 久遠は目眩を起こし、斬太の肩に寄りかかる。それが、魔界で二人が手を取り合った最後の瞬間となった。